3.権利と義務





3.権利と義務

権利の平等

 熱狂的な女性に平等な権利を与える規則を捉えないで、何よりも個人的な見方で話したいと思います。今流行っているような平等という言葉は、二種類の意味があります。

 愚かな人の意味は、何でも同じにします。今朝もラジオで、女性の権利は平等と称して、女性は男性と同じに裁判官でも将校でも、何でもなれると発表したのを聞きました。こういうのは、非常に目を瞑って熱狂したようにしている話と感じます。

 自然の規則を認めないことが多くなります。女性は極力女性がするべき義務をし、男性は極力男性の義務をする方向で話すべきで、同じにしてはいけません。同じなら、扶養し合えない状態の愚かさです。何から何まで同じで、扶養し合えません。普通の意味で、このように話さなければなりません。だから特別な、そして自然が与えた義務がなければなりません。男性は子供を産めません。

 自然が与えた項目を思わなければなりません。しかし彼らはこの角度を見ないで、「平等でない」と、吹っ飛んだ見方をします。それは重さ、バランスが同じと見るべきで、する形状態は同じである必要はありません。

 互いに扶養し合うなら、同じでない行動があるべきで、同じ行動をするなら、どちら側も雌雄同体で、父母もなく、男性も女性もありません。どちら側もカトゥーイ(雌雄同体)か何かになり、それで誰が子を養うでしょう。この世界に母はなく、世界は狂います。子供の精神を躾ける母がいないからです。義務は、形や状態は違わなければなりません。そうすれば全部揃って応えることができます。だから自然の願望で正しいと言います。

 世界の人間は、教育があればあるほど、考えや感覚が自然を妨害する状態に突っ走ります。すればするほど自然を妨害する何の教育か知れず、それはその世界の危機となって返って来ます。見てください。このように何でも女性を男性と同じにするのは、自然の反作用が危機となって生じ、平和はありません。義務で正しい状態で扶養し合わないからです。


ブッダの時代の女性の権利

 女性はかつて財産の一種類と見なされていました。最初は、買いに来た家の男性に売るために育てる、両親の財産でした。夫である人が買ったら、財産、あるいは一種の家畜のように、権利も、どんな声もありません。女性は、男性のように完璧な物は何もないと信じられていいたので、女性に教育を与えず、女性も思いがけず衰退しました。だから、女性は男性のように持ち上げられるべきでないと捉える伝統があり、何でも男性の側だけに威力がありました。

 その主義を信じる男性も、女性から生まれなければならないのに、世界の母である性にとって闇である点が生じました。ブッダがお生まれになると、女性は男性と何の違いもなく、同じに聖向聖果に到達できると保証なさいました。そして女性がこの世界と次の世界に勝つため、女性のための実践項目がありました。つまり交際社交面で面目があり、男性と同じに善趣に行く、夫に対して実践すべき自分の義務を知らせました。夫も妻に対して実践すべき義務があり、双方とも行動して応えさせます。

 このような女性の地位の向上は、最初にブッダの家系、つまりサーカヤ族に現れました。女性は称揚すべき性と捉え、権力はあっても低い民族に与えたがりませんでした。そして女性は拒否する権利、あるいは同等の財産がない男性に与えられない権利があるべきで、短く言えば、女性の名誉は、周到に慎重に熟慮しなければならない物でした。

 これはサーカヤ族の女性を家から出て出家させ、男性側の妨害なしに比丘尼にしました。そしてブッダのダンマは、その後受持して伝承する人が増え、女性の地位を明らかに高上させ、望み通り善を行い、自分を教育する権利と機会がありました。

 もう一つ、昔のインドは、人間も動物も、血と肉を贄として供える習慣がありました。ほとんどの菩薩堂は、血と、煙を送る火によって赤くなる屠畜場でした。財産や権力のある人が自分の罪を抜くため、そして信じている主義で益々発展するために、出家者に生贄のある祭祀をさせました。

 それらの出家者たちは儀式をして、殺す動物の頭にある、生贄の施主の罪を切り落とし、埋めてしまいました。痛みと死の味を思う瞬間もなく、血を盆に入れて火で炙って、上の僧に恩返しをしました。敵は当然、血と命で返し、妬んで敵として狙うことを名誉と見なし、赦すことを好むべきと捉えませんでした。

 世尊が生まれた時、「純潔か純潔でないかはその人だけのもので、他人が汚したり、純潔にしてやったりすることはできない」と教えました。カンマは、「どのようにしても、結果はそのようになる」、そして「行為した人が結果を受け取る。権力、あるいは財産、あるいは他の物で、代わりに贖うことはできない」という断固としたものでした。恨みは恨みで静まらず、どちらか一方の恨まないことで静まり、そして赦すことは哲学者の勇敢です。ヤクザナ人たちが臆病、あるいは何と捉えようと。

 すべての種類の動物は人間と同じように、同じだけ命を愛すことを知り、そして同じように老いと病気と死に覆われ、より重い状況に陥っています。何も知らずに行動し、最高に恥である掃滅することより、生老病死の友になるべきです。その方が良いです。ブッダの宗教を信奉する人が多くなると、教えられたダンマは、かつては殺すことと、恨むことを好んだ人間の心の中で、更に威力があり、学んだダンマにふさわしく、彼らの残虐さを軽減させる援けになりました。そしてアショーカ大王の石碑にあるように、インド中、あるいは「王中の王」のチョンプー半島は、畜生のための病院を建てました。インドのどの王よりも広い領土に拡大したと、歴史に現れているように、この方は非常に広い領土がありました。ダンマの威力を、平定して領土を広げる道具にしたからです。

 庶民の心に革命が生じ、その菩薩堂の状態で覆われていた種類の動物を殺す数が減り、述べたように病気の動物のための病院ができました。これはインドの歴史に刻まれているブッダの徳の痕跡です。そしてアショーカ王のダンマが広がった領地で、今まで伝承している近隣の国は、広く他国まで広げ、動物を食べない人たちまで生まれました。ブッダの光芒に依存して、特に仏教教団員たちは、生涯、あるいは時々動物の肉を食べないと宣言しました。

 殺されない動物、あるいはこれらの人に殺される理由がない動物、あるいはその宗教の決まった日は、数えられないほどたくさんの動物がかつて流していた血、あるいは溢れていた血を止めたのと同じ、あるいは減らしたのに等しいです。当然簡単には熟慮して見えない歴史の幕を変えました。この革命が社会に、あるいは人間のほとんどの協会にあったのが原因です。

 もう一度振り返って見ると、ブッダダンマを堅持する社会は、身分制度を踏むことがなく、あるのは平等な振る舞いをし、揃って団結して国の責務をするだけと分かります。女性の地位を上げること、そして慈悲で赦しを与えることは、当然その協会では簡単にあります。だからほとんどの人類は歴史面で、ブッダの教えがまったくない自然の展開と違う形があります。


