1.幸福の話



1935年1月31日


挨拶

 ブッダの法話を始める前に、法施会の立場でみなさんにお話しする機会を頂戴したいと思います。今回は、法施会がここタラートに移転して来て初めての法話だからです。

 「法施会」は協会の名前ではありません。ブッダの本当のタンマ、別名「万人の苦の薬」と呼ぶタンマを知るために、お互いに鼓舞し合う志のある人たちの名前です。それ以上の何でもありません。この志のもとに手を繋ぐ人は、誰でも法施会の人と呼ばれます。記名や登録の必要はありません。

ここにお集まりのみなさん全員が「法施会の人」と思ってください、ということです。そして、他の町や村にもたくさんの法施会の同朋がいます。どこに住んでいても同じ目的があり、そして連絡を取り合っていれば、ブッダの原則では心情的に法施会の人と見なすからです。

 全体的に述べれば、タンマは心の食べ物です。私たちには体と心があり、体は魚や野菜や果物などを食べて生きています。心も同じで、食べ物がなければ生きていけません。私たちは体と心があるようにしなければならないので、タンマは欠かすことのできない心の食ベ物です。

 間違った食べ物を食べると、体に害が出易いように、心が間違った食べ物を食べれば、心に害があります。だから自分の心が正しい食べ物を摂れるよう気をつけなければなりません。

 互いに鼓舞し合い、耳を傾け、説明して訓練し、正しい食べ物だけを摂るようにし、そして益々良くしていくことが法施会の目的であり、仕事です。みなさんに自分の義務を自覚なさるよう、ご忠告させていただきます。


菩薩日とは

今日は何の日でしょうか。みなさん。私はよく、みなさんが今日の重要性について考えるよう喚起して話を始めます。その日の大切さを感じると、いつもより特別に真剣になります。

 今日はワンプラ、菩薩日、タンマを聞く日です。なぜそう呼ぶのでしょうか。常に注意を喚起できるようにするために、一つ一つ説明します。

1.ワンプラ。ワンプラとは素晴らしい日という意味です。清潔・清浄を維持し、平和で穏やかで、心が不潔でない、つまり愛や憎しみや愚かさや嫌悪などの曇りで汚れていないという意味です。私たちのワンプラは、本当にプラに捧げなければなりません。

 でなければ私たちにとって、ワンプラはありません。反対に自分と他人を騙す嘘つきにします。プラとは素晴らしさです。今日という日を四半月の他の七日、あるいは六日より素晴らしく維持することで、自分にとってワンプラにすることができます。

 通常在家は用事がたくさんあり、仕事をしたり楽しく遊んだり、ほとんどの日々は不潔で下品(嫉妬、偏り、身勝手など)に過ぎていきます。世界の範囲にいる凡夫である人間の日常は、明るくなく、暗い所にあるので、みなさんの日常は清潔でも、素晴らしくもありません。だからみんな揃って、一日をワンプラに、つまり素晴らしい日にしましょう。

 口と心が本当に一致する人になるには、ワンプラを「本当のワンプラ」にする努力をしなければなりません。私たちの長い人生に、清潔で瑞々しい日が混じれば、特別な儲けです。

 山の頂上に登って、つまり智慧で自分自身の人生を見て、この人生の純潔、あるいは素晴らしさは不毛ではないと見て自分自身を尊敬できれば、まだ最高の素晴らしさを毎日維持できない人にとって、それだけでも喜ぶべきです。

2.菩薩日。菩薩とは、内部に入って、あるいは籠って、体と言葉と心を磨いて清め、どんどん悪や下劣さを薄くすることです。これは、私たちが金の仏像を持っていて、時々磨かないと、錆が食い込んでしまうのと同じです。磨いてもう一度無垢にしたいと思ったら、定期的にいつも磨いていれば、いつでも美しい仏像を拝めます。
 同じように、悪を積んで善が死んでしまった心が、再び善の心に戻るのは難しいです。体(行動)や言葉も同じで、錆を研き落とすような行動は、誰にとっても必要です。そして今日を菩薩日と捉えるすべての人にとって、賢さ、あるいは善です。

