2 智慧学





問 : 先生。論理では、タンマの実践は四聖諦の苦諦を見ることから始めなければなりません。そこで先生は所帯を持たれた経験がなくて、どのように苦諦を理解なさったのですか。

答 : おっと、こういう質問をするということは、苦諦を知らない証拠ですね。苦は、私たちは苦という名前を知らなくても知っています。知っている以上に知っていますが、呼び方を知らないだけです。あなたがこのように四聖諦について話すのは、勉強したから(笑)話せます。

 本当は、四聖諦を非常にたくさん知っているはずです。名前を知らないので、彼らが呼んでいるように呼ばないだけです。

 しかし私たちは、貪りはどのようか、怒りはどのようか、苦はどのようか、欲望はどのようかを知っています。欲望と呼ぶ物は、心にたくさん生じていますが、私たちは欲望と知りません。五蘊の話も同じで、良く知っていますが何と呼ぶか知らず、勉強すれば、どう呼ぶか分かります。

問 : 先生。四聖諦を言葉以上に知るにはどうしたら良いですか。

答 : 苦である物が私たちに噛みつき、苦しめたことがあると知ります。私たちは感覚でそれ(苦)を知っていますが、あれこれパーリ語で呼びません。無明の類の愚かな欲望や望みを経験しているので、感じていますが、パーリ語の名前を知りません。

 自分がバカになりたがる度に観察すると、それ(願望)が心を苦しめています。それが苦諦(苦を明らかにさせること)です。もう一方の、これらが生じないことである「空」は、穏やかな幸福で、誰にでもあるので、これも体験しています。煩悩が生じていない時、それが滅苦です。正しい実践は、教えを聞いたように実践できます。

 八つの道(八正道)に励むには、たくさん勉強しなければなりませんが、自然に感じることができます。正しい理解から始め、正しい志向・正しい望みがあり、望むべき物を正しく行ない、そのように正しい行動を教えとして強く掌握すれば、自然に八正道になります。

 しかし私たちはまだ名前を知りません。自分に八正道があっても名前を知らない人もいます。直接人生から勉強すれば知りますが、人は勉強の仕方を学びません。どう勉強するかという教育を受けないので、学びません。

問 : 先生。直接人生から学ぶ時、これらの教えを体系的に使わなければなりませんね。それとも必要ありませんか。

答 : 後で知ります。直接内面で、「それがどう生じたか」ということから知って、勉強するより前に知って、タンマの名前は後から知ります。

問 : 直接知るには、何をしなければなりませんか。正しい見解が常に成長するためには、どうしなければなりませんか。どうすれば直接人生から知ることができますか。

答 : それはイロハから始めなければなりません。火を掴めば熱いと知るので、火を掴んではいけないという正しい理解になります。このように知ることが増え、何が何か、正しい見解になります。これを「自然に知る」と言います。

 子供が火を掴んではいけないと知るのは、火を掴んだからです。あるいはある種の虫を掴んで刺されたことがあれば、手が掴んではいけないと知り、何でも正しく知ります。そして「こうだ」と正しく確かな物になります。

 ブッダもこのような「模索」をして、四聖諦などの知らなければならないことを少しずつ知っています。そして考えて、何がどうか推測して見ました。「ブッダの先生の名前は模索」と話したことがあります。そして今でも、ブッダの先生の名前は「模索」と主張しています。

 無知、無明、あるいは欲望、愛欲、欲情は、熟慮を阻む威力があるので、それだけに関わっています。しかし人間はそこから出るべきです。動物は出られません。

問 : 先生。人生の体験を有益に考えるには、苦を通り過ぎた後でなければならないでしょうね。苦がある時は、考えるだけのサマーディがありませんね。

答 : (笑) 同時のこともあります。一緒に、同時にすることもあります。後で考えるのは特別です。何かが触れている時は、いつでもそれが教えます。苦はいつでも教えます。何かの味に迷っている時も、過ちを知り始めます。

 初めに痛みがあり、それから知ります。幸運にも学ばせるタンマがたくさんあるので、それほど模索する必要はありません。ブッダが十分に模索してくれたので、私たちは便利です。後に続くのは簡単です。つまり後について、忠告に従って、説明に従って模索します。

 最高に重要なのは、生まれたら何を得るべきか、なぜ生まれたのか、それが教えられていないことです。自分で考えさせるので、人は自然が感じさせるだけの、最高に美味しい味のために生まれます。しかし本当は、美味しいのも美味しくないのも休息ではなく、空や休息が最高のレベルだと、後で知ります。

