世界の母である女性



1.男性と女性



1.女性でも男性でも、すべての人は正しく純潔で、公正で美しいことをしなければなりません。そうすれば世界全体に幸福や発展をもたらすものです。そのような理由で、女の子も男の子も、同じ立場でふさわしい教育を受けるべきです。

2.男女という言葉は、人語なら違う性の話で、ダンマ語では、完璧さのために半分ずつに分けた義務を意味します。だから男性と女性が同じ義務をすることはできません。今世界は狂っていて、女性に男性と同じようにさせ、費用を負担させ、収入を支援させます。それは女性でも男性でもなく、どちらも雄雌同体です。だから女性は女性の意味で正しい義務をしなければならず、男性は男性の意味で正しい義務をしなければならず、同じではありません。二つを合わせれば完璧になります。

 ギリシャの昔話では、人間という生き物は、以前は男女が合わさって一人の人だったと言います。つまり男性も女性もありませんでした。それは非常に神通力があり、威力があり、ギリシャの神様に挑戦しました。次に神様は怒って、あるいは使い物にならいと見て二つに割ると、力が半分になり、それまでのように自慢しなくなりました。このような話は、解釈しなければならない話です。

 以前は一つの塊で、突起は幾つあるか、それは十ありました。今一人の人は、頭と二本の手、二本の足で五つです。以前は十あったので、たくさん神通力がありましたが、神様が二つに割ったので、一人に五つずつで、半分に減りました。次に割られた動物は力が減ったと知り、再び一つになりたい、再び同体になりたいと望み、それが完璧さのために完璧にしたい異性の感覚です。次に私たちは、煩悩だけになるほど肉体的な結婚の話に迷い、それは何でも最高に善くする代わりに、自分の首を斬るのに等しいです。それはできません。

3.創世記Ⅱ21,22に、「だから神様は人間の男に秘密を生じさせ、彼が眠っている時に、ろっ骨を一本引き抜いて、傷を肉で塞いだ」とあります。その肋骨で、神様は女性を創ってその男性に与えました。このような話は、このような言葉通りに信じる人は誰もいないでしょう。そして何らかの意味が隠れていると考え、意味の解釈を探ります。

 仏教教団員の感覚では、その意味は、女性は男性と同じ権利と義務はないという意味と感じます。というのも、もう一か所で言われている言葉があるからです。それは、若者を「神様の子」と呼び、女性を「人間の子」と呼んでいて、同じでないものがあるという意味です。(創世記Ⅵ 2)

 男性は土から創り、堅固な状態を意味し、man と呼びます。女性は男性の身体の一部から創ったので woman と呼び、男性の一部という意味です。男性は神様の子である資格があり、女性は人間の子の意味しかありません。このようで、権利と義務が同じ人になれるでしょうか。

 そして次に神様、あるいは自然でも、男性と女性に同じ物が同じだけあることを望まないと理解すべきです。少なくとも女性は子を産まなければならず、そして自分の胸の血で子を育てなければならないからです。現代人が、男性と女性に同じ権利と義務があるよう努力するのは、直接神様の意思に逆らうこと、あるいは良く調べないで自然に逆らうことです。男性と同じにしたい女性は、手術で女性の生殖腺を取り出し、代わりに男性の生殖腺を入れ、全身男性にするべきです。その方が、外部と内部が違うより良いです。そして神様の規則にも逆らいません。

 これは、キリスト教のダンマも仏教と同じく、女性が男性と同じ権利と義務を持つことを認めないと主張するものです。ブッダは「女性がサンマーサンブッダになることはあり得ない。しかし男性がサンマーサンブッダになることは可能である」と言われています(アッターナパーリ エーカ、増支部 21巻 36頁 164項)。そしてまだ、女性はなれないいろんなことにつて述べています。例えば皇帝にはなれない、梵天にはなれないなどです。

 パーリ チャトゥカ、増支部 21巻、108頁80項には、ブッダがインドで修行していた時代は、女性の国会議員はなく、女性は特に重要な仕事をせず、外国へ留学しなかったと認めていると説明する内容があります。そしてなぜそうあるべきか理由を述べられ、要するに、女性は体力と気力が十分具わっていないから、自然は男性と違う目的で女性を創ったからです。

 女性が無理に男性の義務をすれば、この世界の女性の義務は完璧でなくなり、そして神様が人間に罰を与えるに等しい、新しい問題がたくさん生じます。要するにこの項目は、「男性を土で創り、女性は男性の肋骨で創った」と聖書にある記述は正しく、自然の真実と要約します。理解できなければ、現代の私たちを愚かな人にするために書いておいたと捉えるべきです。一部の人が理解しているようにくだらない話、あるいはヘブライの人たちの昔話に過ぎないと見るべきではありません。

