6 心学





問 : 先生のサマーディの訓練の進歩について、初めからお聞かせください。

答 : 話すのが大変です。一つ一つ質問してください。全部は、どこから始めたらよいか分からなくて、話せません。

問 : 先生は、いつから本気でサマーディの練習をなさいましたか。

答 : スアンモークを作ったばかりの頃、と答えることができます。しかしそれも話し難いです。つまり練習しながら、探求しながらです。

 三蔵を探求し始めると、サマーディに関した話をたくさん見つけ、あるいはその後で更に明らかになりました。この時は考えることと探求を一緒にしました。だから毎日探して考えることが、サマーディになりました。一つ一つの項目を良く判断しなければならないので、ヴィパッサナーのようにそれぞれの項目を考えました。このようにした期間は長いです。

 座ってするサマーディが一つ、あまり座ることに関係なく、特別に熟慮する種類も一つで、後になってからは、後者をする方が多かったです。後になればなるほど、今でも、話すことを探しながらヴィパッサナーをし、話すことを探して人に聞かせます。しかし多くのアーチャンは、それをバーヴァナー(修行)と、あるいはサマーディバーヴァナーと認めないでしょう。私はこのように違います。

 静かな場所に一人で座ってするのは、むしろサマーディで、それには限界があり、後に休息のためにするものになりました。知識面は何の進歩もありません。ヴィパッサナーとしてした時だけ、つまり静かなサマーディでなく、洞察のためにすれば、すべての挙措行動がヴィパッサナーの機会になります。

 つまり深い知識を以前よりもっと明らかにします。それは、考えて真実を探求するという類の、あるいは深いレベルの規律について話すと、お客と喋っている時にもあります。だからすっかり変わりました。

 三蔵からたくさんサマーディやヴィパッサナーの話を探したので、三蔵の勉強と同時にした結果は大きかったです。言葉の意味に注目して、洞察になるまで真実を探さなければならないので、全部含まれているので、考える必要はありません。何十年も一貫してこのようにしてきました。

 全部を話せば、こう言わなければなりません。サマーディをするのは、休息の話になり、ヴィパッサナーの基礎にしたい訳ではないので、上手く答えられないと言います。項目ごとに説明として言うのも、上手く言えません。ずっと続けて、五十年間いつも変わって来ました。非常に変わりました。項目で質問する方が答え易いです。

問 : 先生。先生は初期の時代に誰とも話さない無言行をなさいましたが、サマーディと直接関係ありますか。

答 : それです。直接静かにサマーディをする機会を探す話で、誰にも会わず、誰とも話さないことはどんな結果があるか試してみました。ブッダもパティサンリーナヴィハーラというのをしたと聞いたので、試してみる勉強でした。

 三か月だったか何週間もだったか、誰にも、食事を持って来てくれる人にも会わず、決まった場所において行って貰いました。ブッダもそうしました。これは最高の休息なので、試してみたかったからです。

問 : どれくらい長く試されたのですか。

答 : 長くですが、ハッキリ何カ月か言うことはできません。

問 : 雨安居の時ですね。

答 : 雨安居中か、雨安居以外か思い出せません。食事を持ってくる人は大変でした。普通は私が托鉢に行くのに、托鉢を辞退させてもらって、持ってくる人に負担をかけたので、一年中するわけにはいきませんでした。

問 : 長いのは何回なさいましたか。

答 : 長いのは一回です。他は短期で、一週間くらいのこともありました。長いのは一度きりで、その後はありません。特別の時もあり、私が托鉢に行かないで、一皿そこに置いておくように頼んだこともありました。こういうのは五日か七日くらいで、何カ月もではありません。托鉢に行った沙弥から貰うことができました。

 ある時代にはご飯を汁(カレーの類)と混ぜて(笑)、話すと涎が出ます。(笑) ご飯とナムプラー(魚醤)を混ぜて、危険な小骨のない魚の肉をほぐして混ぜます。大きな入れ物の中で、大きなしゃもじで潰してよく混ぜ、汁(カレーなど)も入れることもあり、ナムプラーを入れたこともあります。

 皿に盛って表面にバジルなど香りの良い野菜を載せると、それも美味しい物になってしまうと言います。普通に食べるより美味しいです。好きなように選んで食べるのは、却って美味しくありません。こういうのには敵いません。

