第七章 内面の学習




1.理論と実践



問 : 先生。後の世代の人が先生の内面生活について理解できるように、ここで先生のタンマの実践面の生活についてお尋ねします。私たちの世代は、僧の生活はどうすれば良いか、とくに先生の世代の僧の暮らしはどのようだったか、どこに価値があるのか理解できなくなり始めているからです。

 もう一つ、先生の実践面の生活についてお聞きできれば、優秀な僧を手本にした生き方を選ぶ人が、気力や、いろんな忠告や、考えなければならない事を知ることができます。スアンモークを作り始めてから現在まで、たぶん、少なからずご自分の内面で何かと闘って来られたと、そして後の世代の人の課題になる失敗がたくさんあると信じます。

答 : (笑) それほどのことは、そこまで考えなければならないことはありません。普通の探究者の話です。運任せと言ってもいいです。それでこのような、今見ているような結果になりました。どれ、どんな質問か、一つずつ聞いてくださいよ。

問 : はい。先生のタンマの実践生活全体をご覧になった時、明らかな変化があった時はありますか。

答 : たとえば?

問 : たとえば先生が一九四〇年にお書きになった「私がまだ自我を探し回っていた頃」に、先生はある時期、空を自分と捉えていらっしゃって、それから、まるで別の次元か何かに入るように、そうではない、間違っていると気付かれたように見えます。

答 : あの文はすべての人のため、すべての人の人生のためにあのような形で書きました。私だけではありませんが、何かを気づかせるために、ああいう名前を使いました。あのようなのは、私一人の話ではありません。つまり無我について知る前は、誰でもあのようです。

 知らなければそれでも構わず、死ぬまで自我を掴んでいますが、知れば変わります。無我を知らない時は、そう考え、知れば違った物に変化します。揶揄して笑いを誘っているので、あのような形になりました。

問 : この質問は、先生の人生に、人生の価値として重要な転換期がおありになったかという点です。

答 : 大きく変化した時はなかったと言わなければなりません。少しずつ、少しずつ成長しました。赤ん坊の時から大人になるまで、本当に変化した時期を言うのは難しいです。こういう状態まで、少しずつ変化して来ました。どう変化したか思い出せません。

 出家して、そしてより善いことを見つけたので還俗せず、それから少しずつ勉強して探求しました。思い切り変化したこと、あっちへ思い切り、こっちへ思い切り変化したことはありません。

問 : 内面の質の変化、たとえば煩悩の話に厳格になって、そして厳格でなくなったことはありましたか。

答 : ありません。言えと言われても、言えません。体と心と生活は、少しずつ、同時に変化し、角を曲がるように変化したと見えません。みなさん、少しずつという原則で始めてください。そうすれば植物のように少しずつ変化し、成長するまで少しずつ伸びます。変化についてと言われても、思い出せません。

問 : 何人かのアーチャンは、あれこれ特別な体験があって、それが「今私の人生は変わった。それによって新しい人生に突入した」と感じさせると話しています。先生にはそういう時期はありませんか。

答 : ありません。それに、人に話すほどの物はありません。勉強を増やし、実践を増えただけで、そしてそう知り、あるいは見え、理解して、感じました。いつ知ったか分かりません。

 ちょっとそっちの言葉で言えば、いつ悟ったか知りません。しかし本当は大して悟っていません。いつと訊かれても分かりません。常にたくさん探求して、たくさん広めて、たくさん実践しています。

問 : 先生。教えでは、私たちが知ったら、彼らがあのヤーナ(智)が生じた、このヤーナ(智)が生じたと言う学問の、あの煩悩この煩悩がなくなったと、必ず分かりますよね。

答 : そう断定する人もいます。しかし私は知ろうと思いません。知りたいと望みません。良くなったと知るだけで十分です。「一日にどれだけ」かは、知る必要はありません。望ましくない物が減ったと知るだけで、どれだけかは分かりませんが、減ったと言います。

 このような話について、パーリ(ブッダの言葉である経)の中に、「職人は誰でも、道具の刃が、毎日毎日減っていることは知っているが、一日どれだけ減っているかは知らない。一年でどれだけ減るかも、知る必要あはない。図る物がなく、図るのは難しい」とあります。

