3 戒学





問 : 先生。「阿羅漢の足跡を追って」の中で、『本当のローグッタラに到達するための実践に、律、あるいは戒は必要です。戒のない人たちは心の中が憂鬱で、所属集団に損害がなくても、サマーディになることができません。破戒を知っているのが自分だけでも、サマーディ、つまり定に到達するのを阻む手強い敵です。戒はすべての道の基本です。心が静まり始めれば、その度に破戒の感覚が生じるからです』と書かれています。

 先生は今でもこの信条をお持ちですか。

答 : あります。信条にしなくても信条になっています。常にこれを教えとして掴み、破戒という状態の感覚がないようにしています。これは普遍的な原則で、戒を破っているという気持ちがあれば、心がサマーディになることはできません。

問 : 先生。その後私は『実践規定を広く知ることは重要です。そうすれば理解し、よりその場にふさわしい賢さになります。特に、些細な戒条について知らないで、急いで阿羅漢の足跡を追う場合には』と書いてある文章を見ました。律での実践を先生はどのように遵守なさいますか。全項目ですか。

答 : 勉強した全項目です。その部分の意味は、「実践に関心を持ったら、心の実践だけを目指せば、ほとんどの人が考えているように考えなくても、何かを暗記しなくても、戒と呼ぶものも自然に善くなる」という意味です。心の面の努力をすれば戒が生じます。自動的に生じると言います。

 サマーディをする目的は戒です。このように変わります。それまでは、戒を守る意図は戒を守ることで、それを通り過ぎると、自分を強制する意図のいろんな物、それは戒で、それが自分をサマーディにします。これも戒で、智慧に注目させます。戒条(シカーパーダ)ではありませんよ。

 集中してサマーディや智慧である事をしていれば、どんな戒条も越えることはありません。サマーディをしたり、智慧を増やしたりしている時は戒がないと理解いている人もいます。戒には、本気で何かをするよう強制するという意味があります。それを戒と言います。つまり戒や戒条の注意と強制を、心を注視する戒にします。

 戒とは心を注視することです。心を注視して、いつでも心が正しさの中にあるようにする部分の強制が戒で、静まるよう管理する部分がサマーディで、洞察するよう管理する部分が智慧です。これを本当の戒になり始めたと言います。

問 : 先生。「阿羅漢の足跡を追って」には、二二七戒を変えた方が良いとお考えのように見える所があります。たとえばある部分で、「今私たちは、唱えているパーティモッガを改革、削除、戒条の数の増減をするべきかどうか」と言っています。

答 : 私はそうできません。他の人が認めないからです。たとえば半月ごとに唱えている二二七戒でも、二五十戒でも、ブッダが規定なさった規則はブッダが変えさせないという原則を守っているからです。

 その部分は「ブッダが規定した物を変更するべきでないという項目に止まっていなければ、ふさわしく変更することができる」という、一時の考えです。しかし本当は、戒条としてそれだけの数を唱えるよう、直接規定してはありません。サンガが、そのようにしてきただけです。

 変更する勇気のある人はいません。私は多少自由な考え方をするので、よりふさわしく変更することもできるはずだと、それだけの意味です。初代の阿羅漢の合意、第一回結集の時のテーラ(長老)が納得したテーラワーダの規則と呼ぶ規則を変更しようと考えたのではありません。

問 : 先生。それでは初めの二年間一人で暮していらっしゃった時、パーティモッガには行かれましたか。

答 : ポーターラーム寺に行きました。

問 : 「阿羅漢の足跡を追って」の中に、『罪の告白は自分の罪だけを、そして自分はこの罪を犯したと分かるように告白するべきである』とお書きになっています。先生はそのようになさいましたか。ご自身のことを。

答 : 触れている罪が何か分からない、「触れている罪は、双方が知っていると見なす」大宗派式にしています。それを罪の告白をしたことにする、と言います。昔からして来た罪の告白です。その戒条を明言しなければならないのはタンマユットです。時には触れた罪の名を挙げることもありますが、たいていはしません。大宗派は大宗派式にします。

問 : 先生。それで先生は、サンガーディセーサ(僧残罪)に触れたことはおありですか。

答 : 一度もありません。

問 : スアンモークを造られたばかりの頃、サンガーディセーサに触れた僧はいましたか。

答 : いません。二三人しか住んでいません。

問 : 先生。それではお金に関しては、どんな実践規則をお持ですか。初めから今まで。

答 : 「自分の物は持たない。自分の物として受け取らない」という原則を守って来ました。供える人がいたら、私にくれたのではなく、何かに使うために預けたと見なします。その人が(誰にと)明言しても、自分の物と受け取らず、その人の代わりに、有益なことに使います。