リッチャヴィー士族の女性尊重

 ブッダの時代のインドの一部の士族、リッチャヴィーは、小さな国でしたが非常に勇敢で、マガタ地方、コーサラ地方など、大国と戦うほどでした。リッチャヴィー士族の家系は丸太を枕にし、朝四時くらいの、まだ暗いうちに起き、暗いうちは学問や武器の練習をし、女性を玩具ではないと尊重しました。女性を尊重するという言葉は、女性の身分を、男性の楽しい玩具であるより上にしました。

 現代世界は反対に、女性を男性の玩具にし、騙してスカートの丈を短くします。こういうのは、どんどん男性の玩具になります。こういうのを、女性を踏みにじると言います。リッチャヴィーの士族は女性の立場を玩具より上にしたので、小さな国でもマガタと戦えるほど勇敢でした。その後丸太の枕を止め、マットレスの上に寝て赤い脇息を使い、太陽が西に傾くまで寝て、正午近くなっても起きず、女性を蹂躙して玩具にしたので、間もなくリッチャヴィーは独立国の立場を失いました。

 だから比丘に丸太の枕を使い、朝暗いうちに起き、武器の練習、つまり四念処で煩悩と闘い、何も玩具と見ず、欲情面の崇拝すべき物と見ないようお願いなさいました。つまり本当の比丘、本当のアナーガリカであり、そして悪魔から脱します。だから「カリンガルーパダーノー ビッカヴェー ヴィハラタ等々、=比丘のみなさん。丸太を枕にする人でいなさい。そのようにしていれば、悪魔にチャンスはありません」と言われました。

 丸太を枕にしていれば、悪魔はチャンスがありません。大学でそのように暮らして見てください。大学の寮の中で丸太を枕にし、朝暗いうちに起き、武器の練習、つまり義務であることの練習し、そして異性を玩具、餌と見ないでください。それを私は「本当の大学になり、本当に理想の教育になる」と言います。

 考えて見てください。あるのは得るだけで、誰も死にません。どこの寮でも、四時に起きて武器の練習をし、丸太を枕にすれば、誰も死なず、誰も何も失いません。あるのは善を得、美を得、元より純潔清浄になります。今は朝遅く起き、ベッドに寝て遅く起き、寝れば起きたがらず、肉体面で煩悩の言いなりの人ばかりです。


パチャーバディー王女

 次に、ブッダの養母である人、つまり王子が成長して出家するまで養育をうけた、叔母であるマハーパチャーバディーについての重要な話があります。これには熟慮して見なければならないブッダの徳があります。ブッダが大悟した時、サンガが創設され、叔母パチャボディーが、出家して仏教の出家になりたいと言う話がありました。

 ブッダがカビラバスツの家を訪れたある時、都に近い寺に滞在していると、パチャバディー・ゴータマミーが拝謁に行き、「サードゥ パンテー ラペッヤ マ0トゥガーモー タターガタッパヴェーティテー ダンマヴィナイェー アーガーラマー アナガーリヤ パッバチャンティ」と奏上しました。発展なさった方、女性が家を出て出家し、如行が良く公開されたダンマヴィナヤの出家者にさせてくださるようお願いします、つまり女性が出家することをお許しくださいという要旨です。

 ブッダは、アランゴータミ=止めてくださいゴータミー。マー テー ルッチ マートゥガーマッサ タターガタッパヴェーティテー ダンマヴィナヤ アーガーラスマー アナーガリヤ パッバチャーティ=喜ばないでください。熱心に望まないでください。パチャーバディー王女が二度目に懇願すると、二度拒否なさり、三度目に懇願すると、三度目も拒否成なさいました。これはブッダの道徳はどのようか、見てください。パチャーバティ王女は泣いて戻りました。

 その後、ブッダがカビラバスツから遠くないヴェーサリーの町に滞在なさっている時、パチャーバディー王女が再び訪れました。手っ取り早く話すために、下品な言葉で話すことをお許しください。次に王女は剃髪し、同じく剃髪した侍女たちを連れて遠距離の旅をしました。脚は腫れあがり、体中が埃と汗に塗れるほど歩いて、ブッダが滞在しているマハーヴァンの森の先端にある門前に立ちました。プラアーナンダが姿を見つけて、どうしたのかと尋ねると、いずれにしても出家しなければならない決意を知りました。プラアーナンダはブッダに取り次ぐことを引き受けました。

 プラアーナンダは、パチャーバディー王女がどのようにしたか、どのような状態で来たかを話して、出家を許すようお願いしました。ブッダは再び拒否なさいました。プラアーナンダは再び懇願し、ブッダは再び拒否し、三度目も拒否しました。次にプラアーナンダは別の方法を使い、つまり別の質問をしました。「女性が出家したら、聖向聖果に到達できますか」と問うと、ブッダは「できる」と率直に答えなければなりませんでした。

 プラアーナンダは機に乗じて「できるなら、パチャバディーゴータミーが出家することを許すべきです。バフウパカーラー=非常にあなたを支援し、ポーシカー=お世話をし、キーラッサ ダージカー=授乳した人です」と、パチャーバディー王女の恩を引き合いにしました。プラアーナンダがこのように奏上したのは、ブッダの母が亡くなった後、パチャーバディー王女が乳を与え、女性が出家すれば、聖向聖果に到達するなら、出家させるべきだからです。

 ブッダはどのような態度をなさったか、考えて見てください。プラアーナンダは賢く、ブッダはブッダでおられました。結局ブッダは、八項目のガルダンマを受け入れるなら出家しても良いと言われました。ブッダが言われたのを、私たちのように言えば、絶妙な策略を使いました。

 つまり八項目のガ?ダンマは重い項目ばかりで、女性は我慢できずに、比丘尼は消滅します。出家させなければならなかったのはこのような理由ですが、宗教にとっては、ずっと前から防止し、遵守できる人は幾らもなく、自然に消滅する重いグルダンマを規定しました。これはブッダの道徳かどうか、考えて見てください。

 プラアーナンダが戻ってパチャーバディー王女に告げると、王女は喜んで受け入れました。「私は、若い男女が美しく気に入った花を手に入れた時のように、最高の喜びで八項の苦のグルダンマを受け入れ、頭上に置きます」と言いました。つまり八項目を受け入れるから出家して比丘尼になれると言うことです。

 次にプラアーナンダはブッダに拝謁して、「今パチャーバディー王女様がグルダンマを受け入れ、出家したと言うことです」と奏上しました。ブッダはそれについて、女性がこのダンマヴィナヤに入れば、ダンマヴィナヤは五百年しかなく、千年にはならないと話されました。これは三蔵の中にある文字の通りに述べています。

 パーリには、もし女性がこのダンマヴィナヤで出家すれば、ダンマヴィナヤは五百年だけで、千年までないのは、女性しかいない家と、男性が少ない家は、強盗が簡単に入れることに例え、あるいは田んぼに虫が付けば稲が早く被害に遭うように、あるいはサトウキビ畑に虫が入れば、被害が早いと例えました。