 正しく生きていれば、何が減って行くかだけ知って、どれだけかは知りません。正しい生活を維持するだけです。

問 : 先生。自分はそれが消滅したかを知るために、触れて来る感情に挑戦して試す方法を使われたことはありますか。

答 : ありません。自然にそうなるならともかく、試すつもりはありません。たとえば幽霊を怖がることが少なくなった、今も幽霊は怖くない、とこのように知ります。

問 : 説教を聞くこと、説教をすること、熟慮すること、ヴィパッサナーをすることなど、すべてのタンマに到達する方法の中で、先生はタンマの実践を始められる前に、どの方法でするか方針を立てられたことがありますか。

答 : ありません。後でパーリ・ヴィムッティターイトンスッタを読んで知りました。それまではたくさん探求し、たくさん知って、経典で勉強する方法でし、たくさん本で勉強しました。これは「説教を聞く」中に入れることができます。時には説教を聞いて、一度心がスッキリとして、十分何らかの段階の明るさになったことがあります。残っている部分は残り続けます。

 今言うなら、特にその五つの方法のうち、何か一つの方法でしたと言うことはできません。たくさん探して勉強して、そうすることに満足が増えて、そうすれば自然に、自分で気付かずに捨てられます。

 本当は厳格なヴィパッサナーを一日中、一月中、一年中したことはありません。しかし何か新しいことを聞いた時、自然にそうなります。それ自体がヴィパッサナーです。本当は発見と言わなければなりません。私はどこから聞いたのでもなく、発見して、本に聞きました。ブッダがおっしゃったことを聞くので、聞いている人の一人です。「タンマを聞く」とは、教典を読むこともタンマを聞くことに含めなければなりません。

 知ることが増えれば満足し、満足すれば自然に実践が身につきます。何かを知れば、実践も新しく知ったことと融合します。毎日少しずつと言うことができます。読むのは毎日。スアンモークを作った頃は毎日読み、一日中読んでいたこともあります。そのような具体的な方針はありません。今でも何をいつ知ったか分かりません。憶えていません。

問 : 先生の人生の説教面、つまり著作と講演はたくさんあります。説教すること、他人に話すことと、読むことでは、理解という点ではどうですか。つまりウィムットターイトンスッタの中に、他人に話すことで到達する方法があります。先生はこのようにたくさん人に教えて来られて、先生の心の質の変化はどれくらいですか。

答 : 受け取る物には勝てません。つまりたくさん受け取るので、上げるより受け取る結果の方が多いです。私が教えた物より、勉強になったことの方が多いです。教えるのはほんの少しです。それに、教えるのは受け取ったこと、つまり聞いたことの結果です。

 そして本当は、全部したと言います。受け取ることである聞くこともし、教えることもし、説明もし、論理で考えることもし、ヴィパッサナー、サマーディもしました。だから五種類全部したと言います。

 極端から極端に、どちらかの方向に偏ってはいけません。急いで全部揃うようにしなければなりません。白アリが塚を作るように、急いで揃って少しずつしなければなりません。後の人たちに、このようにして来たと言ってください。

 偏らずに、あるいはくねくね曲がらずに同時し、そして意図しないで、知りたいことがあったら読んで、聞いて、探して、話す時が来たら都合に合わせて、好きなように説教し、読経する時は勤めます。特別な物もありますが少なく、問題に答えるために思索することはたくさんあり、たくさんしました。

 勉強する時代には、同輩の友達と意見交換や討論をしてもいいです。下の友達とでもいいです。注目して内面を明らかに見るのは、これらの行動に任せます。特に空の話は、自分の理解のため、そして話して他人に聞かせるために、苦や焦燥を追放して、焦燥しないようにするために、学んだこと、しっかり実践したこと、すべてから絞り出しました。時には「そのようようになる」「関係ない」からのこともありました。

