5 頭陀行





問 : 先生。つい最近、先生が「私は自然の近くで、そして最低の暮しをしている。つまり食べることも着ることも何でも、それ以上ないような最低の。それがそれ以上落ちられない、もう転べない項目です。最高に低いので、残っているのは登ることだけです。登ることだけが残っていて、それ以上落ちる心配はありません。最も低い所に落ちたからです」とおっしゃった部分で、最高に低いというのは、どういう意味か教えてください。

答 : 食と住について話しています。食と住が低ければ、心は低くなりようがなく、高くなるだけです。自然に有利な言い方をしています。衣食が最低になれば、他に道はなく、高い方へ戻るだけです。低い生活をすれば、それ以上低くなれないので、体と心の面は必ず善くなります。

問 : 先生。それはどんな仕事の人にもふさわしいですか。

答 : 世間一般です。つまり、自分は最低にいると見てほしいです。そうすればそれ以上低いのはなく、高くなるだけです。ここで言う高い低いには特別の意味があります。「高い」を誤解すれば煩悩による高さで、そういう高いのは、幾らもしないでバタッと崩落するので、低くいる方が安全です。高くなるだけで、少しずつ良く知り、少しずつ見抜きます。お坊さんに低く暮らすように勧めるのは、普通の意味で、何も特別な物はありません。

問 : 先生が自然の中で訓練なさったことは、その後の人生と仕事にどんな影響がありましたか。

答 : それも答え難い、あるいは証明し難いです。しかし低く暮らして来たので、あるのは高くなることだけです。何でも食べられ、どんな暮らしもでき、何処にでも住めました。これからも何の問題もありません。食べること住むことは既に低いので、あるのは高くなるだけです。最低なので、上りに転じるだけです。高いという言葉を使えば、煩悩で高いことを意味し、心は低く落ちます。

問 : 先生。生活に関して調整に苦労をなさいましたか。クルンテープ(バンコク)から戻って、少しずつ自然に馴染む練習をなさったのですか。それとも何とか暮せましたか。特に食住は。

答 : 私は何も慣れる必要はなく、進んでそうしました。誰かの号令、あるいは誰かの規則でしないで、自分で決めました。調整と言うほどではありません。どんな物でも食べられただけです。最低の食べ物、安い物、質素な物。

問 : 先生。どんな物を試めされましたか。

答 : 何も試す必要はありません。彼らがくれる物、彼らから貰った物を食べました。わざわざ大変なことをさせません。寝るのも最低の寝方で、ゴザがある時もあり、ない時もありました。大衣を畳んで枕にして、病気の時以外は蚊帳も使いません。

問 : 雨や陽射しに耐えるのは、調整する必要ありませんか。

答 : それも同じで、少しずつ慣れました。初めはあまりしょっちゅうではありません。つまり無茶しません。靴も、履く必要がないと言えるまで、少しずつ慣らしました。

問 : 履かないと、足の皮膚が厚くなりますね。

答 : たくさん歩くかどうか、あるいは歩く場所によります。スアンモークは砂地で柔らかいので、厚くなりません。線路傍を歩くと、線路傍で頭陀すると、必ず厚くなります。

問 : 私がこのように自然と暮して、そしてもう一度町の生活に戻ることに利益があるとお考えになりますか。

答 : それでも利益はあります。つまり簡単になり、それまでより簡素に暮らせます。どんな暮らしでもできるので、後は何でもできます。

問 : 先生は「自然な生活では、自然が私たちを作り、自然の中で自然によって作られた新しい生活があります」とお書きになっています。この新しい生活は、どれくらい意味がありますか。

答 : それまでの楽しく快適な暮らしから、こうでなければならない、ああでなければならないという標準ができたので、その後はあらゆる種類の自然と調和します。街に住んで町の人の生活をして、それから最低の自然の生活をして、それからもう一度街に戻っても、何も問題はありません。その後生活の問題はありません。

問 : 先生。このような自然の中の生活は、タンマの勉強、パリヤッティ(三蔵の学習)、パティバッティ(実践)、パティヴェーダ(実践の結果)にどんな結果がありますか。