 私たちの日常の体と言葉と心の悪は、まだ凡夫であることを表すものです。七日のうちの一日だけ、それを改善する努力をし、より善くする決意をすれば、最後に、それらの悪は消えてなくなります。この特別な日を、菩薩日、特に努力する日と言います。

 中には、ワンプラ(休日)を愉しく遊んで夢中になる日にする、あるいはお寺へ行って昼寝をする人もいて、善である智慧と言うより、愚かさの上塗りです。善である智慧、明、明るさにするなら、このような日を、先ほど言ったような教えで経過させなければなりません。

3.タンマを聞く日。タンマを聞く日は、賢い状態で苦や憂鬱から脱す生き方に関した、学習を増やす日、週に一度の「人生の幸福の技術」を学ぶ日です。

 しかしこの大切な日の意味が、本当にその名にふさわしい結果を生じさせないのは、非常に憐れです。これは、ほとんどの人が「ここへ来て最後まで話を聞けば十分徳になる。それ以上掻き寄せる必要はない」と思い込んでいる愚かさが原因です。

 私はビンロウジを搗く音や、容器に小銭を投げ入れる音、(お婆さんたちが徳のために連れて来た)子供の泣き声に負けないように、説教の声を張り上げなければなりません。他によく聞くのは、「最後まで聞けば徳になる」という教義を捉えている人たちです。私は「あと何年、何生聞き続けても、絶対に、元々あった徳以上には増えない」と言いたいと思います。

 だからここで、「みなさん本当に聞いてください」と忠告させていただきます。今私が何を言っているのか、そして自分にとってどんな利益があるのか理解してください。そうすれば今日のような日が、みなさんにとって「タンマを聞く日」になります。そうでなければ無明の日、あるいは痴が根源にある無関心の日になります。

 タンマを聞く日の常連さんが、時々しか来ないけれど真剣に聞いて、考え、質問し、そして幸福を探す道具として記憶している人より無明が多くて厚かったら、非常に恥に思わなければなりません。




幸福について

 今日がどのように重要な日か説明したので、これからパーリ(ブッダの言葉)の三項目について説明します。ブッダが大悟されて間もなく、喜びの気持ちで語られた言葉です。人生のすべての問題を、一つ残らず洞察し、本当の幸福の基準が明らに見えたので、幸福は「世界の幸福、世界の領域でない幸福、最高の幸福」、別の角度では「初級の幸福、中級の幸福、最高の幸福」に分けることができると、その気持ちを語られました。

 幸福という言葉は段階によって意味に違いがあります。食べ物という言葉が世界のいろんな地域や人種、階層によって意味する物が違うように、幸福も心の感じ方によって当然違います。下劣な凡人の幸福、善人である凡人の幸福、聖人、あるいは智慧で最高の知識がある人の幸福です。

 この教えで幸福の塔を建てるなら、苦しめ合わないことを塔の基礎にし、普通の世界にある魅力的な物に欲情しないこと、あるいは全身全霊で奴隷にならないことを塔本体とし、自分はいると理解しないことを純潔な幸福の塔の先端にすることができます。次に最初の幸福、あるいは幸福の塔の基礎について説明します。

基本の幸福

 苦しめ合わないとは、自分も他人も、どちらも苦しめないことです。原因は当然結果を生むので、他人を苦しめることは、他人から仕返しされる原因になります。そして互いに苦しめ合ううちに、いつも危険を疑うようになり、夜眠っても悪夢に苦しめられます。

 だから他人を苦しめることは自分を苦しめること、自分自身を焼き炙ることです。時には被害者側がまだ誰が加害者か知らなくても、あるいは仕返しをする気持ちがなくても、先に加害した人は、仕返しを恐れ始めて脅える人になります。

 たとえば酔う水を飲むことや衛生を無視するなど、自分だけを苦しめることは直接他人に関係なくても、そこには他人への迷惑が潜んでいます。酒を飲むことで近所から嫌われ、危険視され、何の役にも立たない人になり、それが妻子や一族の評判を落とし、価値や幸せのない家になります。

 だから『多くの動物の中で生きるには、慎み深く、非常に注意しなければならない』というブッダの言葉は、直接殺害したり苦しめたりする意味だけでなく、当然この隠れた迷惑も意味すると言わなければなりません。

