4. 現在に生きる (賢善一夜経)



1982年7月31日

 タンマにご関心のある善人のみなさん。アーサーラハ季の土曜法話第五回の今日も、引きつづき誤解されている仏教の教えについてお話します。今日のテーマは「過去も未来もなく、現在に生きる」です。

 これはみなさん、良く規定しなければならない項目です。なぜなら今、誤解されているからです。この誤解には害しかありません。ブッダの言葉を誤解すれば有益に使うことはできません。それは時間の無駄で、不毛で、そして誤解が論争や仲違いにまで発展する害があるので、これらの誤解をすべて改める努力をする義務があります。

 仏教の教えに対する自分自身の誤解は、何よりも気の毒で哀れな話です。みなさんは仏教教団員でありながら、自分たちの教団、仏教の教えを誤解していて、それでオウムや九官鳥のように際限なく喋りまくるのは、何重にも哀れだと、どうぞ考えてみてください。

 この誤解は、ブッダがこれらの教えを説く時に、特別の意味、特別の言葉、タンマの言葉で語られたことに由ります。普通の人の言葉でなくタンマの言葉、真実を知っている人の言葉で話されました。時にはその場合だけで、一般的でないこともあります。

 だから他の言葉とは違います。違うレベルの話のこともあります。高いタンマのある人に話す言葉と、まったくタンマのない人に話すのと、使われる言葉が違い、特別な意図で何か特別な意味を説く時には、別の言葉を使われました。

 以前の講義で説明したことがある「空っぽの心」「空の世界」あるいは「空」、あるいは「空っぽの心で生きる」などは、理解が一致しません。

 さて、今日は「過去も未来もなく、現在に生きる」というテーマでお話します。これは、一般人の感覚に反します。普通の人は過去を教師にし、未来を希望にしなければならないと、勝手に理解しているからです。現在何らかの仕事をし、過去を懐かしんで将来に何かを期待します。人はそうするべきだと言います。

 しかし『人は過ぎ去ったことを懐かしんで思い返すべきではなく、まだ来ないことを憂うべきではなく、現在を最高に良く意識しなさい』というブッダの言葉があります。「そんなことは無理だ。こうして生きていられるのも夢があるからだ」と言う人がいます。現在は働き、あるいは過去を懐かしんで教師にし、過去や未来について心配しても、まだ満足しています。

 次に、まったく苦がなく生きるにはどうあるべきか、現在・過去・未来についてどう対処するべきかを、ブッダは特に目指しています。だからみなさんが日常唱えている「パッテーカラッタカーター」という経を思い出してください。お寺にいる人たちも全員唱えています。パッテーカラッタカーターと言います。

 過ぎてしまったことを思い悩まず、未だ来ないことを望まず、今明らかに見えている現在、明確で明瞭で、ぐらぐら揺らぐことのない確実な現在にいて、益々そのようになるよう努めるという意味です。難しく聞こえるかもしれませんが、簡単に要旨を言えば「平穏で幸福な日が一日ばかり欲しいなら」、一日ばかりと言ってもいいです。「それなら現実である現在に生きなさい」ということです。

 「パッタ」とはパーリ語で「成長発展して幸福」という意味です。「エーカラッタ」とは「一晩」という意味です。日数を数える時、彼らは「幾晩」という言葉を使いました。現代人は「何日」という言い方をします。たとえば三日家を空ける時「三日出掛ける」と言いますが、ブッダの時代のインドの言葉では、「三晩出掛ける」と言いました。

 だから日とか晩という言葉は、二十四時間の単位を表す言葉です。エーカラッタは、一晩、一夜で、二十四時間という意味です。パッテーカラッタとは、一晩、つまり一日ばかり、あるいは二十四時間ばかり発展した幸福になるという意味です。

 パッテーカラッタカターは、読経にも勤行にも使います。一日ばかり最高に素晴らしく生きたいと望む人のために、ブッダが教えた特別な教えです。ごく普通に言えば、「一日でも最高に素晴らしく生きるには、どうするべえ」と言います。

 一日できれば、何日でもできます。しかし今、現在は一日もできません。だから一日だけ最高に幸福な、最高に善い日をと言います。あるいは、発展して幸福な生き方なら、ほんの一時だけでも、ほんの一時間だけでも、と解釈しても良いです。パッタとは発展です。私は「称賛するべき」と訳します。たとえ一日でも賞賛に値します。パッタとはそういう意味です。一日だけ発展した日にしましょうよ。