問 : 沙弥が終わりまで混ぜるのですか。それとも先生がご自分で。

答 : 彼らが混ぜます。時には貰って来た食べ物を全部一度に混ぜ、そして一人一人に分けることもありました。これは無言行ではありません。

問 : 先生。長期に無言行をなさった時、何を練習され、何を試されましたか。

答 : 何を試したか言うのは難しいです。いろんな形のサマーディですが、パーリ(ブッダの言葉である経)にある物、教科書で勉強した物で、誰かが考えた手法ではありません。自由気ままに自分で勝手に考えついたのも結果はありました。サマーディとしての結果がありました。

 パーリの教えを見つける前から、ブッダの言葉のサマーディを知っていて、ボリストー、サマーヒトー、カンマニヨーなどは、丸太のように固く鎮まる練習ではないと観察していました。

問 : その時、野菜だけを食べる試みもなさったのですね。

答 : 何種類もです。気ままな思い付きで、一時期、一時代ではありません。全部臭いを嗅いで見るのは、できない訳ではありませんが面倒です。都合に合わせて一つずつする方がずっといいです。

問 : 憶えていらっしゃることで、その他に試されたことはありますか。無言行をなさった時は、本も書かれていますね。

答 : 無言行をしながら本を書いたこともあり、書かないこともありました。ぼんやり座って妄想したこともあります。

問 : 当時先生は、アーナーパーナサティの練習をなさっていましたか。

答 : 大念処経にある方法でアーナーパーナサティの練習をしました。スアンモークの初期には、まだ、今使っているアーナーパーナサティスッタを見つけてなくて、アーナーパーナサティの一部だけ知っていたと言います。

 つまり大念処経で述べられている呼吸を刻む部分だけです。それは四段階ある最初の段階です。アーナーパーナサティの最初の部が大念処経にあるので、練習したことはあります。

 どの部分をするかは、どこから始めてもいいので、都合次第です。つまり知っていましたが、文字どおりに原則を捉えませんでした。いろんな方式、いろんな項目があり、サマーディによる幸福を意識し、幸福の感覚を意識しました。こういうのは大念処経ではなく、大念処経の限界を越えて、アーナーパーナサティスッタの第二部です。

問 : 先生。私は先生が、目を閉じて正確に見えるまでアローガサンヤーの練習をなさった記録をノートで見ました。

答 : 遊びです。志願して遊びました。

問 : 想像を使いますか。

答 : 想像ではありませんが、何と言うの分りません。目に焼き付けると言ってもいいです。昼間見たことを、目を閉じて、目を開けていた時のように見ます。こういうのもアローガサンヤーです。

問 : 先生。こういうのを練習するには、サマーディの基礎がなければなりませんか。

答 : 遊びでできます。子供も遊べます。私などは、自然のサマーディの天分があるので、簡単と言うことができます。しかし完璧な形の方がより良く、より緊密で、より巧妙です。このように子供の遊びでしても、アローガサンヤーとするという規定があり、眠気を覚ますことができます。

問 : 見える像は、目に焼きついたウッガハニミッタと同じですか。

答 : 実像と同じで、ニミッタに分ければ、ウッガハニミッタです。外に座るともっと良く、目を閉じても、目を開けているように見えます。とっておいて夜できれば、もっと上手になります。ティヴァーサンヤーを夜すると、昼のように見え、アローガサンヤーを光のない暗い場所ですると、光が見えます。

問 : 初期の佛教新聞に「どうしたら常に生じている感情を見抜くことができるか」と質問した人がいて、先生は「よく訓練された念処は、感情を知り、感情を見抜きます」と短くお答えになっています。読んで、どう練習するのか分かりません。

答 : 感情(心が捉える物)をサティで受け止めるため、そしてその感情を、無明の触・受・欲・取にしないためにサティを鍛えるのと同じです。最高のは、これしかありません。

 サティを鍛えて「ああ、ただの感情だ」と、つまり形・声・香・味であり、自然の元素にすぎないと見れば、その感情は、無明の触を作りません。無明の触なら、喜びや悲しみの原因である感情になります。こういうのを、無明の触で感情を受けとめると言います。

 サティが十分あれば、感情は感情にすぎず、感情は自然にすぎません。自然の元素だけなので、原因と縁で変化します。原因と縁で経過するのは明の触なので、愚かな感覚、愚かな欲望は生じません。愚かな欲望を止めてしまえます。