 加害し合わないことから生じる幸福は、静かに親しく交際することです。お互いに愛の眼で見、すれ違うとき目を背けたり無視することなく、乳と水のように親しみ、水と油のように憎み合う必要はありません。すると「世界中の人は自分の親兄弟か親戚ばかりのよう」という気持ちを生じさせます。

 寝ても覚めても何かに脅えている必要はありません。これが自他を害さないことから生じる幸福です。世界中どこにでもあり、より高い幸福に育っていく基礎である幸福です。世界のすべての人が望んでいる平和は、この幸福です。だからブッダは「世界の幸福」あるいは「世俗が望む範囲の幸福」と言われています。

 ブッダが、幸福として金銀財宝、妻子や豪勢な家などを「世界の幸福」と呼ばれないのは、それはただの陶酔、あるいは快適便利なだけで、自他を害さないことのように明かで平和な幸福ではないからです。そしてこれらは世界の幸福にもらないので、もっと高いタンマの幸福にはなり得ないということです。

 真実が見え、最高に知る智慧がある人を基準にすれば、最も低い幸福は、自他を害さないことであり、さらに低い物、つまり金銀、妻子、夫のレベルまで下げることはできません。それは身を焼き滅ぼす幸福、あるいは人生の陶酔でしかなく、静かな幸福ではないからです。

 普通の凡夫に規定させる場合以外には。だからそれらは幸福の一種に挙げられます。そしてそれは、みんなが幸福と呼ぶ物でありながら、見る人によってそれぞれ違うと、もう一度見せています。


中級の幸福

 この段階の幸福は、この世界の魅惑的な物に愛欲で執着することから、普通の愛の基盤である物までを吐き出すことです。すべての愛欲させるものは、形の物なら形・声・臭い・味・触でも、名の物なら名誉・名声でも、愛欲の基盤である物は、針が仕込まれている餌と同じです。だからこれらから生じる幸福は偽の幸福であり、本物でも永遠でもありません。

 ただの陶酔であり、餌で経過する幸福にすぎません。だからブッダは幸福としていません。最も低い幸福を自他を害さないことと規定されているように、本当の幸福は、騙す餌がないからです。これは、聖人たちがどんな角度で幸福を見ているか、良く推測させるものです。

 五欲と呼ぶ、愛らしくて心を膨らませる物も幸福を生じさせる原因ですが、欲情、愛、魅惑、満足などに依存しなければ幸福になれません。そして望みどおりになれば癖になり、飽きてまた新しい対象を求めます。だからいつでも身を焼き焦がす物であり、他人からの借り物のように一時的です。

 そして愛に夢中になっている時は、挽肉を作るまな板のように、自分の心を捧げ、愛を育てるためなら、飽きるまで何でも受け入れなければなりません。そして同時に、身も心も焼き焦がす嫉妬や独占欲を生じさせる原因でもあります。まだ愛を獲得できずに、望んで狙っている時は尚のこと、何としても思いを遂げようと、その手段を画策することでいっぱいで、心の中には人道さえ住んでいないように見えます。

 しかしこれら三つの感覚の欠点を見る人はなく、むしろ長所を見る人が多いです。同じレベルの感覚の集団の好みで、能力と見たり、努力と見たりします。老人も若者も、学生も学生でなくても同じように、身を焼き焦がすにもかかわらず、それを幸福と呼びます。ブッダは全く反対の状態、つまり五欲で身を焼かない状態を幸福と言います。

 愛らしい物に欲情しない生活は冷静で、ニャーナダッサナ(真実を見る智慧。智見)のある生活です。つまり五欲を本当に明らかに知り、欲望に導かれる人でなく、五欲の知識に導かれる人です。

 つまり、それは何から生じるか、何に包み隠されているか、どうすれば多くの人の心に勝てるか、それをどのように知って沁み込めば毒がなくなるか、あるいは簡単に、それは何なのかを知っています。五欲について良く知れば、自分を失うほど欲しがることはなく、最悪でも、知らずに餌に飛びついて釣り針ごと飲み込みません。だからその幸福は、純潔で清潔で、非常に涼しく、最高に自由です。