 みなさん考えて見てください。みなさんの人生に、一日でも素晴らしい生活、発展した人生と呼べる素晴らしい日があったでしょうか。もしあって、満足しているなら何も言いません。まだないなら、まだ見つからないならお話しましょう。それが「一日だけ、満足できる最高に幸福な暮らし」という、今話していることです。

 次に話して理解しなければならないのは、時間についてです。過去である時間、現在である時間、未来である時間。それはいったい何でしょうか。なぜブッダは『過去も未来もなく現在にいる。それが最良であり、得という点から言えば一番得であり、幸福という点から言えば一番幸福である』と言われたのでしょうか。

 どのような生き方をすれば過去も未来もなく、現在に生きられるのでしょうか。ざっくばらんに言えば、過去があれば、過ぎ去った過去が妨害して幸せになれません。だから過去の出来事に妨害されて幸せになれない人は、「自分には過去がある。心の中にある過去が絶えず自分を妨害している」と理解してください。

 未来も同じです。人々が「未来に宮殿を建てる」と言う、最高に期待する希望である未来がある人は、そのように未来に希望があれば、その未来が妨害します。未来が妨害するので、静かな幸福はありません。もっとはっきり言えば、希望が幸福を妨害すると言います。

 今学校では、あるいは今の教育では、夢を持って生きなさいと教えています。ここに座って聞いている子供たちの多くは、「人生は希望。誰でも希望を持たなければいけない。希望を、大きな希望をもちなさい」という、先生や友達が言う教えを信じていると理解します。そして希望で生きる人生になります。でも良く観察してみてください。そういう生き方は静かですか、苦しいですか。

 希望は、何かを望むことすが、まだ満たされていません。だからずっと望み続けます。そういう生き方は爽快ですか、煩わしいですか。人が心を病むのは、この希望のせいです。希望は心を苦しめます。望んだようにならない状態が長く続くと、精神病になります。そこまで行ってしまいます。

 何を望んでもいいです。自分は何を手に入れるべきか、何を期待するのか、良く考えます。考え終わったら、もうそれを望むのは止めます。行動しましょう。なすべきことを実行します。希望に苦しめられないでください。望めば、途端に失望します。

 観察してみてください。人は希望するだけで、途端に失望します。それはまだ実現していないから、まだ得られていないからです。失望するために希望する必要があるでしょうか。失望、希望が満たされないことは、私たちを苦しめ、噛みつきます。

 だから希望しないで、自分は何が欲しいのか考える方が良いです。次に考え終わったら行動します。智慧とサティで行動します。知性で行動すれば噛みつきません。希望で行動すれば噛まれます。希望で生きれば希望に噛まれます。希望は休まず噛みつきます。

 希望は猛獣です。次にみなさんは希望で生きないで知性で生きます。知性で良く思い出したら行動します。希望して噛まれる必要はありません。そのようにして行けば、時がくれば結果が出ます。

 これについてブッダは、次のように話されています。めん鶏が卵を産んだら、ただ卵を抱いて、上に座って温めるだけで、ヒヨコが生まれてくるのを期待する必要はない。ヒヨコが生まれるのを期待して、「ヒヨコよ生まれろ。ヒヨコよ生まれろ」と切望し、そのためにしっかり、正しく、きちんと卵を抱くようなバカなめん鶏はいないと。

 餌をついばんだり、地面を引っ掻いたり、時には向きを変えたり、いろんなことをしながらちゃんと卵を温めていて、時が来ればヒヨコが生まれてくるように見えます。

 だから希望で何かをして、希望に噛まれないでください。すぐに精神病になり、すぐにバカになります。あるいは死ぬかもしれません。未来の話はこのようです。米を作っているなら田を耕し、籾を蒔いて苗を育て、田植えをします。「稲の芽よ出ろ。苗よ育て。稲穂よ実れ」と希望しないでください。それはバカな農家です。心を正しく維持する術を知ってください。

 考えなければならない時は考えてください。後先のこと、途中のこと、周囲のことを周到に考えて、自分はこうするべきだと結論を出したら、後は知性で実行します。希望でしません。希望で行動することは飢餓感で行動することです。飢餓は楽しいものでなく、苦です。

 これがブッダの教えです。ブッダはこのように話されていますが、現代人はこのように言いません。このように教えません。彼らは「希望で生きなさい。希望でしなさい」と子供たちに教えます。しかし今、希望は失望です。望んでいる時はまだ希望通りになっていないので、失望と同じです。