 そうすれば自然に、降り掛かってきた物をどうするべきか知り、何もする必要がなければ何もせず、対処しなければならない話なら、知性でします。

問 : 触が生じた時喜んだり悲しんだりしないのは、考えでするのですか、感覚でするのですか。

答 : そのようにすることはできません。考える時間はありません。前もって明らかな知識にしておき、いろんな感情を「無常・苦・無我」で熟慮しておきます。それが智慧で、何か感情に触れることが生じたら、その知識を思い出すサティがあります。

 今考えるのではありません。考えて分類して数える術はありません。感情が触れて来る時にはできません。稲光のように速いので、一瞬の間に、常に熟慮していた「無常・苦・無我」がその感情を捕えます。だからその感情は解放されて、自然の元素になります。

問 : 別の言葉で言えば「求める感覚を引き留める」ですね。

答 : こういうのには「引き留める」という言葉は使いません。引き留めるなら、まだ非常に形式的で、「前からある知識を、サティが思い出す」という言葉を使わなければなりません。

問 : この知識は感覚ですね。喜びとも悲しみとも感じない感覚で、考えではないですね。

答 : 「すべての物はどのようか」という知識です。無常・苦・無我の知識で、生じて来る感情、あるいは触れて来る感情と対決します。考えて思い出しておさらいする時間、あるいはヴィパッサナーをする時間ではありません。その時のサティはできません。

 ヴィパッサナーは別の時にしておいて、できるだけ無常・苦・無我に関した智慧のある人でいなければなりません。そうすれば何かが降り掛かってきた時、サティがこの知識を持ってくるのが間に合い、見守る自覚があります。

問 : 私たちが思い出すことができるのは、concept 、考えでなければならないですね。

答 : ヤーナ(智)、あるいは智慧と呼ぶ方が良いです。考えではありません。考えは何もできません。有益に使えません。ヤーナの類の、あるいは明の類の知識です。

問 : 感覚を引き出すと言うのでもない。

答 : おー、感覚は広いので、どの意味で使っているか分かりません。知識でなければなりません。前から作っておいた無常・苦・無我の明確な知識で、触れて来た物を消滅させ、それを「無常で苦で無我」にしてしまいます。その時自覚(サムパッチャンニャ)と言います。

 理性と智慧はどのように働くか、ナックタム(僧試験)の学校では教えません。智慧は進歩しなければなりません。バーヴァナーは智慧を発展させなければなりません。ヴィパッサナーは知るべきことをいろいろ知りますが、特に無常・苦・無我を知ります。知る智慧があることの重要性はここにあります。

 すべての物は無常であり苦であり無我と知る智慧があるのは、考える能力外で、ヤーナ(智)と呼ぶ知識です。あるいは智慧があります。次に触れて来る感情があると、サティがその知識を思い出し、その知識が、触れてきた物に対処し、あるいは触れてきた本物を袋叩きにします。思い出せた時は「サティ」と言い、智慧でその感情を警戒し続ければ「自覚」と言います。智慧はずっと働いています。

 サティの類はサマーディで、自覚は智慧で、サティはサマーディです。サティが認識することを思い出して、サティが智慧を連れて来て、そしてこの智慧が直面している感情を警戒し続けます。これを自覚(サムパッチャンニャ)と言います。自覚は問題がなくなるまで働き続け、働く必要がなければ何もしません。

 たとえば助けを求める声など、対処しなければならないことなら対処しなければならず、非難の声、称賛の声なら、対処しなくてもいいです。助けを求める声なら、対処しなければなりません。自覚は任務があります。

 続いてどうしなければならないかは、サティで、ぼんやりしないで、それに迷わないでします。サティがなければ、すべての智慧は不毛です。どんなに偉大な智慧も、生じてくる出来事に使わないので不毛です。

 智慧がなければ武器がないのと同じで、サティは何もできません。自覚がなければサティは働けないので、生じてすぐに消えてしまいます。だから最後まで正しく維持する自覚がなければなりません。これは人間になくてはならない、知らなければならない大原則で、この世界のどんな問題にも使えます。

