すべての人のための涅槃

 

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 タンマにご関心のある善人のみなさん、ヴィサーカ季土曜法話の、今日は第一回目で、雑多な話をします。つまり一話で終わり、その後は今までと同じです。今日は「すべての人のための涅槃」と題してお話します。この題を聞いて、たくさんの人が「あり得ない。すべての人のための涅槃があり得るはずがない。涅槃は阿羅漢が死ぬことなので、全員が阿羅漢にならなければ、涅槃がすべての人のものになり得ない」と信じていると思います。

「そうではない」と主張させていただきます。涅槃は阿羅漢が死ぬことではありません。涅槃とは、煩悩がないことによる涼しさ(冷静さ)という意味で、死ぬ必要はありません。「涅槃は死とは関係ない。涼しいという意味だ」と、正しく理解してください。

死んでしまったら涼しさを感じることはできません。死人は熱さや涼しさを感じることはできません。まだ感じることができる人、生きている人のものでなければなりません。涅槃とは涼しいという意味で、熱くない時は涼しいです。もう一つの意味は、涅槃は熱さがない涼しさで、かき氷のようなものを食べてなる涼しさではありません。

 みなさん、良くり関心をもって、涅槃の話を理解してください。そうすれば仏教教団員であることが無駄にならず、そして仏教は、誰にでも利益があります。仏教はすべての人のためにあります。二三人、あるいは何人でもない人のためではありません。阿羅漢のためだけにあるなら、阿羅漢は何人もいないので、仏教は一般人に利益がなく、このように何人でもない人のためにあるなら、割に合いません。

仏教は大きな池の水のように、すべての人に多少の利益がなければなりません。誰かが掘った大きな池は、すべての種類、すべての大きさの生き物の利益になり、象のように大きな動物も降りて行って水を飲み、水浴びができ、アマガエルのように小さな生き物も、降りて行って水を飲み、浴びることができ、あらゆる種類の生き物にこのように利益があるので、見合った価値があります。涅槃もブッダが掘った池のように、すべての人に多少の利益があります。十分でも一部でも利益と言います。

 だから、仏教教団員なら多少は涅槃から利益を得なければならないと、そして涅槃は本当にそのような利益があると、正しく思ってください。この話を理解する努力をしてください。そして更に、涅槃を知らない愚かな人でも、気付かずに涅槃の池へ降りて行って水を飲み、浴びることができるというところまで行きます。というのは、涅槃はどこにでもある自然であり、何も熱いものがない人は、涅槃の水を飲んでいることを意味するからです。

 次に熱さについてお話します。火などの一般の熱さは別の話で、今は、貪・瞋・痴などの煩悩から生じる心の熱さという意味です。火、つまり煩悩の熱さで、火つまり煩悩による熱さがない時は、涅槃の状態があります。これは、「火がない時、つまり貪り、怒り、迷いがない時は涅槃のような涼しさがある」と、心に銘じておかなければならない最高に重要な教えです。

一時だけ無ければ一時だけ涼しく、少しあれば少しだけ涼しいです。それも涼しさで、涼しさなら涅槃の意味があり、心の面の涼しさの話です。「熱さ(焦燥や怒り、あるいは苦)があればいつでも、煩悩から生じた熱さがある。その種の熱さが無ければ、多少は心に涅槃と呼ばれるものがある」と、関心をもって良く見てください。

 火が消えること、煩悩が消えることには二種類あります。つまりー然に消えることもあり、⊂辰洪佑いることもあります。つまり煩悩を生じさせないように、あるいは消滅させる行為があれば、消す人がいて消えます。それでも自然に消えることもあり、原因が尽きて縁が尽きるので、消す人がいなくても消えます。煩悩は通常サンカーラ(行)のもの、つまり原因と縁で生じるものは原因と縁で変化し、原因と縁が無くなれば自然に消滅するからです。

 基本として知っておかなければならない重要なことは、「生じたものが消滅するのは当たり前」であることで、ブッダの言葉には「当たり前に生じるものは、当たり前に消滅する」とあります。煩悩は原因と縁のあるサンカーラの常として当然発生があり、そして原因と縁が終われば当然消滅します。煩悩が消滅すれば涼しくなり、煩悩が生じて妨害しなければ涼しいです。

