問 : 先生。ここでインドへ行かれた時の理由を話してください。最初は一か月の予定が、三か月滞在なさいました。
答 : 百パーセントの決意ではありませんでした。仏教の歴史と、関心のある遺跡に関連があるので、前に多少話したことはあります。しかし本当は、行った時(1955年)は、チャオチューンから繰り返し誘われたからです。彼が費用を出してくれました。
その時買ってきた本は、たぶん何万という金額です。スリランカにも行こうと思いましたが、丸三か月夢中で旅をして、すごく疲れたので帰国しました。マンダラーサまで行ったので、本当はもうちょっとで行けました。しかし疲れていて無理だと感じたので、帰国しました。結局心の面は何も形のある物は得られず、物質的には四五箱分の本です。
最初にダージリンへ行きました。それ以上遅くなるとすごく寒くなるのと、チベットの勉強をするのに便利だからです。あの辺にはチベット族の商人や労働者がたくさんいます。バターを入れたお茶は、チベットの良い物だと本で読んだことがあり、ダージリンで見ました。どこにもありました。
筒の中の(笑)お茶にバターを入れて、そして混ざるまで搗いたら注いで飲みます。(笑) 私は試す気になれず、見るだけでした。何かの糞のような物を入れましたが、彼らは最高に良い物(笑)だと言いました。体験したことのない寒さを体験しました。今までで一番寒かったです。
ジープで山頂に登って、下から太陽が昇って来るのを見ました。立っている所は雲の高さで、お日様がゆっくり顔を出して、非常に美しかったです。(笑) 雲の裏から太陽を見に行きました。写真を撮って来ましたが、たぶん全部腐りました。私が行った日は中程度の美しさで、もっと美しい日があると言う人がいました。こういうのはたくさんありますが、精神面では、あまり得られませんでした。
奇妙に、反対に(笑)感じ、ブッダ恩に見合わないと感じました。遥々インドまで来てどんな拝み方をしても、頭を何万回地面に付けても、ブッダの恩には見合いません。幾らロウソクと線香に火を点けても見合いません。
チベット人がチベット式に拝むのを見て、それで見合うのかと内心で考えました。チベット人は五体投地という拝み方をし、立ち上がってすぐに全身で地面に平伏し、それから少しずつ膝を引いて起き上がって立って、ナメクジのようにこの動作を繰り返し、食事の時間以外は、常にこうして回っています。
私は、物質的で、行動で、ブッダの恩に報いる智慧に窮し、タイから預かってきた線香とロウソクは、誰にも言わずに全部ゴミ箱に捨てました。預けた人は残念に思うので、自分に恥じました。火を点けても、自分を揶揄して笑うようなものです。
一緒に行った人たちは、何たることか、伝統に従って拝んでいます。私はしばらくの間、仲間と離れさせてもらって、一人で座っていました。幾ら線香を焚いても、鋸屑を焚いても見合わないと、ブッダガヤの偉大さを見てそういう気持ちになりました。
問 : その気持ちは何から生まれたのですか。
答 : 場所、あるいは感動(笑)からと理解します。もしかしたら古さ、神聖さ(笑)かもしれません。本当はどこにいても思うこと、考えることができるので、どこでも生じますが、そこにいる時のように心に湧きあがって来ません。
ブッダガヤではこうでしたが、他では同じような印象はなく、あるのは石やレンガの残骸ばかりでした。ルンピニーは石柱だけ(笑)で、クシナラーは精舎だけで、ブッダガヤは気持ちが集中する所でした。ブッダが大悟された地なので、ブッダがいるならここにいる、というような感覚が作り出されました。
問 : 仏教に関係ある遺跡の痕跡は、分かりましたか。
答 : それは、いろんな場所は本で見たように見えただけですが、ブッダガヤは、何か説明できない威力があり、ここにいる時よりブッダの恩を偉大に感じました。本当は他の場所で考えても、偉大と思うことはできますが、理論的な偉大さで、感情面、感覚面の偉大さではありません。その時は、ブッダは自分の中にいるという類の考えが生じました。そう生じたので、自分の心の中に在るものを訪ねて行ったことになりました。すごいバカです。(笑)
問 : なぜ三か月にもなったのですか。
答 : 気ままで、チャオチューン任せで、彼が印刷した計画通りにガイドブックにある史跡を見て歩きました。気楽な旅で、何も制限がありません。夜も事前に予約なしであちこちに泊まり、支障があっても却って楽しくなりました。初めはカルカッタのマハーポーティ協会に泊まり、それからインド周遊に出て、それからマハーポーティ協会へ戻って飛行機で帰りました。