 避けられないからです。他のたくさんの人と同じようにしなければならないことは、避けられない社会の時代にいるからです。

問 : スアンモークの初期は、お金に手を触れない実践に努めていたようですが。

答 : できる時、何人でもない時はできましたが、人が増えると管理しきれません。律に合わないいろんなことは自然に変化したようです。お金を受け取らないのにお金を持っているようなのは、使い物になりません。

 私は「自分の物を持たない。自分の物として受け取らない。くれる人がいれば何かに使うためで、その人の物であり、私は支配人にすぎない」を原則にしただけです。

 そうでなければできません。考えて見てください。何もできません。広く大衆の役に立つことはできません。大きな部分の本当の利益を見る時、小さな部分を障害にしないで、彼らが毎日する寄付も受け取っておいて、そして何かに使い、受け取っても自分の物にしません。

 お金に触れることには、私は他の人が捉えているのと違う考えがありますが、善くないことが生じるので話したくありません。許されない物は金属、金や銀で、いろんな小切手は、紙幣なども小切手の一種ですが、受け取る必要がなければ受け取らず、受け取る必要があれば受け取ります。

 封筒に入れたお金、持ち主が献じたお金は、許されない金銀と見なしません。それに許されないのは、パーティモッガではないアビサマーチャーン(善い作法)です。今はたくさん小切手が使われているので、正しい心であれば、許されない物ではなく、小切手です。

 重要な意味は、自分の物にするか否かで、自分の物にするなら問題があります。私はこの問題に関心がありません。何も自分の物にしないことで終りにします。今は更に、何かを貰って自分の物にするべきではありません。お金を使わなければならない話は、個人的にはありません。

 お金を受け取らないで、物を貰うのは恐れないで貰い、全体の物を使います。これらの事は、まったく考えなくてもいいです。心を発展させるために実践する人は、この問題を考える必要はありません。

 受け取って自分の物にしないことを守って、自分の物として受け取らない心で、そしてサマーディバーヴァナーに専念すれば、非常に善いです。遠くから行くと、彼らは汽車賃をくれますが、あれも止めるべきです。汽車賃も止めます。

問 : 先生。他のアビサマーチャーン(善い行儀作法)を守っていらっしゃいますか。

答 : 思い出せば、全部守ります。

問 : たとえば鉢の維持し方も、律の中にはいろいろ細かくあります。あの通りになさっているのですか。

答 : していることもあり、しないこともあります。私たちはどんどん鉢と関わらなくなっています。

問 : ピントゥパー(新しい衣を着る前にするべき規則)はなさいますか。

答 : 出家した時から、実践原則にしています。しかし今はうっかりして、しないこともあります。

問 : お若い頃、まだ歩けた頃、菩薩堂へ行くことは厳格でしたか。毎回行かれましたか。

答 : 厳格ではありませんが(笑)、欠かしたことはありません。厳格には捉えませんが、欠かしたことはありません。

問 : アーウッソー(先輩)として尊重し合うことは守りましたか。

答 : できるだけ守りました。うっかりしたこともあります。それは人間の礼儀で、律だけではありません。

問 : 先生は靴について「ブッダは傘を使い、家の近くで靴を履く僧を罰している」と書かれています。その後、なぜ先生はこの問題を強調なさらないのですか。スアンモークの中の僧も靴を履いています。

答 : ああ、増えました。管理しきれません。それほど重要なことではありません。管理しきれませんが、傘や靴のことは、気がつけばいつも注意しています。

問 : なぜブッダは家に入る時靴を履かせなかったのですか。

答 : パトゥムバンヤッティを見てください。たぶん一般の出家の習慣です。遠い所へ行く時だけ靴を履きます。家の外、寺の外では履き、寺の中では履きません。家は、場合によっては履くことができますが、病人以外のほとんどの人は守って履きません。

 履く人は病人と見なします。靴を履かないのは、病人でないことを表します。今では家の中でも履きます。私は靴を履かないでタンモーシエン医師の家へ行ったことがあり、床が唾だらけで、死ぬほど痒かったです。

 どうしようもありません。家に入るにも、自分を病人と見なして靴を履かなければなりませんでした。道路も唾がいっぱいで、何か分かりませんが、いっぱいありました。

問 : そういう場合は靴を履くべきですね。

答 : 判断次第です。私は自分を病人と見なしました。絶対にそのままにはできません。危険です。

問 : 土を掘り、草を切り、木を植える話は、守られましたか。

答 : 多少したことはあります。少ししたことはあります。(笑) 本気でしたのではなく、他人が正しくできるように、手本としてしただけで、非常に少ないと言います。今は罪に触れることはありません。受けなければならない罪、あるいは罪から出なければならないことはそれだからです。