 これは、女性がこのダンマヴィナヤで出家すれば、ダンマヴィナヤの寿命を縮めると見なします。そして「彼らは水を防ぐために堰を造る。私も比丘尼がいることを防ぐために堰を造る」と、率直に言われました。つまりグルダンマを規定するのは、比丘尼がこのダンマヴィナヤに永くいるのを防止し、早く終わらせるのと同じです。

 これを、すべて母のようだったパチャーバディー王女に関わるブッダの道徳と言います。ブッダはどのような御心があったか、どんなに強かったか、どのようにダンマの事を考えていたか、そして同時に孝行、恩返しを考えたか、話の要旨を見ることができます。

 要するに何も失う物がなく、何でも得ますが、全体にとって良い結果である状態にならなければなりません。プラアーナンダがーパチャーバディーゴータミーが乳を与えたと言い、そして女性が出家すれば聖向聖果に到達するので、ブッダは認めました。恩返しのためです。しかし仏教にとって危険にならない計画があるので、八項目のグルダンマの堰を造って置きました。

 これがブッダの道徳です。仏教を害す結果になるまで親戚であることだけを考えない強さです。ブッダが降参しなければならない時、プラアーナンダの言葉に負けた時、他に逃げ道を探され、それも同じ結果がありました。損害である部分は何処にも見えません。つまり親戚に同情しない訳でなく、ほとんど仏教の事を考えないのでもありません。どちらも利益があったと言うことです。これが、誰もが思わなければならない、そして手本にしなければならないブッダの道徳です。

 次に、ピンパー妃、ラフラ、これらの人たちに対してブッダはどのような振る舞いをなさったかを思って見ます。詳細なブッダの伝記で、ラフラが生まれたばかりの日に、城を出てしまったと知っています。そのようなのは、当然ピンパー妃の望みではありません。しかしそれでも出て行きました。これを「どんなにか利益のある振舞い」と言います。この部分は非常に美しい文芸の形で書かれていて、パーリにはありません。

 しかし「あなた方を助ける方法を探すために出て行く。私がまだ水に沈んでいれば、水に沈んだ人を助けることはできない。私が先に水に沈まなくならなければならない。そうすれば水に沈んだ人を助けることができる」と要約できる理由を話されました。それから水に沈まない方法を探すため、まだ水に沈んでいる人を助けるために出て行きました。長くて詳細な話があります。

 要するにその家を出ることは、現代人が考えるように薄情で利己的な話ではありません。今の人は「シッダッタ王子は利己的、あるいは冷酷、あるいはヴェッサンダラ王子は残酷」と非難します。それは別の角度です。つまりブッダの道徳は偉大な利益に注目し、個人的な話は小さな話、人を助ける話が重要で、愛する人も嫌いな人も助けなければなりません。近い親戚に関わる話は、このようです。

 異母弟のナンダは、最後には出家できました。プラナンダの話は、誰でも結婚式の最中ですが、ブッダは連れて行くことができ、結婚式の日に比丘になったと知っています。現代の庶民は、当然花嫁にとって惨い仕打ちで、花婿にとってもかなり惨いと非難します。ブッダの道徳はそのようでなく、そのような話を惨いと見なしません。そうすべきとご覧になったので行動しました。

 酷いことをされたと言う人は、それ以上のどんな利益も得られません。これがブッダの道徳です。次々に思いのままにするのでなく、いつでも最高の利益を基礎にしなければなりません。すべての親戚が、ブッダから酷い仕打ちをされると言う状態の、今受け取っているより善い利益を受け取ります。


家長

 家長にダンマがあれば、家にダンマがあるように管理でき、そこまでできなくても、穏やかな幸福や平和を夢見れば、ダンマのある家族になります。

 今、きっと、「今は女性と男性、家長と主婦は同じ権利があるので、家長もできない。主婦が受け入れなければ止めてしまうから」と言い訳します。このように言えば、むしろ言い訳です。あるいは本当にそのように好んで信じているなら、それは不運と、人間の不運と見なさなければなりません。しかしそこまでではありません。良く見てください。いつでもリーダーである男性が、必ずいます。

 みなさん、この寺にいるすべての犬の群れを見てください。小さな群れに分かれていて、それにはオスのリーダーがいます。闖入者である犬が来ると、リーダーであるオス犬が迎え、あるいは追い払います。なぜメスはできないのでしょうか。野原、田んぼ、山の牛や水牛、何でも丈夫なオスが群れのリーダーとしているから、管理できます。

 何でも同じに、同じだけし、たくさんできる側の権利を殺いでしまえば、それは人間の愚かさです。頑固にこの原則を守れば、あるのは衰退する話ばかりです。男女同権の話も、今夫側は夜女遊びに行く権利があり、今後は妻側も夜男と遊びに行く権利があるようになります。そして何が生じるでしょう。みなさん考えてください。それには、変えることができない自然の、一つのそれの真実がなければなりません。

 だから、男性は何時でも家族のリーダーでなければならないと思う、あるいは信じていただく方が良いです。言い訳をしないで、あるいは責任を回避しないで、善い家長になる準備をする努力をしてください。つまり家族にダンマがあるよう教育の準備をし、実践しておき、何でも探求して試験すれば、ダンマがある家族になります。


家族に対する義務

 家族とは何かと問えば、家族を持ったことがない人は、きっと勝手に考え、あれこれ楽しいことを思い、それを人生の重さである状態で見ません。つまり在家の草庵の中にいる人物は、闘いに中に、忍耐の中に、いろんなことに重苦しさがいっぱいで、それはどのように重い状況かと言います。これが一般的な原則です。まだ愚かな若い男女は、家族と呼ぶ物は楽しい物の一種と理解し、家長や主婦を経験した人は、苦の一種と見ます。

 しかしソクラテスが言えば、あるいは説明すれば、「神様に向かって行くこと」という形になります。家族を持ち、子や孫を持つことはどんどん神様に近づくことで、自分が先に死ねば、子がその先を、人間の名で何としても神様に到達するまで歩き、何としても人間を神様に到達させます。だから家族は、何としても人間を神様に到達させるために良く維持する相続人です。

 彼は子や孫やひ孫を、神様に到達しなければならない状態で訓練します。子や孫やひ孫を、身勝手になり、自分の一族の事しか考えず、何でも自分の物と見るよう訓練しません。現代の人は神様を訪ねることを知らず、それでどの智慧で子孫に神様を訪ねるよう訓練できるでしょう。だから自分の子孫を自分よりもっと狂わせ、そして何もありません。

 みなさん、目を瞑って考えて見てください。両親は子をどのようにしたいと期待しているでしょうか。出世させ、美しくし、高く売りたがります。私の言葉では、息子は出世させ、娘は美しくし、そして高く売り、子孫を持つことで人間を神様に到達させるためという、神様についての言及はありません。これです。「家族とは何か」でも、このように大きな違いのある答えがあります。


自分自身に対する義務

 昔の人は、人が生まれてから死ぬまでを、四つの部分に分けています。

 生まれてから若者までを、彼らはブラフマチャリー(純潔)と呼びます。ブラフマチャーリーとは何か、勝手に考えて誤解しないでください。これから話します。生まれてから結婚前までの若者を、彼らはブラフマチャーリーと呼びます。結婚するとガルハッタ(在家)と呼び、最高に満足するまで在家です。