答 : 人によって違います。何も問題があるとは思いません。最低の生活でも、勉強に関わる問題はなく、実践を妨害しません。中には、良い物を食べなければならない、満腹しなければならないと勝手に考えて執着し、良い食べ物を食べ、あるいは常に満腹している人もいます。

 ある人は出家する前にいつもここへ来ていました。その人は三蔵の探求をしていて、三蔵の、彼が知りたい話を勉強し、この前の雨安居に出家して、できるだけのことをしました。そこで食べ物が足りないと漏らしました。夕方になっても体を養う物を食べないので、働くことができず、還俗しなければならず、三か月で還俗しました。

 還俗するのは自由ですが、彼は何年も前から出家を目指していて、出家しました。彼は大人で、ビデオの修理屋を開いて親戚たちにやらせていました。それで預流果の話を探しましたが、出家したら、在家よりも少ししかできないことが分かりました。

 在家は好きなだけ休んで、好きなだけ食べられます。お腹が空けば食べられ、食べながら仕事をすることもできます。僧はできないので、還俗しなければなりませんでした。それぞれ歩き方が違います。

問 : 先生ご自身の場合、自然に暮らすことと、心の発展、智慧の発展はどのように関わっていますか。

答 : ほとんどは心の発展で、本の話はその次で、食べて住むことには意味はありません。家来です。食べること、住むことには何も意味はありません。食べて満腹すればそれだけで、パリヤッティ(学習)の仕事をするにふさわしいと感じます。

 心の面の仕事でも、バーヴァナーをするにも、何も問題があるとは思いません。強くなるだけ、動じなくなるだけです。イライラして困ったことはありません。あるいは食や住に関した問題はありません。

問 : 先生。深いレベルのタンマを理解するのに影響しますか。

答 : 私はあると信じます。自然な生活は、簡単に自然を理解させる助けになります。しかしここで言う自然とは、無常・苦・無我、あるいは「そのようになる。そのようにしかならない」と見る観点の自然という意味で、直す必要も、大変なことをする必要もありません。心を清潔にするために自然に暮らすのは、心が自然を理解するにふさわしくします。

 ほとんどは形の物(具象)なので、ハッキリ見え、名の部分は、清浄で快適で清潔な心次第で、心が正常で気分が良ければ、善くできます。これを考え過ぎないでください、と言いたいです。始めましょう。すること、したいことを、考えて問題にしないでください。

問 : 先生。自然と暮らすことで、どのように無常・苦・無我を理解できるのですか。

答 : それは自然にそうなり、無常・苦・無我は自然なので、長くなれば感じます。技術も何もありません。最低に、最も簡素にするために森に住むのは、何も負担がなく、時間もたくさんあるので、本で勉強もでき、心のこともできます。技術にする話はできません。

 私が森に住んでいるのは、空で、軽快で、パーリ(ブッダの言葉である経)にあるような軽さがあるに違いないと信じるからです。ブッダの時代に関わることは、何も問題にする必要はなく、掴んで解決しなければならない問題にする必要はなく、空の所へ飛び出したように快適で、何でもできます。だから説明することはありません。

問 : どこかへ頭陀行なさったことはありますか。

答 : 彼らがしているような頭陀はしたことがありません。仕事を始めてからは、本の仕事だけをしたかったので、歩くのはスアンモークの中だけでした。外へ頭陀に行ったら、本の仕事が全然できません。だから考えませんでした。試してみようと考えたことはありましたが、結局しませんでした。

問 : 地面の上に寝られたことはありますか。

答 : (笑) それはあります。カンドゥリー(スラータニー県ターチャナ郡の町)の海岸で、親しい人と時々寝たことがあります。彼はカンドゥリーに椰子林を持っていて、彼の息子が出家していたので、海岸に泊まりに行きました。斜面なので、枕を使う必要はなく、水浴用の布一枚だけ敷いて、脚を海の方に伸ばして寝ると気持ち良かったです。