 徳と罪、喜びと苦、善と悪はすべて混乱だと知るまでは、どっちにも休息はないので、これらの物から空になることが最高です。

 私はなぜ生まれたのか知りませんでした。子供の時は知る方法がありません。何のために生まれたか知る術がありません。親も、なぜ生まれたか教えません。しかし「こうするのは善い。ああするのは善い」と、いろんなしつけを受けました。

 勉強をさせ、善い行動をさせましたが、なぜ生まれて来たのかは知りません。若者になっても、なぜ生まれて来たのか、何の利益のためか知りませんでしたが、何でも教えられたように、風俗習慣で行動しました。それで教育を受け、仕事をし、風俗習慣に従ったと言える暮らしがありました。

 そして出家できる年齢になると、母が、伝統に従って出家するのを見たがりましたが、なぜ生まれたのかは知りませんでした。しかし「そうするよ。伝統で出家するのも善いに違いない。そうでなければ出家する伝統はないだろう」と思いました。

 出家してタンマの勉強をしてもまだ、なぜ生まれて来たか知らず、三つの段階のタンマを勉強してもまだ知らず、教師になってもまだ、なぜ生まれて来たか分知らず、パーリを勉強するまで知りませんでした。スアンモークができて、このレベルのタンマを勉強して、初めて知りました。

 非常に深いレベルのタンマを勉強したので、少しずつ、私たちは何のために生まれてきたか判断するべき、あるいは捉えるべきと知りました。自分で決意して生まれたのではないのに、どうして自分でこの問題の責任を取らなければならないのか、という考えがあります。

 しかし決意して生まれたのではなくても、結局責任を取らなければなりません。生まれてしまったのですから、善くなることをしなければなりません。それでこの話を見つけ、苦でないようにする話にしました。だから「生まれて来たら苦の生活をしてはいけない。苦を作ってはいけない。生まれたら、人間が得るべき最高に善い物を得なさい」と、このように結論しました。しかしあまり良くは知りませんでした。

 涅槃のためと言うのは、言ったことがないので、上手に言えませんでした。考えても「涅槃とは何か」に到達しません。しかしタンマの仕事をたくさんしているうちに、自分の勉強も、他人に広めることも、私たちは何のために生まれてきたか、という答を少しずつ導き出しました。

 ウィロードさんたちと会うと、彼も私と同じ問題があったので、なぜ生まれて来たのかを勉強することは重要と捉えました。私は、人間が得るべき最高の物を得るために生まれて来たと結論しました。これは論理であって洞察ではありません。しかし論理的に正しいと感じます。

 人間が得るべき最高に善い物を得れば、涅槃の道をよじ登り、まったく苦がない穏やかな生活になります。それが、人間が得るべき最高に善い物です。「苦でない人生にするために」と言います。でなければ、生まれても何の価値もないのと同じで、適度に苦が生じないようにすることを知りません。

 最高という言葉を使うことはできませんが、このように満足するレベルまで苦がなかったので、苦を無くす喜びと同時に、そのようにする訓練に最善を尽くしました。最高に善い物を得るためにすることに恍惚とし、もっと広めました。人が得るべき最高に善い物を得なければならないと言います。

 更に緻密に知ると「貪がなく、瞋がなく、痴がなく、煩悩がなく、どんな苦もなければ、それ以上に、つまり苦がない以上に善いことはない」というタンマの路線に近づき、最後に、人間が得るべき最高に善い物は苦がないこと、まったく苦のない生活と結論しました。

 どうすればまったく苦がなくできるか、早く学ぼうと考えれば(笑)、近道の勉強があります。必要以上に望まないことが最短の勉強です。どうすれば苦にならないかを知るまでは、何が起きても苦にしないのが近道です。最近はほとんどこの近道を教えています。

 ブッダのタンマと共演で、無常・苦・無我を知れば苦はなく、自然に無視できるようになります。年を取れば取るほど、「そのよう(真如)」話をすことが多くなりました。残りの時間が少なくなればなるほど簡単に、間もなく死ぬので「死に間に合わせ」ます。

 今は名誉には関心がなく、涅槃に到達するかしないかは関心がありません。阿羅漢か阿羅漢でないか、考えの中にありません。いつでも苦がないと知るだけで満足です。人間同朋の最高の利益にもなり、自分も快適で、自分が受け取った利益を、いつでも他人に受け取らせるだけで十分です。