 彼らが定年と呼ぶのは六十歳で、彼らは静かさを求める人になり、ワンパラッサ(隠居)と言い、いろんな話に関わらず、個人的な静かさを探求します。八十、九十、百歳まで、まだその後も生きていれば、彼らはサンヤーシーと呼び、光を他人に与える人、子供にとって利益になる話をする人です。

 述べたようにできれば、完璧で正しいと言い、このようにできなければ、生まれて揃わず、満たず、人として満杯で無いと言います。彼らは十分な人でない、生まれて来て人間として十分でないと言います。十分ならブラフマチャーリーでなければなりません。つまり生まれてから善い若者で、最高の家長、主婦になり、それも善ければ、棺に入るまで迷わないと見なします。ふさわしい年齢になったら、静かさを探すことを知り、個人的な静かさを得たら、話すことで他人に光を与えることを知ります。

 生まれて若者になり、二十歳になったと仮定して、二十歳はブラフマチャーリーであるべきで、二十歳から六十歳までは在家、家を監督する人で、残りは静かな人、ワンパラサで、サンヤーシーになって、話や善い手本となる行動で他人をしつけて教えます。一歳から二十歳まで、これが初めで、初めが善ければ善く、初めが善くなければ善くありません。

 だからここにいるみなさん全員に、今は初めの区間にいて、善くない始まりなら善くなく、危険な区間にいると言わせていただきます。他の事ばかり考えないで、善い初めの話だけを考え、善く始めれば善いブラフマチャーリーです。ここでのブラフマチャーリーを、彼らは良い振舞い、素晴らしい振舞いと言います。ブラフマとは素晴らしいという意味で、チャーリーは振舞いという意味で、ブラフマチャーリーは素晴らしい振舞いをする人という意味です。

 ここは非常に重要です。だから伝統習慣に関して、若い人のためにある規律に関して、最高に素晴らしい振舞いにしなければなりません。だからそれらの伝統習慣、規律を、決して踏みつけないでください。みなさんが踏みつければ、みなさんは霊に憑かれたヤクザになります。誰も話に来る必要はなく、した途端にそうなるだけです。学生のいろんな規則、伝統、規律を踏みつければ、これは霊に憑かれたヤクザです。つまり頑固に闘い、規律に従った振舞いをしようとせず、その頑固さ、あるいは規則に逆らうことを良いと、格好良いと見なします。

 それは霊に憑かれたヤクザです。そして次の話はどのようか、見ることにしましょう。この子はこのようで、もう一人の子は正反対。こういうのは同じにはできません。大きな違いがなければなりません。だからみなさんに、集中して何人かの子をたくさん観察していただくようお願いします。

 彼らをからかわないで、嘲笑しないで、彼らに逆らわないでください。彼らの方が自分より良いのを恐れて、相手を衰退させる方法を探さないでください。それは正しくありません。

 観察して見れば、危機を脱せる人が良く学び早く発展するのは、その人が善人だからです。ここでの善人とは正しいブラフマチャーリーで、領域外の行動はせず、直接義務であることだけをします。最初の段階は最高に良く学び、時間を無駄にしてあれこれする必要はなく、ラジオを聴きながら宿題をする必要もありません。今はたくさんいます。練習問題や宿題を、ラジオを聴きながらして、手は書いています。こういうのは心が浮ついている人です。ラジオを聴きながら仕事はできますが、良くありません。これを「煩悩の言い成りになりすぎる。規則を尊重しない」と言います。  次に煩悩の言いなりになると、間もなく習性になり、あれが好き、これが好き、音楽が好き、歌が好き、何でも非常に好きな人になり、そして限界以上に好きになり、相応しくない物になります。一人の女性が、膝が出るスカートを初めて穿く時ははにかみ、そして無理して穿き、次にはたくし上げます。初めは気恥ずかしく感じ、後では恥ずかしくありません。

 そしてビキニの水着でも何でも着られ、恥じらいもなく、最後には裸にもなれ、恥もありません。つまり少しずつ移動します。彼らも私たちと同じ人で、私たちより悪人でも、素晴らしくもありません。彼らはこのような両親から生まれ、最後には恥がなくなります。  この話の秘密は、少しずつし、少しずつ悪くなり、感じません。何でも少しずつするものは感じません。善い方なら善くなり、悪い方なら悪くなり、気づきません。最初は裸足で歩けず、足が痛みますが、ひたすら歩いていると、後で歩けるようになるのと同じです。ごつごつした石がでも痛くなく、良い経過になり、自然に抵抗できます。だから善があるよう、善い方へ忍耐してください。

 つまり忍耐して善くし、善い方へ行ってください。少しずつ厚顔で恥じを知らず、慚愧がなく、女性でも恥じずにそのようにできる方へずれて行かないでください。男性たちも頭を下げてミニスカートを穿く人を崇拝します。若い男性は注意してください。この種の物を崇拝しないでください。勉強の意味が分からなくなり、悪い学業があります。

 若い女性も同じです。注意しなければなりません。つまり規律や原則である規則、そして最高に善い振舞いがなければなりません。すぐに規律や伝統からはみ出さないでください。何か規律に反したら恥じ、大いに恥を知らなければなりません。これを、心はまだ善の中にいる、善の範囲にいると言います。過ちを恥じなくなったら悪になった、悪人になったと見なします。


肉を知る

 肉の奴隷に落ちないことを真実で言えば、当然子供から大人、年寄りまで、人生を四つの区間に分けたように、発達のどの段階でも、人にとって非常に必要です。善い子供になり、善い家長、主婦になり、肉体面の幸福より心の面の静かさを最高の幸福と見る人になり、そして自分を、他人を照らす人にします。この四つは、肉の奴隷に落ちれば、当然何もかも無くします。

 子供たち、あるいは若者の教育の失敗を熟慮して見ると、気づいていても気づかなくても、肉体面の奴隷になっていると見えるように、家長、主婦が財産の話、名誉の話、あるいは良い社会がある話などで成功しないのは、同じ理由です。つまり肉の奴隷であることが多すぎます。最後には世界のいろんな危機が生じて、いつ果てるともない戦争になります。

 良く熟慮すれば、肉体を崇拝しすぎることに原因があると見えます。それは土地の話の口論、あるいは心の中に埋もれている肉体崇拝主義以外の話ではありません。消滅しなければならない恐れがあるので、際限なく拡大し、探求し、防止しなければなりません。だからキリもなく影響があり、人物の部分も、集団の部分も国の部分も、日夜は衝突で過ぎて行きます。これが影響です。ダンマの言葉で言えば、肉片を銜えた一匹の犬が、他の犬に取り囲まれるように欲情を奪うと言います。