 愛欲は、悲しみや恐れ、疑心暗鬼や未練、嫉妬、落胆などを生じさせる沼です。だから愛のある時は、いま名を挙げたいずれかの意味で悪の時です。反対に愛に淡白な時は、心が冷静ですっきりしている時です。

 だからブッダは『愛に勝つことは幸福である。愛に負けた人は、その時自分自身がないので、何もかも愛に奉仕しなければならない。目的を叶えるために愛の努力をする人は、それ以上負ける物がないくらい、終始愛に負けている』と言っています。

 人、あるいは命は、欲と愚かさと取(執着)のゴルフボールであり、ゴルフ場でボールを打っているのは輪廻です。ボールであることには何の楽しさもありません。それでも私たち人は、今これからどうなって行くのか知らないので、嫌になりません。

 私たちは「自分は何か」、まだ人生の問題を考えることができません。このようなら、死ぬほど辛いけれど美味しいカレーを食べるように、五欲、あるいは欲望を煽る物とは何かが良く分かるまで、自分が楽しいと思うことの間を喜んで飛び回っていなければなりません。

 人はこの世に生れると、「本当に愛らしい物」としてだけ五欲に出合います。それがどう生じるのか、何のためにあるのか、内部に何が隠れているのかなどを知らず、見えないので、針に掛かって自分の自由を、残らず奪われます。

 だからブッダは『欲望は人を引っ張っていく』と言われました。私たちはすべてに負けるという意味です。愛らしい物に勝った時自由になり、(欲望の塊でない)自分自身があります。その時は冷静で身を焼くこともなく、挽肉を作るまな板のように切り刻まれることもありません。それが幸福、ブッダが言われる中級の幸福です。

 世界に敵なしの英雄が、たった一人の女性に負けるのは、自分の中に自分がなく、自分の中にあるのは欲望だからです。だから欲望に占領されている自分は本当の自分ではありません。欲望のない自分が本当の自分です。

 だからまだ自分がある人の集団、つまりまだ阿羅漢になっていない人の群れは、自分がある教義を信じているので、正しく自分を掌握しなければなりません。そうすれば、冷静で、自らの拠り所になれる自分になります。

 ブッダが言われた『自らの拠り所である自分』とは、本当の自分という意味です。「欲望である自分」は、自分自身に苦だけを山ほど与えるからです。それまで愛して求めるためにあった欲情や愛を吐き出してしまうことは、幸福への道であり、吐き出すことができれば、本当に穏やかな幸福です。

 欲望に勝利した人になるには、ブッダの言葉である教えで実践することです。しかしそれは別の話なので、ここでは簡単に、私たちが「感情の自由にさせる」と呼ぶ、自分で自分の心身をコントロールできなくなるほど盲目にならないために、欲望の基盤である感情に出合う前、あるいは出合っている時に、気づくことができるサティを持つこと、とまとめることができます。

 感情の面前にいる時は、まだ心に残っている善悪正誤を知る力、あるいは冷静さで、心を抑えて感情を無視する練習をします。

 感情の背後では、思想をいろんな感情にして、真実の流れで「高い自然、あるいは善を焼き滅ぼす人の花」「それは感情に勝利するまで何世でも、私たちの大切な時間を奪い、陶酔させて台無しにする撒餌」と見抜くまで、あるいは擬人的に「花の所有者である魔王の方便を尽きさせ、膝を抱えさせる」と言うように詳細に熟慮します。

 このようなら、感情を見下した人と呼ばれます。そしてそれは、本当の幸福の一つの段階です。しかしそれが一般の人にとって明らかな物になるか、望む物かどうかは、説明したとおりです。

 こう言うと、愛と欲望が無くなったら人は生きられるだろうか、という問題を生じさせるかもしれません。答えは次のようです。人はこれまで、欲望に総理大臣、あるいは司令官として居座られ、何でも欲望に強制され、あるいは欲望と混じってすべてをしてきました。

 しかし今は指令官の地位を失った欲望を追い出して、職務や義務を行う時も、仕事の結果を消費する時も、楽しく休息する時も、美しい感覚、たとえば人生の義務を知ること、自然の恩を知り、自然に恩返しをすること、慈悲の心を持つこと、自分自身と他人を敬うことなどを君主にします。

