4.前方にいる人





4.前方にいる人

 私が母の望みを尊重しなければ、私は出家しませんでした。そしてこのような状態で、ここでみなさんに会っていません。私は出家したくなかったからです。若い頃は出家したくなく、何も重要と思わず、出家することが何かの助けになるか知識がありませんでした。しかし母が出家させたがったので、このように出家しなければなりませんでした。

 だから父母の望みを尊重することはきっと罪でなく、あるいは悪でなく、罪の話、あるいは悪い話になる機会はないでしょう。あるのはカンマの面で良くなる、美しくなるだけです。少なくとも私は父母を尊重する人で、外国へ行かず、何も秀でていませんが、父母を尊重すると言われます。それはするのが難しく、そして最高です。

 だから家の中のバラモン、家の中の阿羅漢であり、命をくれた人、あるいは涅槃への旅をするために、次々に高い方へ行くために、自然が創って子を産ませた人である父母を知ってください。今度還俗したら、きっと今までより両親を愛し、今までより両親を尊重し、今までより両親の望みを尊重するよう期待します。そうすれば出家の結果、あるいはこの方向を拝むことの結果があります。

 ナワコワーダ(書名)には、「父母は上方」とあります。私たちは「両親は私たちを育ててくれたから、扶養してお返ししする。父母の用事をし、家門を維持し、遺産を相続するにふさわしい振舞いをし、亡くなったら供養をする」と考えなければなりません。これはシンガラ青年のように小さな子の義務を、このように考えなければならないと規定しました。それは子供にとって正しいです。世界の至る所にある教えは、これだけで十分です。

 養育したから、扶養して返す。この意味を良く見ると、ご飯や水を上げるだけでなく、お金を分けて上げるだけでなく、父母の心も養います。

 父母の用事をするというのは、父母が何を望んでいるかを知らなければなりません。心の高い父母なら、何を望むでしょう。それです、私たちがしなければならないのは。「用事」という言葉は、仕事だけを意味しません。時には味を意味することもあります。用事という言葉の意味が、欲しがる味を意味することもあります。だから父母が何を望んでも、それでなければなりません。断固としたもので反抗できませんが、交渉することはできます。話し合う知性があり、父母には私たちの望みを妨害する物は何もないからです。私たちも父母の望みを妨害するものは何もありません。

 遺産を受け取る人にふさわしい振舞いをする。これは意味が広く、善人でなければなりません。「善」は何を意味するか、自分で理解してください。遺産は神聖な物と見なさなければなりません。父母の汗から生じたからです。酒を飲み、女遊びに使うなら、中間地獄に落ちます。クルンテープへ勉強に行くと騙して、お金を使い果たしてしまう子と同じです。こういうのはエーワチー地獄、あるいは中間地獄でも何でも、落ちます。自分が使ったお金は、父母の汗から生じたからです。こういうのは遺産を受け取るにふさわしくありません。

 最後は、父母が亡くなったら供養をします。これは死んで生まれる話を信じる人の伝統習慣です。たとえ死んでも、どれほど愛し、尊重し、尊敬しているか、情愛のすべてでするという意味です。精神の娯楽館の柱に小さな絵があります。小さな子供が、雷がする度に母の死体を包んで埋めた墓標に抱きつく話です。孝行でそのようにしなければなりません。

 亡くなっても時を選ばず、まだ生きているようにしなければなりません。だから追善供養をして親に捧げる習慣は良いです。タイの父母の供養や、中国のセンメンなどはこれです。身体面でし、物質面でし、心の面でし、できること全部すれば、父母とは何かというにふさわしいです。

 そして、パーリ語では「母父」と言うのを忘れないでください。パーリ語、あるいはサンスクリット語では、「マーターピトゥ」と言います。インドの言葉では母父という言葉を使い、母が父より先です。どんな意味か、自分で考えてください。私は、母を先に思わせるのは、母は父より泣き虫だからと信じます。

 子供の理由と言うこともあります。あるいは、母は子を産む時、疲労困憊し、痛み苦しむという角度で見ると、だから先に思わなければなりません。あるいはどの角度でも、父母はどちらも尊敬すべき人物にしてください。ここでは拝まなければならない方向として話しました。先に使ったインドの言葉では、母は父より先に現れます。