 心の面、精神面の静かさを探求すべき年齢になった時、夢中になって肉体面の幸福を味わい、そして腐って棺に入るまで奪い合い、私が話したことがあるような心の面、精神面の休息の話に関心がありません。これは灯火か何か、そのような物を配って歩く段階について話す必要はありません。命の進化は完璧にならず、人間であることも満たしません。前に話したことが四種類のボロマタム、あるいは仏教の涅槃であるボロマタムと正反対である肉の奴隷だからです。

 短くまとめると、人間は、自分が一種類目の、つまり欲情の物、あるいは肉という一語に集約できる物の奴隷で種あることを思いません。欲情まで至らない触食の話の奴隷から、自然に雇われた生殖の奴隷であることも考えません。人間は生殖に雇われた人です。これは何とか理解できます。人間はこのように何種類もの肉の奴隷に落ちていると思いません。そして反対に奴隷でいること、あるいはそのような奴隷になることに満足しています。つまり陶酔する肉体面の美味しさがあるので、気づいても気づかなくても、奴隷でいることに満足します。

 感じていなければ、凄く自然に簡単に、このように気づかないで最高に奴隷になります。気づけば奴隷と見なしません。ある人たちは道徳的に正しいと規定し、最高に高い、タンタリカのように最高に素晴らしいと崇拝します。あるいはその前に、欲情を涅槃と崇拝し、つい最近、現代も、一般の何よりも最高で素晴らしい物と崇拝します。これを「気づかない人もそのようになり、気づいた人もそのように志願する」と言います。そしてそういうのを正しいと、あるいは科学の言葉で当たり前の物に改革します。

 現代になると理解が難しく、つまり正しいと理解してしまします。これは生まれた時から、肉の面で自分の思いのままにすることは最高に素晴らしいことと、子供たちに誤解させるのに等しいです。そして肉の奴隷にさせたがらない昔の文化は、少しずつ消滅します。

 仏教に根源があるタイの文化は、肉の奴隷であることを非難します。そして大昔の石器時代から、原始人はタブーを教えとして守り、over sexは最高に罪と見なします。現代人はそのように感じません。だから人間の群れに、例えば道徳の衰退、あるいは恒久的な紛争、あるいはそれらに関わるその他の望ましくない結果が生じます。だから私たちは罪である物、あるいは悪魔、本当の閻魔に関心を持ってしまうべきです。

 「肉」という言葉は、短い言葉一語でも、世界を覆う意味があります。つまり世界中を覆い、世界の範囲のいろんな問題すべてが、これから生じます。人間のすべての問題、あるいは人間のいろんな動機は欲情と呼ぶ物にあると言う、ジークモンド フロイトの考えは、正しい話です。宗教の実践も欲情の結果のため、神様と一緒に住むのも欲情の結果のためで、現代人の考えはこのように遠いです。善を成すのは欲情のため、善を成すのも欲情のため、子供の教育も欲情のため、人間の幸福も欲情にあり、何もかも全部このようで、世界を覆う威力があると言います。

 しかし少し例外を言わせていただくと、特に仏教、あるいは聖人の世界では、ジークモンド フロイトが言ったように、何でも欲情のためでなく、欲情ででもなく、欲情ゆえではありません。別の理想があり、特別なボロマタムがあり、動機、目的、あるいは人間が行動する何かがあります。しかし世界の面、世俗的に世俗の人のように世界の範囲で言えば、百パーセント、ジークモンド フロイトが言っているようです。この場合の肉と言う一語で完成しています。

 次に、昨日話した三つに分けたことを思い出してください。愛欲の物を三つの側、あるいは三種類、欲情、触食、そして生殖の基盤にします。

 最初に、欲情の物質が欲情のために欲情の方面に使われる時、私たちにある最初の方法は知るだけです。欲情の物質が欲情のために使われたら、何に関心を持たなければならないか、すかさず知らなければなりません。欲情の奴隷に落ちたくなければ、どのようにしなければならないでしょうか。少なくとも欲情と呼ぶ物の自然、あるいは事実、あるいは秘密を知らなければなりません。欲情の美味しさは、自然の法則に従ったメンタリティのメカニズムに過ぎないと話して聞かせました。

 外部の感情、つまり形・音・臭・味・接触が内部の六処、つまり目・耳・鼻・舌・体・心に触れた時、すべてはメカニズムで変化します。つまり心の面の神経系統で、外部の、物理的な普通の物質側ではありません。しかしそれは最高に同じです。物理の話と最高に同じ法則があり、このような行動があれば、あるいはこのような衝撃があれば、反応は当然このように生じ、それが次の原因になります。

 そしてこのように反作用が生じ、神経系統、あるいはいろんな腺のいろんな感覚が、刺激、維持奉仕、あるいはその神経系統にとってエンターテイメントである感覚があるようにします。簡単に言えば、自然の法則のメカニズムにすぎませんが、人間は素晴らしいと迷います。私が書いた詩があります。

 欲情の触は身体の機械
 感情が六処に触れると
 自然の規則で正確に働くだけ
 しかし世界は宝玉と、熟した愛欲と迷う

 肉の面の美味しさは、本当は機械、あるいは体の中の機械の一種の結果で、感情と処入が出遭えば、自然の法則に従って正確に機械のように働く。あるのはそれだけです。しかし人間は愛欲が熟した宝石と迷い、つまり最高に素晴らしい物と愛欲に迷います。

 これは知らなければならない、あるいは気づかなければならない項目です。そして欲情と呼ぶ物は、むしろ自然が規定したより多いイマジネーションの話です。そして多くは、このような状態に教育訓練し、夢を持たせた人間の教育のせいで、白昼夢と呼ぶものが人間集団で好まれています。教育やしつけは空想が得意な人にするため、心の面も美しく磨き上げるのが上手になるからです。イメージを作り上げる、あるいはうっとりするのが非常に強烈になります。

 現代人は、昔の人より最高に上手です。だから畜生と道を別ち、欲情の状態の欲情の物質の味を味わうことができる人になりました。動物はできません。あるのは触食、あるいは自然の、範囲を限定された生殖だけです。

 人間は際限なく範囲を広げるので欲情の話になり、そして異性の話だけになります。女性にとっては男性に関わる話でなければならず、男性にとっては女性に関わる話でなければなりません。だから形・音・臭・味・接触・考えは、異性の話でなければなりません。

 増支部のブッダバーシタで、この話についてハッキリ述べてあります。例えば、「比丘のみなさん。私は、女性の形のように男性の心を覆い、しっかり埋め込まれる物は何も見えません」。そして声も同じ、臭いも同じ、味等々も同じとあります。女性の側は、「男性の形ほど女性の心を覆い、しっかり埋め込まれる物は何も見えません」等々、六処全部同じです。女性も男性もという意味です。

 例えば男性側は、みなさん男性で、出家した比丘であっても、ブッダが「女性の形ほど男性の心を覆い、維持している物は何も見えません。女性の声ほど男性の心を覆い、維持している物は何も見えません。女性の匂いほど男性の心を覆い、維持している物は何も見えません。女性の味ほど男性の心を覆い、維持している物は何も見えません。

