7 努力の実





問 : 先生。今までの人生をご覧になって、もし説教や本の執筆に使う時間を今までより少なくしていたら、煩悩を減らす内面の仕事は、今よりも進歩していましたか。

答 : 私の感覚では、煩悩と見なしていません。最高の結果があるように、最高に良く話す決意なので、煩悩と見なさないので煩悩の結果ではありません。すれば満足な結果があります。陶酔して自惚れれば煩悩になります。私はそのように考え、人に受け入れられて喜んで満足するのを、最も恐れて来ました。

 偶然珍しい話を読んだことがあります。サワーミー・ウィウェーカナンタが、アメリカへ彼の教義を広めに行った時、一日目から非常に成果があり、大歓迎されて大成功を収めました。宿泊場所へ戻った彼は、反対に「心にとって害がある話」と泣き、そのような歓迎は心を喜ばせてしまうので、運が悪いと捉えました。

 この話は、私の心に長い間刻み込まれています。成功に溺れるのは低劣なことの一つなので、考えません。

問 : 私がお聞きしたのは、そういう意味ではありません。先生がもし、話さない、書かない、このようにたくさん教えない別の生き方をなさって、他の実践、あるいはタンマの実践だけをなさったら、今よりも滅苦を進歩させる部分があったとお考えになりますか。

答 : いろんな意味で、滅苦のために苦の話を探し、そして非常に滅苦を探求しました。そこで私は私の原則、あるいは一般原則でも良いですが、自分が知ったことは、話すべきだという原則があるので話しました。だから同時に二つしました。話さなければならないことが、間違わないように非常に注意深くし、たくさん考えさせました。

 だから話したこと、話さなければならないことは善い結果になりました。要するにもう一つ利益が増え、そ滅苦も損なわず、得るべき物は得ました。その他は紛れてきた副産物です。そしてそれは、もしなければもっと善い結果があったと言うほど害になるとは思いません。これをしなかっったらもっと善いことをしたとは思えないからです。

 だからこれをし、だから小さなことに隠れている大きなことになりました。私は他の人にずっと言ってきました。もし何かを良く知りたいなら勉強を始めなさいと。今でも言っています。他人に教えられるくらいたくさん、それについて勉強すれば、それを十分良く、良い以上に良く理解します。

 どんなことでも勉強したければ、何でもそのことの先生になれるくらいします。そういう原則があります。たくさん勉強して、たくさん考えて、たくさん復習するので、自分だけ知るより、善い結果になります。だから今でも、「何かを良く知りたいと思ったら、先生になるような勉強を始めなさい」と主張しています。

問 : 先生が「仏教のためになさった仕事に満足している。誇りに思っている」と書かれているのを見ました。それは個人的な実践にもご満足なさっているということですね。

答 : それは、あなたはまだ知らない意味です。私は「してきたことについては、食べたご飯に見合う価値がある。誰かに、一度生まれて来て、ご飯に見合う仕事をしなかったと非難される心配はない。困らない」と言ったのです。

 これから、残りは余った儲けで、それほど満足・不満足に関係ありません。住民のご飯を食べている一人として、ご飯に見合う価値のある仕事をしたことに満足しています。

問 : 先生。それでは、特にご自分の仕事は、満足してらっしゃいますか。戒・サマーディ・智慧の面の進歩はご満足ですか。

答 : 満足です。しかし最高と見なしているのではありません。他人の利益になった部分には満足しています。私は満足と言います。本当に個人的なことは、満足・不満足には関係なく、正しいか間違いかに関わり、終わって見て、常に正しかったと感じます。

 もしかしたらこれから何かに出合うかもしれません。私は他の人と違い、自分を預流、一来、不還、あるいは阿羅漢と測りません。測らないし、そのように規定する努力をしません。残っている苦があるかどうかだけです。残っている苦があれば、その苦を取り出して、どんな種類の苦か見守ります。

問 : 先生。それでは今、先生は妨害する苦があるとお感じになりますか。

答 : ないと言わなければなりません。しかしないと言えば、ウタリマヌサタム(人間として素晴らしい徳。上人法)を自慢することになります。(笑) 何も欲しくありません。何も問題になるほど欲しくありません。その種の望みが怖いので、望む気になりません。