 パーリの内容を称賛させるために、父母は命をくれた人、自分をくれた人と見なさなければならないと言いたいと思います。だから私たちの価値は、父母が呉れただけしかありません。「父母が命をくれたのは布施のように呉れたのではない。自然の規則で、不思議なものではない。父母は自身の楽しさで、私たちを生まれさせた」と言われているような、ヤクザのような原則を捉えないでください。ヤクザな人たちはこのように捉えます。

 次に私たちはそのように捉えません。時にはそのような父母がいても、私たちはそのように捉えません。自分の父母はそのようではありません。自分の父母は、歓喜する物である子が欲しくて私たちを創りました。子は父母にとって歓喜を与える物です。

 次に私たちは、父母は誰よりも先の、誰よりも大きな債権者と見なさなければなりません。父母はすべての債権者の中で、誰よりも、最高に大きな債権者です。つまり私たちは命の借りがあります。つまり自分の命を犠牲にすることも辞さず、私たちに命を与えました。何のためでも、いつでも。

 パーリの言葉に、「マーター タヤー ニヤム プッタン アーユサー エカプッタマーヌラッケ」というのがあります。母は、自分の命で子を護ることができるほど、内心の心情がある」という意味です。つまり、子を生かすために自分の命を犠牲にすることができます。見てください。犬の母、鶏の母でも、自分の命を考えず、子のために戦います。人はそれ以上です。だから何よりも大きな、誰よりも最初の、命の債権者と見なします。

 だから私たちは、無一文の債務者と認めなければなりません。そうすれば父母の望むようになります。だから私たちは前方に置かない訳にはいきません。前方に置かなければならない誰がいるでしょうか。ブッダは正しく話されました。父母を前方にしなければならなりません。還俗して妻や子を持って、父母を後方に置いて子や妻を前方にするなら、こういうのは反乱です。

 昔の人は道徳を教える文章を書いて、「父母は腕や足、子や妻は外部の物で、いつでも探すことができる」と捉えさせました。父母は内部について来た物で、父母は妻子より重要です。だから上方にしておきます。

 父母を上方にした時、あるのはついて歩くだけです。前にいるので、私たちもついて歩くだけです。しかし付いて歩くという言葉は、何も良く調べないでという意味ではありません。より良くすることも、後をついて歩くと言います。父母が農家なら、私たちはついて歩いて農家になりますが、より良い、より大きな農家になります。父母が公務員なら、私たちは地位、あるいは名誉が高い公務員になります。私たちは望みに従ってしなければなりません。ついて歩いて、より良くします。

 昔、農家は水牛で田を耕しましたが、みなさんはトラクターで耕します。こういうのも、後を歩く話です。あるいは何かに変えることもできます。彼らは生活維持用具と言い、広いです。父母はみなさんに、生活を維持する道具を探させたがり、そのような何かも、より良く、より多くすれば、その部分で父母より良いと言います。しかし父母の債務者であることから脱せられません。

 パーリの他の所では、子には三種類あると話しています。父母より劣る子、父母と同等の子、父母より優れている子、つまりアビジャータン アヴァジャータン アニジャータンです。父母より劣る子は、損害を与える悪ではなく、何でも父母より少ししかできません。父母と同等というのは、同じ程度の身代があります。父母より良いのは、自分の一族をより高く、よく多くしたがり、意味はこれだけです。

 しかしブッダバーシタの最後で、「その三種類の子の中で、言うことを聞く子が最高に素晴らしい子」と言っています。つまり父母の言うことを聞く子以外に、その三種類の子の、どれが善いと言うことはできません。

 だから父母より良い子も言うことを聞かなければならず、父母と同等の子も言うことを聞かなければならず、何でも父母より劣る子も、言うことを聞かなければなりません。次にそれは、言うことを聞く子が最高に素晴らしい子と明言しています。言うことを聞く子は、父母に尊重でも何でも注ぐ、正しく方角を拝む子です。