だから、誰でも常に煩悩が生じている訳ではありません。煩悩が生じない時間、あるいは煩悩が自然に消滅している時間があり、その時は必ず涅槃の意味の涼しさがあります。だから涅槃は、多かったり、少なかったり、束の間だったり、少し長かったりの状態で、すべての人のためにあり、そして「すべての人にある」と断言できます。最高に良ければ永遠です。

 涅槃はすべての人のためにあると理解してください。大きな池のように、どの種類の生き物も降りて行って水を浴び、水を飲むことができます。小さなアマガエルも降りて行って水を浴び、飲むことができ、大きな象も水を浴び、飲むことができま、水に浸かっていればいるだけ涼しく、そこに住んでいれば、いつでも涼しいです。煩悩が消えればいつでもどこでも、消えた分だけ、その時そこに涼しさがあると言います。

だからみなさん、それは本当にすべての人のものと、明らかに見てください。しかし人は普通理解できないので、信じようとせず、すべての人のための涅槃と聞くと、ブーイングの声を上げますが、私はその声を恐れないので、「すべての人のための涅槃」と主張させていただきます。

 みなさん、この種の涅槃を知ってください。涅槃には偉大な価値、あるいは涅槃の偉大な恩があるので、知る必要があります。もっと狭めてハッキリ言うと、心に煩悩がない時に見られる煩悩のない状態、それが涅槃です。心に煩悩がなければ、その時が涅槃です。ここに座っている今、心に煩悩がありますか。煩悩のある人がいれば、その人には涅槃はなく、煩悩のない人には涅槃の状態があります。つまり煩悩が空っぽです。

ここに座っていて、もしかしたら愛や怒りや憎しみや恐怖の考えがあるかも、何か疑念があるかもしれません。説教者の言うことを信じないで、話している説教者の面を嫌っているかもしれません。それは煩悩が空っぽではありません。しかしどんな煩悩もなければ、煩悩から解放され、あるいは涅槃の涼しさがあります。

 みなさん。これは仏教を不毛で何も利益のないものにするか、あるいは仏教を最高に利益のあるものにするか、そして自分も最高の利益を受け取る一人になるか、という重要な問題なので、良く考えて見なければなりません。それです。涅槃とは何か、いつどこにあるのか、誰にでもあり得るのか、理解して知識にしなければなりません。

しかしいずれにしても、それはレベルがあり、同じではないと知らなければなりません。阿羅漢の涅槃は一つのレベルであり、預流、一来、不還も一つのレベルであり、まだ預流になっていない普通の凡人も一つのレベルであり、善い凡人も一つのレベルであり、俗悪な凡人も一つのレベルであり、みんな違います。煩悩が無い程度は同じではありませんが、それでも煩悩が無ければどれでも、すべて涅槃と理解してください。涼しさを意味するからです。

 物質面にも涼しいという言葉を使います。パーリ語では、火が消えたことなどに涅槃という言葉を使い、「火が消えたように涅槃する(冷める)」という言葉があります。火が消えたように消滅します。燃えるものが無くなった火は消えるように、種のなくなった煩悩も消滅します。熱いものは、まだ熱があって冷めていないので、「まだ涅槃じゃないから食べられない」と言います。スープやお粥や何やらがまだ熱くて食べられない時、「ちょうど良く涅槃になるまで待てば食べられる」というように、家の中で使う言葉です。こんなことにも涅槃という言葉を使いました。

 パーリ経典のある部分に、「金細工師は金を溶かし、溶かしたら火を消した所から出し、溶かした火を消して、水を掛けて冷やす」という文章があり,この「冷やす」という言葉をパーリ語で「涅槃にする」と言っています。金細工師は熱く溶かした金を冷ましてから、いろいろ思いどおりの形にします。これが涅槃で、「涼しい」あるいは「冷ます」という意味で、死ぬという意味ではありません。この言葉の意味を知ってください。物質面にも心の面にも使います。

 パーリ語は、毒を無くすことにも使っています。たとえば森で野生の水牛や象などを捕まえて来ると、非常に凶暴で非常に危険ですが、柵に入れて、猫のように懐くまで調教すると、象は猫のように懐くので何でもできます。こういうのも涅槃と言い、火、つまり野性が無くなります。動物にも使います。

 次に心の面の涼しさを言うなら、欲しがらせ渇望させるものが無くなり、欲しがることが止んで涼しくなったら「涅槃」と言います。ブッダの時代以前から、情欲の話に涅槃という言葉を使いました。欲情が生じると火よりも熱い火のように熱いからです。それを抑制できれば幸福で快適なので、欲情を涅槃と言う人たちもいます。

