2.精神面の娼婦




世界は今どの方向に踏み外しているか

 どうかみなさん、心を集中させて、世界中の人間社会に視線を投じ、そして何百年も長く振り返って見る方が、ここで私一人を見るより、あるいはタイの国、タイ人だけを見るより良いです。世界中を、この世界は今どっちに逸れているのか見てください。それともブッダの様式の滅苦の道を歩いているでしょうか。

 世界は今道草を食い、あるいは自覚なしに道を踏み外しているか、あるいは彼らは今常自覚して歩いているでしょうか。ここ一世紀ばかりを考えて見てください。自分自身で見ることができます。あるいは明らかな証拠があり、他人を信じる必要はありません。

 ここ百年間の、発展した世界の女性の服装、costume と呼ぶものなどは、身体をぴったり隠し、手首から足首まで隠す十分な丈がありましたが、現代になると、一世紀ほどで、姿形が見えるほどぴったり締め付けます。これは何の威力でしょうか。誰の考えでしょか。世界中の人が責任者でしょうか。誰がこのように望んだのでしょう。仮に男性側がこのように望んだとしたら、何が男性にこのように望ませたのでしょうか。

 考えて見ると、俺、あるいは男性の身勝手と、煩悩側の俺に執着する煩悩欲望と分かります。次に女性の側も、気づかずに彼らの威力下に落ちたので、本当は自分にとって快適ではない衣装を使うことを、少しずつ受け入れ、男性の言いなりになりました。心の面で降参したからです。

 これです。十年ごとに、百年になるまで見ると、このように変化しました。もしかしたら、後百年後には、ガラスのように透き通った服装をするかも知れません。何の威力でこのように非常に道を踏みはずしたのか、誰が陰で操ったのか、誰が責任者かをダンマ風に言えば、迷いによってどんどん暗くなる身勝手な感覚が、必要のない困苦に耐えることを受け入れ、気づかずに自分自身を苦しめると言わなければなりません。

 みなさん、観察して見えますか。私はいろんな絵で、あるいは記録されたいろんな出来事から、人はどれほど下賤な心があるか見たことがあります。なぜ女性に短い服を着せるのでしょうか。事務所で仕事をする秘書の女性が、凄く短いスカートを穿くのを見なければならないのでしょうか。誰の心が下賤かは、事業主、あるいは支配人です。彼らに下賤な心が有るので、それらを望みます。彼らが知らなければ、人がするのを真似ます。つまり、知りもしないで下賤な心で、下賤な心あることを好みます。

 女性がこのように短いスカートを穿くのは、下賤な心があります。そのようにすることから何かを得たい期待があるからです。今世界中がこのようです。男性側も、女性に下賤な心を持たせる服装をデザインし、女性は騙して女性を男性の玩具にするための制服を受け入れ、そして愚かな期待があり、男女間の同等の権利を要求し、これほど騙されてもまだ気づきません。この状態の下賤な心とは、これ一語で、他にたくさん、何百何千の問題を生じさせる問題があります。

 ある国では残虐な問題、性犯罪、いろんな問題が一秒ごとに生じているのは、下賤な心があることから生じます。道徳がないから、道徳に欠けるから問題が生じます。このように見てください。世界の重い問題である娼婦の問題は、人に下賤な心があるからです。下賤な心を持ちたくなかったら、還俗したら娼婦の話に関心を持たないようお願いします。下賤な心がある話だからです。

 畜生には娼婦の問題はありません。そうでしょう? 娼婦の制度がある畜生は何処にもいません。だから人は、畜生より劣ってはいけません。このように娼婦の問題を生じさせるほど下賤な心がないようにしてください。

 下賤な心という言葉一語は、世界の人間のいろんな問題の根源なので、この言葉を使ってください。そしてこの話に十分注意してください。卑猥で猥褻な話が、今蔓延しています。下賤な心に賛成し、下賤な心から生れるからです。若い男女は今、下賤な心の病気に掛かり、欲情面も下賤で、迷いも下賤で麻薬の使用を好み、必要のないヒッピーか何かを好みます。これは全部、下賤な心がある状態です。


世界の母として女性の名誉を大切にする

 新しい文明、あるいは今の文明を多少ハッキリ言えば、「女と酒の文明」と呼びます。この言葉は、ギリシャ時代まで古く、彼らの本当の文明は、女と酒ではありません。石器時代から見ると、布を纏わない原始人は、女と酒の文明はありません。それから少しずつ変化して、規律があり、様式があり、規定があり、実践しなければならない物が多くなり、宗教や道徳の制度が生まれました。それから彼らは宗教の話に堅忍不抜になりました。だからこの世界の確固たる宗教に関わる文明の最高になりました。