血統の中の道徳

 私が述べたことがある話の次は、道徳は何処にあるかで、血統の中に道徳があると、広く深く見るべきです。年寄りは理解でき、子供たちは理解が難しいです。しかしそれは本当にあります。特に私たちタイ人は、道徳が血の中に、先祖からの血統の中にあります。私たちの先祖は道徳がある人で、そして血統で伝承して来ました。だからそれらの子供はしつけが簡単です。

 妊娠した母を、最高に道徳の中にいさせる伝統習慣があります。この項目は、ブッダの母は妊娠中、最高に道徳を遵守していたと三蔵も言っています。インドの人々は、このような伝統がずっとあり、そして私たちタイにも入って来ました。タイは仏教も含めてインドの文化が溢れているので、それはインドの文化と見なすべきです。だから私たちは、何でも文化的にインドの物があり、血統の中にある道徳があります。しかし二千年前なので、変化しました。

 世界が物質を崇拝する時代になると、物質面だけに関心を持ち、道徳への関心が薄れました。踊りを踊りたい人は、一日中でも踊りたがり、妊娠中でも踊りたがります。新しい文化は物質で手入れしたがり、手入れする物質があり、それは血統の中で受け継がれてきた道徳、あるいはダンマがある部分が非常に変化しなければなりません。道徳と呼ぶものは血統の中から出発しなければならないと観察し、学んでください。

 次に人間として生まれて来たら、教育、しつけの中に道徳がなければなりません。この世で目を開けた時から、道徳、あるいは道徳の光に囲まれなければなりません。幼い時から教育が終わるまでを教育、しつけと呼び、道徳で溢れています。今私たちは知らないので、幼い時から道徳があるよう昔の人が残しておいた、善い習慣を破壊します。現代の子供の教育は、道徳を欲しがらない人たちの新しい制度で、道徳を切り捨てます。

 タイの教育は西洋の尻を追い、教育制度から道徳を切り捨てるほどです。彼らは道徳を個人的な話と見なし、知りたい人は自分で学び、教育の中に取り入れて子供たちに強制する必要はないとします。彼らはこのように正反対の考えが生じ、教育、宗教、あるいは道徳は、子供たちの教育から消えました。それは、子供の時から道徳があることに関して、著しい間違いです。

遺伝、あるいは血筋の中にある道徳の価値

質問 : 質問させていただきます。遺伝である血の中でも、道徳と呼ぶもの、あるいは少なくとも道徳の種がその中に現れていると認める物の、例えを上げて見てください。これを先に答えてください。つまり道徳は父母の血筋から始まると認めるのでしょうか。

答え : あり得ます。そして道徳があり、静かな実践がある両親である人の家族の生活の中で、生まれた子孫も静かさを愛すのを見ることができます。

血統の中に道徳の種がある

 これは何とか見える例で、道徳と呼ぶものは、血統に種がなければならないと認めます。人間でない物の例は、例えばマンゴー、パパイヤ、ドリアン。何でも種子の中の良い種は良い果実として現れます。これは誰も反論しないと理解します。人間になると、なぜそのように認めないのでしょうか。なぜ認めないと非難するかは、その種を良く調整すること、あるいは注意深く種を良く維持することに興味がないからです。

 もしあなたが認めるなら、その家の善い実践規範があり、その家系の長い系統まで、彼らが行動して来た理由がある物と認めると思います。今私たちは考えが変わり、信仰が変わり、善い種について考えず、教育で創ることができるなどと見てしまいます。

質問 : 血統、あるいは人間の遺伝の中にある道徳面の価値観とは何か、もう一度、短く答えてください。

答え : つまり責任を思うことです。

質問 : 血の中にある道徳の種は、血筋の人にどのように受け継がれるのでしょうか。

答え : 実践することです。教えに関して、善い挙措の中で伝承されます。

質問 : それは何ですか。まだ誰か何か言いますか。

答え : 産んだ人の、生まれた子への愛です。

質問 : まだ誰か何か言いますか。

答え : 血筋の面の道徳の角度で、両親から子に伝承されると理解します。自然の法則、因果の法則で経過すると理解します。あるいは知識、医学的な生物学の原則で言えば、細胞が分裂する時に、性質や気質は遺伝できます。それは物質の角度です。心の面は、良く知りません。