中にはもっと高く、「それは非常に低い。欲情は熱い火になるので、消すものがなければはならない」と見る人もいて、先ず、心を形禅定の類のサマーディにします。形禅定の初禅、二禅、三禅、四禅で、初禅になれば欲情を捨て、悪を捨てられるので涼しくなります。初めての人は、初禅を涅槃にして、火つまり欲情を捨てることができ、それから、高くすることと緻密にすることを知るので、形禅定も高くなり、火を消すことができ、どんどん緻密になります。そしてその人は一時代、その形禅定に満足します。

 その後、実践が更に高くなると、「形禅定に迷っている人たちは火、ほとんど見えない火であり、火の一種だ」と見て、無形禅定まで実践できます。大悟する前のブッダが、いろんな先生の所で学んだ後にウダカ仙人の所へ行くと、彼はこれを涅槃だと言い、ブッダは「違う、違う。受け入れられない。認められない」と言い、そしてそこを去って一人で勉強しました。

そして終に、「煩悩を絶滅させること、煩悩の滅亡が涅槃であること」「貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終わりが涅槃であること」を発見しました。そしてそれ以上に素晴らしい涅槃を発見した人がいないので、それで終わりになりました。つまり煩悩が無くなること、炙る煩悩の火がないことが、完璧な涅槃です。

 しかし最終的には、初めの「冷める。冷える」というたった一つの意味以外には、涅槃の意味は何にも、どっちにも変化しません。どんな種類の冷える(冷める)も、その種類の涅槃で、どれだけ冷えても冷えた分だけ涅槃で、いつ冷えても冷えれば涅槃なので、それはサンディディコです。つまり心の中で明らかに知り、それはアガーリコ、つまり時を限定せず、煩悩が無ければいつでも涼しくなるので、時を限定しません。そしてエーヒパッシコ、呼んで来て、涼しさを見せることができます。このようです。

涅槃がプラタム(仏法)の一つを意味するなら、エーヒパッシコとオッパナジコはあるべきもの、大いに引き寄せて自分にあるようにすべきものです。性別によって変化するパーリ語でのサンディティコ エーヒパッシコ オッパナジコは、サンディティカン アガーリカン エーヒパッシカン オッパナジカンに変化し、ニッパーナはニッパーナンに変化します。語尾の「an」や「o」は重要ではありません。

意味は「心で感じなければならないもの。時を限定しない、時次第ではない、あるいは季節や天候に左右されない、そして呼んで来て見せることができ、呼んで来て、「こんなに涼しい」と見せることができる、自分に取り入れたい最高に素晴らしいもの」と、元のままで、それを涅槃と言います。意味は冷める、冷えるです。

 心に煩悩が生じていなければ一種の涼しさで、かき氷を食べる必要はありません。氷を食べれば、氷の威力による涼しさですが、暑くなければ、氷を食べなくてもよいくらい涼しければ、それも一種の涼しさです。この方が良く、確実で正真で、つまりイライラしません。火が無い涼しさ、涅槃という意味の、熱いものが無い涼しさだからです。

心に煩悩が現れていない時の心は、涅槃と呼ぶものに触れている心です。つまり暑さがない涼しさで、人はそれを知りません。知っているのは、かき氷を食べなければならない、扇風機の風に当たらなければならない、偽物の涼しさです。これは全部物質的な涼しさで、精神面の涼しさは、扇風機を使ったり氷を食べたりすることでは作れないので、煩悩がない涼しさの話がなければなりません。

 長々とお話して来たのは、涅槃は涼しいという意味であり、死という意味ではないこと、そして阿羅漢の死と限定しないということだけを理解していただきたいからです。阿羅漢の死が涅槃なら、他の人たちの死は涅槃ではないので、非常に少ししかありません。

しかし本当は絶体にそうではありません。涅槃は「死」でなく「涼しさ」で、死と言うなら「熱さ」の死です。熱さが死ぬのであって、人が死ぬのではありません。熱さが死ねば反対の涼しさがあります。どうぞ、熱さが無い涼しさにしてください。