 女性の接触、女性のイメージほど男性の心を覆い、維持している物は何も見えません」と言われた項目を思わなければなりません。イマジネーションはその時すかさず、ぴったり適合するからです。特に彼らがアビダンマ、あるいは何とでも呼ぶ心理学の言葉の分類を知らなければなりません。つまり、

 形は光に依存するもので、反射して光波になり、これは触れて来た光の威力で目に触れた像にすぎず、すべては自然です。女性の姿も物理的な法則の像にすぎず、女性の像というイマジネーションがなければ、何の意味もありません。

 次にいろんな物のサンニャー(識)も、男女に関わる話の知識を持たせる過去の識もたくさんあるので、女性の意味を作ることができます。パーリ語で「意味」をサンニャーと言います。パーリ語のサンニャーという言葉は、このような意味で使います。例えばイッティーサンニャー、女性という理解、女性といういろんな感覚、理解が、もう一度生じなければなりません。

 ただ触れる像だけではありません。これを「この部分のイマジネーションは本当のイマジネーションの形の思い込みで、すかさずそれが生じて焼き付けられると言います。そして、それは「普通の法則の自然にすぎない、触れる光波にすぎない」と感じるのを妨害します。私たちは知ることができず、知ることができるのは、途端に「女性」と加工するサンニャーの部分だけです。女性の形は女性という意味だけがあり、ほとんどは異性という意味だけです。

 声も同じで、振動の比率に応じて触れる声の波動にすぎません。女性の声は、男性の声より高いバイブレーションがあります。しかし私たちはバイブレーション、あるいはバイブレーションの結果だけ、つまり声だけとしか感じません。女性の声という識である思い込みがあるのは、女性の声と記憶しているからです。

 偽の声でも、たとえば録音した声、あるいは正常でない男性の他の声でも、私たちは女性の声と理解します。レコードから流れる声でも何でも、その声に対して女性の声というイマジネーションがなければなりません。あるいは形について言えば、女性の写真など、その写真は女性、女性の写真というイマジネーションを創る以外に何もできません。

 次に臭いも同じで、女性、あるいは異性という意味がなければなりません。味について言えば、女性の腕前である味を意味し、人の肉を食べる訳ではありません。しかし食べるために加工された物は女性に関わり、女性の、あるいは特に望みである人の腕前の話です。皮膚面の接触も、女性の、女性の皮膚の接触という識がなければなりません。

 本物でも偽物でも、女性の接触というイマジネーションを生じさせれば同じになります。心だけの考え、ダンマーラマナは、過去の識を思い出し、女性の意味、あるいは女性の味でも何でも、過去の識を思えば、簡単に早く気づかずに、夢見ることができます。

 要するに、目・耳・鼻・舌・体・心の話は、常に異性に関わる話でなければならず、触れて来る自然の法則で経過します。しかし自然である角度を見ないで、自然ではない意味がある物の二段階目、三段階目、四段階目の角度を見ます。だから私たちはダンマの言葉を聞いても、あまり意味が分かりません。

 例えば形は形にすぎず、動物、人物、自分、私、彼ではなく、声は声にすぎず、動物・人物・自分・他人ではなく、臭いも臭いにすぎず、動物・人物・自分・他人ではない。味も味に過ぎず、動物・人物・自分・他人ではなく、皮膚の接触も皮膚の接触だけで、動物・人物・自分・他人ではない。こういうのを聞いて、意味が分かりません。

 これは「自然」と見させるという意味ですが、私たちは動物・人物・自分・他人、女性、あるいは男性、望みや目的に合う、その名前、この名前という意味があります。これは欲情と呼ぶ物に関する肉の面の欺瞞で、すかさず気づかなければなりません。現代式に下品に言えば、それを頭上の主人にしないでください、それは喉を押して何処へ行かせることもできます。すかさず気づくとはこのような意味で、強制してどのようにさせることもできます。

 触食である物については、mentalityの感覚の、いろんな渇きを生じさせる腺の強制は、物理的な法則で腺が熟しただけと、すかさず知らなければなりません。肉体は物理であり、心や精神の話ではないからです。

 ここで、心は二種類あると知らなければなりません。身体の威力下にある種類の心、例えば熟して渇いた腺から生じた感覚などは本当の心でなく、それらの腺の反作用である心にすぎません。コミュニストたちはこの種の心を本当の心と見なし、身体が善ければ心も善いと信じます。こういうのは正しくありません。それは心でなく、いろんな腺の反作用だけだからです。

 本当の心は、腺より上の威力があるもので、腺を支配できなければなりません。そうすれば心と呼びます。これは、「それはそれだけ。私は支配できるべき」と知らせます。道徳面の衰退、あるいは苦が生じないようにする方向で、解決軽減できるべきです。他の方法がない時は、この種の食べ物を食べるには、これらの腺の焦燥を軽減する状態で正しくしなければなりません。欲情にしないでください。

 二番目に、みなさん道徳の側、宗教の側まで軽減する方法、あるいは管理、あるいはそれらの根を抜いてしまう方法があると知るべきです。腺の抑圧は、対処する、あるいは身体に何らかの行動をすることで軽減できます。ヨギーの人たちなどは、体力がなくなるまで苦行をし、あるいはこの感覚が生じる相応しさを無くすこともあります。それもその抑圧を軽減します。あるいは体に痛みを生じさせるだけで、その感覚を軽減できます。

 昔の人は非常に関心があり、道徳体系ができたのもこの話のためと見えます。昔の中国では腺だけを切除することがあり、それらの腺に関わる肉を切除しました。子供の時から、女も男も赤子の時からと言うこともあります。昔式のこれらの話に精通した人がいて、村で生まれたばかりの赤子にこの手術をするために、村の中を歩き回りました。この女は、これらの処置をする以外に何も知識がありません。これは、子供が成長して簡単にこの話で心を管理できる子になり、簡単に道徳が衰退しないため、この腺の感覚を支配するのが目的です。

 このようにするのは、物理的な体に対する、肉の面の処置で、ヨギーやムニーの目的で苦行をして体を衰弱させ、枯れさせるのは、身体にある心の面に関して高くなったと見なします。だから身体面を抑圧する時、これらの腺を抑圧した時に軽減できると言うことができます。これは最初の段階です。

 この項目は、それは心を強制した時軽減できると見ることができます。つまり第二段階で心を支配できた時、これらの物を強制できます。だから不浄想の話を教えるサマーディの系統があります。出家した最初の日に不浄想を、このような低い側の感覚と闘う道具に使う話の教えを受けます。不浄であると熟慮し、あるいはそれ以上のこともあります。

 この種の心は本当の心ではなく、心に関わっていると述べたように、因と縁で経過する自然のダートゥとまで熟慮します。例えば腺が粘液でいっぱいの時に欲情し、粘液で満ちたそれらの腺の反応である欲情面の感覚が生ます。次に欲情する度に粘液が生じ、性的な感覚が生じ、粘液は腺の中で増えます。それが増えて満杯になると妨害します。