何故とだけの問うなら、何種類もの答え方があり、述べたようなのも正しいですが、全部ではありません。なぜという質問は、「どのようにして」と問うのと違います。ここではそれは何かだけ知ってください。

 それは善くなる状態で伝承して来た人間の精神は、何百代、何千代か知らず、姿が見えない物の一つで、代々善くなる状態で遺伝して来た人間であるための種としてあると、まとめたいと思います。

種を選ぶ

質問 : 次に、最初の一組の両親から出たのは、なぜ両親と、あるいは両親に初めからあったものと同じでないのですか。なぜ良くなれるのですか。善くなる理由は何ですか。

答え : 子、あるいは後の代の人が両親より、元より善くなるのは、環境が調整する外部の縁で経過しなければならない法則で経過します。人生の課題から、後の部分の知識、考え、見方を得ます。

質問 : どのように子に遺伝するのですか。まだ種で、実体、形、塊でなく、そして両親の種より善い状態で、どのように伝わりますか。

 思い描けなければ、物質の話を観察して見てください。仮に最初のドリアンは野生、原種で、そういう特徴があり、そして比較できないほど良くなったドリアンが生まれたのはなぜでしょう。野生のドリアンと栽培種のドリアンの上等なのが知られていて、そしてそれは野生の原種からできたと認められています。

 あるいは飼育した動物、野生の鶏、飼育した鶏、野生の水牛、家畜である水牛、野生の馬、家畜である馬は、何故雲泥の差があるのでしょうか。初めは野生しかいなかった犬も、捕まえて来て飼育して家畜にすると、何代も後には何でも知っている美しい犬になります。それはなぜ、良くなるのでしょう。

質問 : 質問は、何故良くなれるかだけです。

答え : 進化しなければならない自然の法則に関ります。いろんな生き物、サンカーラダートゥは、常に加工しなければならず、進化しなければならず、より善い方の目的に変化して行かなければなりません。それは自然の法則です。

質問 : 両親は何か良い物があり、それだけで子供を産むと、両親と同じだけ善く伝わらないのか、ハッキリ答えなければなりません。ドリアンの木、ある種類の両親から出た木は、なぜ両親より良くなれるのか。動物の改良もこの項目に現れています。子を両親より良くし、一等の、あるいは優秀な賞品を貰うのはどうしてですか。なぜ両親より良くなりますか。

答え : 私は選別があると理解します。種類を選ばなければなりません。良い種類を良い種類と交配しなければなりません。

質問 : なぜ両親と同じにならないのですか。なぜ親より良くなれるのですか。これは重要です。この秘密を掴めば、人を善く出来、両親より良く、早くできます。なぜ良くなれるのですか。

答え : 人類が同じ所から出て、同じ所で終わるという原則に依存すれば、それは自然の話です。だから将来、後の世代は善くなるために転げまわり、生き物の終点に行きます。人類と呼ぶものは、同じ点から生まれ、そして同じ終点に行きます。だから生きている間は、誰が正しく行き、間違って行くという以外に、常に何としても善くいるために加工しなければなりません。

質問 : そのように答えれば別の意味になります。つまり話の中味が変わっています。最初は最高の物から、悪い物になり、それから戻って良くなり、初めの最高に良い物になり、これは別の問題です。今は、血統による遺伝でどのように道徳があるように、増えるようにできるか、利益を生じさせる方法を話しています。

答え : 選別がなければなりません。女性も男性も、同じでない善い部分があるからです。だから両親の善い部分を選べば、生まれた子は双方の優れた部分をもらい、両親より善いです。両親から善い部分を受け継ぐからです。

: 「選別しなければならない」という答えは、正しい答えの一つに違いありません。だから婿や嫁を選んだ祖父母には、理由があります。これほど深遠な目的がなくても、このような結果である状態にしました。