 「熱さがないと涼しい」と簡単に憶えてください。熱さは生じない、あるいは生じてから消滅させることも、どちらもあります。熱さつまり煩悩が消滅すれば、涼しさがあります。涅槃になれば熱さはなく煩悩が生じないので涼しさがあり、安心して暮らせます。この意味を理解できない人は、まだ極めて子供で、安心という言葉を知らないように見えます。その人が安心という言葉を知れば、涅槃の意味を知り始めたことを意味し、そしてたぶん、安心して暮らしたいと望むことに満足します。

 一般の人の普通の「安心」は、「ニプティ」という言葉があります。ニプティも同じ「涼しい」「冷める」という意味ですが、道徳レベルに使い、道徳レベル全般の涼しさを、ニプティと言います。一般庶民のレベルの安心という意味ですが、「煩悩が妨害すれば安心できない」と良く見てください。だからそれは、一般庶民のあるレベルの、煩悩の妨害が無い状態を意味します。

戒を授かる人がいる度に、僧は「天国へ行くのは戒ゆえ、消費財が豊富なのは戒ゆえ、ニプティに至るのは戒ゆえ」と戒の功徳を言い、ニプティは財産を貰うよりも、天国へ行くよりも高いです。ニプティというのは涼しさです。みなさんは時々ニプティ、ニプティと耳にしていますが、それが何か知りません。それは道徳レベルの涅槃で、文化全般のレベルでもいいです。

 ブッダの時代にとてもよく使われた言葉です。アッタカター(ブッダの死後数百年後に三蔵に混入された、経の解説)や何か特別の経典に、シャカ王族のある娘が、女性を選ぶ会場でシッタッタ王子を見た時、「この殿方はどのお母さまの息子さんでも、そのお母様はニプタ」つまり安心、「どのお父様の息子さんでも、彼のお父様はニプト」つまり安心、「どの女性の夫でも、その女性はニプタ」つまり安心、と叫んだという件があります。

普通に使われていた言葉で、そして良く知られている意味は、「涼しい」「安心」「毒が無い」「何も害が生じない」という意味です。つまり家庭内の涅槃、一般人の道徳レベルの、あるいは十分に高い文化レベルの涅槃です。

 どうぞこの種の涅槃を、発展した人が望むもの、明で発展した人、文化と道徳で発展した人が求めるものと知ってください。彼らはこの種の涼しさを望みました。みなさんも文化があり道徳のある人なら、この種の涅槃を知らなければなりません。これが、すべての人のための、一つのレベルの涅槃と言うことができる理由です。一人の例外もなく、誰でもこのように望めば、そうすれば深い部分はこのようになります。煩悩の火がない時はいつでも、その時は涼しいです。

 次に煩悩は常に生じているのか、を見ます。今煩悩はありますか。もし常に煩悩が生じていていたら、貪りと怒りと愚かさが絶えず焼き炙っていたら、人は生きられるでしょうか。絶えず煩悩に焼き炙られていたら、狂わなければ死に、死ななければ狂います。なぜなら、本当は煩悩は常に生じていないからです。

一日のうちの煩悩が生じている時間は、生じていない時間より短いです。良く考えて見てください。煩悩が心を焼きつけない時間は、煩悩が心を焼きつけている時間よりたくさんあります。もし煩悩が異常に長く心を焼きつければ、狂います。煩悩が休まず心を焼きつけていれば死にます。ここにこのように座っていません。

 だから、心を焼き付ける煩悩が無いことは、私たちを狂わせないため、死なせないための基礎としてあると、良く考えてください。今みなさんは狂っていますか。狂っていなければ、煩悩のない時間が、死なないでいられるだけ維持しているからです。今は、煩悩が四六時中焼きつけていないので、死にません。焼きつけている時間は幾らでもなく、合計しても一時間にもならないこともあります。だから生きていられます。

 木は、ずっと火で炙っていれば死にますが、時々、そして少しの部分だけ火で炙れば死なないように、火で炙らない時間があるので、死なないで生きています。誰もが死なないで生きているのは、煩悩のない時間があるからです。常に煩悩があれば眠れず、眠れないで死んでしまいます。今はまだ眠れる時間があって快適なので、夜が明けても爽かです。あるいは普通にいて眠らないのは、憂鬱になる時間より、火で憂鬱にならない普通の時間があるからです。

 だから「焼き炙る火がない涼しさはあり、それが、人が狂わないよう、死なないように涵養している」と見ることができます。だから私たちは生きていられ、死にません。この種の涅槃に涵養されているからです。それはすべての人でしょうか。すべての人かどうか、良く考えて見てください。誰も死なないで狂わないなら、必ずこれに涵養されています。狂う人がいるなら、煩悩の火が包囲して焼き炙りすぎたからです。愚かさの火、あるいは何の火でも、必ず狂います。