 何千年も前の時代は、中国でもインドでも古代ヘブライでも、心を宗教、あるいは神様に預け、非常に信じ、非常に畏れました。それは卑猥で猥褻なことをしない規律の中、様式の中にあり、このように大きな原則なので、宗教の文明でした。人間が知性面で良くなると、知性は自分の考え、想い、感覚を信じるようになり、宗教を信じなくなり、神様を信じなくなりました。肉体の奴隷に落ちたので、宗教、あるいは神様の文明を捨て、女性と酒を神様として崇拝し、異性間の陶酔を求めて、あらゆる種類の泥酔するものを使いました。

 学習して見ると、ギリシャ人は掌を返すように時代を変化させ、元の文明、宗教の文明を消滅させ、性の話に変化させた源と見えます。宗教の文明があった西洋人たちは、女と酒の文明になり、それがどんどん蔓延して、私たちタイも西洋の尻を追います。誰が怒り、あるいは何をしても、私は恐れません。そしてみなさん全員に、女と酒の文明の話で西洋の尻を追う話には注意するよう言います。

 女と酒の文明から、話し切れないほどたくさんの、何種類もの扇情する意図が見えます。今世界に蔓延している慎むべき見本を取り上げれば、ミニスカートです。ね、今世界中に現れている女と酒の文明はミニスカートで、残りがないほど短いです。みなさん下品な話、あるいは賤しい心で下品な話をすると見ないでください。下賤な心がある状態と教えるために話します。

 ミニスカートは下賤な心がある状態です。みなさん、それは何か、何から生じるか、そして最終的に何のためか、自分で問題を立てて考えて見てください。それは下賤な心のため、つまり下賤な心がある状態で、下賤な心から生じ、その後も下賤な心であるためです。

 なぜ短くしなければならないか、不便で、快適でなく、皮膚の危険や何やらを防止しませんが、なぜそのようにしたがるのかと言えは、心が下賤である以外に何もありません。その後騙すために、喜んで騙されます。みなさんもこの服装のデザインは、男性がデザインし、女性も愚かで、男性の下賤な心があることと便乗します。

 つまり女性を騙して玩具に、あるいはもっと扇情する物にし、女性の愚かさがそのように志願します。ミニスカートの製品を創った男性の下賤な心に、女性の下賤な心がプラスされ、それからどんどん短くなり、世界中、道徳面の厄介な問題になります。しかし卑猥で猥褻な賤しさの面では問題になりません。それは問題でなく、障害ではありません。しかし道徳がある世界の、道徳面の障害です。ミニスカートを穿くことは、息をする度に罪だからです。

 ミニスカートを穿いている友達に、それは息をしている間中罪と教えて見てください。悪の意図で、つまり煽って、釣るためにするからです。ミニスカートを穿いている時、自分の威力下にいさせるために、見た人を釣りたがります。それは鼻を引っ張って釣りたがる鬼です。この悪の意図を罪と見なし、それを穿いている間中、着替えてしまうまで、息をする度に罪です。これが煽情する意図で、最初はミニスカートにあります。それは便利でなく、あるいは煽情して常に罪である以外に、何の利益もありません。

 次はミニスカートを超えた話、裸の話で、機会を探す努力をして裸になって気を引き、刺激する物にし、人を騙して自分の威力下にいさせます。露わにすべきでない部分を露わにし、「最高の物」と好み、食事をする間も裸の踊りを見せなければなりません。私はそれらの店に行ったことはありませんが、行ったことがある人が話して聞かせました。あるいはいろんな本を読んで、彼らはそのようにしていると知っています。

 西洋人の傭兵は給料が高いので、いつでも裸のショーがある種類の食事をするために散財し、お金が無くなります。行き始めはこのような結果のためです。このような話だけでなく、何十もの話があります。今、悪霊の文化が至る所に蔓延して、このように拡大し、そのように拡大して変化し、常軌を逸します。今スカンジナビア半島の二三か国はこのような話の最先端で、他の国の人が飛行機に乗って、そのような結果のためにお金を使いに行きます。この世界の人間、あるいは今の人間を見ると、このように下賤な心があり、誘惑で満ちています。

 次は道徳を変化させる話、あるいは昔からある道徳を踏みにじる話です。彼らがこのように惑溺する障害になる道徳の項目はどれでも、彼らは変化させてしまいます。あるいは、少なくとも関心を持ちません。これを「道徳を踏みにじる」と言い、罪でない、カンマでない、悪でない、猥褻でないと見なします。誰の妻の話でも子の話でも、用具のように借りて使うことができ、どんどん増えています。あなたがまだ古い道徳を守っているなら、この世界に居場所はありません。そして今、このような文明があります。