 つまり欲情の妨害が生じます。それがなければ妨害しません。防ぐにはそれを無くし、目が形を見た時、耳が声を聞いた時等々、あるいは体が接触した時、あるいは夢見るだけでも、心を欲情させません。離れていても、見ること、声を聞くこと、臭いを嗅ぐこと等々、あるいは心で考えるだけでも欲情はあり得ます。

 昔の言葉で言えば、仙人、ヨギー、ムニーたちの昔の教えは、この粘液が骨髄から分泌され、随洞に溜まると言います。像を見る度に欲情し、あるいは声を聞く度に欲情し、骨髄が液体になって流れ出て全身に沁み出し、それから腺に集まり、欲情である結果があります。彼らはこれをヴィリヤと呼びます。ヴィリヤは努力という意味で、欲情面に使われる粘液の名前です。

 欲情がなければ、これをヴィリヤと呼びません。つまりもう一つの義務になり、オーチャ(美味)と呼び、心を成育させ、脳を成育させ、身体の清涼さ、心の明るさがあるようにします。ヨギーの人たちはヴィリヤと呼ぶ物が体内に生じないよう注意し、それをオーチャに変え、常に体の爽やかさ、明るさにします。彼らは異常な話と見なしません。

 命の種である分泌される精子は、その線の粘液と混ざる機会はなく、他から排出されるので、異常な人にする話、問題はありません。最高に正常な人になり、最高の爽やかさがあります。精子からの命の種に腺の粘液と出会う機会がなくても、異常な話、あるいは突飛な話と見なしません。

 だから心を支配できることは、すべての腺の抑圧の問題を解決できます。しかしそれは特別なテクニックがあり、特にそれだけを学習しなければなりません。あるいはそれはそれなりに深遠で複雑になります。だから私たちは十分なテクニック、あるいは理由のため、学習のため、実践のために自分を捧げなければなりません。そうすれば結果があります。だから、心を支配できればそれの抑圧を支配できる規則により、普通より高い話と見なします。

 三段階目は智慧を使い、心の面の熟慮を使う話で、サマナダンマに励むこと、あるいは不浄を見て聖向聖果に到達するに十分な智見が生じ、そして聖向聖果に到達するまで休まず不浄想があり、無常・苦・無我まで見る、特に仏教の実践をすることです。これは本当の心の話です。

 成功すれば体・物質の話、阿羅漢になるまでそれらの腺の話を支配できる種類の心があります。それらの腺から生じるいろんな反応を抑制する特別な心があるので、この種の煩悩、怒り、愚かさ、迷いや何かを生じさせるこの種の煩悩はありません。

 それの根源を断てば、すべての煩悩が静まることを意味でします。つまり何も動物・人物・自分・他人とせず、どんな形・音・臭・味・接触も、あるいはそれらから生じる受の、どの部分も、動物・人物・自分・他人になりません。だから貪り、怒り、迷いは生じません。これは最高にその場に間に合う知識で、すべてを消滅させられます。庶民にとっては善すぎますが、出家にとっては直接義務です。

 述べてきたことを「肉体を知る三段階」と言い、身体の面の抑圧、そして私たちが心と呼びがちな身体面の部分の反応を管理し、それから本当の心を本当に変えてしまう高いレベルの知性があります。間に合う知識があり、そして軽減し、管理し、根を断ちます。みなさんが続いて学習するための大要はこのようにあります。

次は生殖の基盤である愛欲の物質についてで、知るのが間に合わなければ、生殖の奴隷になります。これは欲情より、あるいは腺の抑圧より見事、あるいは純潔という意味で、肉体面の焦燥を生じさせます。生殖は純粋な目的がありますが、人間は誤解し、本当の目的を知らないので、自然が雇った欲情の奴隷に落ちます。人間は雇われ人で、自然は雇い主です。

 雇って、不潔で厄介で何種類もの困難があり、誰もしたがらないことをさせ、人間は我慢してし、喜んで生殖を引き受けます。そして狭い限定された範囲で最高に良いのは、遺産を受け継ぐ子や孫を持つため、老いたら私たちを扶養してくれると心が温かくなるため彼らが子や孫を持つように、いなければ寂しく、いれば温かく、このようです。そして生殖があることを望みます。

 しかし結局熟慮して見ると、自然に雇われる話、あるいは欲情で騙されて雇われる話です。結婚する人は熟慮して見てください。最初に欲情を期待し、生殖を期待しません。むしろ副産物にすぎません。欲情の話がなければ誰も結婚しないように、そして子を産まないように見えます。自然の方が賢いです。欲情を餌にして雇います。これは愚かすぎ、悪すぎます。

 自分を扶養し、氏族を継承する子を持ちたい部分は、一段階善い方です。しかしそれより一段階善い考えがあります。つまり人間が神様に到達するため、あるいはボロマタムに到達するために絶滅させません。種を絶滅させないために私たちが列を成して生まれることは、正しい方法で休まず進歩させ、そしてボロマタム、つまり人間が得るべき最高に善いものに到達します。

 両親が到達できない時は、子がその先を行くべきで、子がまだ到達しなければ、孫やひ孫が、人間が得るべき最高に善い物に到達するまで、その先を行くべきです。しかし今、彼らはこのような目的で子孫を持ちません。彼らは美しく飾って高く売るために子や孫を持ちます。むしろこのようです。これは生殖があることの本当の目的ではありません。

 みなさん、人間が昔、石器時代以前に生まれて、それから石器時代やいろんな時代になり、世界にブッダ生まれ、このボロマタムに至ったのはどれだけ長いか、考えて見てください。それは何百万年です。何百万年してブッダが世界に生まれたか、みなさん自分で考えて見てください。生き物の進化はこの目的のためと捉えなければなりません。つまり最後には涅槃に到達しなければならず、何としても涅槃に至るまで進化しなければなりません。

 部分的に欲情面に迷って愚かになっても、ある時ある時代の成り行きで、痛みが生じれば倦怠し、涅槃の方向へ振り向くことができます。あるいは今の人は、何度でも生まれると信じるなら、懲りることが涅槃へ到達させます。どの種の生まれることでも。

 仮に母の胎から生まれることは何生も生まれ、次に生まれる時は善くなり、万生、十万生のうちには涅槃に至れます。あるいは「俺」が一度生まれる心の一瞬である生も、一度生まれると言い、それも生まれる度に貪り・怒り・迷いで、苦に喘いでも、生まれる度に倦怠を知り、棺に入る前に静かさを欲しがり、あるいは静かさに出遭えます。

 これです。進化は涅槃のためになるべきです。他は終点ではないからです。涅槃と呼ぶ物は泳ぎ回ること、あるいは進化の終点です。だから子を持つこと、生殖することは、子があると、あるいは何か近い物で温かくするためでなく、人間はボロマタムに到達するまで生き続けなければならないと理解し合わなければなりません。