4.誰が私を罵っても構いません。私は、女性と男性を同じにするよう要求する人権主義に反対します。このように話すのは、遠くまで聞こえます。誰が罵っても良いです。これは近道であり、ブレーキであり、曲がった話、人間を進歩させない話です。男性は男性の義務を、女性は女性の義務を最高に完璧にするべきです。そうすれば人間は、将来良い種子があります。種子が良ければ早く成長し、そして確実にプラタムの最高点に到達するのが間に合います。


女性であること

 私が十四、五歳の子供の頃、別の村に住む祖母を訪ねると、祖母は「女の人を嫁に娶れるよう。ね、坊や」と、聞いてびっくりするような祝福をしました。「女の人を妻に娶りなさいね。坊や」。これは、女性とは何かを知る最高のテクニックです。私は訳が分からず、「妻は誰でも女だよ」と言いました。

 そして今の人はどうでしょう。女性である妻を娶ることに関心がなく、何でも良いように見えます。そして女性と男性はどのように違うか、意味を知りません。現代になるともっと一緒くたになり、女性は男性と同じようにし、男性は女性と同じようにし、女性なのか男性なのか分からないほどです。

 ちょっと時間を無駄にして、キリスト教の意味では、神様は、土で創った男性の肋骨を取って女性を創ったと、創世記にハッキリ書いてあると、話して聞かせたいと思います。神様は土で男性を創り、そして男性の肋骨で女性を創りました。それは同じか違うか、考えて見てください。これは自分で読んで見てください。創世記の最後に、男性を「神様の息子」と呼び、女性を「人の娘」と呼ぶと書いてあります。別々の言葉で、同じになれません。女性は女性の状態があり、女性の義務をしなければならず、男性は男性の義務、あるいは状態があると、彼らには明らかな目的があります。

 次に私たちの仏教にもあります。ブッダは「女性はブッダになれない。皇帝になれない。梵天になれない」と言われています。義務が違うからです。そしてブッダは、当時のインドの伝統習慣は、女性は国会に座らず、外国へ留学しないと保証なさっています。女性が重要な仕事、大臣のような重要な仕事をしないのは、男性がしない、あるいはできない、もう一部の仕事をするために女性を創ったからです。

 次に二つの側を集めれば完璧になります。一つの側しか作らなければ半分だけです。だから女性、男性という意味は非常に重要です。

 私たちの祖先は、女の人を妻に娶らせるという、非常にテクノロジーがありました。現代人は考えません。だからテクノロジーのない寝惚けた人で、何でもぼんやりし、目・耳・鼻・舌・体・心が欲しがるままに散漫になり、意味がなく、規則がなく、テクノロジーがありません。お金を稼ぐことはできても、自分にとって毒になり、泣かなければならず、お金ゆえに、名声ゆえに自殺しなければなりません。

 食べる話、性の話、名誉の話、これは、この部分のテクノロジーがなければ、毒になるだけです。私たちの先祖はテクニックがある人で、より重要なテクニック、つまりダンマのテクニックがあったと認めてしまってください。

女性、男性という偏見  私たちには女性、あるいは男性という偏見が、女・男という感覚は生殖腺から生じ、それは身体にしかないという本当の自然を忘れるほどあります。外科手術の発展した知識で、手術で女性を男性に、男性を女性に変えることができます。しかし女の話、男の話の偏見を塗り重ねることが多く、次々にブームのようになります。だから私たちは、女性・男性と呼ばれた時から、言葉の意味を知った時から、百パーセント女性、男性である準備がなければなりません。

 だから小さな時から自分の執着、あるいは偏見による女、男という準備があります。だからその偏見によって道が分かれ、この対である物に騙され、問題が多く、この世界での生活に、そして道徳面に複雑困難が生じます。女性と規定すれば、そのような義務がなければならず、男性と規定すれば、そのような義務がなければなりません。あるいは美しさは女性に与え、女性も我慢して唇や爪、あるいは彼らが好む所に色を塗り、男性と違い非常に時間を無駄にします。

 本当は、自然の本当の望みは、このように正反対ほどの意味はないと見えます。それはただ、自然が生殖を大事にするだけの話で、だから違う生殖腺を創りましたが、それほど執着させたいと望みません。今人は、考えで非常に発展したので、このように執着しすぎます。だから問題が、執着しない人たちより、あるいは執着が少ない人たちより多いです。

 執着が少ないと言うのは、低い例を挙げなければならないことをお許しください。例えば動物は女性男性と呼ばず、オス・メスと呼びます。雄と雌の対と、女性と男性のカップルの違いが大きいのは、偏見が少ないからです。雄・雌が動物であることは、性の原因である生殖腺の威力で経過し、生殖の義務をすると見ることができます。だから動物の雄雌の問題は、人のように着飾り、何かいろいろしなければならないことはありません。それは、この部分の取は百パーセントないので、意味が違うからです。この話の真実を深く理解すれば、実にたくさん切り落とすことができます。