 要するに、下賤になり低くなることは、どんどん増えているこれらの物から量ることができます。どのように心が賤しくなるかを見せる一つの見本は、ある国のある避暑地についての話です。名前は出さないでください。彼らを罵る話になります。有名な避暑地があるある国は、最初は、ニ三十年前は、静かで自然の美しい風景写真を使って、これらの避暑地に遊びに行くよう宣伝しました。

 美しい自然の静かな風景写真をポスターに印刷して、人を惹き付けて遊びに来させました。これはまだ、芸術家の心があるという意味です。このようなのを好んで、たくさんの人がそこへ旅行しました。その後、そのポスターは客寄せできなくなり、誰も行かなくなったので愛国主義の話に変え、有名な軍艦の写真で宣伝すると、一時活気が出て、愛国主義の話でもそこへ行きました。

 次に、その後軍艦の写真も使い物にならなくなり、心を惹きつけなくなったので、そこで楽しく食べて遊ぶ写真のポスターで宣伝すると、一時凌げました。その後、最後はビキニと、意味として裸の写真にすると、人はそこへ行き、海岸は水着と半裸の人たちでいっぱいになりました。

 次にみなさん、心がどのように低く、あるいは下賤になったか、見てください。最初は芸術家の心があり、美しい自然が行くよう惹きつけ、それから愛国の精神、その名前の軍艦があり、その後は食べる話、遊ぶ話、面白い話、庶民の話になり、最後は裸の話です。これは、このように段階的に心が下賤になることを量れます。ここだけの話でなく、このように心が下賤なのは、多分どこでも同じでしょう。

 だから私は、心が段階的に下賤になるのは、新式の発明面の進歩につれてあると言います。発明が刺激の進歩のためなら、人間の心は下賤になるだけです。これも、何とか見える下賤な心の状態で、現代式文明の見本です。

 さて次は、男性の下賤な心と女性の下賤な心はどのようか、分けて見ます。

 男性側の下賤な心は、女性を蹂躙する方向の下賤になります。これは小さな意味でなく、三蔵、あるいはブッダをはじめ学者の考えに由来する意味があります。女性の名誉を玩具として蹂躙した時、男性の心は下賤になります。男性が女性を、パーリで「イッティー パンダーナムッタマン=女性はすべての物の中の最高の物と言うように、すべての物の中の最高の物として尊重すれば、これは女性を称揚し、低めて玩具にしません。少なくとも女性を母の性、尊重すべき性と称揚します。

 もう一方は、女性を欲情の玩具と見て、欲情の利益と掴むのは、女性を玩具と蹂躙します。パーリの中に、ブッダ在世時の小さな民主主義の国だったリッチャヴィーの人たち、リッチャヴィーの王族の話あります。マガタ、ゴーサラのような大国は何もできません。その大国はね、小国であるリッチャヴィーに負けたことがあります。ブッダが言われた言葉に、「女性を玩具として蹂躙するすべての大国の中で、リッチャヴィー国は女性を尊重する国」とあります。

 しかし他の項目もあり、丸太を枕にする話に厳格で、堅固という項目もあります。リッチャヴィーの王族たちは丸太を枕にし、荒い茣蓙の上に寝て、暗いうちに起きて武器の練習をするともあります。しかし精神面の大きな教えは、女性を称揚し、女性を立てました。その後けしかける人がいて、つまりリッチャヴィーの人たちがこのようにするのを止めさせるスパイがいたので、一致団結が破れました。

 女性を玩具として踏みにじったので、欲情を奪い合ったからです。だから国は沈没し、大国であるマガタ国に支配されました。女性を称揚することと、女性を踏みにじることの意味は、このようです。

 心が高ければ、女性を母の性として称揚し、心にはまだ道徳があり、心に道徳があれば永遠に善いです。女性を玩具として蹂躙すれば道徳はなく、それは低劣な動物です。今この世界の男性は女性を踏みにじり、意図的のことも、意図しないことも、気づかないこともありますが、大原則として、母の性を、欲情面の恍惚を探求する道具にします。みなさん、私が将来、あるいは大原則と話したのを忘れないでください。

 男性の心の下賤さは、すべてを集約することができます。つまり玩具である立場の女性に溺れ、名誉を与えるべき、あるいは母の性として尊重すべき物ではありません。

 女性の側を見ると、女性に生じる女性の下賤な心、これも一致し、対になります。つまり男性の玩具のように振る舞い、世界の母である女性としての名誉を大事にしません。私が話しても、まだ若いみなさんを軽蔑すると言わないでください。みなさんは女性の先祖が、どのように名誉を維持したか見たことがありません。

 彼女らは、年毎に短くなるスカートを穿く現代の女性のように、自分が男性の玩具になることに気を配らなくはありませんでした。そしてさっき、女性の服装は男性がデザインすると言ったことを忘れないでください。それは女性を騙すチャンスです。そして女性も喜んで受け入れるほど愚かです。女性の下賤な心は、男性の欺瞞と、自分の愚かさを足すことであります。