問 : 先生が無我や空、タタター(真如)について繰り返していらっしゃるのは、自分のため、あるいは自分に沁み込むように強調してお話しになる部分はありませんか。

答 : 他人に話す時は、他人の利益になるように、彼らが理解できるよう意図して話します。自分のことはすべての話、すべての時、すべての出来事にあるので、勉強する時も、説法をする時でも確認できます。読経や、何を書こうかと深く長く考える時でも、内面を見るように、繰り返し、根を下ろすように心を注視します。

問 : 先生。ではこの五つの方法のうち、私たちをタンマに到達させるのは何ですか。真実を理解させるのは何ですか。

答 : 五つ全部を溶け合わせます。それは調和し、矛盾せず、打ち合わず、更に調和します。

問 : 私が言っているのは、自然の調和、つまりそれぞれの方法をどうすれば、心の執着が緩むか、何がその働きをする機械かという意味です。

答 : それは、どれも満足を生じさせ、喜びを生じさせ、幸福である満足を生じさせます。これは非常に自然です。聞いた時も満足が生じ、説教する時も満足、タンマの満足が生じます。タンマの満足は、そのようなことをすると生じます。

 満足すると幸福になり、そしてパッサッティ(煩悩から脱した幸福。軽安)になるので、見えるサマーディになり、すべて心の流れで進行します。ウィムッティターイトンスッタの中の五つは、同じ教えがあります。満足が生じて幸福・満足になるよう喚起すると言います。

 その種の心はサマーディで、サマーディの時は、真実のままに明らかに見えます。これはタンマの話で、人の話ではありません。タンマの教え、あるいはこういうことに関した自然の法則と言います。

問 : しかし誰もが正しく行なえば、誰でもこの過程を通るのではありませんか。

答 : この五つは誰でも同じです。人次第、機会次第で、これが多い、あれが多い、があるだけです。誰にも教える機会がない人は、教えること、説法の結果には出合いません。サマーディ・ヴィパッサナーをしたことがない人は、一つ欠け、上辺だけの物なら、結果も上辺だけになります。

 勤めの読経なども、本当に深い結果を生じさせるには、特別に強い決意が必要です。聞いて、読経することの、あるいは他の人が唱える湿った感覚の中に入ります。しかし自分で唱えるのは、それほど感じません。

 その人に知識があって賢く、十分な能力があり、唱えている言葉の深遠な意味を掴む決意で唱える場合以外は、たいてい楽しさのために唱えています。こういうのができれば、五つの方法が全部揃えば楽しく、味があり、飽きません。

問 : 先生。まとめとして見たら、先生の学習と実践と布教は、どう関わりますか。

答 : 同時にします。(笑) 今夜勉強して明日説法をすることもあるし、時には労働者になって工事をして(笑)、時には比丘の義務や、比丘の意味外の運河を発展させ(笑)、職人になって、森に木を探しに行ったこともあり、時には運河を修理して有益に使えるようにし、道路を有益に使えるようにし、ある時代には、毎日道路を作りました。

 私が行かなければ人は来ません。私が行けば手伝いの人がたくさん来て、行かなければ食べ物を持って来て振る舞う人は誰もいません。私が行けば、私を口実にして僧に料理を振る舞った後、人にも振る舞います。

 全部しました。律に反しません。あるいは損害はありません。全部しました。薬のことも勉強して病気の人を助けました。最高に本当にまとめれば、できると感じたこと何でもし、そして満足しました。五つより多く、何でもしました。こういうのもあります。(笑)

問 : 先生。五種類以外に、タンマを理解させ、タンマを見えるようにする部分もありますか。

答 : 全部です。何をするにも、智慧があり賢さがあれば、いつでもタンマの方向から見ます。すべての人間の「そのようになる」ことを見、善の中に煩悩を見ることも、すべて自然の普通の面を見ることもあります。できる範囲で、全種類の人を観察する訓練をし、後で知識になり、顔や態度や、何か少し話すのを聞けば、「この人はきっとこうに違いない」と推測できます。

 生まれて来て何をしたか、スアンモークに関しても、何をしたか、数えて見てください。全体の目録も作ったことがあり、芸術家になり、考古学者にもなったことがありますが、タンマの妨害になったことはありません。