 次に、雄と雌の違いを見ます。もし生殖がこの話の目的なら、生殖したくなければ、あるいは煩悩欲望が終われば同じで、いろんな生殖腺の違いは意味がありません。これを執着が軽くなると言います。すっかり執着が無くなれば、あるいはいろんな欲求がなければ、阿羅漢はこのような取が無いように、当然女性・男性はありません。あるいは世俗の意味のオス・メスも、その後はありません。そうすればあなたの心は、対の物の欺瞞から生じるいろんな問題より上にあります。

 夫と妻も同じです。男・女のような取があれば、夫、あるいは妻と呼ぶ対がついて来ます。この対は、女性・男性よりたくさん騙します。騙されるままにすれば、仕方がありません。誰を責めることもできません。束縛して夫であり妻であること、父・子であることに関わる苦の中にいることに甘んじさせる、道徳面、何の面、伝統習慣の面のいろんな問題が山ほど、どっさり生じます。伝統習慣、あるいは道徳や文化などによる束縛があります。

 この話を深く理解すれば、人は同じで、苦に耐えなければならないのも同じで、煩悩欲望から生じる苦を軽減させなければならないのも同じと見えます。だからいろいろ多すぎる代わりに、生老病死の友になれば問題は減ります。夫・妻であることから生じるいろんな問題は少なくなり、あるいは無くなり、残るのは生老病死の友の問題だけです。だから夫婦であることの欺瞞と見えます。

妻とは何か  生物学、物質の角度も同じで、植物や動物と同じように、妻は母種になる人です。女性も母種になる側で、この角度は話さなくても良いです。社会学、人類学、その系列の何学でも、それらの角度では、今は、女性は家庭の中の人にとって利益のためになると見ます。困苦を共にし、生計を共にする、こういうのは良い意味があると見ます。

 しかし今は、呆けるための道具、恍惚とするための物、自慢するための物、身分を量る物まで低くなり、最高に身分を量る物です。男性が死に物狂いで勉強するのは、美しい、あるいは良い、あるいは何でも、身分を量る物である身分のある妻を探すためになってしまいました。女性は遊ぶため、あるいはそのようなことに使う何かの物になりました。理想ではありません。それは煩悩欲望の普通の感覚になります。

 女性は美しさを生じさせる話だけで精一杯で、それ以上の考えが無いようになり、美しさのために食べるようになります。それは欺瞞の話です。もし妻がこのような状態に落ちていれば、人間は非常に惑溺し、非常に迷います。家族にとって発展を創造する伴侶の意味があれは善いと言えます。

 煩悩の感覚を超えた、精神面の理想である深い角度で見れば、夫婦は旅の道連れ、あるいは涅槃へ行く旅の道連れと言わなければなりません。この話は長く話さなければなりませんが、人間は誰でも涅槃へ旅するために生まれたとまとめることができます。そうすれば話は終わります。涅槃は、世界を良く通過しなければならないからです。世界を良く通過するには、生殖は避けられません。世界を通過する話では、生殖のために配偶者を持つことは避けられません。

 良く世界を通過するには、人生とは何か、家とは何か、子や夫とは何か、何は何か、精神面の老練な知識を与える良い伴侶がいなければなりません。その結果これらのものを良く知り、それらに動じなくなり、倦怠できます。良く通過できなければ、倦怠を知らず、飽きることを知らず、淡白であることを知りません。だから善い夫婦は助け合って、精神面の明るさを生じさせなければなりません。ここで溺れているためではありません。だから妻は夫が涅槃へ旅する道連れで、夫は妻が涅槃へ旅する道連れであるべきです。

 この経の中のブッダバーシタは、子妻についてだけ話しています。男性に話しているので、聞いている人が男性なので、子妻についてだけ話しています。一般に話せば、子妻、そして夫と言わなければなりません。そして今、この若者は、肉体的な楽しみを追求する、楽しむ伴侶のように思っています。それは一時です。

 そしてこの発達の自然のすべての意味を、最終目的として、最後に人間は涅槃へ行かなければならないと知ります。だから妻や夫を持つことは、涅槃へ行く旅を生じさせる苦労を共にする伴侶であるためです。ここで停滞しないでください。哀れです。そして動物や植物より良くありません。人間は動物や植物より高い心があるなら、遠くまで旅しなければなりません。

 みなさんは、子供も涅槃への旅の遺産を受け取る人と言うのは、多すぎる話と見るかも知れません。夫婦は涅槃への旅を生じさせる友です。ここに留まっていないで、最高の理想である角度を見てください。


母であるムニー

1.アーチャンは、女性がムニーになれるのは、母であるムニーであると言った。次に大臣、あるいはいろんな統治が得意で、忍耐があり、鋭い智恵がある女性は、どの部類に入れるか、ムニーと呼ぶことができるか。