 男性の欺瞞と、女性の愚かさを足すと、女性の下賤な心になります。至る所で明らかになっています。そして明白な証拠は、ミニスカート、あるいは開放すべきでない部分を解放するための他の物を受け入れて真似ます。

 続いて私は、女性の下賤な心は、自分をナガラソーペニーとして振る舞うことを受け入れると言います。しかし私が話しているのは、雇われて稼いでいるようなソーペニー(遊女・娼婦)ではありません。ナガラは都、ソーペニーは美しくする人という意味です。ナガラソーペニーは都を美しくする人という意味で、時代の最先端の服装をし、国中を美しく見せるためにミニスカートを穿きます。

 これがダンマの言葉の「ナガラソーペニー」です。世界で話す言葉ではありません。世界の言葉の「ナガラソーペニー」は、請け負って、そのような行為で稼ぐ女性です。しかしダンマの言葉、深い言葉、精神の言葉では、一般に雰囲気を美しくする人という意味で、美しい服装をする女性全般です。彼女たちは、町中、国中、世界中、至る所でミニスカートを穿き、このような状態で都を美しくする人に志願します。

 そしてこの美しさはいろんな角度の意味があり、悪霊亡霊の美しさもあり、頂点にブッダがいる学者、哲学者の美しさもあります。次にこの種のナガラソーペニーはどの種の美でしょか。どの人たちの美でしょうか。私は、女性の悪霊亡霊の美と言います。国、あるいは世界の誰でも、誘い合ってほとんど残らないほど短いスカートを穿き、ほとんど何センチも残っていないように短いのは、悪霊のための美で、世界を、そのような美しさのある悪霊の世界にします。

 次にcostume 、服装、あるいは衣服を比較して、一世紀ごとに、前の世紀はどのようか比較して見ます。絵画から簡単に見えるのは、前の世紀の女性は、ダイヤモンドを包むようにぴったりと体を覆い、肌を見るのは難しいです。そして顔も覆う国もあります。美しい顔を見ると、見た人に貪欲が生じるからです。

 だから彼女らは、美しい顔を見た男性に貪欲を生じさせる道具になるのを許しません。だから顔を覆ってしまいます。これが前の世紀です。どの国も、タイ、あるいは西洋の女性も覆い、西洋はもっと覆いました。前の世紀、あるいは今の世紀の初めは、西洋も今よりたくさん覆っていました。

 今西洋は、開放する方のリーダーです。彼らは私たちより前から、私たちより巧みに、肉体文明を崇拝したからです。そしてタイも、この話で西洋の尻を追います。今全身を覆うのが残っているのは婚礼衣装だけです。他の衣装はどんどん短くなりました。私たちも彼らの後を追い、残っているのは婚礼衣装だけです。タイの伝統的な婚礼衣装を着ることは、このおようにありません。

 今は、タイドレス、何のドレスでも、タイの女性が着るドレスは長くなったと聞いています。喜ばしいことです。しかし着る時を探すのは難しく、あるのは短いスカートで何処へでも、寺の菩薩堂にも行く人だけです。だからここで、西洋の聖堂は出入りさせないのに、タイの菩薩堂は出入りを認めると、最高の悲しみを表明させていただきます。

 これです。みなさん考えて見てください。みなさんも私と一緒に悲しむと思います。ミニスカートを穿くと非常に厄介なので、西洋の聖堂は出入りを認めませんが、タイの菩薩堂は入るのを認めます。だからここで、タイの仏教教団員は今、文化面で西洋の奴隷になっていると、最高の悲しみを表明させていただきます。西洋人はこの話のリーダーで、タイは尻を追います。

 チャリエンホテルの辺り、あるいはどこででも、海岸をカップルが歩いて来るのを見てびっくりしました。人間のカップルと思わず、一人の人間と、飼っている動物のペアだと思いました。男性はまだ人で、女性は飼育されている動物になりました。二人で歩くと、一人は飼っている人で、もう一人は動物で、人間のカップルが歩いているようではありませんでした。わざと見たのではありませんが、海岸へ行った機会に、あるいは誰かが連れて行った機会です。

 男性はきちんとした服装をして、シャツを着、ズボンを穿き、何でもありますが、一緒に歩いている女性はほとんど何もなく、そして身体を覆っている服は光が透けていました。一緒に歩くと、もう一人は人でなく、一緒に歩く種類の動物だと、びっくりしました。海岸でも、チャリエンホテルの辺りでも、何処にでもいます。

 もしかしたらみなさんの目を引かないかも知れません。みなさんは生まれた時から見ているので、珍しくないからです。私はこのようなのがない時代に生まれ、見たことがないので、そしてほとんどの人が見たことがないので、初めて見ると驚愕します。