 こういうのは、いつもという訳にはいきません。疲れと海の空気が快眠させたのかもしれないからです。寝ることに煩い問題はないということが分かりました。執着して実践原則にしないで、実践にしないで、快適にします。

 本を作りたいので、どこへも行きたくありませんでした。心が正常で便利で、自分で望むようになるので、心の問題になる物は何もありませんでした。だから本を作ること、必死で本を作ること以外は重要ではありません。考えなければならないことは、本を作りながらできました。

 難しいことをする時は考えなければなりません。同時に考えなければなりません。「ペンを持ってヴィパッサナーをする」と言います。形式も手法もありません。手本がなく、形式的でないので、人が真似るのは難しいでしょう。やり易いように快適にしますが、誰でもできると信じます。

問 : 先生。それでは、最初は頭陀行をなさっていて、その後は仕事が基本で、都合次第になったので、あまりなさらなくなったという意味ですね。

答 : 執着しない程度にしていました。チーヴァラだけを使い、それだけ食べ、少ししか寝ないで、托鉢を勤めにしました。托鉢に行かなければ食べる物はないので、家を順に托鉢しました。すべて頭陀です。しかし決意せず、意図していませんが、正しいと知っています。

 問題を生じさせたくないので、問題がないようにしました。執着して非常に厳格にする人のようにはできません。真似できません。

問 : 先生は寝ることについて書かれていますが、シーハサイヤー(涅槃仏のような姿勢)で寝て、そして起きる時刻を決めて起きるようなのは、実践なさったことがありますか。それともテキストの通りに書かれただけですか。

答 : 試したことがあります。

問 : それで、いつでもその形ですか。

答 : いつもと言わない方がいいです。時にはしないこともあります。しかし習性になるまでしました。決意してしたのではなく、右を下に寝るのが快適で、違う姿勢で寝るのはあまり快適ではありません。熟睡できません。

問 : 起きる時刻を決めるのはどうですか。

答 : ピッタリに起きたことがあり、一分もずれません。何回もなので、当たり前になりました。理由は何か分かりません。時間どおりに起きようと決意するだけで、そのように目が覚めます。とても不思議です。何の威力か分かりません。説明できませんが、そのようになる自然から逃れられません。

問 : それで、先生が「起きているように寝なさい」とおっしゃるのは、どのようですか。

答 : それは成句です。寝ている時にサティが欠けないように、サティで寝て、寝ている時のことは言う必要はありませんが、起きたら、サティで起き、そしてサティが欠落しないようにします。

問 : 寝る時は、普通に寝るんですね。

答 : 普通に寝ます。「寝るサティがある」というように眠ります。寝ている時は何も間違いをすることはありませんが、起きた時は、サティが継続してあるようにします。起きているように眠れば、寝ている時は何も損害が生じないと見なす成句です。

問 : 先生。普通にお元気な時、先生は決まった時刻に寝起きなさるのですか。それとも仕事次第ですか。

答 : 体が正常で何も介入する物がなければ、決まった時刻に起き、決まった時刻に寝ます。何時間と決めずに快適に寝ると、自然に決まった時刻に目が覚めます。

問 : お元気な時は何時間眠りましたか。

答 : 昔は六時間でした。

問 : お年を召されてからはどうですか。

答 : 年をとってからは、どんどん少なくなりました。老いは睡眠時間を少なくします。

問 : たくさん寝るようになるのではないのですか。なぜ老いは睡眠時間を少なくするのですか。たくさん休息を求めそうですが。

答 : (笑) 休息は、眠りを意味しないこともあります。老人は力を使わないので、眠りはすぐに満タンになり、あるいは簡単に十分効果があるので、一時間でも大丈夫です。

問 : 先生が思い切り働かれた若い頃、仕事が心配で眠れないことはありましたか。
答 : 一度もありません。疲れた時は、時間になれば眠れました。

問 : それでは県外へ旅をなさって、余所で寝た時は良く眠れましたか。

答 : あまり眠れないことがありました。他の人に見える解放された場所で寝た時も、良く眠れませんでした。しかしあまりありません。

問 : 他の人に見えるとはどんな寝方ですか。

答 : 彼らはよく、応接室に寝かせました。お寺に行くと、普通のお寺は応接室に寝かせてくれます。何も遮る物がないこともあります。その時によって、よく眠れすぎることもありました。名誉のある菩薩堂に寝かされると、便利より却って大変です。