 何になるか、どれだけかは興味ありません。あれこれいろんな規定、預流、一来、不還、阿羅漢などは、関心の中になく、気持ちの中になく、できるだけ他人の利益になることと同時に、苦がないことだけを望むからです。

 そしてそれ以上は望みません。それ以上の物になりたくありません。「有である存在は欲しくない」という部類に入ります。残っているのは体と心だけです。名形(心と体)は苦のない状態で動き、ランプの火が消えるように滅亡するまで、最大限に他人の利益になります。

 どこへ行くかは聞かなくてもいいです。燃料が尽きた火はどこへ行くかと、聞く必要はありません。それで終わりです。話すことはこれだけです。

 賛同する人は簡単に後を追うことができ、賛同しなければ、何かする道はありません。彼らはあれになりたい、これになりたいと、あれこれが欲しがります。何か知らないバカみたいな理想は欲しくなく、欲しいのは一日一日、苦がないことです。

 人に話せば変わっているかもしれません。聖向聖果涅槃に到達することを、非常に熱望したこともあります。それが何かを知らない時代には、人が言うように、人から説明されたように望みました。彼らにつられました。

 今は言われているような物になりたくありません。苦がないように、それだけです。まだ死なないうちは、まだ力があれば、最大限に他人の利益になることをします。自分に苦がなく、他人の利益になれば満足です。それ以上の何かになる必要はありません。

問 : 先生。しかし若者なら、何かになりたい気持ちが強いです。

答 : 強いですよ。そうなることが何か、なったらどうかを知らないから強いです。私と同じで、若い時は、人が「善い。素晴らしい。最高だ」と言うのを聞いて、人が好む物を欲しがりました。「私は何々だ、という感覚は重い。心を苦しめる重い物」という最高に深いタンマを知るまでは、誰でもそうです。

 特別な何かになった分だけ、苦は滅しません。何かでありたければ苦は終わりません。何にもならず、何にもなる必要がなければ問題は終わります。重荷になる必要がなく、重荷がない命は、何にもならない命で、何かであると執着しません。

 これは理解している人だけが一般社会で使える教えです。理解できなければ、何も利益はありません。こう考えます。

問 : 先生。それでは「マーナ(慢)でマーナ(慢)を捨て、欲望で欲望を捨てる」とアーナンダが言ったように、欲望があることで欲望がないことを導くことはできますか。

答 : その言い回しは、アーナンダだけの言い回しです。「欲望で欲望を捨てる」と言っても、捨てられる欲望と、欲望を捨てる欲望は意味が違い、欲望と呼ぶべきでない欲望です。欲望とは愚かな望みで、無明の威力の中にあります。知性による望みは、欲望と呼ぶべきではありません。

 しかしこの言い回しは、知性による欲望を借りています。つまり知性による望みが、煩悩による愚かな望みを捨てます。だから「欲望で欲望を捨て、マーナでマーナを捨てる」という言葉を使っています。

 「マーナ(慢)でマーナを捨てる」というのも同じで、二つのマーナは同じではありません。煩悩のマーナは、あれだこれだという自分で、知性によるマーナは、私は一人の人間だと知ることです。この人がその人を捨てれば、捨てることができます。知性によるマーナで煩悩によるマーナを捨てます。

 このような言い方は、特別と言わなければなりません。こういう言い回しをするのはアーナンダだけです。欲望とは、普通煩悩を意味しますが、アーナンダは智慧・明の欲望で無明の欲望を捨てることを意味していて、その比丘尼の心を引くために言いました。

 一方の「欲情に関わらないで、橋を引いてしまいなさい(セートゥカータ)」の、橋を引くとは、切って関わらないことです。アーナンダの言葉は三行あります。『欲望で欲望を捨て、マーナでマーナを捨て、五欲は橋を引いてしまいなさい』。

 関わってはいけません。触れてはいけません。意味を正しく訳さなければ、聞いて正しい意味が分かりません。そしてそれ以上に間違いをするかもしれません。間違いをすることもあります。大きな欲望を増やし、大きな欲情を増やすので、欲望を捨てません。その結果タントラがある宗派など、欲情で問題解決する教義が生まれました。