 これが現代の人間に、下賤な心があることの変化です。それは問題ではない話です。肉体面の楽しさ、美味しさを探求することを目指すからです。菩薩堂の言葉では、flesh と呼び、「肉」一語で十分です。Fleshは、宗教的な意味で、不潔で卑猥で猥褻という意味です。つまり宗教は肉を管理したがりますが、今の人間は肉の奴隷で、正反対です。

 だから私は、すべての女性が男性の意図の奴隷に甘んじているのが、憐れに見えます。男性も女性を扇情して騙して、下賤な意図で玩具になるのを受け入れさせたがります。この世界は魂消るほど急速に悪化するので、望ましくない物でいっぱいです。

 みなさんが振り返って考えれば、火炎瓶の話が見え、それもこれが原因にあります。なぜ火炎瓶を爆発させるのか。表面的に見れば、この話と関係ありません。しかし心はこれが原因で下賤になるので、火炎瓶を創ります。だから火炎瓶も肉体面の下賤な心が根源にあります。火炎瓶を作れる人、投げられる人は、基礎に肉体面の最高に下賤な心がなければなりません。

 私たちは、下賤な心は世界の危機のすべての根源と、広く思い、深く隈なく見なければなりません。哀れな殺し合い、つまり何万、何十万も死ぬのは、下賤な心に原因があります。

 傭兵たちは、傭兵ならお金を餌に雇われ、肉を求めるためです。雇われて戦い、命と引き換えにするのは、お金で肉体面の幸福を求めるため、あるいは肉体を買うためです。次に自分自身で戦わないで戦わせたい人たちは、肉に迷った人たちです。資本家などはたくさんお金を欲しがり、たくさん財産を欲しがり、そのお金や財産は、肉体だけの利益のためです。限界がないほどたくさん溜めておきます。

 労働者も同じで、肉体を欲しがるから資本家を消滅させます。資本家は水を遮る壁と同じで、肉体の水をたくさん遮ります。次に労働者階級の労働者たちも、最高に肉体を欲しがるので、自分が首を伸ばして肉体面で口を開けるために、壁に穴を開ける努力をします。だから世界の資本家と労働者の戦争は、肉体に根源があります。このように見なければなりません。そうすれば最高です。これが、現代の世界の人間煮、下賤な心があることです。

 今は女性の下賤な心の話をしています。次に女性は美しい性で、美しさのためにあるという項目について話します。人間としては、このようになりました。しかし畜生なら、オスが美しい側で、メスは美しい必要はありません。しかし人間は女性が美しい側で、男性は美しい必要はありません。女性に美しさがあるのは意味があり、あるいは財産です。だから昔から、美しさは女性の財産と言われます。

 女性は美しければ価値があり、値段が高いなどです。しかし猥褻な美しさ、あるいは慣例で正しい美しさか、つまり危険のない美しさか、どの種の美しさか知らなければなりません。だから美しいというのは良いです。それでなぜ、スカートが縮むことで、あるいは隠すべき部分を隠さないことで猥褻な話にしなければならないのでしょう。

 それは美しさでなく、美しさの表現ではありません。だから包み隠さない美人コンテストは厚顔コンテストで、美人コンテストではありません。行って良く見てください。そこまで受け入れる厚かましさのコンテストです。女性は美の象徴という原則を掴むなら、手本で正しい美しさでなければなりません。肉体をつけ上がらせるために煽り、道徳を消滅させません。

 次に、現代の文化、現代の文明について適度に話すので、昔の文明について二三言話したいと思います。

 昔の文化、あるいは文明は、女性を仕舞っておいて崇拝する物、あるいは名誉がある状態で包んで飾りました。だから彼らはダイヤモンドや宝石、玉や金銀を仕舞うようにぴったりと包む努力をし、ふさわしく、ぴったり包みました。昔の文化は女性をふさわしい状態に包む努力をし、そしてふさわしい状況で飾り付け、剥いで、剥いで、剥ぎ捨て、現代式文明のように剥いて捨てません。

 崇拝するために価値ある物の状態で、「包んで飾る」という言葉を使います。母の性だからです。ブッダの時代にはソーペニー(遊女)について話し、当時のソーペニーは、普通の人以上に衣装や装身具で飾り立てていて、現代のソーペニーのように、煽情するものである裸を使いませんでした。

 憶えておいてください。三蔵の中のアッタカターを探すと、遊女なら遊女ほど衣装をつけ、たくさんの装身具で飾り、普通の人より何でもたくさんあり、非常に便利だったと分かります。そして彼女たちは、王族や長者など、お金持ちの人たちのためだけにあり、放蕩無頼のためではありませんでした。