問 : このように使えるようになる前の段階で、どんな練習をすれば訓練され、育成された自覚と言えますか。

答 : パッチャヴェーガ(省察)のように智慧を鍛えなければなりません。出家したばかりの僧が寺に来て「ヤターパッチャヤン パヴァタタマーナン」と勉強するのは、全部智慧の話です。「これらの物は確実ではない。常に変化し、いつも変化しているので、厭わしい。掌握すれば問題になり、苦になる」と見ます。

 つまり喜んだり悲しんだりすれば問題になります。そして「そのようになる」ので、自然の出来事を自分の物と捉えません。出家したばかりの僧が熟慮するのは難しいですが、不可能ではありません。善い先生が教えてくれれば、必ずできます。毎日彼らがパッチャヴェーガするように、いつも無常・苦・無我を承知していれば、智慧の訓練です。

 パッチャヴェーガはじっと止まっているサマーディではなく、智慧であるサマーディで、智慧と一体になっています。ヤターパッチャヤン パヴァタタマーナンを熟慮して見ていれば、いつでも原因と縁になります。普通の人でも本当に実践すれば、「私たちが知っている、触れているすべての物は何でも、絶えず原因と縁で変化している、自然の元素にすぎない」と見えます。

 これは多少勉強しなければなりません。元素(ダートゥ)という言葉もあまり知られていません。自然にある物です。最も重要な文は「ニッサトー ニッチヴォー スンニョー」で、「動物でも人物でもない」と良く理解することです。

 庶民はこれらの言葉を勉強しません。動物、人物は高いタンマで、そしてインドの古い言葉でもあります。「動物ではない。人物ではない」。仏教はインドの古い教義を否定するように教えます。動物ではない。人物ではない。

 古代のインドの教義には動物がいて人物がいて、ほとんど普通の教えです。仏教ができたら反対に動物ではなく、人物ではありません。動物と呼ぶべき物、人物と呼ぶべき物はいません。これが最高の智慧で、あるように訓練しておきます。

 何かが生じて根に触れたら、サティがこの真実を、この智慧を思い出します。「サティが智慧を呼んで来て感情と対決する」と言い、その時「自覚が全身に行き渡っている」と言います。サティをタイ語で言えば、「思い出せる」です。

 しかし本当の言葉は、矢のように速く走るという意味で、矢のような動きをサティと言います。その出来事に間に合うように知識を運んで来るために、矢のように速く走ります。その知識を智慧と言い、智慧が自覚になり、その感情をあらゆる面からその感情の状態で、同時に認識します。

 苦の側の縁起のサンカーラを作らなければ、そうすれば苦は生じません。練習しなければならないのは一つしかありません。どんな感情でも、意識の感情は最高に大変です。非常に速い名のものなので、非常に問題があります。

 形・声・香・味・触の五種類は大したことはありません。それは物質の話ですが、精神、意識であるタンマーロム(考え)は、非常に馴れていなければ間に合いません。考えが生じて、喜んだり悲しんだりし、そして苦になり幸福になって、それからやっと自覚します。苦になってしまってから気づくからです。

 しかし再びサティは戻り、苦になればサティが戻って、苦にならなくて良い方法を思い出し、智慧を思い出し、何かを思い出して対処します。悪い感情が触れた時は、サティが智慧を運んで来て、自覚で攻撃します。

 私がナックタム三級で自覚について勉強した時は、憶えている限りでは、非常に可笑しな話でした。滅苦ができるタンマの教えに至らない、子供に教えるような。

問 : 先生。このようなサティの鍛え方、先生がおっしゃるパッチャヴェーガのような訓練は、サマタの練習ですか、ヴィパッサナーですか。

答 : どちらもですよ。心の訓練、心を支配するのは戒で、考えることができる心の力を集めるのがサマーディで、明らかな知識である結果を得るのは智慧で、戒・サマーディ・智慧は、三本を撚り合わせた縄のように、戒・サマーディ、智慧を分けることはできません。

 バラバラにしてしまえば働けません。サマーディと智慧があっても、心を強制しなければできません。三本撚りの縄は、戒・サマーディ・智慧で、八本撚りの縄は八正道です。中には戒だけを強調して、他人が戒を重視しないと叱る人もいます。

問 : 先生。一般に私が観察した限りでは、彼らのほとんどは、直接サマーディの練習をして、それからヴィパッサナーをしています。(註 : この質問と次の質問は、インタビューに加わっていたプラ・ブンペン ニササーカローの質問)