問 : 先生。どうして「受けなければならない」とまでで。

答 : 自分で考え、普通は受けなければならないからです。罪と呼ぶようにしました。言い訳はしたくありません。阿羅漢でも罪を告白しなければならない文章を書いています。本当は罪ではありませんが、阿羅漢でない人の善い手本であるために、律に従って告白しなければなりません。

 受けるために罪はあり、触れたらその罪を返さなければなりません。還俗する他にも、パリワーサ(特定の場所に起居する)、あるいは罪の告白など、持している規則次第です。

問 : 先生。もし私がサンガーティセーサ(残僧罪)に触れて、パリワーサをせずに還俗し、そしてもう一度出家したら、パリワーサをしなければなりませんか。

答 : 見たことがありません。勉強をして以来見たことがありません。しかし彼らが一般に捉えているのは、そうしなければなりません。正しくは、それは済んだことと見なすべきです。在家になって僧でなくなったら全部終わるべきです。

 しかし中にはいます。アッタカターディカーの中か何かは知りませんが、そう書いてあるのを、人は遵守しています。アーチャンのあるグループの考えです。理由や自然で捉えれば、還俗した時に終わるべきです。

問 : 先生。四聖諦について学ばなければならないことで、先生は「私たちが会話をしなければならない時は、四聖諦の話だけをするべきだ。そうすればこれを良く理解でき、簡単に洞察する気力になると」とおっしゃって、ディラッチャーナカター(畜生の話題という意味。畜生談)の会話をさせません。

 しかし実際、人間は畜生談と呼ばれる会話をしなければなりません。僧でも話さない訳にはいきません。

答 : 会話する必要はありません。会話という言葉を使いません。会話とは、本気で取り上げて話すことです。国のことについて訊いても話しても問題ありません。四聖諦の話として会話するなら、国の話を、欲望は苦を生じさせる原因と知るまで会話します。こうしても問題ありません。しかし政治狂のように夢中で会話するのは、国の話しかしないのは、駄目です。

問 : 先生。それではタイ社会の仏教の伝統で、現在使っている二二七戒のうち、パーリ(ブッダの言葉である経)の意味の解釈で正しくないと思われるのはどれですか。ヴィナヤムッガに書かれているもので、正しくない解釈はありますか。

答 : おお、言いません。そういう話題なら話しません。話すべきではありません。

問 : それでは歪んだ実践はどうですか。

答 : 歪んだ実践はあると感じます。お金に関したことが一つ。チーヴァラ(僧衣)のことも律に反している人ばかりです。チーヴァラはチーヴァラスガタと同じくらい、あるいはそれ以上に大きく、大きなチーヴァラを使うのが好まれてしまっています。

問 : 先生。それではパラーチッカ(根本罪)の窃盗である、アーバッティ(破戒罪)やパーラーチッカ(根本罪)に当たる数、五マーソクというのは、本当はどれくらいという意味ですか。

答 : 一バーツ(つまり五マーソク)は籾米五粒の重さの金と同じです。ずっと昔、五粒の籾米と同じ重さの金が、インドの一バーツです。

問 : 先生。私たちが捉えているバーツやサターンは正しくないですね。

答 : 小額に捉えるのは、更に良いです。つまり(インドの)五バーツが米五粒と同じ重さなら、きっと(タイの)何十バーツ、あるいは何百バーツです。一バーツがタイのバーツと同じなら、もっといいです。つまり窃盗と見なすのに、庶民が盗みと規定する基準の金額としてふさわしいです。

問 : 先生。古い僧のようにアーバッティ(破戒罪)を脱す考え、あるいはアーバッティを越える考えでは、古いタイプのお坊さんの中には、この規定を超越できる人がいます。先生がお話しになったルアンミン爺さんのようなのは、サンガ社会にずっと昔からある考えですか。

答 : それは仮定の話で、誰もが、彼にはアーバッティ(破戒罪)がないと見なし、アーバッティにならないので、アーバッティで罰しません。

 アーバッティでない人は阿羅漢だけです。パーパムッタ(誰も非難できる人がいないこと)と言って、罪から脱し、アーバッティから脱したので、何をしてもアーバッティではなく、何をしても罪ではありません。自分がなくなった阿羅漢だけです。

問 : 中部地方に行って、彼らは「下品を脱した」と呼ぶ考えがあるように感じました。その人たちは老人僧で、住民はそのように許しているようです。これも理由があるのでしょうね。