 智慧を訓練する最も重要な教えは、無常、苦、無我を熟慮することです。何らかの方法で、明らかになるように熟慮し、そして何かを一段階捨てることができたら、もう一度無常・苦・無我を熟慮して捨て、それを、苦が減って預流になるまで繰り返します。

 そうしたら一来になるまで無常・苦・無我を注視して、一来者になったら不還になるまで無常・苦・無我を注視し、不還になったら阿羅漢になるまで、無常・苦・無我を注視します。つまりすべての物の無常・苦・無我の真実を見ます。このようです。無常・苦・無我以外に何も注視しない点が不思議です。

問 : このように注視するのは、どういう意味がありますか。

答 : 感覚に入って来た物、それの変化を、厭わしい変化を、「掴めば苦になる」と見ます。たとえば幸福、幸福の味の感覚をヴィパッサナーの感情(素材)にします。

 つまり美味しい幸福こそ変化するので、変化の観点で見、変化を見、変化を見れば騙す嫌らしさ、うっかり愛すと苦になる厭わしさが見えます。「不変ではない。このように騙す」と見えれば無我で、何かである自分ではありません。

 それは理論で考えるのと同時のこともあるかもしれません。理論で考えずに、それは本当にそのようだと、明らかに見てもいいです。本当にそのように見たことは、利益があります。理論で考えるとすぐにまた元に戻るので、思考を脱しなければなりません。

 つまり飽き飽きすると見て、衝撃を感じて欲情が緩むのは、本当に見ること、理屈で考えずに徹底的に見ることから生じます。ウィムッティターイトンスッタの最後の第五項は、ヤーナダッサナ(見智)で見て、四項は熟慮で、論理で考え、論理的な方法で考えます。西洋人が今一番勉強しているのは論理的手法で、本当のヴィパッサバナーでするのは、まだ先です。

問 : なぜですか。

答 : 仕方を知らないからできません。そこまで行っていないからです。彼らは理論的手法に執着する性質なので、西洋人の能力では、最高に出来てそれだけです。

問 : 先生。論理を使わずに本物を見るには、心に五蓋があってはいけないですね。蓋があったら見えません。

答 : そのとおりです。サマーディの時は蓋がなく、サマーディである心は柔和でしなやかと言います。心の仕事をするのに最もふさわしく、最も正しく、最適なしなやかさがあります。だからこの心は、考えなくても見えます。

問 : 先生。そういうのは、普通の人は到達するのが難しいです。五蓋がなくなる前に定を得なければ、蓋は消滅しません。

答 : できます。原因と縁次第で、正しく考え、正しく心を育てれば、蓋は生じません。

問 : 定を得なくてもですか。

答 : 蓋が生じなければ定以上と見なすべきです。つまり正しいサマーディになっています。

問 : 先生。一般の人間はみなアヌサヤ(隋眠)があります。蓋はいつも生じていないのですか。

答 : そうです。蓋が生じていない時間を使います。その時間を有益に使います。蓋が生じていない、煩悩が生じていない時、心はどうか見てください。煩悩や蓋がいつも生じていたら死んでしまいます。狂って死んでしまいます。蓋が生じていない時間もあります。

 しかししょっちゅう生じて、当たり前のように生じて、繋がって、継続していて、生じてない時間は少ないですが、狂って死なないだけ十分あります。蓋が休まずあれば神経症になって、狂って、そして死にます。

 煩悩も同じで、火である貪・瞋・痴が、休まず生じていれば死にます。血管が切れて死にます。すべての西洋人の考え方は論理の側に依存していて、ヴィパッサナーの側ではありません。

問 : 先生。しかし教えで正しく、真っ直ぐに考えれば、同じように心は衝撃を受けるのではありませんか。

答 : 衝撃を受けます。心が見る利益を知って、何としてもヴィパッサナーで見る努力をすれば、理論で考えることから始めても、何とか見えたら、見方を深く根本的にし、明らかにするので、ヴィパッサナーになります。

  intellect (知性) 、あるいは comprehension (知識)でしかない物では十分ではありません。西洋人が使う言葉は、せいぜいintuitive wisdom (直観的賢さ)で、これが最高のヴィパッサナーの段階かどうか知りません。他の言葉はないようで、これらの言葉で、初めの段階を分けています。

 三段階の智慧、勉強や研究からスタマヤパンヤー(聞いて学んで得る智慧)を、考えることからチンターマヤパンヤー(理由で考察して得る智慧)を、ヴィパッサナーからバーヴァナーマヤパンヤー(実践から得る智慧)を、良く勉強して、良く理解します。