答 : 彼らは、三つが揃わなければ働けない心の、深い自然を勉強していません。今私が何かを熟慮して無常・苦・無我が見えれば、智慧の話になり、受け入れるにふさわしい心になります。このように全部揃うようにするには、管理、強制がなければなりません。この部分が戒です。ヴィパッサナーを始めれば、戒とサマーディと智慧があります。

 今戒を受け、今戒を持してサマーディを始めれば、それで智慧になるというのは、滑稽です。どんな学問知識を熟慮するにも、戒・サマーディ・智慧が揃っています。サマーディは智慧と一緒に訓練します。戒は姿を現さないで、サマーディの中に隠れています。強制してさせるので、智慧の基礎として隠れています。

 サマーディをする意志は戒で、何かを規則で正しくさせることは戒で、サマーディの中に隠れ、智慧の中に隠れています。智慧だけが進歩しているように見えますが、全部揃っています。彼らはこの項目の心理を知りません。

 画面に像を映すのと同じで、映像を見ると、画像しか感じません。像を作っている光があると感じません。像がなくなって、画面が光だけになれば、光だったと知ります。光と一緒に像があれば、私たちは、映像の中に隠れている光に関心を持ちません。同じように、サマーディは智慧の中に隠れています。

 毎日唱えている経の言葉を思い出します。ラッタナスッタに「サマーディ マーナンタリカンヤーマーフ サマーディナー テーナ サモー ナ ヴィッチャティ」とあります。アナンタリヤ(無間)サマーディと同じサマーディはどこにもない。つまり姿を現さずに智慧に隠れているサマーディで、光がなければ像が届かないように、サマーティがなければ、智慧は何もできません。

 像が現れている時は光として現れないので、それが何で運ばれているか知りません。このサマーディをアナンタリヤと呼ぶことも、アナンタリカと呼ぶこともできます。このサマーディはどんなサマーディとも違い、仕事に使うサマーディです。

 座って体を硬直させサマーディは、智慧の面の仕事に使わないので、何も利益がありません。私たちが仕事に使うサマーディは、姿を現す必要がありません。姿を現す意図がなく、自然です。心がこのようなサマーディになれば、智慧が生じ、そして維持されていれば義務をします。

 考えがあり、熟慮していれば智慧の話で、自然にサマーディが生じています。子供がコインを穴に投げ込むように、あるいはゴムのパチンコを撃つように、撃とうと考えるだけでサマーディが生じ、そのサマーディが良ければ命中します。撃とうと決意すれば、非常に素早く、自然にサマーディが生じて的中します。

 これもアナンタリヤ(無間)サマーディと言いますが、一番低いレベルです。人間やすべての動物が危機を脱せるのも、このアナンタリヤサマーディのお陰と言っても間違いではありません。

 誰もそう見る人はいません。私たちが危機を脱せるのも、アナンタリヤサマーディのお陰なのに、感謝する人は誰もいません。すべての行動、たとえば歩くことなどは馴れていますが、本当は歩くサマーディがあります。つまづいても、転んでも、道を間違えても、それは歩行と同時にあるアナンタリヤサマーディのご利益です。

 何かをするために心の力を集中させることをサマーディと言います。私たちが何かをする時、戒・サマーディ・智慧があると言うことができます。しかし誰も信じる人はいません。話して叱られたくありません。(笑) 何をするにも、戒とサマーディと智慧があります。

 ご飯を食べるにも、正しく口に入れて食べるように強制し、食べる強制は戒です。そしてご飯を食べるサマーディがあり、そして最高に善く食べる知識があり、注意するサティがあり、正しさがあります。だから毎日ご飯を食べることも、戒・サマーディ・智慧になります。この教えを、心を高くする方に使います。

 音楽を演奏する人などには、戒とサマーディと智慧があります。それをするよう強制することが戒で、専念することがサマーディで、楽譜通りに正しく美しくする知識が智慧で、戒・サマーディ・智慧はすべての仕事の基本です。

 すべての仕事に戒・サマーディ・智慧があると言うと、私が勝手に言っていると、あるいは人を騙すと、必ず非難する人がいます。そして「もしそうなら、何もしない。全部それ自体にあるなら、何もする必要はない」と問題にします。