 次の二人の人で、違いを簡単に見ることができます。一人は味に対する欲、あるいは自然の空腹ではない欲望で食べ、あれこれ調味料を加え、あれこれ面倒な装飾や儀式をしなければならず、食に関して策謀があります。調理人、あるいは主婦は料理の味のことで小言を言われ、怒鳴られます。

 もう一人は自然に健康を維持する義務だけで食べ、どんなに粗末で味気ない食事でも、静かに食べることができます。使用人の間違いや不注意なら、せいぜい料理人を呼んで、穏やかな言葉で説明するだけで、料理を投げ捨てたり、不満で怒鳴りつけたりすることはありません。これは欲望で食事をする人と、美しい心で食事をする人が、どのように違うかを表しています。

 遊びも、責任者として責任のある仕事も同じで、すべての挙措が、これらのいろんな美しい感覚の管理下にあるよう注意しなければなりません。ああしたい、こうしたいという欲望を、絶対に心に居座らせなければ、障害と失敗を回避でき、仕事は順調にいきます。それらの美しい気持ちは、当然他にも徳行を呼ぶからです。

 常自覚や、物事の原因を推測する力などが常に十分にあるので、行為者は、する前も、している時も、した後も冷静でいられます。欲望が急がせたり、他人を指図させたりしません。それが、今述べた美しい気持ちから生じる賢さだからです。欲望は焼き炙るだけです。これが、欲望や貪りのない生き方から生じる幸福の兆しです。


最高の幸福

 二つのレベルの幸福について述べると、みなさんは、愛や欲望の話で自分に勝つ以上に高い幸福があるのかと、疑問を持つか知れません。

 これまで説明してきたのは「自分」という愚かさから脱していない幸福、つまりまだ自分があると理解している自我の幸福と知らなければなりません。「自分はああだ。自分はこうだ」という考えがあり、「自分」「他人」と捉え、キリもなく生まれたい、生きたいと願います。

 生まれて来て、今述べた二種類の幸福に浴しても、まだ転生、老病死をしなければならず、体を管理し、苦である蘊を管理しなければなりません。その間にも、悲しみや、悲嘆、恨み言、愚痴、望んで叶わない不満などに遭遇します。

 善である物、あるいは公正なタンマの流れで経過することでも、心に自分という考えがあれば、その分だけ輪廻の回遊を止めることができません。あるいはその分だけ死と付き合わなければなりません。だから自我の幸福は最高ではなく、自我を越えて無我に達した時が最高の幸福です。それは苦、あるいは命が輪廻を駆け回ることの終わりだからです。

 この最後の幸福は、ほとんどの一般人はあまり望まないばかりか、聞いても意味が分からず、理解もできません。この幸福を理解して望むのは、初めの二つの幸福を通過した人だけです。

 簡単な例は玩具で、小さな子供は人形や汽車で遊び、若者はサッカーや野球を好み、年の行った人はゴルフやテニスなどを楽しみます。いろんなレベルの熱狂があるからです。

 子供はゴルフのどこが楽しいのか理解できないし、大人は二度と人形で遊びたいとは思いません。これは内面の感覚が違うからです。いろんなレベルの幸福を理解すること、希求することも同じで、当然、世俗的な感覚をどれだけ強く、深く、重く、あるいは浅く持っているか、心の感覚次第です。

 この種の「無我の幸福」は、心の中にある「私」「私は生きている」「私はこうだ、ああだ」という感覚を取り出してしまった結果です。「自分」という理解があれば、その人には自分のための自分があり、「私は私、あの人はあの人」という感覚があります。誰の自分かは、その人の自分です。この感覚は愚かさ、真実を知らないその人の愚かさから生まれます。だから自分は、愚かさが作り上げたものです。

 愚かさが消えれば、自分も自然に消え、原因と縁で経過していくものだけ、あるいはそれ自身の成り行きになるものだけと分かります。身体面でも心の面(mental)でも、全体的に言っても部分的に言っても、人間の中に「自分」はありません。しかしまだ知らない時は、懐中時計の機械を初めて見た子供が、時計を生き物と思うように、自分があると思います。