 今一般に狂いもせず、死なないのは、適度の涅槃の涼しさに涵養されているからです。このように涵養してくれる涅槃に、なぜ感謝しないのでしょうか。なぜ、涅槃の恩を知らない、つまり恩知らずで、あるいは関心がないのでしょうか。この種の涅槃を知って、そして感謝してください。感謝をしている時は必ず涵養されます。常に涼しくなるように涵養され、どんどん涼しくなり、阿羅漢のように最高に涼しくなります。あるいは阿羅漢の一人になります。

 基礎である涼しさがあり、生き物はこの種の涼しさに涵養されたいと望むので、私たちは涼しさを探求します。本能で涼しさを探求することを知っています。本能は自然に生じる感覚で、自然に生じるので自然に涼しさを求めることを知っています。飢えなどは熱さ(苦)なので、飢えを抑えたいと願って食べ物を探し、飢えを抑える方法を知っています。

赤ん坊は、誰も教えなくても乳を飲むことを知っています。飢えを抑えたい本能があるからです。それ以上に愚かでないのは蚊で、蚊は人の血を吸うことを知っていて、飢え、つまり熱さを軽減させるために、死ぬまで、人に叩かれて死ぬまで血を吸うことを知っています。飢えあるいは熱さを軽減して、飢えをしのぐ本能があり、本能でこのように望み、涼しさを求め、飢えあるいは熱さが止むことを望みます。

 「本能は飢えを止めたいと願い、熱さを止めたいと願う」と言うことができます。だから本能は、飢えあるいは熱さを止めるすべての行動を求めます。こういうのは、すべての人のものではないしょうか。「すべての人の涅槃」と言うのは、不満の声を上げることでしょうか。誰かが「すべての人の涅槃」と言ったら、ブーイングするべきでしょうか。

不満の声を上げるなら、涅槃は生き物のためにあることをまだ知らず、まだ愚かと言います。命があり生きているなら、その種の涼しさ、つまり煩悩が焼きつけないことに涵養されなければならないので、まだ生きているなら、煩悩が焼き付けない涼しさに涵養されていると知ってしまってください。人は簡単に見えます。

動物もこの法則内にあり、煩悩が焼き炙れば、その動物は死んでしまいます。しかし動物はバカで考えないので、人より煩悩が生じ難く、煩悩に焼き炙られている人より楽です。人は何もかも動物より良いと自慢しないでください。ある面、あるいはあることは動物に敵いません。しかし他の面では上です。

 つまりどの植物も涵養する水が必要なように、命のある生き物は、涅槃に涵養されなければならないということです。そうでなければ枯れてしまいます。私たちには水に見えなくても、土の中には水があり、植物は吸い上げて涵養しています。だから木々がこのように緑色をしていれば、それには涵養している水があることを意味します。つまり水の冷たさが養っています。これは物質の話です。

 心の面の話も同じで、新鮮で青々した命があれば、涅槃の涼しさに涵養されていることを意味します。誰でも同じで、誰もがそうで、誰でもこの種の涼しさに涵養されて生きています。だから死にません。

 だから、涅槃はすべての人のものという真実を見てください。誰にも、命を涵養するものである涅槃があります。「涅槃はすべての人のもの」と言う人に、不満の声を上げないでください。愚かになります。クルンテープ(バンコクのこと)で、あるいはどこででも、学生の集会で私がそう言うと、ブーイングを浴びます。彼らは、涅槃はすべての人のものと信じないからです。

しかし彼らの愚かさとしてあげます。学校で「涅槃とは阿羅漢の死」と間違って教えられているので、この話に興味が無いからです。それにたぶん「涅槃とは涼しさ」と聞いたことがないのでしょう。

 「涅槃とは焼き炙る物が無い涼しさ」と教えないで、子供たちに「涅槃とは阿羅漢の死」と教えるのは滑稽です。それは言葉の話で、国王が亡くなると「崩御」と言い、牛や水牛が死ぬと「倒れた」と言い、そしてそれぞれの人にふさわしいいろんな言葉の規定があり、阿羅漢が亡くなると「涅槃」と言います。