問 : 先生。明日重要な講義があって今晩良く眠れない、ということはありますか。

答 : ありません。仕事は何日も前から前もって準備します。

問 : 今のスアンモークのように木の枕で寝るのは、どこの様式ですか。

答 : 古いスアンモークにいた頃はこういうのは使わず、低いベンチのようなのを使いました。話したことがあると思います。今使っている丸太式のは、タンマ大使の研修をしている時に考えました。丸太の枕をすると悪魔は邪魔しない、とパーリ(ブッダの言葉である経)にあるからです。

 森にあるコロコロした小さな丸太で枕にできます。インドの習慣では、剛健に生きたい人は在家でも使います。武士たちは剛健な戦士でいるために、出家は望みが少ないサンドーサ(知足)のために、木を枕にしました。闘士の一種である点は同じです。

問 : 先生は、今でも使われていますか。

答 : 今はあまり使いません。体調が悪ければ悪いほど使いません。高齢になったら多少快適にします。木の枕も、丸太だけでなく大衣を重ねます。決まった形はありません。ごく簡単で快適な方法にし、問題を生じさせません。こういうの、ああいうのと決まった物に固定するのは大バカです。あまり気にしないのが良いです。

問 : 先生は食に関して、非常に食べ物の味をご存じのように感じます。何が美味しいか、テクニックをたくさんご存知です。でも先生が食べることについてお書きになった物は、非常に厳しいように感じます。「砂漠で我が子の肉を食べる」式の熟慮をするように教えるなど。

答 : あれは実践を始める人のために書きました。出家したばかりの、あるいは実践の初心者のために書きました。長くなれば習性になり、きちんと食べ、少なく食べるので適切で、問題になることはありません。

問 : 先生が出家なさったばかりの頃、このようにパッチャヴェーガナ(省察)の練習をなさいましたか。

答 : 誰でも伝統でしなければなりませんでした。

問 : スアンモークにいる時、本当の実践のような生活をなさっていた時、食べる前に心の中で本当にこのように熟慮なさったのですか。それともしたりしなかったり、ですか。

答 : しないこともありました。本のことや、儀式やら何やら他に忙しい時はしませんでした。形式的にして、都合が良い時は勉強のようなパッチャヴェーガナをしました。本気のパッチャヴェーガナが分かるように本に書きました。全部固定した規定にはしませんでした。十年でだんだん変わりました。

問 : 「砂漠で我が子の肉を食べるような」と熟慮するのは、こういうのはほとんど考えたことで、幾らも本気で感じたことではないですよね。

答 : それは「食べすぎだ」「美味しさで食べる」「程度を越えて食べる」と忠告するためです。減量の話も同じで、このように忠告するサティがなければなりません。そのように食べない教えで、そのように熟慮しなければ、ブッダが貶されている話になります。

 私は、何もブッダが貶している状態にしたくないと思っているので、当然そういうのがパッとひらめきます。スアンモークより前の話なら、美味しい物を食べるのが好きで、たくさん食べました。このような状態はあまりなく、何か美味しい物はないかと待っていました。

問 : 当時先生はお太りではありません。スアンモークの前は痩せていらっしゃいました。

答 : それは当り前です。年を取ると太ります。

問 : たくさん召し上がるのですか。お太りの時はたくさん食べ物を求めますか。

答 : 減りました。出家したばかりの頃はたくさん食べ、クルンテープにいる時もたくさん食べました。美味しく食べ、たくさん食べ、つまり満足で食べて、ブレーキがありませんでした。スアンモークに住むと森式なので、ブレーキのある食べ方です。

問 : 先生。太るとたくさん食べられるのですか。

答 : もっと減りました。今は信じられません。人は分りません。だいたい四五さじで、そして便は一日一さじくらいで、それでこんなに太っています。体の異常です。食べただけ全部消化するようです。少し食べても全部消化します。これは自然の話です。