 動物の交配も種を選ばなければなりません。次に良い種は、生まれて良い訓練を受けた動物でなければなりません。父種、母種も休まず良い訓練を受け、そして種を交配させ、それぞれの種がぶつかり合って、あるいはアタックし合って新しい物が生まれます。つまり父と同じだけでなく、母と同じだけでなく、同じでなく変化し、別の物になります。

しつけで取り囲む

 他の物になるのは、悪くならず、善い方にするにはどうするかは、振舞い、行動、善い行動で取り囲まなければなりません。そうすればすべての環境が正常な状態、あるいは善と呼ぶ静かさの状態で現れます。だから昔は、夫婦である人が良い状態でいるよう大事に育てるいろんな伝統習慣がありました。

 懐妊すると、妊婦の心を慰めるいろんな儀式をして良い経過だけにし、良い日々だけにし、カッパリハーラ儀式と呼びました、物質ではありませんが、物質も含まれることがあります。その意図で、つまり妊婦の心を取り囲む儀式をして、良い感覚だけを感じさせました。パーリの中だけに、カッパリハーラの儀式をするとあります。昔、インドの文化を受け入れたタイにも多分あったでしょう。そして少しずつ消えて薄れました。人は少しずつ物質を好むようになり、心の面の伝統習慣を維持しないからです。

 消えたというのは物質面に変化し、物質しか考えず、静かな道徳面になりません。だから生まれた子は両親よりきれいで賢いですが、静かさを愛すこと、善を愛すこと、真実を愛すことは両親より少ないです。環境、あるいはすべての行動がそのような状態になったからです。

 ここに座っている親は、子が生まれて成長することに、自分はどのような目的があり、どのように誓願しているか、考えて見てください。目的は美しく、勉強が出来、何でもできるようにだけで、道徳についてあまり考えません。だから現代の子や孫は美しく賢いだけで、あまり道徳がありません。両親自身があまり道徳を考えないからです。とても忙しくて、考える時間がないか、時間があっても考えないこともあります。物質、肉の方に迷い、酷くなります。それは道徳の部分の種を悪くしますが、物質面では美しくなります。

 これについては、百歳ほどの年齢の人は、現代の子は美しくなり、代が代わる度に美しくなると観察できます。これは物質面、肉体面です。そしてその子は勉強ができるようになります。両親も勉強ができたからです。しかし道徳の基本である感覚を抑制管理する静かさの話は、あまりありません。だから道徳のための善い遺伝ではありません。しかし煩悩のため、混乱のため、奪うこと、大騒ぎのための遺伝です。

 血の中で伝承してきた道徳の価値は、一番重要と、第一項を見てください。

第二項 外部の環境にはっきり表れている価値

 生まれた時、環境があります。つまり生まれた時教育を与え、しつけを与え、いろんな行動をさせます。これも一部にあります。

質問 : 血の中にある道徳面の価値と、その子が生まれてから訓練された道徳の価値と、どちらが重要でしょうか。二種類のどちらが重要か、どのような見方があるか、言って見てください。

答え : 周囲にある物、環境の方が重要と理解し、感じます。確かな根拠はありませんが、重要と感じます。両親から生まれた子を、産まれた日から両親が育てないで、どこかへ行って誰かと暮らすと、子は往々にして養育者のようになるという見本がたくさんあるからです。

質問 : あれ、他に誰か。どう理解しますか。遺伝が重要ですか、それとも後のしつけが重要ですか。

答え : 元は遺伝にある原因ですが、それはしつけもあると理解します。重要な話は、心の深遠な話と理解します。私はむしろ遺伝と理解します。

質問 : あれ、他に誰か。

答え : 私は、環境は威力が大きいと感じます。つまり心の状態も、身体の部分を変化させることができます。命は危機を脱したがるという理由です。だから環境で変化しなければなりません。だから私は、環境の方が重要と主張します。

質問 : 他に誰か。

答え : 私は同じと言います。遺伝で良ければ五十パーセント良く、残りの五十パーセントは外部の縁に出合い、重要性は同じです。

環境は遺伝を変えることができる

 同じと見る人たちは、有利なようです。証明が難しく、検証できないからです。しかし、同じだけ重要という言葉は、幾つか例外があると理解します。つまり五十対五十の、前の五十は終わり、過去であり、後の五十、あるいは半分は、まだ進化中で、環境で変化できます。