 希望し始めた時、希望は失望です。我慢できなければ盗み、何らかの悪事を働かなければなりません。だから心を正常にして、未来に苦しめられないでください。未来を希望して苦しまないでください。

 パッテーカラッタカーターの第一項は、「過ぎてしまったことを考えない」です。つまり過ぎてしまったことを思い返して懐かしみません。それはもう済んだこと。思い返して苦しんでもどうにもなりません。

 だから過ぎてしまったことを思い出して苦しまないでください。失敗したことを考えて苦しまないでください。失敗について考えるのを止め、二度と同じ失敗を繰り返すまいと思うだけ。それで十分です。思い返して苦しむことはありません。

 これから来ることについても悩みません。今現在していること、つまり自分でこれがいいと判断したこと、熟慮に熟慮を重ねた結果していることに専心します。学生なら今学ばなければならないことに最善を尽くして学びます。過去の妨害することや、未来の希望を持ち出して苦しまないでください。何の得にもなりません。このようにすれば、心は安らかです。

 過去の出来事や未来のことに煩わされていたら、心は安らかではありません。失敗するんじゃないだろうかとか、望まない結果になったらどうしようとか、怯えがあります。

 現在自分自身の前に生じている現実を、すべての基準にしてください。まだそういう経験がなかったら、これから観察して見てください。過去の考え、未来の考えに妨害されないで、現在だけに最善を尽くします。このようにできれば「時間は人を噛まない。反対に人が時間を食う」と言います。

 いずれにしても話すからには全部話してしまいます。ブッダの言葉に『時間はすべての動物と、時間自身をも食う』とあります。過ぎ去った日夜を時間と呼び、そして時間は生きとし生けるものを食うとは、生き物は時間を経過し、時間を経過して崩壊、あるいは死へ向かいます。

 これを「時間はすべての生き物を食う」と言います。そして噛まれると、時間に関して期待したところが痛みます。まだ望みどおりでないから、時間が人を噛みます。噛まれれば痛みます。

 何をするにも時間に噛まれないようにしてください。時間について知り、希望で何かをせず、明らかな心で行動します。自分がしていることについて明らかで賢い心でし、時間を介入させません。時間を介入させて意味を持たせません。

 私たちにとって時間と呼ぶものは無意味です。今私たちは、過去も未来も考えないから無意味です。何も欲がないからです。これから手に入れたい物がある時に、欲が生まれます。何も欲しいと思わなければ欲はなく、欲がなければ時間もありません。

 ここにいるたくさんの子供たちは、時間は時を告げる物とだけ知っていると思います。時刻や日や月や年などは、時を告げるもので、こういうのは人間を噛みません。ただ時間を告げる記号ですから、人を噛むことはできません。

 では本当の時間はどこにあるでしょうか。本当の時間はないという人もいますが、こういうのも正しくありません。私は同意しません。時間がないと言う人は、良く知らない人と言います。時間はあります。愚かな人にだけにあります。愚かな人にだけあって、賢い人にはありません。

 愚かな人は、あれが欲しい、これが欲しい、ああなりたい、こうなりたいと望みます。それが愚かな人です。このように愚かな人は欲があるので、時間があります。願望の発生から願望した物を得る時まで、その欲しがっている物が時間の正体です。

 何か願望した時が起点で、願望した物を手に入れた時が終点で、二点の間が時間です。何かを欲しがるから時間に意味があります。何も欲しがらなければ時間はありません。つまり何も望まなければ、始まりも終わりもありません。だから何かを望んでいる人、何かを欲しがっている愚かな人にだけ時間はあります。

 だからブッダは『阿羅漢には時間はない。阿羅漢は時間より上にいる』と言っています。阿羅漢には時間がないので、阿羅漢には時間に関わる意味を使いません。あるいはいろんな物を計ったり規定したりする物は、阿羅漢には使えません。阿羅漢は何らかの計測器で計測できることを超えているからです。

 特に時間に関してはそうです。欲がある時、時間の意味がある時に時間が生じるからです。欲があれば、必ず愚かさがあります。「欲しがる必要はない。何も欲しがる必要はない。欲しがるべき物はない」と知りません。欲しがらないでください。欲しがってはいけません。それを賢いと言います。