問 : 特に先生のお口に合う料理は何ですか。

答 : 常に変わっています。

問 : 年齢で変わるのですか。

答 : 年と共に変わると言うこともできます。たとえば数か月野菜が好きでも、それが嫌いになって魚好きになり、あるいは二三か月酸っぱい物が好きで、それから嫌いになります。このように変化していて決まった物がありません。去年は野菜をたくさん食べましたが、今年はほとんど食べません。あっても食べません。

問 : それは自然にですか。あるいは決意してですか。

答 : 決意してはいません。自然に「好きじゃない。嫌い」と感じます。

問 : 先生がナムプリック(野菜や魚につけて食べるタレ)をお好きなのは、若いころからですか。それともお年を召されてからですか。

答 : ナムプリックはずっと好きでした。でも今は、特にここ三四か月は嫌いです。でも食べなければなりません。そうでなければ食べません。ナムプリックとご飯を混ぜ、それで野菜と魚の干物で食べます。自然に好みが変わると言わなければなりません。あれこれよく変わります。

問 : 先生が果物だけ、野菜だけを食べる試みをなさった時は、何方が持って来てくれたのですか。

答 : 母です。何も大変ではありません。三四人精進食にしたので、野菜とタオチアオロン(野菜をつけるタレ)を一包み貰えば十分でした。特にマハー・チュンがいた時は、彼は精進料理を食べる宣誓をしていたので、母に面倒を掛けないように、便利なように全員菜食にしました。野菜だけで何もタレをつけずに食べて見たこともあります。

 果物だけでご飯を食べないのも試しました。八つ頭、芋、バナナ、パパイヤ、果物だけ食べると、便が臭いません。甘い物だけ、お菓子だけでは生きられません。二三日で死にます。

問 : 病気になりますね。

答 : 病気じゃなく、体の中がどういう感覚か分かりませんが、我慢できません。それにお腹が空きます。甘い物をたくさん食べると、お腹が空きます。

問 : スアンモークの初期の時代は、夕方の飲み物はどのようになさいましたか。

答 : かなり長い間、エビスグサの葉を火で炙ってから煎じて、黒砂糖を入れた物を飲みました。当時黒砂糖は一缶たった三バーツで、廃棄物のようでした。白砂糖より臭いがあって、エビスグサの葉と合わさると変な臭いがしました。ほとんどこれで、サトウキビ汁やみかんジュースはあまりありませんでした。面倒で作る人がいないからです。

 フトモモのジュースがあった時期もあります。この辺ではルーククリエンと呼んで、多少はあります。古いスアンモークには木があって、沙弥に作らせたことがあります。タマリンドもルークチャンもありました。くれる人がいました。今のようなルークチャンテートはありません。原則は「ある物次第」です。

 古いスアンモークにいた頃、時々みんなで海辺へ行って食べたことがあります。商店街で托鉢して、それからまっすぐ海辺へ行きました。時にはわざわざ舟を用意して、舟に乗って船上で食べたこともありました。できることは何でもしたと言います。

 蓮を食べるために、沼の畔で食べたこともあります。あまり律に則していなかったように思います。ナムプリックを作って行って、蓮沼の周りに座って、子供が蓮を抜いて来て、ナムプリックをつけて食べました。空気が変わってとても楽しかったです。

 このスンモークへ来てからは、海へ出る手前の関口の運河で食べたことがあります。その運河では時々食べました。運河を使えるように修復したので、ほとんど毎日食べました。タンマ大使の研修の時、ブッダの時代の雰囲気を味わってもらうために、コーンさんの田んぼの見張り小屋へ連れて行って食べました。タンマ大使に何かの味を味見させる目的でした。

問 : 先生は「仮定のない幸福は、私たちの人生を快適にする」とお書きになっていますが、どうしてほとんどの人間は、いろいろ仮定したがるのでしょうか。

答 : それは煩悩の一種で、強い願望です。快適さや楽しさや味を求めるための資本として、財産を持ちます。本当は、財産があってもないように感じることもできます。できれば空の話、心の空の話になります。