 これがカンマの法則です。何かのカンマを作った時、それはその法則で結果が現われ、それだけで正しいです。次に生まれた部分はたくさん訓練する機会で、価値、あるいは重さは半々でも、後の部分は次々に訓練する機会があり、休みなく増えます。だから阿羅漢になるまで、カンマの法則で変化できます。

 みなさん忘れないでください。血統で伝承する種、遺伝も重要です。ドリアンの種子が悪ければ、肥料をやり、手を掛けても良くなれないのと同じです。種類の良いドリアンを植え、新しい栽培で育てれば親より良くなります。環境と呼ぶ後の行動、つまりカンマと呼ぶ物の威力だからです。

 だから人間に関しては、血筋に中、遺伝の中に善があれば、半分は両親からです。これはすべての一部に違いありません。生まれてどのようなしつけを受けるか、間違った肥料か何かを与えたドリアンのように、誤った訓練を受ければ悪くなり、です。しかし良い訓練を受ければ、元より善くなり、阿羅漢になることもあります。だから後の成功は、行動の法則にあり、何をしたか次第です。

 要するに、最後の段階の成功は行動、あるいは種を悪くする訓練次第で、種を良くすることもできます。しかし遺伝の中にある善を消しはしません。だから人間を道徳面で善くするために選んだ、良くしつけた善い種子でなければなりません。そうすれば良い種子が子として生まれ、良い訓練を受けるので、最高に善いです。

 だからこのようになるかどうか、熟慮して見てください。同意しなければ、すぐに反対することもあり、どんな見方があっても、良い種子でなければならないと規則にすることを言って見ます。そして生まれたら、最高に善いしつけをしなければならず、正しい行動をさせれば、私たちが望むような良い人間になります。

 これを血筋、あるいは遺伝の話は、人間であることの財産の角度の先代から次世代へ伝承され、私たちは常に良い環境にしなければならないと言います。

質問 : 次に二項目は、遺伝と血統である第一項、第二項は、人間として、人として開花するには、縁、環境があります。環境とは何か、推測して見てください。

答え : 環境とは何か。現代の言葉で言う社会的な価値、これが環境です。伝統、あるいは文化。あるいは食、住、寝、遊び、いろんな物の使用、今している何でも、社会の中の価値と言い、「何は価値がある。何は価値がない」と言います。これが新しく生まれたばかりの子の環境で、これらの価値によって変化します。すべてはそれに価値を与える考えや見方から生じます。

 : 社会による社会面の環境は飛ぶのが早すぎると話せば、小さな時から、まだクッションの上で寝ている時から、家の外の社会がある前から、教育、しつけに関して正しくするよう思わなければなりません。これも正しく、文字では社交と言うこともできます。つまり子が生まれて一時間だけで社交があると言います。つまり両親、あるいは触れる人がいます。これは社交です。環境と呼ぶこともでき、社会と呼ぶこともできますが、呼ばない方が良いです。

 「社会」という言葉を大きな子供に対して言えば、その社会の中でどのような環境を受け取るか、誰かをからかうことができます。生まれた時から死ぬまで、安定して正しい教育、訓練がなければならないからです。しかし今、このように訓練して環境を与えることは、どんな内容かという問題があります。その内容は、述べた項目に注目させたい、つまり遺伝を受け取り、そして調整拡大発展させて、新たな良い種子にします。

遺伝を受け取り発展させる

 環境は、赤子に付いて来た私たちの血筋である遺伝を受け継ぎます。私たちが取り囲むのは、血統の中にある遺伝的価値を受け取ります。つまりふさわしく受け取ることを認めます。次にそれを発展させます。発展とは引く続き良くし、開花させ、思いっきり善い方へ変化させます。むしろこのようです。だから受け取って発展させると言います。生まれてから死ぬまでの教育、訓練は、これです。