 それは仕事を成功させ、すべてに周到で賢くなる訓練にもなりました。出家前にする機会がなかったことを、今しました。出家してから機会があった、こういうことがありました。

 昔は鋸を使ったことも、木を削ったこともありませんが、ある時代には義務をしなければなりませんでした。他の人より良くできる時もありました。この木はどう鋸を挽いたら正しいか判断するので、一番良い結果になりました。

 そして勉強した知識が多少あったので、失敗して歪んだのはすごく少なかったです。算数や数学、角や何やらを知っていました。特に丸太は切り難く、下手すると全部歪んでしまいます。

問 : 先生。この五つ以外で、煩わしく感じ、心が進歩しないで、そして止めたくなったことはありましたか。つまりすると益々負担に感じ、煩悩が増えるようなことは。

答 : (笑) ありません。する理由があってするので、すれば役に立ち、利益が得られました。象に木を曳かせることも、いろんな知識が得られました。一番不思議に感じたのは、丸太を縛って簡単に象に曳かせたことです。自分で考えても考えられませんが、簡単でした。

 一度きつく締めるだけで、象がどんなに走っても抜けません。今でも私は、人間が発見した知識に満足しています。人と付き合ったら、人のいろんな種類の煩悩を知るべきです。人はいろいろなので、煩悩もいろいろです。

 私を例にすれば、何でもできるだけしたと、そして試すべき物、試せることを(笑)、あらゆる角度から試したと言わなければなりません。

問 : 先生。タンマの実践で、一番多く使ったタンマの項目、あるいはタンマ集は何かと質問したら、先生はどうお答えになりますか。

答 : うまく答えられません。ざっとまとめれば、「熟慮、知性、理に適った熟考、タンマの話」を越えません。一番利益があったのは、理に適った判断(ヨーニソーマナシカーラ)で、知識や深い智慧を増やすのも、理に適った判断が原因です。

 家のことも、世界のことも、タンマのことも、いろんな形で入って来たら、他人から聞いても、本を読んでも、あるいは自分以外と言える何からでも、聞いて受け取ったら、理に適った判断をして、知識として、財産として仕舞っておきます。

 何かをする時、何かを始める時は、しようとしていることの最高に理に適った判断をすれば、間違いは非常に少なく、あまり間違わないと言います。いつでも理に適った判断をしたので、憶えている限りでは、得ること、所有すること、するべきことで、失敗したことはありません。賢くなったと感じるのは、この理由からです。もし賢いと言うならね。

問 : 先生。しかし一般の人には、熟慮しなければならないことがたくさんあります。全部を熟慮していたら、生活の時間が足りません。

答 : そうではありません。問題であること、熟慮しなければならないことで、それ以外は自然に解けます。一日のうちに、熟慮しなければならないどんな問題があるか見てください。これからすること、大事なこと、仕事のことを熟慮します。私は、小さな詰まらないことには関心がありません。興味を持つ性質ではありません。だから細かくて面倒くさい本は読めません。

 初めに立てる目標、方針はありません。子供の頃からありません。上手く立てられないので、運任せで、これだけ勉強して、これだけ出家しました。感覚を通過した物の中で、「善い」「役に立つ」と感じた物は興味を持ちました。母に満足してもらうために出家しただけで、出家しようとは考えませんでした。

 目標がなく、ふらふらと出家して、タンマに出会ったので満足して、タンマに満足して(笑)、知性の話であるタンマを考えました。私は多分ブッダチャリタ(ブッダの行動をする人という意味)という類でしょう。考えること、智慧を使うことが楽しく、出家してそれを見つけたので、思考や熟慮する幸福と、新しいもの、変わったことを見つけました。

 いろんな事はなるようにしかならないので、全部は試していません。試したのは一割にもなりませんが、「そのようになる」「それだけ」と、すべて知りました。異性のことも何も試す機会はありませんでした。あったとしても「なるようにしかならない」「それだけ」と確信できます。

 ただそれだけで終わりです。問題は終わりです。他の面の勉強から得た知性でも、性の味は「それだけ」と知ることができます。一時バカのようになるだけで、素晴らしい物にはなりません。一瞬だけで、煩悩の話で、知性の話ではないからです。



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