答 : 理由は仮定で、仮定のパーパムッタです。お金に貪欲でモウロクした年寄りを、何種類かパーパムッタとして許しますが、阿羅漢のパーパムッタとは違います。

問 : 先生。「阿羅漢の足跡を追って」の中で、根に慎重になることについてたくさん話してらっしゃいますが、先生はそれを実践なさっていますか。

答 : できるだけ努力しています。煩悩が怖いので、実践できるだけ努力します。

問 : ある時先生は「避けるべき物を避け、勝つべき物に勝つ」と書いていらっしゃいます。すみませんが、避けるべき見本を上げていただけますか。それに避けるとはどういう意味ですか。

答 : それ自体が教えます。避けられる物は避け、避けられなければ、勝たなければなりません。ことによります。

問 : この「勝つ」という意味はどんな意味ですか。どうすれば、勝つために慎重になると言えますか。

答 : 動揺して意味を持たせないことです。それは一般原則です。避けることができない物、あるいは勝つことができない物は、原因と縁で変化しなければなりません。目・耳・鼻・舌・体・心の話、社会に関した話、関わると面倒だから社会に近づいてはいけない、あるいは人物に関わってはいけないと言われる話、これを「避ける」と言います。

 しかし避けられないなら、近づかなければならないなら、害が生じないように、何をするにも間違った結果が生じないようにします。「何としても勝つ」と言います。勝たなければなりません。闘って殺すという意味ではなく、それが何も手出しできないようにすることが勝つことです。

問 : 慎重にする部分は、練習の段階にだけ必要なのですね。先生のようにお年を召されたら、慎重にする必要はありませんね。

答 : 違います。全部一緒です。慎重にしなければならないことは慎重にします。

問 : 今でも、先生は慎重にしなければならないのですか。

答 : 煩悩が怖いから、苦が怖いから、初心者や子供や初歩の段階の練習者と同じように、慎重にしなければなりません。一つの意味の慎み深さにします。彼らは、何か苦が生じても知りません。練習しなければならない時に、規定されている方法で練習すると、少しずつ知ります。

 それは慎まなければならないことを越えたという、もう一つの意味があり、普通は阿羅漢に使います。つまり動じない場合に使います。「慎む」には、戒の物とタンマの物があります。タンマ式の慎みは、目・耳・鼻・舌・体・心を慎み、戒式に慎むには、パーティモッガ戒条で慎みます。

問 : 先生。インシーサンヴァラ(六根を慎むこと。根律儀)という慎みは、戒の段階ですか、サマーディの段階ですか。

答 : サマーディの段階に入れられていますが、それは言い間違い、あるいは教え間違いです。あるいはどこかの派のアーチャンが間違って戒に分類しました。パーティモッガサンヴァラに戒を加えたのは、多分清浄道論です。インシーサンヴァラ戒、アーチヴァパーリスッティ戒は清浄道論にあります。正しくは、サンヴァラはサマーディの中にあります。

問 : 「本気で根律儀の訓練をすれば、心は心の所有者の言いなりになり、主人が無視している時は、主人の幸福のために無視し、主人が善の側の何かを感じたいと望めば、望みどおりになる」とお書きになっています。

 たとえば非常に味の薄い食べ物を最高に美味いと感じさせて、食のサンドーサ(知足)と見なすようなのは、自分を騙すことではないでしょうか。

答 : それはサンヴァラとは関係なく、他の方便です。その意味は、根を慎むことに達していません。良く読むと、根律儀に関連して生じる問題の説明です。律に関した他の理由があれば、(食べ物を)くれる人の信仰を損なわなければ、それもできます。

問 : 先生。根律儀自体は、自分を騙すことではありませんか。仮に満足する物に出合って幸福なら、私たちは幸福になる権利があります。

答 : タンマの角度は、苦にならないようにする所にあります。美味しい物を食べても、幸福と呼ぶ物を味わっても構いませんが、心が喜んで溺れないように、執着しないように注意します。

問 : 喜ぶ心と幸福な心は同じではないのですか。

答 : 心は一つしかありません。幸福な物、美味しい物を味わう時、美味しいとか幸福だと感じるだけで、それを喜びません。その幸福や味に執着しません。それが基本の実践です。

 まったく食べてはいけないと禁止している訳ではありません。食べてもいいです。芳しく美味しい物に触れていいです。しかし美味しさや幸福に迷いません。彼らは、煩悩を生じさせないように、良く言っておいた言葉があります。

 触は触れても構わないが、律が規定した規則があります。もう一部は、何を禁じ何を禁じないかは律の規定を守る、という規定が律にあるからです。しかしタンマの部分では、「美味しい物を食べても構わない。心が崇拝しないよう、取にしないよう注意しなさい」と言います。