 環境を受け入れるとは何かと問うなら、遺伝の中にある善を受け取り、そして良い方の進化をさせることです。そしてこれについてどのように実践をするかは、両親はこの話を良く知っていて、それを受け取らせます。良く受け取らなければ、ある部分、あるものは失うかも知れません。手が善く受け取らないと、潰れて汚れるのと同じです。

 発展は、小さな時から正しい発展でなければなりません。子供になり、若者になり、大人になっても、休まず発展しなければなりません。これが、動物が生まれて迎えられ、受け取って発展する時に現れた道徳の価値です。その遺伝を、その後精一杯善い種類に育てます。


第三項 人間のすべての挙措になければならない道徳の価値

 人間がすべての挙措になければならない道徳面の価値は、私は遺伝について話しません。あるいは直接環境であるしつけについて話しません。しかし人間が自分自身で、あるいは援ける人の援けによって行動しなければならない必要について話します。生まれた時から死ぬまで、すべての挙措に道徳と呼ぶ物があってください。

 善く熟慮して、注意深くして、最高に緻密にするために真実、この事実を見てください。今観察して見えるように、雑にして注意せず、正しくなく、すべてを見苦しくすると、これが、成長して大人になるまでに習性になります。出家して僧になり、長老になり、それでも何でも雑にし、見過ごすほど悪く、繊細ですべての挙措に道徳があることを表しません。ダンマの、宗教面の指導者であり、それでまだ雑で、すべての挙措に道徳の状態がなく、それで庶民にするよう強制できません。この項目は、しなければならないと、特別にお願いします。

すべての挙措に道徳があるよう、赤子を発展させる

 誰でも、最高に繊細で柔和にする道徳面の教えで、生まれてきた赤子の発展に注意しなければなりません。道徳がなくなる隙になる例外は微塵もなくします。だから試験して見てください。確認してください。生まれた時から環境を受け取って常に道徳があるようにし、誤らないでください。つまり道徳をなくす物で囲まないでください。

 いずれにしても、誰でも、生まれた子が、全面的に道徳を推進する環境を受け取るようにする段階の知識、正しい完璧な理解があるのは難しいと認めます。しかしいずれにしても昔の先祖は、少なからずこれらの結果のためにして来た善い伝統習慣があります。私たちは捨て、変化してしまい、愚かな迷信になり、どうしたら良いか知らず、消滅しました。

 復興させて、生まれたその日から道徳がある人になるよう、赤子に正しい環境を受け取らせるべきです。それは長い話で、たくさんの詳細があり、今話すのは大変ですが、持ち帰って自分で考えることができる項目だけを話します。

 次に生まれてから死ぬまで生きる段階については、身体を管理しなければなりません。あるいは食住と呼ぶ生活、食・住・使う・何でも、道徳がなければなりません。内心に、考えや思い、慚愧が十分ある人でなければなりません。機会がある時、つまり人が見ていない時に悪を成してはなりません。だから一人でいる時も恥があるように訓練すれば、醜い行動をする度胸はありません。これはたくさん詳細があるので、自分で勉強してください。

 食事をすることから、大小便の排泄、水浴、何でも、道徳を振興する知性でしてください。何でしているか分からないでしないでください。何と呼んだら良いか知らなければ、新しい文化と呼びます。現代の文化は、話すこと、服装、何でも色々、慚愧がない文化、慚愧を介入させない文化です。昔の文化を見ください。観察して見てください。特にタイ人は慚愧がたくさんありました。例えば外部はどのように身をまとったか、厠へ入る時も、あのような、このような注意深い文化があります。これを日常生活の中にも道徳があると言います。

 最後は職務で、私たちは一部分に生活があり、そして仕事をしなければなりません。特に職業、他人や社会に関わる事まで拡大でき、私たちは死ぬまで仕事があります。次に私たちは注意深く、その仕事に道徳があるようにします。

 この項目をまとめてしまうと、人間と人間に関わる道徳のいろんな価値観は、両親の血筋から受け取る遺伝と、生まれた時道徳がある環境を受け取り、生まれた時からすべての挙措に道徳がなければならないと、少しも隙がなく詳細に、その価値観を見てください。生きるための食住から、教育、人間がするべき、人間がしなければならない人間性でする仕事まで、その価値観を見てください。生活維持に必要でなく、あるいは肉体面、処入面だけの楽しさのためではありません。これが一人一人の人間に関わる色んな形の価値がある道徳です。