 私たちは勉強ばかりしがちですが、最高に善くても思考や熟慮だけです。論理や哲学の手法で考えても、ヴィパッサナーと呼ぶ段階に届きません。西洋で insight (洞察) と言う言葉にどれだけの意味があるか知りません。しかしもっと高い intellect は先ほど話しました。intuitive wisdom 、あるいは insight はヴィパッサナーの段階と見なします。

問 : 先生。サンマーサンカッパ(正しい志向)も、考えるレベルの智慧に入りますね。心が苦を生じさせる考えをしないよう防止します。だから心に苦を作らせない考えをさせなければなりません。

答 : 考えるのではありません。サンマーサンカッパは道理で考えるのではなく、サンマーディティ(正しい見解)の威力による感覚です。正しい見解が「それは正しい。それは間違い」と教えるので、望みもその真実に傾きます。だからサンマーサンカッパが間違うことはなく、正しい方へだけ考えます。

 根源が正しい見方、正しい知識、正しい信仰にあるからです。サンガッパとは、望みという意味で、知性で望みます。煩悩欲望で望めば「欲望」と言います。いろんな呼び方がありますが、全部欲望の仲間です。正しくない望みなので、無明や欲望が支配します。

 サンガッパと言う中立の意味の望みは、明の側、サンマーディティ(正しい見解)の側で、何かを望むために考える必要はありません。正しい見解の威力に任せます。いつでも正しい見解が隆盛なら、それがサンサンマーサンカッパを生じさせる先生です。

 正しい見解が護っていれば、サンマーサンカッパが望むので正しい行動が生じ、サンマーヴァーチャー(正しい言葉)、サンマーカンマントー(正しい行ない)、サンマーアーチヴォー(正しい生活)が生じ、初めの二項の威力で正しくなります。智慧と戒は智慧の威力で経過し、簡単にサマーディが生じ、それも智慧の威力で経過します。

問 : 先生。教科書の「正しい見解」は二種類、つまり三相と四聖諦しか話さないようです。この二種類はどういう関連がありますか。

答 : ああ、見てご覧なさい。四聖諦式の真実を見れば、苦と滅苦が見え、自然の真実、無常・苦・無我が見えれば、欲望を断てます。取り上げて話さない「正しい見解」は、三蔵の中にたくさんあります。たとえば空を見、因果を見ます。空を見るのはたくさんあります。

 最高になる無我を見ること。自分はないと見ること。「そういうのはない。この人でも他の人でもない。こういうのでも他の物でもない」。こういう言葉はあまり話されていません。話すのが難しいです。何もかも、普通の人が見るように見ません。

問 : 先生。なぜ何種類もあるのですか。

答 : そういうものです。自然にそうなります。観点次第で、名形=心身を見て、苦にならない角度ならどの角度でも、無我でも良いです。空の観点、自分である意味が空っぽなら、無我で、何かの無我が見えれば、それの問題は生じられないので、それは滅苦の道です。

問 : では、四聖諦の観点では?

答 : 関連が簡単に見えるように、形を整えてある初歩の教えで、「苦」「苦を生じさせる原因」「反対の状態である滅苦」そして「そういう状態にする方法」を見ます。規則として、簡単に、ハッキリさせ、正しい見解が真実のままに見るよう話します。「真実のままに見る」「無常・苦・無我を見る」という言葉を使っているのが、四聖諦を見ることです。

問 : 私は四聖諦と三相の関係が良く分かりません。どのように一致するのですか。

答 : 真実のままに正しく見る、正しい見解は何種類もあることをを思い出さなければなりません。

 四聖諦の形の真実を見ること、三相の形の真実を見ること、縁起の形の真実を見ること、タターター(そのよう。真如)、イタッパッチャヤター(因果。縁生)、タンマッティタター、タンマニヤームター、そして空の説明、それからプラスもマイナスも見ないこと、善い面悪い面を見ないことも、正しい見解に含めます。

 幸福をプラスと見ればまだ愚かで、幸福に迷っています。幸福は騙して迷わせる物と見れば、少し良くなりますが、まだ何かに迷う問題があります。幸福を空と見、幸福な自分はいないと見れば、自分は誰かになれません(誰かの配偶者や恋人や、何かの所有者という感覚にならないという意味)。