それは勝手に呼んでいます。パーリ(ブッダの言葉)にも、アッタカター(後世に加えられた解説)にも、何にもなく、勝手に言っています。涅槃は死という意味でなく、涼しいという意味です。涅槃が死を意味するなら、煩悩の死でなければならず、煩悩が死にます。

 「涅槃とは涼しさ」と教える学校があるでしょうか。「死」と教えるばかりです。しかし「煩悩の死」と教えないで、「阿羅漢の死」と教えるので、愚かさは深くなります。阿羅漢は死なないので、阿羅漢は死なないタンマ、不死に到達したので、徳行が阿羅漢であり、阿羅漢が死ぬことはありません。

死があるのは体だけで、腐って悪臭を放つ体は死にます。全部間違って話しています。「涅槃とは涼しさ」と、正しく理解してしまいます。煩悩の火が生じて妨害しない時は、涼しいです。

 昔の一般のアーチャンたちは法台の上で、「涅槃は国で、街で、都」と、長々と話しました。シワモーカマハーナコン(涅槃の都)と呼んで、そこに涅槃の都、国があり、何でも願いどおりの幸福があります。国と呼びますが、どこにあるのかは知りません。一生懸命善行を行なって徳を積み、いろいろして死んだらシワモーカマハーナコン、大涅槃の都に生まれさせます。このようです。

説教者が「シワモーカマハーナコン マハーニパン」と口にすると、座っている人たちは合掌した手を頭上に上げて「善哉、善哉」と言います。これを、「善哉」と叫ぶために涅槃があると言い、心を涼しくしません。昔法師がブッダの名を口にすると、頭上高く手を上げて善哉と叫んだように、現代は「ブッダ」という言葉を聞くと、あるいは説法で涅槃という言葉が出てくると、頭上で合掌して善哉と言いますが、涅槃が何か、真実を知りません。

涅槃は、伝統に従って「死んだら到達する」と言う口だけのためにあり、そして涅槃に到達するまで何万世も待っています。涅槃まであと何万世でも、みな死んだら到達すると言うだけで、それで何をするか知りません。死んだ後到達して何かできるでしょう。だから本当に利益があるようにするには、生きているうちに涼しさを増やして増やして、熱さが残さないようにしなければなりません。これが伝統の涅槃でない、正しい涅槃です。

 どうぞみなさん、涅槃とはどのようなものか、どのようにすべての人のためにあるかを知ってください。そして更に、みなさん、良く聞いてください。それはあります。それはもうあり、どのようにすべての人にあり、どのようにすべての人の命を涵養しているでしょうか。これがすべての人の涅槃です。すべての人のための涅槃は、このようです。涼しいという意味で、物質的、身体的な涼しさも、涅槃という言葉を使い、心の面も涅槃という言葉を使い、涼しさを意味します。それは涼しいという意味で、昔から使われてきた言葉です。

 だから物質的な涼しさから話し始め、氷を食べたら、涅槃の意味である涼しさを思い浮かべ、無駄にしないで、涼しい時はいつでも、何による涼しさでも、涅槃を思い浮かべてください。涅槃は、涼しいという意味の主人なので、どこかに座っている時涼しい風が吹いて来て快適だったら、そういう時は、いつでも涼しいという意味と一緒に、涅槃を思い出してください。

どんどん涼しくなって精神面の涼しさになります。すると心の中に熱さが生じていない間はいつでも、「涼しさは涅槃」と知ります。いつでも何でも正しくすると煩悩が生じられないので、涅槃である涼しさがあり、すべての人のための涼しさがあり、すべての場所のための涼しさがあり、いつでも、どんな時にも涼しさがあります。こういう涼しさが涅槃の意味です。

 常に心が良い状態であるよう調整して煩悩を生じさせなければ、生きているうちに涼しさに出合います。正しくサマーディにすれば煩悩は生じられないので、涼しく、息を吸っても涼しく、息を吐いても涼しく、生きているうちに涅槃と一緒に暮らします。「涼しい。涼しい」という気持ちで息を吸い、息を吐き、呼吸をすれば、煩悩が無いので、生きている時に涅槃があります。こういう小さな涅槃も作ってください。だんだん増えて、だんだん増えることを知り、増やすことを憶え、そして最後には完璧に、あるいは涼しさでいっぱいになります。