2.ブッダは「女性はサンマーサンブッダになれない」と言われたのは、何かの決定、あるいは規則があり、あるいはニャーナで女性の智慧はそれだけと見たからか。

答え: 智者である女性は、女性の義務を知るべきで、そうすれば女性のムニーの頂点になります。次にもし大臣であるなら、精神的な意味の雄雌同体です。女性の義務をしないからです。私たちはそのように望みません。しかしその人は大臣になれないと反対しません。もし男性なら愚かになります。男性がなれない場合は女性にしようということで、その女性を女性より持ち挙げます。女性は女性の義務があるので、女性のムニーなら、女性のように知らなければなりません。そうすれば自然の望みと一致します。

 それ以外は特別の場合と見なせばなれます。なれないことはありません。大臣、あるいは局長、村長、今あるような軍人、警察官、何でもなれるのは、女性と言う意味と一致しません。そして完璧に女性の義務をする人、完璧に男性の義務をする人がいなければならない、世界の人間の完璧さになりません。

 ムニーと呼ばないこともできます。その人が大統領で政治の話を知っていても、このようなムニーは半分にもなりません。あるいは十六分の一にもなりません。パーリ語のように言えば、ムニーという言葉の十六分の一もなく、一種のムニー、あるいはムニーという言葉を使うべきではないと言っています。

 サンマーサンブッダになるには、知識、あるいは洞察の規定です。サンマーサンブッダの義務は、女性にできないほどたくさんあります。そして女性は自分でサンマーサンブッダのように悟らなければならない知性に欠けていて、聞いて実践して阿羅漢になれる、弟子になれるだけです。しかし自分で阿羅漢になることはあり得ないと述べてはいません。

 だからブッダにする能力に注目すれば、心の強さ、心の強い誓願、心の強さの誓願は、女性のように気の変わり易さがある性には有難いです。強靭、堅忍不抜、気の変わりやすさ、虚弱さはこのように違います。

 私たちは本当の自然で、男性は女性より強靭と感じます。牛の群れ、水牛の群れ、カラス、鶏、豚、何でも雄は雌より強く見えます。だから他も同じです。女性は血と血の力で、男性のように自分の脳だけを涵養する以外に、他の部分も涵養するからです。これは物理的な、身体的な面だけですが、非常に違います。仮に男性は身体だけを涵養する血があり、女性は女性に関わる部分も涵養するなら、男性は全部脳を涵養します。

 このような状態で勘定すると、女性と男性は生き方が違うと分かります。聖書には、神様は土で男性を創り、男性の肋骨から女性を創ったとあります。女性と男性の大きな違いを認めていると言うことです。

 私たちも、その様に見ると輪郭が見えます。そして重要な話ではないので考えません。その先を見ようと考えず、女性の代わりに反論せず、女性の代わりに反論しようと考えないので、考えを止めます。しかし内心では、女性はサンマーサンブッダになれない、あるいは、なるには非常に困難を伴うと信じます。そして当時の世界は、女性は女性の義務をし、議会に参加せず、外国へ留学しませんでした。今議会に座る女性、留学する女性が生まれ、おまけに男性より多いので、この世界は変わらなければなりません。

 女性男性の義務の錯綜は多くなり、何でも同じにするので、義務を区別する人は誰もいません。だから雌雄同体で混乱します。良く分けておいた義務、役目を完璧にしないので、この世界は混乱します。いずれにしても男性に子を産ませることも、女性が子種を生じさせることも出来ません。このようです。

 私は、無理に自然の規則に従わせることはできないと感じます。プラスとマイナスがなければならず、それが関わると力が生じるように、男性は一方の義務をする力で、最高はサンマーサンブッダです。

 イエズスアメリカ協会でスライドを映写した時、「ダンマのなぞ」の絵を映し、偶々、女性は世界の人間より不利で、盗賊が殺そうと追って来ると、僧や沙弥の後にいなければならないという絵を貼りました。説明は、女性は宗教に、つまり前を歩く僧沙弥に依存しなければなりません。世界の動物は自立できないので宗教に頼らなければなりません。

 だから彼らは世界の動物を、弱い状態の女性に描き、そして命を狙って追って来る盗賊は、殺すことはできません。彼らは僧、あるいは沙弥、つまり宗教と一緒に行くからです。今はボクサーの恰好で女子ボクシングを見せる女性がいます。今は、女性もボクシングで自分自身を守ることができます。女性はその絵のように弱くなく、大笑いします。彼女たちは弱いと認めず、弱者であることを受け入れません。

 さて、この話は重要ではありません。女性は特別の規定があるのでブッダになれない、女性は、母の義務を完璧に果たさなければ、つまり世界の魂を慰めて、正しい方向にしなければ、女性の最高のムニーになれないと言って終わらせます。それが女性のムニーです。




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