 このように見ることを「越えて見る」と言います。プラスを越え、マイナスを越え、人間が迷っている正反対の対を越えます。こういう話は心の問題なので、科学以上に科学です。科学のほとんどは物質面で、心の話は少ないです。

問 : 先生。四聖諦の観点から見ると、苦の状態を私たちが認識しなければならず、そして集を捨てなければならず、滅は明らかにうるべきで、道は生じるようにするべきです。

 しかし本当に実践をするには、道から始めなければなりませんね。つまり段階になっていないので、道から始めることは、苦を認識すること、集を捨てることを認識することですね。

答 : 何が先かは、出来事が何を見せるか次第です。しかし一般的な教えで言えば、苦に脅され、そして滅苦をしたくなり、それで滅苦のために転げまわり、それで滅苦に興味を持ちます。

 段階的に並べてあるのは、必ずそのように見える自然の段階で、苦は厭わしい物、怖い物、うんざりする物と見る出発点がなければ求めません。苦を見て滅苦がしたくなれば、実践します。しかしすべての苦を見て苦の原因が見えなければ、完全には見えていないと言います。滅苦も同じです。滅苦ができる方法も見なければなりません。そうすれば完璧です。

 二組に分けると、初めの「苦」と「苦の原因」の組が主で、後の組は「滅苦」と「滅苦に到達する道」です。先頭の二つ、「苦」と「滅苦」は重要です。「苦の原因」は「苦」に含まれ、「滅苦の道」は「滅苦」に含まれます。

 滅苦のために八正道を実践するのは、基本的な実践です。常にそのような正しさで煩悩を生じさせず、そして苦を生じさせなければ正しい暮らし、八正道による正しい暮らしなので、苦、あるいは煩悩が生じることはありません。絶対に生じない、つまり阿羅漢です。

 だから「正しい生活をすれば、世界に阿羅漢は欠けない」とブッダは言われました。

問 : 先生。八正道を歩かないで原因を捨てること、あるいは滅を見ることはできますか。四聖諦の順に追って行けば。

答 : 反対の意味で知ることはできます。苦が欲望から生じたら、欲望を滅してしまえば苦はありません。欲望から生じた苦を通じて見ることで、欲望が滅してしまえば滅苦です。次にどのように欲望を滅すかは、八正道を掴んで、このように勉強します。

 私はこの状態を本当のアビダンマ(素晴らしいダンマ)、お寺のサーラー(東屋)のアビダンマと見なします。数珠玉を数えるのは膨張した、行き過ぎたアビダンマです。

 アビダンマとは最高のタンマという意味です。最高ならこのようで、過剰ではありません。心を分類し、意を分類し、ルーパを分類し、何でも必要以上に分類するのは行き過ぎたアビダンマです。

 最高にアビダンマ(偉大なタンマ)はこういうので、行きすぎたアビダンマはああいうのです。アビダンマのレベルを勉強するのもいいですが、行き過ぎたアビダンマにしないでください。私がこういうと、彼らは怒ります。

問 : 先生。滅が明らかにすることなら、滅は道より後にあるはずです。道の結果です。

答 : 私はまだそのように明らかにしていません。しかし「欲望を滅せば苦も滅す」である滅を知っています。今私は「苦」「苦を生じさせる欲望」が明らかになったので、欲望を滅せば、欲望がなくなれば苦もないと知っています。

問 : 推測で知るのですか。それとも見て知るのですか。

答 : どちらもあります。

問 : 凡夫にも二通りの知り方があるのですか。

答 : 推測で知るなら、役に立ちませんが、滅苦の努力をするきっかけ、発端になります。「欲望を滅してしまえば苦が滅す」と推測して知れば、欲望を滅す努力をするので、道を探します。凡夫もこの段階の智慧を持つことはでき、智慧による心の話はあり得ます。

問 : しかし、私たちが煩悩のない時の自分の心を見たら、それは滅を見る状態にいるでしょうか。

答 : どう見たかによります。欲望が滅してから苦が滅す観点で見れば、滅です。

問 : ただ煩悩がない状態を見るようなのは?