問 : 喜ぶという部分は、繰り返し考えが幸福になるに近いことですね。

答 : それに関してバカになることで、特別な物と見ます。幸福を真実のままに見れば、幸福でも苦でもなく、ただの受(感覚)にすぎません。美味しくも不味くもない普通の物を食べて、「最高に美味しい」と見なします。(笑) 

 それが「受にすぎない。必要な物ではない。名誉と執着する素晴らしい物ではない」と教え、叫んでいます。美味しくない物も美味しい物も同じ、受(感覚)にすぎません。これがタンマの教えです。低い律の教えは「このような問題を生じさせる物に関わらない方が善い、避ける方が善い」と提言します。

問 : 私は、幸福があるのに喜ばない部分が良く理解できません。

答 : 喜ぶのはバカで、不満なのもバカです。

問 : 喜ばないなら、それでも幸福はありますか。

答 : それは自分で考えて見てください。喜んでも不満に思っても心は波立ち、混乱します。喜ばず、不満にも思わなければ心は静かです。喜んでも動揺し、不満でも動揺し、静かなのは空です、満足にも不満にも感じないのは、涅槃の類の幸福です。涅槃は幸福の一種というのは、庶民が聞いても意味が分かりません。

 ある時、踊りが好きな住民の女性グループに、天国と涅槃とどちらが欲しいか質問したら、涅槃が何かを知らないのに、全員が涅槃の方に手を挙げました。涅槃には踊りはないと言うと、それなら取り止めて天国にすると言いました。天国には踊りはたくさんあります。

 人は自分の最高に幸福な感覚で、つまり彼らが知っている感覚で勝手に天国を解釈します。ただ最高に多く、最高に濃いだけです。幸福とはすべてが止まること、全部止めること、全部中くらいであること、空っぽでびくともしないこと、冷静なことと理解できません。彼らは、幸福は一種の不安と知っているだけです。

問 : 先生。触がある時サティがあるよう、触の部分に注意するよう強調なさっているのは、根律儀と同じ話ですね。

答 : それでもいいです。最高レベルの根律儀、つまりその触による煩悩を生じさせません。最高レベルのタンマの意味の根律儀です。見ない、聞かない、触れないという律儀は初歩で、それ(見たり聞いたりするもの)を危険と見ます。

 高い心のある人は、危害なしに触れることができます。見ても聞いても、何しても大丈夫です。しかし律に反しないこと、出家者の規則に反しないことです。在家について言うなら、更に問題はないので、簡単に試せます。

問 : 先生。「阿羅漢の足跡を追って」は、先生は全部実践なさったのですか。

答 : 努力しました。しかし、あれは他人のために、一般の人の教えにするために書いたことを忘れないでください。どれだけ自分のためかは、計ったことがありません。しかし苦を生じさせる原因なら、どれも恐ろしいので、生じないように努力します。

問 : 先生。それでは笑うことですが、先生はお若い頃笑いましたか。

答 : 笑いました。今でも笑います。

問 : 先生は「笑うのは子供のすること」と書かれたことがあります。

答 : それは、ブッダが笑うのを好まれないで言われたことです。しかしタンマをたくさん知れば、笑うのは減り、少なくなります。子供はちょっと可笑しいことがあると笑いますが、大きくなるだけで笑わなくなります。もっと大きくなってタンマをたくさん知ると、笑わなくなります。意味を笑うだけです。

問 : 先生。実践生活で、緊迫するほど厳格に実践なさったことはありますか。お若い頃に、厳格すぎたことはありますか。

答 : 緊迫すると言うほどはありません。最善を尽くす決意はしましたが、厳格という域には入りません。タンマの本を作って、タンマを広め始めると、そうする機会はありませんでした。厳格と緊張は全然違う言葉です。何があるか試すために厳格にしたことはあります。つまり厳格にした結果を試すために。

問 : たとえばどんなことですか。

答 : 野菜しか食べないこと、寝ないことなど。

問 : 先生。先生がクルンテープへ行かれた時、在家の人の家に泊まられましたか。

答 : 多少あります。チャムナーンさんの家で、彼は、住んでいない来客用の特別の家がありました。仏教協会に泊まったこともあります。それ以外はお寺に泊まりました。

 支援者次第で、彼の都合でどこへ泊まらせても、私は喜んで受け入れました。トンブリー側にあるチャムナーンさんの家には、何回も泊まったことがあります。スラムの中にあると言い、スラムに囲まれていました。スラムの小屋の中を見ると、テレビがありました。(笑)


自伝目次へ ホームページへ 次へ