 だから女性は最高の物と見なし、大切に育てられ、母の性として称揚されるべきなので、ぴったり包み、見事に、立派に飾ります。これが先祖たちの昔の文明です。だからその様式文明には、貪欲面の下賤な心の状態はありません。今私は貪欲の話を、貪欲ゆえの下賤な心が現代式文明に溢れていて、先祖たちの文明にはなかったと話しています。他の民族も同じで、今変化しています。

 良く抵抗している国もたくさんあります。ある国は、サリーの着用を止めたがりません。スリランカやインドなどのサリーは、長い布を頭まで巻き、彼らはこの服装を変えたがりません。スリランカのダルマパーラが亡くなる前に、我が国の女性はサリーの着用を止めないで欲しいと懇願しました。つまり西洋の服装になることを心配しました。それは、このように下賤な心があることを恐れたからです。

 タイ人は、かつて全身を包んだ衣装があるので、大切に維持し、西洋の後を追うべきではありません。衣服の丈を短くし、衣服が縮んで短くなることで下賤な心があります。女性については、今、溢れて欲情になる心の膨らみ、そしてそのようにするよう大々的に振興している、男性の玩具、刺激する物であるためです。

 精神面のソーペニーは、自慢すべきでない部分を自慢する性である女性で、男性を恍惚とさせる確実な目的があります。こういうのを精神的ソーペニーと言います。若い人も、年増もいます。


精神面のソーペニーは、世界を覆う

 今欲情を崇拝するので、精神面のソーペニーは世界の至る所にいます。つまり最高に扇情的な服装をした女性で、世界に溢れ、人間の心を物質面に傾かせます。何が今世界を覆っている精神面のソーペニーから生じる問題を切る、刃がある武器でしょうか。どのようにするか知りませんが、これらの女性に煽情する物である体の器官を露出させるので、社会面の問題があり、性的な犯罪が至る所に溢れます。

 新聞のニュースを見て比較すると、今の、今年のほとんどすべての新聞を、ここ十年、十五年と比較して見ます。いろんなニュースの見出しは、非常に違いがあります。今は一面も最終面もヤクザな話、欲情の話がいっぱいで、写真もあります。しかし十年前の新聞はこのようでなく、見出しはドキュメント、あるいは気持ちの良い内容のニュースでした。これは世界がどのように変化したか、肉の文明はどのように?栄し、何処から来たか、問題は、物質が発展したと言う時代にどのように生じたかを表しています。

 富豪が生まれれば最高に身勝手な富豪で、貧乏人も最高に貧困で、富豪を消滅させなければなりません。昔の制度では、富豪は競って布施蔵を創り、貧乏人は庇護を受けるので、この問題は生じませんでした。コミュニストの国の社会主義、あるいはそれ以上の物はあり得ません。自動的に防止しているからです。それがダンマサート(ダンマ学。法学)の結果です。ダンマである知識、知識であるダンマ、刃のある武器であるダンマがこれらの問題を切るので、人間は安楽に暮らします。

 次に精神主義の時代のものが薄れ始め、精神や心を重要とする主義が薄れて、物質を重要とする主義になり、何百年もしないで、物質面の進歩は走るようで、月へ行けるなど、物質面の発展は走るようと言います。すべては、人に肉体面の幸福や、物質の利益を探求させる話ばかりで、誰も人の言うことを聞かず、誰も恥を知らず、誰かを支援する人は誰もいません。

 みなさん、今誰かに慈悲を求めても、彼らがダンマをすべて捨ててしまった時、仏教も捨てられます。本当は、ほとんどの人が信じていると言うのは口だけです。キリスト教は、神様は死んだと知れ渡っています。神様は死んだと見なすのは、本当かどうか、正しいか否かは、知性のある人の会合で判断されます。神様は本当に死んだと見る人がいるのは、神様、あるいは神様と呼ぶ物を必要としません。

 見てください。本当はダンマが神様です。神様は死ねません、そして神様はいつでも必要です。神様は不要、あるいは死んだというのは、この世界にダンマがないという意味です。それではタンマサート、つまり最高に鋭い刃がある武器はダンマがないので、ありとあらゆる厄介な問題が生じます。ね、今タンマサートは、名前が残っているだけです。見えますか。大学の名前にしました。

 注意してください。残っているのは名前だけで、個人の部分も社会の部分も、人間の複雑困難な問題を切ることができる本当のダンマはありません。ダンマが本当にあれば死にません。神様も死にません。だから社会の問題を切る威力がある物があり、人間は安楽に暮らします。売られている新聞紙面に溢れている見出しのように、嫌らしい、憎たらしい、恐ろしい話はありません。