答 : どういう状態を見るのか分かりません。ぼんやり見る、あるいはごく普通の物を見るのと同じということもあります。「欲望が滅した後苦が滅した」と明らかに知ったのではありません。

問 : 私が「ああ今は煩悩がない、心が快適だ」と知ったら、こういうのは滅を見たのですか。

答 : 知識だけです。そういう知識だけでも知らないよりマシです。

問 : でも滅とは見なさないのですね。

答 : その部類には入ります。他の部類ではありません。

問 : 先生。もう一度サンマーサンカッパ(正しい望み。正志)についてですが、「ブッダの言葉」シリーズで、「ブッダは大悟する前に、愛欲の解決方を考え、愛欲を離れる道を考えましたが、まだサマーディが足りなかったので心が乱れ、もう一度サマーディをし直さなければならなかった」というのを読みました。

 こういうのは、サンマーサンカッパは正しい見解の結果だけでなく、意図があるものと思います。魅惑的な感情が触れて来た時、凡夫は自分の物にしたい方向で考え、サンマーサンカッパは、自分の物にしない方向の考えです。

答 : それは、八項目全部の実践でなければいけません。次にサンマーサンカッパは正しい見解の威力になるというのは、間違っていません。実践は八項全部をしなければなりませんが、自分で意図しないで、正しい見解、正しい志向になれば、望みも正しくなり、理解が正しくなります。

 正しい見解なら望みや夢は正しくなり、行動も正しくなります。滅苦をするには、正しい言葉、正しい行動、正しい生活も、滅苦のための正しさです。

 次に正しい努力、正しいサティがあり、正しいサマーディがあり、このように揃えば苦が滅して、正しいヤーナ(智)が生じ、正しい知識があり、正しい解脱で、十の正しさがあります。しかし話すのは実践面の八つで、その他は実践の結果です。正しい知識と正しい解脱は結果です。

問 : それなら実践面の、特に正しい志向は、自分の考えが愛欲や恨みや暴力の方向にならないように注意し、それらと正反対の方向に考えるようにすることですね、実践では。

答 : どのように滅苦をするか、どのように滅苦をしないか、理由は正しい見解にあります。正しい滅苦の望みは愛欲から出ます。つまり恨んだり苦しめたりせず、タンマは正しく関わり、全部と調和します。妨害して不和ならば間違いで、タンマではありません。

問 : 先生。それでは在家だったら、結婚や子や妻を持つことを考えると、愛欲を離れる意味の正しい志向の実践はできません。

答 : それには滅苦をする正しい見解があれば、正しい「正しい見解」があり、そうすれば正しい志向があるので、所帯を持つことも必ずタンマになります。タンマを知らない人とは違います。愛欲のために結婚しするのではなく、純粋な性殖のために所帯をもちます。

 預流は所帯を持っても愛欲に溺れないという、拠り所にできる教えがあります。しかしまだそういう人なので生殖をしたいと思いますが、愛欲のための類の性殖ではなく、欲情や愛欲の威力ではなく、性殖のための性殖で、性殖しなければならない在家は、義務としてします。

問 : 先生。実践面でできますか。

答 : できます。できなければ、そういう教えがあります。

問 : 預流はまだ欲貪を捨てられないのですね。

答 : それは段階的で、サッカーヤディティ(体を自分と見る考え。有身見)、ヴィチキッチャー(教えに関した懐疑。疑)、シーラッパタパマーサ(他の信仰への執着。戒禁取)を捨てれば預流になり、一来は初等の欲貪を捨て、不還は完全に捨てます。

 先ほどあなたが言った、在家の正しい志向については、愛欲を味わっても、望みは愛欲から脱しています。愛欲から出るために近寄るなら、正しい志向になります。所帯を持って愛欲を味わう在家ですが、愛欲から出る決意、望みがあるので、正しい志向です。

問 : はい。それなら実践面でもあり得ると思います。

答 : しかし私が言ったのは、欲情と性殖を区別することを知らなければなりません。

問 : 論理的、あるいは理論としては分けることができますが、自然では分かれていないように感じます。

答 : 知性次第です。無明・欲望・煩悩でする欲情は、生殖も知性がありません。面白い話があります。パトゥムバンヤティのプラスティンです。彼の母親が性殖をさせようと嫁、あるいは妻を連れて来ましたが、どの種類の性殖をしたら良いか分かりません。大意は欲情ではなく、母の望みである性殖だけです。可能かどうかは。

問 : プラスティンは、阿羅漢ではないのですね。

答 : 普通の比丘です。母に家の後継ぎを差し上げたいと望みました。このような性殖の望みで、母が後継ぎを得られるためで、欲情のためではない意図が見えます。心の話は深く、一面だけで簡単に話すことはできません。いろんな例外があります。




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