 まだ愚かなうちは欲しい物、欲しがるに値する物、手に入れるべき物があると思い、愚かさゆえに欲しい欲しいと思います。欲しいと思った時からそれを手に入れる時まで、時間に時間の意味が生まれ、いつか手に入れようと望んでいる愚かな人に噛みつきます。

 タンマは「欲しがることはない。欲しがらなくてもいい」と教えています。何をすべきか、どうすべきか、いつ、どこですべきかが分かったら、行動しましょう。始まりである希望を持って、そして希望どおりに手に入れないでください。それを「その人には時間はない。時間を失うこともない」と言います。その人が時間で苦しむことはありません。

 時間より上にいて、時間の意味より上にいるので、その人にとって時間はないからです。その人はどれほど心が軽快でしょうか。時間に噛まれない人は時間より上にいます。

 欲がなく、心を苦しめる欲や望みがない人は、どれほど幸福で、どれほど穏やかで、どれほど美しいでしょうか。それがパッテーカラッタ、たった一日でも、そのように生きられれば賞賛に値します。欲を超え、過去を超え、未来を超えて生きれられば、たった一日でも賞賛に値します。

 僧や沙彌や清信士・清信女たちは、何度も何度もこの経を唱えていても、愚かにも何も分かっていないのではないでしょうか。中にはこの経を唱えていながら、「え? 過去のことも未来のことも考えずに生きられるの」などと訝る人がいるかも知れません。

 だから『たった一日でも美しく清々しく生きたいなら、過ぎてしまったことを考えてはいけない。まだ来ないことを望んではいけない』というブッダの言葉をよく見て、良く理解してください。

 現在あるもの、あることに最善を尽くし、妨害する過去の意味、未来の意味をなくしてください。妨害されなければ、心は強く、威力があり、現在のことを良くできます。もっと良ければ幸福でもあります。働いている人なら良い仕事ができます。働く必要がなければ、最高に幸福です。パッテーカラッタカーター、一晩でも称賛に値すると言います。

 例え話として、たった一日でもこのように生きられる人は、百年千年生きても何も価値のない類の人より価値があります。弟子たちがたった一日でもこのように生きられれば価値があると、ブッダはそう教えました。みなさんはそのようにできるでしょうか。

 そして「時間の威力下にいる人は時間の奴隷と呼ばれ、そして時間に噛まれて苦しむ。過去を懐かしむことも噛みつき、希望、未来に期待することも噛みつく。それでどうして幸福になれるだろうか」と、明らかに理解します。

 時間と呼ばれるものは、愚かさで望む人にだけあります。愚かさが望むので、欲しいと思うと同時に、時間に意味が生じます。何も望まず、何も欲しがらなければ時間はありません。その人にとって時間は生まれません。

 しかし普通の人は誰でも望みがあり、欲しい物があるので、まだ愚かです。まだ願望や希望がある普通の人には時間があります。だから世界中の人に時間があります。

 望みがあり、何としても望みどおりにしたいと思っている時、それが時間です。望みがない時、時間はありません。時間は消滅してしまいます。時間は意味がありません。だから時間は希望がある時、何かを欲しがっている時だけあります。何も欲しい物がなく、手に入れたくなければ、時間は人を喰いません。反対にその人が時間を喰います。

 だからブッダは『欲望を排除できる人は時間を喰う人』と言われています。時間は人間とすべての生き物を喰います。しかし欲望が無くなった人、終わった人は、反対に時間を喰います。つまり時間は取るに足りない小さなこと、嘲笑できること、幼い子供の話で、噛みつかれることも喰われることもありません。このように正反対です。

 欲があれば時間があります。そして欲しがっている人に噛みつきます。望みが無くなれば時間もなくなり、その人が時間を喰います。つまり時間に意味を持たせないで、時間を経過させます。その人にとって時間は無く、時間はその人に何もしません。時間より上にいるからです。このように時間より上にいる人は、たった一日でも賞賛に値すると言います。

 次に良く理解していただきたいのは、さきほど「時間がない」と言ったのは、過去も無く、過去に意味がなく、未来も意味がないことで、それを時間がないと言うと理解しなければなりません。

 時計のように時を規定する物は、いつどこで使っても、時を規定する道具です。一年一度の雨季も、一日一回太陽が昇るのも時を規定します。これは時を規定する物です。しかし本当の時間とは、望みがある愚かな人の、望みから望みが叶うまでの期間です。