問 : 先生のお話を伺うと、先生の人生はあまり緊張がないように、その時次第、都合次第で、ゆったりと快適のように感じます。しかし「出家者の教え」など、先生がお書きになった本を読むと、非常に厳格と感じさせる物があります。

答 : 出家したばかりの人の感覚では、厳格と言うべきかも知れません。しかし緊張という意味にしないでください。厳格という言葉は曖昧で、二つの意味があります。執着に厳格ならバカということもあり、知性による厳格ならちょうど良いです。中道はちょうど良く、中道は厳格にする教えです。ほとんどの厳しさは、他人に自慢するための厳しさで、煩悩を早く消滅させる厳しさは非常に少ないです。

問 : 先生は、僧は習慣性薬物を止めるべきだとお書きになったことがありますが、今もそうお考えですか。

答 : 私は問題ありません。

問 : 「タバコを止める精神力がなければ、タンマの実践はできない」という、当時の理由についてという意味です。

答 : それは他人に対して言いました。タバコも止められないようでは何もできません。念処やバーヴァナーはできません。

問 : 先生。そういう考えは狭すぎませんか。念処をしている僧で、まだタバコを吸っている人はいます。

答 : 例外もあります。しかしそれは、私が何人かのアーチャンを尊敬しない理由です。

問 : 最重要ではないし、ある人にとっては益もあるので、それは後で捨てれば良い小さなことと捉えれば、そう考えることはできますか。

答 : それでもいいです。しかし私は、正しさを基準にすれば問題はない教えなので、益があると見るのは、話す必要はありません。

問 : 先生。ある人たちにとっては、益があるのではないですか。彼らにタバコがなかったら、もっと悪いことをするに違いありません。

答 : それは中毒の人です。

問 : あるいは人生の問題を解決できない人は、とりあえずこれらの物に一時逃れますが、その人は善い人であることもあります。

答 : 他の部分は善いかもしれませんが、悪いなら捨てるという原則を捉えない部分は、弱い人です。これには害がある、益はないと感じたら捨てるという教えを捉えません。

問 : 小さなことです。

答 : こういう話は小さなことではありません。心の面では、何も小さなことでなく、すべての態勢を失ってしまいます。

問 : 段階的に順に捨てていかなければならないですね。人間の根は同じではありません。

答 : それは先に捨てなければなりません。これらは先に捨てなければなりません。簡単な基本です。基本的なことは先に捨てなければなりません。

問 : 先生。これらはそれほど害がないという規則を捉える人は、とりあえず認めて、そしてそれ以上に害のある物を防ぐよう努力します。

答 : それはその人の正しさでしょう。でも私は賛成しません。初歩の段階の簡単なことは、タバコやビンロウジだけでなく、どれも小さなことではありません。「利益がないなら捨てなければならないという教えを守らない」と、人を計る物差しです。教えではこうです。

 害があるなら言うまでもなく、利益がないだけでも捨てなければなりません。害があればあるほど捨てなければなりません。そうすれば確実に正しい規律があり、枠内にいます。話を選び、実践を選び、あれこれ選んでするのは、教えも規律もありません。

問 : この方向へ真っすぐ歩いて行く人は、よく訓練された少数の人ですね。私たち人間のほとんどは、弱い人ばかりではないですか。

答 : 違います。例外なく誰でも、利益がない物は捨てなければなりません。誰でも捨てなければなりません。害があれば、害があるほど大々的に捨てなければなりません。そうすれば仏教の教えと一致します。

問 : 先生。私たちには、何か玩具が必要ですか。

答 : それは、害がないか検証しなければなりません。つまり利益があるようにします。利益のある玩具も、利益のない玩具も、害のある玩具もあるので、一緒にはできません。

 玩具は必要です。休息は必要です。仙人やムニーは定で遊びます。パーリ語でジャーンキーラーと言って、スポーツである定で、阿羅漢も定で遊びます。




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