 自分があると理解すれば、「これは私、あれはあの人」という感覚が順に生じ、自分と他人を別と見て、比較する相手と感じ、良い側は愛して嫉妬して大切にし、悪い側は競ったり争ったり危害を加える相手と見ます。

 愚かさ(無明)が多ければ、幼子が人形も自分と同じように生きていると思ったり、柱にぶつかって泣いている子が、子守りが柱を叩いて叱るのを見て泣き止んだりするように、命や識のない物に対してもそう感じます。これが身勝手(selfish)を生む沼です。

 次に自分があるという感覚が、「自分の物」という考えになり、私のお金、私の宝石、私の子、私の妻、私の友達、私の名声、私の名誉という感覚になります。自分が管理しなければならない自分の物ばかりで、ただの自分がありません。

 時には、愛する人のために自分の命や幸福を犠牲にしたり、幼い子供を持つ親が、火災や水害などの際に、自分のことより子供の心配をするように、自分自身より自分の物の方が大事になってしまうこともあります。

 次に自分と自分の物、他人と他人の物と感じると、慢、あっちの方がいい、こっちの方は悪い、あるいは同じだというように、自分と他人を比較する気持ちが生まれ、それから愛や憎しみ、怒りや恐れ、嫉妬や喜びなど、全部揃って生じます。自分勝手で、自分と自分の物のことしか考えず、他人と他人の物のことを考えないからです。

 「自我」の力が弱まれば、その分だけ賢くなり、身勝手一辺倒だったのが、その分だけ減り、その分だけ惑溺が軽くなり、重荷、あるいは「命の石」が、その分だけ軽くなります。要するに、苦が軽減するばかりです。自我が無くなれば無我が生じます。

 それは、最後に明、あるいは光が生じるので、すべての苦が無くなるという意味です。「人とは何か。なぜ生れて来たのか。生きるとは何か。どう生きたらいいか。世界をどう捉えたらいいか」などという人生の問題に、明らかな答えが見えるからです。

 智慧による洞察で、明らかで正しい答えが得られれば、それまで重くて暗いと感じていた人生が、軽く楽になります。そして疑念は生じません。あるいは心に少しも残っていません。そしてこれはすべて、すっかり変化させる意図は無用で、明かりを灯せば闇が消え明るさが広がるように、自然にそうなります。

 「無我」の人生、あるいは「世界には自分、あるいは自我という状態がある」という感覚のない人生は、自我の人生と正反対、あるいは明と暗のように違います。今まで、自分が好きな物を望んで呼吸していましたが、今は欲しい物がなく、自由で呼吸をしています。欲しい物がありません。

 かつて自分が好きだった物は、得ても得なくても同じになり、死ぬことも生きることも同じになり、生まれるものも死ぬものもありません。あるのはそれ自体の成り行きで変転して行く物だけです。

 以前は愛欲で形・声・臭い・味・触を味わっていましたが、今は体を維持するため、あるいは命の自然で、何かを多少食べます。以前は自分が欲しい物に熱中するために生きていましたが、今はただ、この体を構成している物質の終焉まで、生きながら静かな幸福を味わいます。

 まだ「無我」に到達しない人は、生きながら真実を学びます。それ以外の仕事は、生きるため、真実を学ぶために生きる手段でしかありません。一部分は、自然の殻から脱すまで、つまり学んで真実を発見するまで、世界で生かせる価値とも言える、自然への恩返しの幾つかの仕事もあります。

 「無我」の人生、あるいは「私」「私の」という感覚を抜き取ってしまった生き方は、苦や悪を根こそぎ断ち切ることで、当然本能も、欲望を満足させるために作ったものも、苦と無縁です。

 たとえば男性、女性という心の感覚である本能は、異性間の危険な事件や道徳の問題を生じさせ、過去の異性について考えるだけでも、抑えなければならない心の試練になります。しかし「自分」を心から取り去ってしまった感覚、無我で見れば、男性、あるいは女性という感覚は跡形もなく消滅してしまいます。