 時を規定する道具は、時間があるなら「どれくらい時間が掛る」などと話すために規定する道具です。しかし阿羅漢のように欲がなく、したがって時間もない人にとっては、日も月も年も意味がありません。時計も意味が無いので、全部捨てても構いません。時間に関わること、あるいは時間の問題はありません。

 しかし普通の人は利益のために、利益を得るために働かなければならないので、時間が必要です。社会と関わっていれば、他者と関わって働くには、時を規定する道具は必要不可欠です。

 だから「時間は愚かな人の物」と知ってしまいましょう。欲しい物があるから愚かです。腕時計は欲しい物がある愚かな人の物です。欲しい物がない愚かでない人は、使う必要はありません。何も欲しくないからです。

 願望のない人、何も欲しくない人には、日も月も年もありません。その人はどれほど快適でしょうか。「一日でもそう生きれば美しく発展する」と言うのは、「一日阿羅漢体験をしてみましょう」という意味です。一日でもそう生きれば発展します。一日でも今言ったように阿羅漢体験をすれば、一日でも発展すると言います。

 しかし阿羅漢は一日だけではありません。永遠にです。永遠に冷静で幸福で、最高に美しい生活です。まだ阿羅漢でない普通の人は、一日でも今言ったようにしてみてください。たった一日でも称賛に値するパッテーカラッタカーターは、このようにします。

 だから阿羅漢になりたい人、あるいは阿羅漢と同じようにしてみたい人は、今話したようにします。つまり時間より上に、時間の意味より上に、時間の価値より上にいます。時間より上にいれば願望もなく、煩悩もなく、欲望もなく、取(執着)もなく、貪りもなく、怒りもなく、迷いもありません。

 貪りや欲望があるのは、自分の願望に間に合う時間が欲しいからです。時間がなければ、欲しがって何になるでしょう。怒りもそうです。間に合わないから怒ります。痴はどうすれば時間に合うか分からない愚かさです。

 だから何も欲しがらないだけで、貪りや怒りや迷いの問題はありません。時間が間に合うとか間に合わないという問題もありません。損得とか勝ち負けなどという問題も、ついでに全部なくなります。

 「今日一日最善に生きたかったら、過去や未来にいないで現在にいる」と、時間について良く知りましょう。未だ自分があるなら現在にいましょう。そうすれば一日だけ、あるいはしばらくの間、阿羅漢でいられます。

 一日だけでなく、本当の阿羅漢になるにはどうしなければならないでしょうか。それには現在も止めてしまいなさい。現在の自分も止めてしまえば、過去もなく現在もなく未来もありません。自分がないからです。

 生きている自分がないので現在はありません。今生きている「俺」がいないので、現在の自分はありません。生きている自分がいなければ、現在の生存もなく、現在生きている「俺」もいません。俺がなければ自然に過去も未来もなくなります。過去も現在も未来も止めてしまえば、完璧な阿羅漢です。これが、完全に時間より上にいることです。過去とか現在、未来と呼ぶ物は何もありません。

 しかしまだ阿羅漢になっていない人は、たった一晩だけ、パッテーカラットーでも称賛に値します。まだ自分があるので、自分が残っているので、規定するものである現在があります。しかし最高に良い自分があるには、現在だけあり、過去も未来もあってはいけません。

 ブッダが言われた「過去も未来もなく現在だけに生きる」というのは、実践できると理解してください。心を休ませるには、過去にも妨害されず、未来にも妨害されず、あるのは現在だけ、意識(規定)するのは現在だけにします。意識されているものは妨害しません。今自分は何をしているか感じるだけです。

 そうすれば、自分がある人のように、人物がある人のように、発展し幸福になります。「一晩だけ発展する。一晩だけでもあれば称賛に値する」と言うのは、時間の意味を完全に撤廃しなくても、意識するものである現在はあっても、「現在は私たちの心を苦しめない」という意味です。

 私たちは何年も何年も、何十年も生きていますが、まだ静かな幸福を味わったことはありません。一日だけでも穏やかな幸福の味見をしてみてはどうでしょう。過去も無くし、未来も無くし、現在見なければならない、しなければならないことだけを意識します。あれが欲しい、こうしたいという気持ちを持たず、今現在にいます。

 本当は、徹底するには「自分はない」という感覚にしなければいけませんが、まだ捨てられない自分があるので、過去と未来に邪魔させないようにします。一つだけの心で、しなければならないこと、知らなければならない、見なければならないことだけすれば、苦はありません。穏やかな幸福で生きる人は、たった一日でも称賛に値します。