 外国へ留学して帰国し、凧の尻尾のように長い学位がある人たちは、「すべての人のための涅槃」を聞こうとしないで、ブーイングの声を上げ、嘲笑します。それは彼らの勝手です。私は、彼らがバカと仮定している人たちのために、森の中(スアンモークのこと)で、「涅槃とは涼しさで、誰のためにもあり、そしてすべての人の命を涵養して、狂わないようにし、死なないようにしている」と主張します。どうぞ涅槃に感謝してください。涅槃に感謝することは、ブッダ、プラタム(教え)、僧に感謝するのと同じです。

ブッダは涅槃の話、涼しさの話を発見したので、感謝し、知識であり、実践であるブッダの教えをプラタムと言いますが、それは涼しさなのでプラタムに感謝し、僧はこの涼しさを勉強して実践し、伝承して私たちに教えるので、僧に感謝します。しかし全部を一つにまとめて涅槃に感謝し、命を涵養している涼しさに感謝する方が良いです。涅槃がなければ、涼しさが無ければ、熱さ、つまり煩悩に炙られて枯れて死んでしまい、最高に良くても狂います。

 さて、もう何年もたってしまったんじゃないですか。何十年もたっているんじゃないですか。あと何年もしないで死んでしまうんじゃないですか。急いで興味をもって、急いで理解し、急いで涅槃、つまり命を正常に涼しく維持しているものを知ってください。みなさんにはきっと時間があります。あと三、四十年命があれば十分です。

今までのように愚かなままでいないでください。根が生えてしまい、少しも前進しないことがないように、前進するよう、知識が前進して、どんどん涅槃を知るよう努力してください。涼しくすることで、毎日毎日涼しくなり、毎月、毎年、涅槃と呼ぶタンマで成長する人になります。

 ここで、知っておかなければならない奇妙な言葉があります。つまり、非常に好んで話される「涅槃の縁」という言葉で、ちょっと何かをすると、「どうぞ涅槃の縁になりますように」と言います。この言葉には深い意味があり、そしてみんな誤った理解をしています。「涅槃の縁になる」と言うのは正しくありません。なぜなら涅槃は縁を必要としないからです。原因と縁がないのが涅槃、縁を必要としないのが涅槃です。

何かをして、それを涅槃の縁にすることはできませんが、涅槃に到達する縁、涅槃に到達するためなら、正しい実践の縁です。善行や美しい行動や何かをして、それを涅槃に到達する縁にして、「涅槃の縁にする」という言葉を使わないでください。涅槃には原因や縁がないので、それはタンマの教えに反します。

 しかし涅槃に到達する人たちには、原因や縁があります。何でも、涅槃に向かって前進する原因と縁にしてください。心の縁、あるいはこの名のものの原因であり縁であるものは、涅槃に到達するまで発展していきます。それなら、正しくて十分な原因と縁が必要です。布施や積善、善行や美しい振る舞いなど、何でもして、涅槃へ到達する縁になるよう誓願します。

こういうのは正しいです。「涅槃の縁」というのは真実と違い、意味が違い、ブッダの教えに反します。涅槃は縁の終り、縁がなくなることで、原因と縁より上にあるので、縁が作ることはできないからです。

 今小さな涅槃、たくさんある涅槃について言うなら、このように小さな涅槃に到達するための原因と縁はあり得ます。しかしこのように小さな涅槃があること、これも大変なことには違いないので、原因と縁が尽きた涅槃を目指さなくてはなりません。

 ところで、生きているうちの小さな涅槃も、原因と縁が尽きれば煩悩の火が消える、と知らなければなりません。だから煩悩の火に原因と縁を与えず、煩悩の火を消す原因と縁を与えることもできます。涅槃の原因と縁は、意味がありません。

 これが涅槃に到達する縁で、それはあります。だから、仏法僧を集約した徳である涅槃を、いつでも心の中で思い出し、そしていつでもどこでも、すべて場合の涼しさの価値を感じてください、と忠告させていいただきます。だから「涼しい感覚がある時はいつでも涅槃を思い浮かべてください。夜の涼しさ寒さでも、暑さがない時は涅槃を思い浮かべてください」と言うことができます。

これは、涼しいという意味の涅槃と関わっている練習、涅槃に興味をもっておく練習、涅槃に触れておく練習で、かき氷を食べたら涅槃を思い、扇風機の風に当たったら涅槃を思い、風が吹いている場所で涼んだら、「風はこんなに涼しい。もっと涼しさがあるべきだ。もっと涼しくあるべきだ」と涅槃を思います。これが、今ここでの涅槃をどんどん増やす練習です。