 本当はもっと明らかに、深く熟慮しなければならない話で、レベルが違います。いずれにして戒とサマーディは、自然にその中に隠れています。それはあり、見えるよう見るだけです。見えるとは、あると見えることです。

 私たちはこの法則があるのを知りません。すでに戒・サマーディ・智慧があるので、この人生で、それをどんどん高くします。高くなっていく実践をし、高いレベルの滅苦まで、高くなっていく結果を受け取る、と言います。

問 : 先生。ちょっとさっきのところへ戻らせてください。意の触(マノーサンパッサ)を見抜くのは難しいです。それで、意の触を見抜く、何か特別な技法はありますか。

答 : それは別の時勉強します。いろんな感情は無常であり苦であり無我であると知るよう、訓練しなければなりません。本当に感情が近付いてきたら、サティでその感情と対決し、それは無常であり苦であり無我であると見ます。ヴィパッサナーをする時は、智慧の面から熟慮し、無常・苦・無我を学び、もう一方でサティが敏速になるように訓練します。

 私は最高に素晴らしいのは、アーナーパーナサティの十六段階と言います。全部を練習すれば、最高に完璧な戒・サマーディ・智慧があります。そうするよう強制するのが戒で、集中する心がサマーディで、無常・苦・無我を明らかに知ることが智慧で、アーナーパーナサティ十六段階に全部あります。

 サティの訓練、サマーディの訓練は初めの、第一部の四段階に揃っています。このように訓練すれば、サティを速く多くする訓練になります。いつでも訓練するからです。

 第四部の最後のアニッチャーヌパッシー(無常観)、ヴィラーガーヌパッシー(離貪観)、ニローダーヌパッシー(滅観)は智慧で、そして智慧の結果です。一方二部と三部の、受(感覚。ヴェーダナー)の話は心の話は、心と智慧の両方で、サマーディの訓練と智慧の訓練です。

 見る角度によって、知識の面は智慧、心の力を集中させる面はサマーディ、基本の強制する面は戒と言います。だから私たちは、アーナーパーナサティ十六段階をしている間中、戒とサマーディと智慧があります。

問 : 先生の初期の著作の中に、いろんな行動でサティを鍛えるよう強調されているのを見ました。動く時はいつでもその前に自覚します。こういう練習は、それをすると、どんな結果がありますか。

答 : それは直接サティの訓練です。サティの訓練にはサマーディも含まれています。サティとサマーディは同じ部です。私は、この後半の近道を提言しています。講義の言葉では「核の時代の最短のヴィパッサナー」で、最高に近道と言います。戒とサマーディと智慧から、サティも、自覚も、何でもその「近道」と呼ぶ行動の中にありますが、誰も興味を持ちません。

問 : 先生。その最短方式ですが、この方式を開発するどんな必要がありましたか。

答 : 本を書くため、勉強しやすく、憶えやすい簡単な規則の手引き書を書くためです。このように段階的にしたので、自分は今どのレベルの訓練をしているのか簡単に憶えられます。走って追う段階、あるいは番をする段階、ニミッタを作る段階、あるいはニミッタを管理する段階。それ以前は非常に面倒で、混乱していました。

 それに非常に多かったので、多くしないために、戒・サマーディ・智慧である一つの形を、無常・苦・無我が見えるまで、名形(心と体)が見え、名形を知り、五蘊を知り、五蘊の取を捨てることを知るまでします。

 全部が最短方式に納まっているので、核の時代に最高にふさわしいです。十六段階にする必要はなく、このように簡単にしますが、その中に、十六段階が入っています。

問 : 段階は細かく刻まれ、細かく切ってあります。

答 : 緻密で簡単です。

問 : 一つの段階から次の段階へと順に進まなければなりませんか。

答 : 説明してある意味で、全段階をしてほしいです。そうすれば名形(心と体)を知り、五蘊とはどんなかを知り、五蘊の無常を知ったと言われます。目的はこれだけです。短く言えば、五蘊の無常を知り、苦と無我を知れば、話は自然にヴィラーガ(離欲)ニローダ(滅)になります。

 これはいつも私の心を包囲している考えです。つまり人間のための簡単な方法、タンマの実践面で人間同朋のためになる方法を探しています。これが基礎にあるので、説明が珍しくなり、多くの人が間違いと見、異教と見る人もいます。



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