 それは苦を生じさせ、問題を生じさせます。しかしそうなりたくないと言うことは、阿羅漢だと自称するのと同じで、願望が尽きたことです。この言葉を言う人は、自分は阿羅漢だと宣言することです。

 私はまだ言いません。もしかしたら、まだ知らない新しい望みがあるかもしれないと信じるからです。それがいつか現れるかも知れません。もし現れれば、まだ苦は終わりません。

 死ぬまで現れなければ善いです。終わりです。だから注意深く、何も欲でしないようにし、している仕事も、欲でしないように注意し、人間社会の利益になるように、知性でします。

問 : その仕事をしなければ眠れないとお感じになるような仕事はありますか。

答 : おー、そういうのはありません。そういうのは尚更ありません。

問 : 「アーチャンプッタタートは哲学者で、宗教家ではない」と言う人がいます。

答 : 人によって、もしかしたら言葉の使い方が違うかもしれません。私は、仏教は哲学ではないと、毎日教えています。何十回言ったか知れません。仏教は哲学ではなく、心の面、精神面の科学であり、自然の法則です。

問 : しかし先生は、人にタンマを理解させるために教える時、よく哲学的手法をお使いになります。

答 : 知りません。そうしようとしたことはありません。

問 : 意味の解釈、説明、理論を使うのは、哲学ではなくても、哲学的手法の一つです。

答 : 私は、仏教の最重要なことを人に明確に理解させようと、非常に努力しています。私は、仏教は哲学ではないと見なしています。私が教える方法も、理論的な思考ではありませんが、検証する物、あるいは試す物である物質、あるいは実物があります。

 私たちは哲学という言葉の使い方が違うのかもしれません。哲学は数学的思考で、タンマは思考しないで洞察します。あるいは思考を脱します。思考しなければならないなら、仏教ではありません。仏教の明らかに知ることではありません。

 こういう話は前にも、サワーミー・サッタヤーナンタブリーが生きていた頃に、議論や会話したことがあります。ナーガプラティープはそういう話をする集まりに、欠かさず来ました。セッティー コーセートは時々来て、私はチャオクンラップリーと行きました。チャオクンラップリーが誘いに来たので、必ず一緒にサワーミーの家に行きました。

 一人では行ったことはありません。「哲学とは何か」から、「哲学に philosophy という言葉は使えない」ということまで、この話題で話したことがあります。しかし誰もが使ってしまうので、フィロソフィ、あるいは哲学と知っておかなければなりません。私はインドの本当の意味での哲学という言葉を使います。

問 : 先生も philosophy の意味でもお使いになっています。哲学者なら、彼は仮説を立てて、それから理論で話します。しかし先生は、新しい仮説を立てないで、ブッダの教えを仮説にして、そしてその教えを見せるために、説明、あるいは解釈なさいます。

答 : ああ、私はブッダの教えを仮説にはしません。これらの物に仮説という言葉を使ってはいけません。私がこれらの真実を証明しようと努力しても、仮説とは呼びません。

問 : それの真実を検証する過程で、先生は哲学的過程を使われています。しかし「理解するには数学的思考ではなく、洞察しなければならない」とおっしゃいます。

答 : そういうのもあります。噛み合わせなければなりません。あるいは、その方法で、それから始めなければなりません。全部「見るだけ」と言い、まだ「見える」ではありません。

 仏教のタンマは、見るという意味でなければなりません。見るだけでなく、周到に、明らかに、明瞭に見えることをヴィパッサナーと言います。数学的思考はヴィパッサナーではありません。思考できるのは初歩の基本だけですが、カーラーマスッタで禁止しています。

問 : 先生。カーラーマスッタでは、信じてはいけないと禁じています。

答 : intellect(知性) の理由で信じてはいけない。

問 : しかし本当は、十項全部を使わなければなりません。つまり信じさせませんが、十項全部を使わなければなりません。

答 : 通過して、そして信じません。通過してもいいです。興味があったら、試してみてもいいです。

問 : どの項目も、十項全部を使わなければなりません。

答 : それです。それは通過しないない話ではなく、通過してもそれに夢中になりません。みんなが聞いていたら自分も聞かなければなりません。そうしなければ、私たちは何の知識もありません。人と同じにするもことも多少あり、する必要があります。推測することもあります。