どんどん増やすことは育てることで、木を大きく育てることは、菩提(悟りの智慧)を育てることで、心の中の菩提樹を大きく成長させれば、ますます涅槃を知ります。そしていつか確実に最高のレベルの涅槃に到達します。たくさんできれば早く、本当にできれば早く、いつでもできれば早く涼しく、どんどん涼しくなります。これが「すべての人の涅槃」「涅槃はすべての人のため」と認めて、涅槃にすることです。あるいは「すべての生き物のための涅槃」と言うこともできます。

 どうか涅槃に興味を持ってください。彼らが「涅槃は味気ない。涅槃に行きたくない」と、時にはもっと「涅槃は発展の障害」とまで毛嫌いするように、涅槃を嫌わないでください。ペーンディンタム・ペーンディントーン党の人たちは、涅槃は発展を阻害すると言って涅槃を嫌い、ペーンディンタム・ペーンディントーン(タンマの地、黄金の地)を発展させる時、涅槃の話をしません。どっちへ発展させたら良いのかを知らず、どっちへ発展させれば涼しい発展になるか、熱さが止まる発展になるかを知りません。涅槃とは何かを知らず、涅槃を嫌っている人は気の毒です。

 それらの人たちと一緒にならないでください。ブッダの弟子になって、「涅槃は目標。命の終点は涅槃にある」と、涅槃を本当に知ってください。涅槃に到達しなければ、止まりません。陸で跳ねている魚が、水を見つけるまでエラをパクパクさせてもがくように、私たちも煩悩の熱い大地で、最後に水、つまり涅槃を見つけるまで、もがき続けます。 

 今も、ある種の涼しさが、死なないように涵養しています。死なせないで、さらにその涼しさを増やし、最高に涼しくなり、脱出できるようにしています。ブッダは『仏教のパリンヤー(学位)、あるいは博学とは、貪りが尽き、怒りが尽き、惑溺が尽きること』と言われました。人間の知識の頂点は、貪りが尽き、怒りが尽き、惑溺が尽きることなので、貪りが終り、怒りが終り、惑溺が終わることを本当の知識、あるいは博学と言います。大学で授与される学位、あるいは紙の証書をもらう必要はありません。

誰でも貪りの火が尽き、怒りの火が尽き、愚かさの火が尽きたことが明らかになるようにし、それを心で明らかに知れば、それが「パリンヤー(学位。博学)」です。パリンヤーとは博学という意味です。「パリ」は「広く」、「ニャー」は「知る」で、広く知る、最高に知るという意味で、それ以後知らなければならないことはありません。それは貪りの滅尽、怒りの滅尽、惑溺の滅尽です。

 どうぞみなさん、ブッダのパリンヤー(学位)を受け取ってください。仏教教団員なら、ブッダの学位を取るために苦労してください。つまり貪りが尽き、怒りが尽き、惑溺が尽きることです。この学位はすべての人のためにあり、前方で待っています。涅槃はすべての人のものと、もう一度主張することで、涅槃は将来到達するものであってください。つまりパリンヤーを貰います。

 どうぞみなさん、涅槃は命と呼ぶものの目標と捉えることで、この目標に到達してください。「この命はどこへ行くんだよ、おい」と質問するなら、熱さの終わる所、つまり涅槃に行くと答えなければなりません。知性と博学で正しく生きれば、目標、つまり涅槃に向かいます。なぜ生まれたのか、そして何が連れて行くのか知らないほど愚かにならないでください。

 ちょっと短いお話をします。ある男が馬に跨りましたが、御し方を知らないので、馬は駈け回って、大股で疾走します。友達が「おまえどこへ行く気だ」と訊くと、「俺は知らない。馬に訊いてくれ」と答えます。このようなら、何のために生まれて来たのか知らない人と同じで、自分がどこへ行くかを知らないで、連れて行かれるまま、つまり愚かさ次第です

 どうぞ確実に知性に導かれて、目標地点つまり煩悩の終りへ行き、ブッダの学位、つまり貪りの終り、怒りの終り、迷いの終り、涅槃への到達、輪廻の終わりを受け取ってください。

 「涅槃はすべての人のもの。一人の例外もなくすべての人のためのもの」と、明瞭に見て、全員が最高の利益を受け取る努力をしてください。

 時間になりましたので、これで終わらせていただきます。 

 


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