精神面のソーペニー

 美容は騙すためです。美しくない物を美しくするのを騙すと言わなければ、何と呼ぶでしょう。それは欺瞞です。

 騙すのは欲情のためです。欲情の話ほど人間の心を覆う話はないからです。ブッダは、「女性の話ほど男性の心を覆う物はない。男性の話ほど女性の心を覆う物はない」と、このように言われています。

 今私たちは、男性にも女性にも美容の話があり、女性の側が重く落ちています。つまり女性は騙されて美容に溺れ、自分が有利になるためにもう一方を騙し、異性を自分の威力下に置くことを目指します。このような欺瞞があるので、自分の体の自然以上に美容をするすべての人は精神的ソーペニーになります。

 すべての女性は精神面のソーペニーです。自然に現れる以上に美しくするからです。あるいは清潔で整っていることを望まないで、もっと騙したがるからです。

 今彼らは、美しさのために少ししか身体を隠さず、あまりピッタリ纏いません。こういうのを美しいと言い、最高に美しくすると言います。ね、このような誘惑が心をソーペニーにします。直接なら普通のソーペニーで、心の中にあれば精神面のソーペニーです。

 美容でも、それらの何でも、それは世界中の女性を精神的なソーペニーにする話です。そして真似をし、真似をすれば、心は正常な幸福になれません。彼らは、どのようなのが恥か知りません。ブッダが「衣服は、恥に感じる部分を隠すため」と言われたのに。

 今彼女らはどんどん露出させ、衣服がある目的と一致しません。これも現代の西洋の尻を追う話です。西洋はある時代、女性は非常に体を包み隠し、長く裾を引き、手を隠し、顔を隠し、腕を隠し、脚も全部隠しました。しかし今の西洋は、露出してたくさん扇情できれば最高に良く、精神面のソーペニーになりました。そしてタイ人も彼らの尻を追います。

 美容面、欲情面の感覚を刺激することの進歩は、精神面の破滅です。本当の人間でなく、人間でない人間になります。歌、音楽の話はこれらの物の道具になり、遠離(ヴィヴェカ)の心が消滅します。つまり心が少し休息すれば休まず歌や音楽で刺激し、その結果、神経の病気になるほどです。


服装の文化

 女性に何も着ないような身形をさせる文化は、西洋が衣装のデザインをして、女性に、どんどん何も隠さないような衣服を着させます。騙して、服装と言えない服装をさせることで、女性を、男性が恍惚とするための餌食にします。

 このような服装を、私は「精神面のソーペニー」と、何度も何度も話したことがあります。彼女らの心は、誘惑して自分に溺れさせたいと望んでいるからです。彼らが利益を受け取るのは、ソーペニー(遊女。娼婦)の意図です。だからピカピカキラキラしているだけの服装、あるいは着ても着ていないような服装の人は誰でも、ソーペニーと呼びます。しかし取り敢えず精神面のソーペニーで、後で最高になるかも知れません。

 しかし今、それは精神面のソーペニーで、脚を隠さない服装をします。隠したくないのは自慢したいから、誘惑したいからで、下賤な心があります。どの角度から熟慮しても、下賤な心があるのが見えるだけで、善い面はまったく見えません。見てください。膝を隠さない良妻賢母も、タイの仏教教団員式の良妻賢母と自称する機会があります。

 私たちの先祖の時代の良妻賢母は、そのような服装をしません。西洋人たちに騙されてそのような服装をし、このような身なりをし、それでもまだ良妻賢母と自称したがります。自分を餌にして他人を騙す努力をするほど下賤な心があるので、良妻賢母の心はありません。タイの文化、あるいは本当の東洋の文化はそのようではありません。西洋の尻を追う以外は。そしてタイ人の子孫も、このようになろうとしています。

 例を挙げただけでも、このような心を支配しているダンマ、あるいは心を支配している物、握手する文化も、公衆の場で頬にキスする文化も、盃を頭上に上げる文化も、精神面のソーペニー式の服装をする文化も、ダンマはどこにあるのか彼らの心を見ると、全部逃げて行き、何が代わりにあるでしょう。これを、ダンマが心を支配するか、あるいは心を支配しないか、ここで見ると言います。

 「女性がソーペニーにならなければならないのは、ほとんどは心の抑圧があるからです。ダンマの味があれば、その抑圧から脱す援けをし、そして貧困に耐え、忍耐し、疲れも我慢する気力があり、そして道徳に反しない職業を探します」。


慚愧

 この話は家庭内の最高に低い話から、最高に高い話まで、ダンマの教えでも何でもありません。ここにいて、ちゃんとしていられる援けになる恥と怖れにいて、ダンマの実践まで、涅槃へ行くまで、これもどんどん緻密になる苦の恐怖に依存しなければなりません。失敗をした時は自分自身に恥じ、誰も知らなくても、苦が生じれば、普通以上に自分自身に恥じます。