 だから結婚する人は、この行動は神様、あるいはボロマタムに到達するまで、その先を歩く人間がいるためと思うべきです。その結婚、婚姻は不潔でなく、それ自体がダンマの実践です。つまり道徳的に正しい目的があります。そして行動すればダンマの実践で、個人にとっても全体にとっても、次々に善い結果があります。自分に高い物を知らせて深くし、自分を昇級させます。最後に生殖も自然に雇われず、生殖のための自然の奴隷にならず、生殖の奴隷に落ちません。

 要するに欲情の奴隷に落ちず、肉体面の腺の奴隷に落ちず、生殖の奴隷に落ちないのは、肉体について知っているからです。だから肉体について全部、すかさず知ることを繰り返し、そして欲情でも触食でも、それの奴隷に落ちません。だから高い心があるという意味で「人間」と呼びます。

 人間という言葉を、別の意味に訳しても良いですが、高い心と言うのは、語形で正しいです。人間は高い心があるべきで、低く落ちず、これらの物の奴隷でないので、人間と呼びます。そうでなければ人間でなく、動物と同じヒトで、まだ動物に近いです。だから肉体について良く承知していることは、子供でも若者でも、あるいは家長でも年寄りでも、誰もが知らなければならない、最も必要なことと捉えください。これはダンマに到達するのを妨害する障害だからです。

 しかし今人間は奴隷に落ちている、あるいは現代世界の好みで引っぱられている重い問題があります。率直に言って、みなさんは現代世界の流行の奴隷に落ちています。みなさんは彼らが好むように勉強し、みなさんも彼らが発展、進歩と呼ぶ新しい発展計画で、彼らがしているようにすることを目指します。そしてみなさん、新しい計画、現代の計画は何か、物質主義か、それとも心の主義か、良く熟慮してください。物質主義なら、述べている物の奴隷に落ちなければならないことから免れません。

 現代の物質主義の世界を見てください。彼らは、私が「現代は欲情の奴隷」と見るように見ません。反対に、欲情に勝利したと見ます。つまり彼らは思いのままに欲情を掻き集めて、楽しく食べて飲んで「勝利」と言います。しかし私は「奴隷」と言い、このように正反対です。良く注意して、良く選んでください。

 真実の言葉で言えば、これらの人は奴隷であることを勝利と言い、欲情の奴隷、触食の奴隷、生殖の奴隷であることをボロマタムにしてしまいます。物質主義者のボロマタムもここで終焉します。だから物質主義者は物質が頂点、終わり、秀逸、原則です。みなさんはできますか。つまりそうしますか。

 彼らが物質をボロマタムにすれば、彼らの問題はなく、彼らの問題は終わります。だから彼らは煩悩を管理しなければならないことについて、あるいは欲情の管理、触食の管理、生殖を管理する問題はありません。彼らは、私たちのように問題がありません。それらの物は、人間が得るべき最高に素晴らしい物(ボロマタム)だからです。私たちは、それは悟る障害、ボロマタムに到達するのを妨害する物と見なします。私たちのボロマタムは他の物だかからです。

 物質主義者たちはこれらを管理する、あるいは排除する問題はありません。彼らの問題は、どのようにしてたくさん、あるいは早くそれらの物を得るかだけです。問題はこのように違います。どのように早くそれらの物を掻き集めて、自分の権力内にするかという問題があります。これは労働者と資本家で闘う主義を生じさせる原因である物質主義です。

 資本家もそのようにしたがり、労働者もそのようにしたがり、それらの物を掻き寄せる望みは同じです。だから闘わなければなりません。世界の問題に終わりがないのは、世界中がこれらの物の奴隷だからです。私たちの問題は、どのようにこれらのものを管理するかという話なので、永遠の殺し合い、あるいは永遠に自分を苦しめることから後退します。

 彼らは発展に満ちていると言い訳し、ある国は、名前は言いませんが、良い暮らしがあり、良い職業があり、最高に良い社会福祉があり、人間がするべき最高の物に至ったと自負しています。彼らがここに来ると、私たちの国に来ると、彼らは最初に、「揃って心の面の話だけのダンマを学習している時、みなさんは貧困の問題、病気、食糧不足の問題をどう解決しますか」と質問します。彼らは、常にこのように質問します。

 彼らは、それは得なければならない最高の物と見なすからです。そして私たちはまだそれらの物を探求したことがないのに心の話を探求するので、彼らは疑問に思います。時には「野蛮。まだ心の話に迷っている。職業はまだ発展せず、社会福祉はまだ最高でない」と見下します。私たちがまだ理解し合えないのは、私たちは別のボロマタムを目指し、彼らはそれだけを目指すからです。

 私たちは職業の話、あるいは社会福祉でも何でも、人の心の深奥にある本当のボロマタムに到達するのを支援するにふさわしいだけにし、良い生活のための職業、あるいは社会福祉など、そして欲情の奴隷になるため、触食のため、生殖か何かのための良い生活の話に溺れません。常にこのように探求します。

 物質主義者たちが私たちより先に問題がなくなるのは、欲情の奴隷でいることに沈んでいること、あるいは触食と生殖に満足するからです。私たちがダンマ主義、あるいは心主義と主張する時、これらの物と遭遇し、闘わなければならない問題が残っています。物質主義者がそれだけのボロマタムを得ることに満足している時、まだ物質主義の部類であるレベルのボロマタムの話に対処しなければならない問題があります。

 自分たちのボロマタムに到達するために歩くために、私たちの前を妨害する物質主義者のボロマタムにどう対処するかという問題があります。みなさんは仏教での出家にしますか、しませんか。仏教にはこのような教えがあり、ブッダは大悟してこのように教えました。みなさんが仏教で出家したのは、うっかり踏み外して、何も望まない種類の物がある人の群れに入ったと言うこともできます。

 自分で見てください。だから私には、みなさんに生じる複雑さに見えます。つまりみなさんの時代の世界の教育、いろんな行動は、仏教で出家を目指し、そしてみなさんは、何を得るために仏教で出家したのでしょうか。私は、「出家したのは物質主義に使う知識を得るため、物質主義が道を間違えないよう、あるいは自分にとって毒にならないためだけ」と答えます。人生に永遠の勝利があるよう、特に物質主義より上の勝利にしてください。

 一度出家することは、きっと不毛ではありません。たとえ短い期間でも、善くすれば不毛でなく、たくさん利益があります。要するにこれらのものを、つまり肉を状況に間に合うように知ります。欲情、触食、生殖の三種類が、肉という言葉に含まれています。

 みなさんは学生として、物質主義の沼に落ちないでください。肉の中に沈んでいないでください。これはこの言葉だけの特別な専門用語で、肉という一語だけで、世界全体が落ちるだけ大きくて広い淵です。肉という一語は大きくて深い、世界全部、あるいは幾つもの世界が簡単に落ちる、炭火がいっぱいの淵です。

 天人界、悪魔界、梵天界、何の世界でも、ぼんやりすれば、全部この、肉の淵に落ちます。だから良く注意してください。肉という言葉はほんの少しの意味がありますが、このように無限に、普通以上にたくさんの何かがあります。

 みなさん、肉に対して、できるだけ、最高にたくさん、場面に間に合うように知ってください。



法話目次へ ホームページへ 次へ