 最高に善い現在にいることはサマーディです。心がそこにあるようにするための感情である、何かを意識しします。サマーディになれば、ヴィタカ(尋)、ヴィチャーラ(伺)、ピーティ(喜悦)、スッカ(幸福)、エカッガター(一境性)など、サマーディの結果があります。

 エカッガターとは、一つの心、心が何か一つだけを意識していることです。意識しているだけで、過去や未来の意味はありません。サマーディに留まっている心を「過去も未来もなく現在にいる」と言います。

 次にまだ低ければ、ヴィタカ・ヴィチャーラがない二禅になります。それは喜悦や幸福はなく、あるのはエカッガターと捨(ウペカー)だけの、濃厚な現在です。この捨の部分は最高に現在であり、最高に清潔な現在です。意識できれたものは、苦、あるいは苦である反応は何もありません。これを「捨にいる」と言います。捨にいる心は、すべてに淡泊でいられます。これを「現在だけにいる。過去や未来が介入することはできない」と言います。

 次にこの「捨」がもっと極まって、サマーパティや無形禅定になると、更に高い捨、あるいは緻密な現在、最高の現在になります。最高に緻密な現在で、過去や未来という感覚を生じさせる隙はありません。そしてそのように意識している間は、自分が生じる隙もありません。取が無く、自分がない阿羅漢のように、自分という感覚は生じません。

 しかし今自分がないのは、意識している時だけで、このように意識しなければ、自分が戻ってきます。だから「一日だけでもいい」と言います。そのように意識できるなら、一日でも二日でも、一時間でもいいです。こういう言葉を使えば分かり易いです。

 「一日でも半日でも、あるいは一時間だけでも最高に生きる人」と言うのは、どうかこのようにしてください。つまり現在だけを意識し、過去にも未来にも妨害されません。そうすれば、現在と呼ぶものは心が意識しているものであり、現在と呼ぶことができます。そしてそれらに平然としていられるようになるまでどんどん意識していけば、それは極めて現在です。

 捨であること、あるいは平然としていることは、サマーディが増すにつれて、いろんなレベルになります。一つだけの感情である捨を意識すると、エカッガターです。こういうのを「最高の現在は、煩悩や欲望、どんな取も生じない」と言います。これを「時間より上にいる」「時間に勝った」と言います。

 阿羅漢なら、過去も現在も未来も、何も生じません。パッテーカラットーなら、このように現在だけにすれば、過去と未来はありません。しかしずっと続けていれば、やがて発展成長して、煩悩を絶滅できるタンマの道に沿って行きます。そうすれば最後には阿羅漢になります。今はまだ阿羅漢になれないなら、一日でも阿羅漢のように生きてみます。あるいは一日だけでも阿羅漢になってっみます。

 これを「パッテーカラットーの状態は現在であるものといる。パッテーカラットーは捨の心でいる」と言います。しかし阿羅漢になれば、何よりも現在である涅槃にいます。

 何が最高の現在かと言うなら、涅槃と答えなければなりません。涅槃は、発生・維持・消滅の意味がないからです。発生・維持・消滅する意味がなく、涅槃を作る物は何もないので、涅槃には発生と維持と消滅がありません。だから涅槃はいつでも現在と呼べる状態があります。阿羅漢の感情である涅槃があることを、「阿羅漢は本当にいつでも最高の現在にいる」と言います。

 現在にいる人は、このような二津の部類があります。阿羅漢なら現在である涅槃にいます。まだ阿羅漢に達していなければ、捨の状態がある意識するものを意識しましょう。

 だから心を捨にでもできる人は、その捨を意識すれば、過去も未来も妨害しないので、その人はパッテーカラットーです。たった一日生きるだけでも称賛に値します。損する話ではなく、現在のことも未来のことも知らない、バカでも愚かでもありません。

 この人たちも、現在のこと、未来のことを知りたければ知ることができます。愚かでも異常者でもないのですから、現在の教師にするために、過去を思い出すこともできますが、過去がその人を苦しめることはありません。

 凡人(凡夫)は過去のことを思い出し、そして未来の話で過去を蒸し返すので、記憶に苦しめられます。失敗をしたことがあるからです。反対に過去が幸せなら、思い出してもう一度熱中し、静かではありません。