 子供でも哲学の意味で考えることがあります。状況に応じて理論で考えること、自分の考えに堪えられるように証明することは、科学のあり方ですが、規模が小さいかも知れません。自分の先生であるサマナ(出家者)が言ってもすぐには信じないで、聞いて、よく調べてして見ます。

 普通の感覚でも、滅苦ができると感じれば試して見て、中には滅苦ができると明らかに見える物もあります。「貪がない。瞋りがない」と話すのは、滅苦ができます。こういうのは見ることができ、哲学ではありません。

問 : 先生。それでは先生のご経験の中で、ヴィパッサヌーパキレーサというものに出合ったことはありますか。先生の実践生活で。

答 : 何のことか分かりません。そのように言うほど騙されたことはありません。誤解して停滞して進まなければ、そう言うことができます。多少はあった物もありますが、私はその角度で」観察しませんでした。

 観察したのは、少し善くする努力だけで、いつでも少し善くします。「ヴィパッサヌーパキレーサ」は、ブッダの言葉に見たことはありません。私の記憶では、ヴィパッサナーの先生が作った言葉です。しかしそれも正しいです。そういう理由があります。

問 : 先生。多少あるとおっしゃったのは、例を挙げていただけますか。

答 : 憶えていません。簡単には、サマーディをして幸福になり、続けてヴィパッサナーをしたくなることをヴィパッサヌーパキレーサと言います。

問 : 先生はそうなったことがありますか。

答 : そうなる権利はあります。

問 : 先生。タンマを深く理解する時、九ヴィパッサナーヤーナに書かれているように、いろんなレベルのヤーナ(智)が生じますか。

答 : 分類を知っていればそうなります。それは正しいと言います。しかしそれは段階の話にしすぎます。実際あっという間に経過します。

問 : 先生。一人の人のタンマの実践生活で、そのようなのを何回も経験しなければならないのですか。それとも一度で終わりですか。

答 : それは全部捨てるか全部でないかによって、全部捨てれば全部終わり、全部捨て切れなければ、一部分しか捨てられなければ、続けてする義務があります。非常に賢いか少し賢いか、最高に賢いかによって違います。

 知りすぎれば知りすぎるほど難しく、時間がかかります。いろんな名前について、いろんな規定や分類について、いろんなヤーナについての知識は、ブッダが言われたのではなく、後世のアッタカターにある説明です。特に人が好んで引用する十六ヤーナは、ブッダの言葉にはありません。

問 : 先生。いろんなヤーナは生じた結果で、私たちが実践する部分ではありませんね。

答 : 知識あるいはヤーナは、正しく実践した結果で、結果と実践は同じではありません。知識は、それの自然で変化し、その時の知識をその名前のヤーナと呼び、この時の知識をこの名前のヤーナと呼びます。彼はこのように規定しました。

 ブッダは規定しないで、煩悩を断つのは「煩悩を断つ」です。そのように細かいのは後世のアッタカターで、教えるのは更に文字通りに、言葉を見て教え、本物ではありません。それでアーチャンは「あなたは終わりました。卒業です」と言います。本当に終わったか終わらないか、誰も分知りません。

問 : 先生。いろんな実践の段階、たとえば発生と消滅を見る段階で、消滅だけを見ます。あるいはこのように倦怠が生じたら、この段階を実践の過程にすること、つまりすべてをそのように見る努力をすることはできますか。

答 : その系統に依存できます。規定した人は賢い熟練者なので、発生と消滅を見て、消滅だけを見て、非常に怖い物と見て、飽き飽きする物と見て、そして害のあることと見て、それから解脱するべき物、すべてのサンカーラ(作られた物)に動じるべきではないと見ます。