子供のための呪文

 「すべての動物は同じ命」という感覚が生じるのは、かなり難しいです。畜生を見ると、畜生に「すべての動物は、私たちと同じ命」と感じるよう強制するのはあり得ないと見えます。これがあり得ないのは、考えられないから、人間でないからです。だからこれは畜生と人間の違いです。人間は考えられ、考えることができ、一つの角度では「私たちは本当に生老病死の友」と見ることができます。人間は智慧があるからです。

 だからこのダンマの項目は、人間と畜生を分ける物と見なします。最初の基礎と見なすべきです。盤石な大地がすべての物の基盤であるように、「すべての動物は生老病死の友」という感覚がない人は、まだ完璧な人間でないと言う方が良いです。その人はまだ人間でない、まだ、「すべての動物は生老病死の友」という考えがない畜生全般と同じと言うべきです。

 これは最高に素晴らしいです。昔の人はこのように教え、このように諳んじ、両親も、子や孫にこのように諳んじるよう教えました。これは昔の文化であり、伝統習慣です。今それは消えて、非常に残念です。だからすべての父母は、生まれたばかりのあどけない子や孫に、「すべての動物は生老病死の友」という呪文を教えてしまってください。

 理解できるかできないか予測できませんよ。私たちは重要な基礎を与え、子は後で少しずつ、自分で知ります。オウムや九官鳥に、このように鳴くように教えるのも良いです。オウムや九官鳥がこのように鳴けば人の耳には入り、人は考えや思いが生じることができます。これは境界線、国境線、そして人と動物を分ける物と見なしてください。動物はこのように考えることができず、人はできるからです。

 「両親に道徳がなければ、道徳が付いて来る血筋はない」。

道徳面の砦

 高位者、目上の人、年寄りのみなさん、人間の道徳面の砦、防塁のようでありなさい。高位者、目上の人、年寄りのみなさん、父、母、祖父、祖母でも何でも、年寄りは自分を砦、防塁にしなさい。つまり倒れない安定した物という意味があり、この世界の中に道徳があるよう引き止めます。

 年寄りは、良い手本である人でなければならず、道徳を消滅させるよう誘う人になることについては話す必要はありません。つまり子孫が道徳を消滅させるのを断じて認めません。自分も道徳がある良い手本のように維持し、忍耐を見せ、道徳がある良い手本にします。そして休みなく教え、子や孫が道徳の中で維持するよう休みなく懇願します。これが高齢の父母、祖父母です。このようなら、すべての動物を救う神様になります。

 この段階までスッキリして曇りがなく人生を過ごせる人は、素晴らしい人生と見なし、家の中の本当の阿羅漢である年寄りです。「父母は家庭の中の阿羅漢」、つまり最高の人物、阿羅漢のように素晴らしい人と言われたブッダバーシタがあるように。

 この項目はどのようかを見ると、父、母、すべての年寄り年長者は、このような状態の中にいるからです。自分自身で失敗したことがあり、正しくしたことがあり、誤りも正しさもたくさんしたことがあり、あるいは彼らが逃げ隠れと呼ぶような行動もあるので、よく知り、捨てるべき物を捨てられます。そして常に行動すべきことをした手本であり、小さな子供を手本のようになり行かせるよう管理する人です。

 そして変化したがらず、降参しない物と死ぬことを志願します。つまり正しさのために死ぬことを受け入れて子供に見せます。子供たちに正しさを尊重する習性が生まれ、命を失わなければならなくても正しさを基準にします。

 ね、「すべての動物は生老病死の友」といいう最高に大切な感覚を、すべての息子、娘の心に植え付けて育てる道徳があります。道徳の木の基盤である大地を持つことに成功したと言います。

 私たちは助け合って、このような状態になるよう行動しなければなりません。これを最初の理想はこのようと言います。そして助け合って、その理想の成り行きにしなければなりません。





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