 パッテーカラットーである人が未来のことを考えたければ、考えることもできます。未来のことを考えることはできますが、それによって自分を苦にしません。期待するような考えをしないからです。どうなるのか、どうあるべきか、そのためにはどうするべきか、というように考えます。

 だからそれは、ただ「どうするべきか」「何を得るべきか」「どうあるべきか」を、正しく、然るべく意識するためにだけあります。しかしその人は期待その人はせず、煩悩欲望で望まず、欲望で欲しがらず、願望で望まず、取で執着しないことを忘れないでください。だからその人は、計画を立てるために将来のことを考えることはできますが、苦はありません。主人に噛みついて苦しめる希望ではありません。

 だからみなさんは、現在この世界で、噛みつく過去もなく、未来もなく、心に危害を与える過去も未来もなく、普通の人として生きることができます。過去は記録にすぎず、記憶にすぎないので、いつでも取り出して使うことができます。未来はしなければならない計画にすぎないので、欲望や煩悩で手に入れようと期待しません。自分があると思うほど、あるいは自分の物にして自分の物と考えるほどく、そしてすべてそのようと知っているからです。

 「そのよう。タターター(真如)」の話です。それはそのようです。以前に何度もお話してきました。注意してください。よく憶えてください。愚かな希望、苦になるような希望が生じるのを防ぐことができます。時間を生じさせて噛まれないで済みます。それは自然にそうなります。

 愛に迷っても、怒ったり憎んだり恐れたり、何かに迷ったりしません。タターターは私たちの心が正常であるよう助けてくれます。過去も危険でなく、未来も危険でなく、現在も危険な問題を起こしません。

 だからこのタターターの知識をよく維持すれば、過去を懐かしむことはなくなります。それはそのようだからです。未来の空中楼閣に夢中になることもありません。自然にそのようになるからです。そして「そういうこと」という感覚で生きます。つまり「そういうこと」という知識で、煩悩や欲望を生じさせて現在にしません。

 ちょっと有利な言い方をすれば、「そういうこと」は極めて現在です。「そういうこと」でなければ変化します。変化すれば現在ではありません。本当の現在は変化しません。変化しないことが現在です。

 「そういうこと」の意味は「それは変化しない」です。変化しなければ「そういうこと」であり、そして現在です。現在を維持することができるからです。もし何も考えられなければ「そういうこと」の意味を考えてください。

 どうぞ「タターター(真如)」あるいは「そういうこと」というものを知っていてください。それは変化しないので現在です。あるいは「そういうこと」だからです。そういうことなので、「そういうこと」と見れば、利益があります。つまり何も欲しがりません。

 何かを「そういうこと」であるものと見える人は、それを欲しがりません。すべてのものを「そういうこと」と見ることができれば、すべての物を欲しがりません。何も欲しくなければ時間はないので、時間は欲しがらない人に何もできません。時間は何もしません。欲望のない人に何かする威力はありません。

 「そういうこと」は、欲しがらなくさせます。欲しがらなければ、時間は何もできません。その人に、時間に関わる苦はありません。過去も未来もない人だからです。これを「そういうこと」が見えれば、非常に利益があると言います。

 もう一度見ると、「空」は最高に現在であると見えます。空ほど現在である物は何もありません。空は発生も存在も消滅もしないからです。空には、何も変化する物はありません。涅槃も極めて現在です。空には変化するものがありません。だから空は最高に現在です。

 心が空を意識していれば、極めて現在を意識していることです。願望も生まれないし、時間に関した問題もありません。妨害する過去や未来もありません

 お話したすべては、タンマの側、仏教の側の話で、仏教の教えです。現代の庶民の教育は、別の話かし方をします。このように話しません。私たちがそうすることはできません。私たちは時間より上にいることができます。しかし一般庶民、あるいは現代教育は、時間より上にいるよう教えません。急いでするよう、時間に間に合わせるよう、早く終わらせるよう教えます。

 だから国中が神経を病んでいます。時間より上にいることを知らないからです。現代の教育は、時間を超える知識を教えられるほど高くありません。仏教の知識は、私たちを時間より上にいさせることができるほど高いです。現代社会の知識は、「時間とは何か」を教えることもできません。現代科学の知識は「時間とは何か」を教えることができません。物質だけを基準にしているので、良くても時を刻む機械です。