 すべてのサンカーラに動じなくなれば、向こう側、苦のない側へ移動します。

問 : 私たちがいろんな段階の心の訓練をするのは、心をたわめるようなものですね。いろんな段階の感覚を、勉強したことへたわめるのですね。

答 : この規則を多少知っていれば使い物になります。しかし勉強した知識は、勉強したことにしか導かないかもしれません。彼らがしているように、自然の真実になりません。知識は学習によるヤーナに引っ張って行ってしまいます。知識はブッダの言葉による実践ではありません。

 ブッダの言葉には、十六ヤーナという言葉はありません。いくつかの名前のヤーナもなく、ブッダの言葉でない本にあります。パティサンビダー(無礙解)の中にはあるかもしれません。清浄道論のような後世の本の中には、完璧にあります。彼は増やして、つけ足して完璧にした九つあることが重要としています。

 ビルマでは、簡単で正しく、完璧で良い決まりを作る競走をしています。ビルマの高齢のアーチャンは、これらに関した本をたくさん書いて、誰がたくさん書いたかを競い、百話も書いた人がいます。たいてタラバヤシの量で多さを測りました。有名な人はマハーシー サヤードーです。

問 : 先生。人から頼まれた質問ですが、先生が書かれた詩に「プッタタートは居つづける 死なない」というのがあります。こういうのは、自分の名前は不死で存在し続けるというような、自我を表しているのではないか、と彼は言います。

答 : それでもいいです。そう見てもいいです。しかしここでのプッタタートとは、プッタタートの作品を意味しています。プッタタートという言葉は、いつも名前が出るべきで、作品が死なないようにしたいです。

問 : 先生。そういうのは自分の作品への執着ではないですか。

答 : 違います。そのようにしてほしい、プッタタートの作品を不毛にしないで使ってほしいという願いです。この詩は、墓碑銘にするつもりで書きましたが、誰にも言っていません。

問 : 印刷して配っている人がいます。

答 : (笑) 発願として発表してもいいです。永遠に仏教に奉仕します。ヒト語で、世界の仮定で「あの人は死なない、この人は死なない」と使っているように理解できるはずです。ブッダは死なないので、ブッダの奴隷も不死でなければなりません。いつでも仕えられるように控えていなければなりません。

 シェークスピアのような人も、死なないと見なしています。いつでも彼の名前を口にする人がいるので、世界のここかしこに、シェークスピアの名前を口にする人がいるので、死にません。この意味では、その人の好きなように、誤解したままにしておいても大丈夫です。

 私はそう考えません。よく読めば、だいたい理解できます。仏教に奉仕するためにいて、自我でいるのではなく、そしてこの作品は仏教に奉仕します。後ろにいるたくさんの友達が成功するよう託します。

問 : 先生はずっとご自身で探求なさって来られ、先生である人はいません。そのことが、先生のプライドを強くし、他人の意見をあまり聞かなくさせていると観察する人がいます。どれくらい真実ですか。

答 : 私はそう見ません。私は滅苦ができることを「正しい」と見なします。どうして他人を信じなければなりませんか。他の人は「善い」とか「正しい」と言う人を信じなければならなりませんが、私はそう言う人を信じないからです。

 私が「正しい」とか「善い」とか言うのは、滅苦ができる点です。私は滅苦ができるかできないか、自分で見ます。この教えを捉えているので、他の人にも、「滅苦ができる正しさ」という言葉を持してほしいです。

問 : すぐに直接証明できない物もありますね。

答 : 時を待たなければならない物も、試さなければならない物もあり、検証できる限りは検証して見ます。滅苦ができると見えた人は試し、滅苦ができれば採用し、正しい教えとして掴みます。間違ってはならないという形で、強い考えと言うこともできます。しかし高慢な強さは、別の種類になります。

問 : 先生。それでは先生は、心の幸福と名誉の間でどちらかを選ばれたこと、あるいは選ばなければならなかったことはありますか。

答 : ありません。一度も選んだことはありません。名誉は仮定にすぎないと、ずっと感じて来ました。私は本物に興味があります。名誉のある人は確実ではなく、ある人たちは善い人だと言い、ある人たちはバカだと、悪人だと、ずるい人だと言います。名誉という言葉は、普通の人の仮定の話です。




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