 だからその人にとって、この世界に男性も女性もいません。世間の人が乱れた問題で苦しむほど良く知っている性、あるいは器官より上にいる人です。

 無我が見える人は、性の問題や異性間の危険に妨害されることは少しもありません。他の人が性の感情に悩まされてへとへとになっている時も、その人は世界を、常に恬淡と眺める、爽やかで冷静な人です。

 私たちは、このように欲貪が跡形もなく姿を消すことは、抑えたり防いだりする訳でなく、本当は根を残らず断つこと、と見ることができます。これをサムチェータバハーナ(阿羅漢のように煩悩を断ち切ること。正捨断)と言います。異性間の情欲以外の満足すべき物も同じで、感情を味わう自分がなければ、他の物はあってもないのと同じです。

 熟考して見てください。心の中の釘または矢である貪りがこのように抜き取られ、すっかり根絶やしにされたら、どんなに穏やかで幸福でしょうか。心の中の「私はいる」「私は何々だ」という理解(アスミマーナ)を捨てることを、最高の幸福と呼ぶべきでしょうか。

 まだ疑念があるなら、臆病という面から熟慮することができます。小さなことにも驚きやすいこと、理由のない恐怖を抱くこと、常に何かから逃避していること、あるいは防御する気持ちでいることがどんなに心を苦しめ、神経を害すかは、だいたい知られています。

 この三つの本能、つまり通常人間には、貪りと怒りと痴があります。言い方を変えれば、まだアスミマーナ(我慢)と取り除くことができなければ、抑え込む訓練をしても、あるいは弱みを見せない残虐な悪党のように野蛮さで覆い隠しても、それは外面だけで、ただ隠しただけで、心の中にはいっぱいあると分かります。

 一方「無我」に達した人は、体毛や髪の毛がごっそり落ちていても、明るい所でも暗い所でも、静かな時でも阿鼻叫喚の中でも、驚愕する自分がないので驚愕は生じません。ぞっとする自分がないので、ぞっとすることもありません。

 誰が加害者で誰が被害者と考える自分がいないので、逃げようとか、自分を守ろうという考えも生まれません。悪意による妨害があってもなくても、その人にとって違いはありません。

 暗闇の寂しい場所で、冷たい風も吹いていて、一人が恐怖に震えている時、もう一人は同じ条件でも爽やかさと伸びやかさを感じ、夜の森に一人でいる時聞こえて来る猛獣の遠吠えも、饗宴の音楽も何も変わりはないと感じています。これは恐怖の面です。すべては、これが加害者でこれが被害者などと考える根源であるアスミマーナ(慢。我慢)がなくなったからです。

 良く考えて見てください。その人の魂を脅かすもの、神経を圧迫するものがこのように悉く破壊されたら、人生はどんなに穏やかで明るく、健やかでしょう。アスミマーナを捨てることを最高の幸福と呼ぶべきでしょうか。

 まだ疑念があるなら、瞋恚の類である怒り、苦悩、倦怠の面から熟慮することができます。嫌いな感情に対する冷淡、倦怠、避けること、抵抗、あるいはこれらの怒りは、燃え上がっている熾火、あるいは内心で燻っている火であり、身も心も憔悴し切るまで焼き付けて荒廃させるので、幸福は消えてしまいます。怒りで他人を怒鳴りつけ、気が済むまで鞭打つことは、一時夢中になれることは事実ですが、それは焼き炙ることであり、衰退させます。

 怒りは必ず後悔と孤独にさせます。怒っている人は、当然自分の親でも殺せるので、答え、あるいは正しい答えは真っ暗闇で、怒りが消えた時に反対の答え、あるいは良い方便を思いつきます。しかし怒らない人は、その時に考えることができます。

 怒りを知らないスポーツ選手も、試合を始める前から、相手より何割も多く点数があるのと同じです。一方無我の域に達し、完全に「自分」を消滅させた人は、得な人と損な人、妬む人と妬まれる人、などという気持ちがないので、ふやけるまで水につけたマッチのように、怒りは生じることができません。

 怒らない人は負けを知らない人です。誰もその人を負かすことはできません。他人が送ってくる感情、あるいは自然に生じる感情に対して怒らないので、その事、あるいはその部分は、何も起こっていないのと同じだからです。これは怒りの面だけを述べています。