 子供も、何か失敗させません。転ぶなどは恥ずかしく、痛みを恐れます。それです。慚愧がそこで始まります。転べば友達に恥ずかしく、そして痛くもあり、恥と畏れの意味はここにあります。次に道徳の話になると同じように恥があり、同じ恐怖があり、パラマッタダンマ(出世間)の話になって深い煩悩の話も、この二つに依存します。道徳の話で慚愧があれば、殺生、盗み、性的な冒涜、これらはできません。貪欲・怒り・迷いを手放すパラマッタの話は、傲慢にもなれません。

 この慚愧を、支える物として使いなさい。つまり重要な基礎にしていれば、ヴィナヤ(律)に集中しなくても良いです。慚愧がなければ、目・耳・鼻・舌・体・心に注意しなければ非常に慚愧に欠けるからです。これがあれば、慚愧ゆえに基礎に善い慎重さがあると言います。だから恥と怖れが、すべての場面に頻繁になければなりません。つまり不注意にならないでください。何も簡単に漏らさない目の細かいザルのようにすれば、いろんな物は簡単に善くなり、善くするのも簡単です。

 今世界は、世界全体はこの項目が衰退し、衰退するのは同じ理由です。物質主義に恍惚とするからです。肉の面の美味しさは慚愧を終わらせ、その時体の露出は、露出の意味がなくなります。ラジオのニュースで、何処かの大学で女子新入生を歓迎する時、裸で掴まえたと報じていました。事実はどうか知りませんが、ラジオで言っていました。

 卑猥な話も卑猥でなくなり、それは少しずつ入り込みます。女性の服装、そして他の物を失う話が後をついて来て、間違いでなくなります。不邪淫戒の項目を取消し、他の項目も同じようです。これは慚愧がないことの結果です。

 この項目については、毎日省察している省察を思ってください。衣を纏う話は、あれのためこれのためでなく、恥を悪化させる部分を隠し、慚愧させるためです。布を纏わなければ、恥を感じないからです。私たちはこれを防ぐために布を纏います。つまりまだ恥を感じ、慚愧させる物を包み隠しておくので、私たちのように衣を纏い、包むように体を隠します。

 次にこっち側に連れて行く人、つまり西洋人は少しずつ露出して行き、今は隠す必要がないほどです。そしてそれはそこに止まらず、心の劣化次第です。露出されている体でなく、悪化した心次第です。しかし彼らは良いと言い、気にしなくて大変でないと言います。それがピッピーの精神です。

 西洋人の方が、かつて体を包み隠していました。百年以上前の絵を見ると、東洋は、男性も女性もどんな服装をしていたでしょうか、そして今彼らはどのようでしょうか。東洋も彼らの後を追ったので、かつての善い物はなくなりました。だから慚愧もなくなりました。

 私たちが今困窮するのはこの項目です。ヤクザの話、少年少女に規律がないことは、これに原因があります。何種類、何百種類でも、慚愧がないから、原因はこれから来ています。次に出家としては、できる限り最高に善くしなければなりません。そうでなければ僧ではありません。

 遊び半分にしないでください。慚愧という教えの言葉は、子供の時は、母が毎晩唱えるよう言い、私たち子供は「ヒリオータッパサムパンナー スッカダンマサンマーヒター サントー サップリサー ローケー デーヴァダンマーティ ウッチャレー」と唱えなければなりませんでした。初めは何か知らずに、そのように唱えました。今も、憶えています。何かも知らず唱えていたのに。

 そして慚愧は天人のダンマ、最高のダンマと言います。子供がこのように理解すれば、このように持せば良いですね。ヒリオータッパサムパンナー=慚愧で完璧、スッカダンマサンマーヒター=純白なダンマが揃い、サントー サップリサー=善人で、沈静した人。彼は、「デーヴァダンマーティ ウッチャレーこれが=デーヴァダンマである」と言います。世界にこれがあれば、これだけで永遠に平和があります。これが慚と愧という言葉の意味です。


女性が酒を飲めば

女性が酒を飲めば、狂った話になる
何故飲むのか、飲めるのか知らん
それとも引火し易いキンナリーになりたいのか
酒ゆえに魅惑的な笑む 霊が取りつく

誰に倣ったか、言いようがない
悪霊に鼻先を引かれて溺れさせられ
幽霊を神様と見、美しいと見る
世界はトゥアンの霊につていくだけ

亡霊の子なら、大々的に酔うだけ
何があっても酒がなければならず、
引き留めて見守る
酒が切れれば、思い切りいきり立ってしまい、
すべての世界は酒の世界 憐れなことよ

サトリー(女性)という言葉が「サティー」から来ているなら、
それは「最高にサティがある人」という意味だ
酒に酔い、猿の話になるべきでない
母の本当のダンマにいるべき




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