 しかしタンマの知識、仏教の知識は「時間とは何か」を教えることができます。つまり「時間とは、欲望が発生した時から、欲望の結果が出るまでの間のこと」と規定できます。まだ望みどおりの結果が得られていない望みが、時間の意味です。望みがなければ時間はなく、時間の意味もありません。時間に価値や威力を持たせるには、その人に望みがなければなりません。

 だから同じ世界に生きていながら、時間より上にいる人もいれば、時間より下にいる人もいるのは滑稽です。俗人は時間の威力下にいるので、時間に噛まれ、喰われています。しかし阿羅漢は時間より上にいるので、時間は噛みつくことができません。

 私たちは同じ世界に住んでいて、ある人は時間の威力の上に、ある人は時間の威力の下にいます。時間の威力下にいる人たちは、時間の抑圧の威力に苦しめられなければなりません。彼らには、過去と現在と未来があります。

 今私たちは、一日でも一晩でも、時間より上に行って、幸福な人になってみたらどうでしょうか。パテーカラットーになって、一日だけ最良の人生にしませんか。一日、一晩だけ、阿羅漢のように時間より上で生きます。たった一時間でも、ないよりマシです。

 だから「自分の人生から利益を受け取って本当の幸福になるには、時間の抑圧より上で生きることを知らなければならない」と、関心をもってください。愚かでなく、何も欲しがらなければ、生活は時間より上にあります。少なくとも苦がないという利益があります。ずっと続けていれば、どんどん良くなり、時間はすっかり威力を無くします。あるいは時々していれば平穏に暮らせるよう護ってくれます。猫に恥じる必要はありません。

 この言葉は良く使います。誰が好んでも好まなくても勝手です。猫に恥ずかしい族は、神経症で眠れないから恥ずかしいです。これらの人たちは非常に時間に苦しめられています。畜生は人間のように多くの欲がないので、望みがないので、人間のように時間に苦しめられません。畜生は神経症になりませんが、人は神経症や精神病になるので、猫に恥じ、犬に恥じてください。時間に苦しめられて神経を病む犬や猫など見ませんから。

 だからブッダの言葉の意味を「ブッダは最高に正しく話された」と知っていただきたいと思います。過去を懐かしまないで、未来に期待しないで、素晴らしい人生にすることができます。しかし今の学生たちは理解できないし、同意しません。そしてブッダを詰らず私を詰ります。彼は、それがブッダの言葉と知らないので、スアンモークのプッタタートの言葉だと理解して、新聞などで攻撃します。

 これは仕返しではありません。そうではありませんが、現代の教育は、過去の時間、未来の時間の威力より上で生きられると知るには十分でないと知ってください、と言います。そのように生きても何の損害もなく、損失もなく、発展を止めることもなく、利益を損なうこともありません。却って元気にします。

 だから、このタンマを実践することを知ってください。つまり「なければならない。得なければならない。必ずしなければならない」とみなさんが毎日唱えているパッテーカラッタカターです。

 一日、一晩、時々タンマで発展する人になりましょう。一日一晩、毎日でなくても、人間に生まれ、仏教に出合った機会が無駄になりません。ブッダの教えは間違っていると非難するほど愚かにならないで済みます。

 前に彼は「知足」は誤った教えで、発展の敵だと言ったことがありました。今彼は「過去に注意し、未来に注意しなければ無一文になる。すっからかんになる。過去と未来に注意しなければ、身に着ける服もないほど困窮し悪くなる」と理解しています。

 しかし、時間に夢中になっていると神経を病み、狂って、そして死んでしまうと知りません。

 このタンマは間違う余地はありません。ブッダは間違う余地がないように話されています。今はまだブッダを信じなくても良いです。しかしよく観察してみて、考えてみて、熟慮してみて、実践してみれば「間違いでない」と分かります。だから大胆にも、ブッダが話したことには間違いがあると考えないでください。そうすると、それを伝承して言う人、伝達して話す人が、「勝手に言っている」「勝手に言って間違っている」と誹謗されます。

 私は、今みなさんが仏教の教えについて誤解していることを、これから少しずつ理解を改め、すべての誤解を解くことを意図しています。今日はパッテーカラットー、一日だけでも最善の生き方をしてみてはどうでしょうか、というお話をしました。

 過去と未来の威力を引き抜いてしまい、純粋な現在に止まっていれば苦はありません。「最高に美しい」「最高に称賛に値する」と言います。パーリ語で「パッテーカラットー」、一日だけ生きても称賛に値すると言います。

 時間になりましたので、これで終わらせていただきます。





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