 一人が内部に燻り続ける怒りの火種を抱えている時、あるいは外部に表出した時も、もう一人は熟睡し、自分の義務を楽しく行い、怒っている人を助ける方法などを考えます。目は怒り狂っている人への慈愛で満ち、あるいは心も顔も、明るく微笑んでいます。

 怒り、あるいは瞋恚をすっかり断ち切ってしまうことは、どんなに穏やかで冷静か、その功徳を見て、良く考えてみてください。自我という感覚が消滅すると同時に、火と火種をすっかり絶滅させてしまったら、心をけしかけて曇らせるもの、あるいは本の少しでも悪化させるものが他にあるでしょうか。アスミマーナ(我慢)を心から出してしまえることを最高の幸福と呼ぶべきでしょうか。

 まだ疑念があるなら、最後に間違っているものを正しいと迷って夢中になること(痴)、知るべきことを知らないこと(無明)の面から熟慮することができます。「本当は、世界は自我なのか無我なのか」を見せ、決断させる光である明らかな知識のある人は、「知るべき知識を極めた」と言われます。

 知るべきこととは何でしょうか。それを知った時、述べたような穏やかな瑞々しさが、その知ったことから生じる類の知識です。それがどの程度になれば、最高と呼べるのでしょうか。それは二度と戻ることがなく、二度と恐怖が悪化することがない本当の幸福に到達し、疑念が消え、満足があり、どんなに疑ってみても、あるいは知りたがっても、それ以上に知りたいものが無くなれば、それが「すべての物は無我である」という明らかな知識です。

 「すべてのものは無我である」とは、どういうことでしょうか。無我とは、「自分自身はその物にも、どの物にもない」と捉えなければならない、あるいは言わなければならない状態のことです。

 教義によって涅槃と呼んだり、パラマートマンと呼んだり、いろんな呼び方がある究極の知識、あるいは究極の目的である結果も、自分ではなく、実体もありません。まして虚妄である世界に実態があるはずもありません。

 以上の理由により、「知るべき最高の知識とは、今まで自分、あるいは自分はいると信じていたものは自分ではない、という真実を知ること」と結論することができます。

 「自分がある」という愚かさが、「自分はない」という深く明らかな見解に変わり、このような知識が生じ、無知(無明)が消滅します。無明が根源で生じる貪り・怒り・迷いも同時に消滅し、誤りを正しいと迷うこともなく、惑溺陶酔しません。

 「自我」という感覚を、白内障で濁っている角膜のようにきれいに剥がして取り除いてしまえば、目、あるいはニャーナダッサナ(真実を見る智慧。智見)が真実のままに見る働きをし、その後永久に心を苦しめ焼き焙らない世界を知ります。それが、私たちがそれ以上の物はないと保証している、太陽の光も届かない所まで照らすことのできる光です。

 愚かさをすべて引き抜いて捨ててしまえば、賢さの光が射して清涼にします。水を撒かなくても水を撒いたより涼しい清涼さが、光のように周りを包みます。それが、弟子を自認する私たちが人間に生まれた価値を手に入れるよう、誠心誠意一時も休まず努力するよう、世界の父であるブッダが課題として遺した最高の幸福です。

 最後に、私が祝福しようとするまいと、無我が見える人、あるいは無我を信じる人にとっては変わりありませんが、まだ自我を信じている人のために、ここで祝福させていただきます。

 どうかみなさんの自我を掌握する力が少しずつ弱くなり、「私のもの」という考えを行・体から遠ざけ、戒・サマーディ・智慧を掌握し、智慧の極みに到達したらそれから離れて、順に聖向聖果を掴み、もう何も掴む物がなくなるまで順々に、より高いものに移動してください。

 執着しなければ「自分」はありません。自分は執着から生れるからです。それが「見ることで自我を下へ下ろすことができ、無我に達し、述べたように順に高まっていく結果を味わうことができる」ことです。

 過ぎて来た道を振り返れば、他人の言うことを信じなくても、自分自身で「これがブッダが遺された最高の知識であり、本当の幸福の極みだ」と気づきます。

 この祝福が成就することを!




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