マハーポーティ協会には一か月滞在して本屋巡りをしました。カルカッタは、他のどこよりも本屋が多かったように感じました。今日はこの本屋へ行き、明日はこの本屋へ行き、ほとんど考古学に関した本ばかり、他の人よりたくさん買いました。それに英語の三蔵、インド哲学の本も。当時私は考古学に狂っていたので、シリウチャイに関した考古学の本だけを、たくさん探しました。
店で買えない本、ほとんど市場にでていない本は、図書館へ行って、シリウィチャイの本を見せてもらいました。売っているのは後から書いた新しい本で、シリウチャイについて書いたマジュムダール博士の本を全巻買って来ました。(笑) 著者は有名な考古学者で、中国やアラブからも集めて、苦労して非常に詳細にまとめました。
私たちの旅は頭陀のようで、家に泊まることもあれば、汽車に寝ることもあり、汽車を降りて寝る場所がなければ、あるだけの物で寝床を作りました。ある時パッタナで汽車を降りて、シーラーナンタさんが「チベット僧の知り合いが、お金持ちの家を借りている」と言うので、日が落ちてから訪ねると、家は見つかりましたが主人は留守で、その家を借りているという僧もいませんでした。
それで馬小屋に泊まることになり、ゴザなどを敷いて寝ましたが、朝起きて見ると、ゴザの下は馬糞でした。本当の頭陀と言います。各自に蚊帳があったのはまだ幸運でした。
その家の主人が考古学者だということが分かり、彼の弟が書いた「スーカラカンダ」の考古学の本を一冊くれました。ブッダの最後の食べ物の話です。それが一番珍しい最後の出来事でした。彼は今でもスーカラカンダと呼んでいると主張し、いろんな説明から見ると、コンニャク芋の一種、芋が食べられる種類に違いありません。
海岸にたくさんあり、彼らは掘って来て食べます。木はクワズイモに似ていますが、葉には裂け目がたくさんあり、木はゲーンソム(酸味のあるスープ)に使えます。レームスイやプムリエン辺りにはたくさんあり、彼らは芋を粉にします。中国から輸入しなければならないので、売買する限りは非常に高価です。彼らはそれでお菓子を作ります。熱があって何も食べられない時に、その粉を溶いて食べさせると力が付きます。
問 : 先生、リシケーシュに泊まったことはありますか。
答 : 行きましたが泊まりませんでした。サワーミーたちが泊まるように誘いましたが、私たちは泊まりませんでした。
不思議なことがあり、そこの村長のサワーミー・シワーナンタが私を見ると近寄って来て、私ともう一人の僧を見て、椅子から立ち上がって合掌して「プッタン サラナン ガッチャーミ」と言いました。私は、おどけているか、あるいは彼らが信じているヒンドゥーの一部にブッダを含めていると思いました。
彼はヴィヴェカナンダと同じ教義ですが、教え方は、サッタヤナンタのように上手ではなく、それでも小さな本を書いて出して売っていて、薬も作って売っていました。配るのもありました。若い時はシンガポールで薬屋をしていて、年を取って帰って来て、出家してサワーミーになり、大勢の子供のサワーミーを監督していると聞きました。
初めに行った岸から向こう岸に渡ると、自由に暮らしているサワーミーたちがいましたが、日暮れ近かったので、あまり深い話はしませんでした。彼は本をくれ、私たちが布施をすると、満足したようです。(笑) インドのどこでも、お金を上げると非常に喜びました。話せばヒンドゥー式のヨーガの話で、しても意味がないと思いました。
問 : 先生は英語を使われたのですか。
答 : ちょっとしたことは英語で話し、深い話をたくさん話す時は、クアンさんに通訳してもらいました。ある日マハーポーティ協会の何かの機会に、彼らが私に挨拶をするように言ったので、私が書いて、クアンさんに訳して読んで貰いました。(笑)
彼らは、私たちがタイで何かをしていると知って、普通以上の歓迎をしたようです。彼らはずっと食事を振る舞いたいと言いましたが、私たちは朝だけご馳走に与り、昼は店で食べました。
彼らは気を使ってくれ、肉料理を食べても何も言いませんでした。(笑) 普通彼らは菜食を守っています。私はネコに興味がありました。あそこでは猫も菜食で、焼いたパンにバターを塗らずに投げてやると、駈け寄って来て奪います。(笑) 大きなネコも菜食で、太っていました。
私たちは最高に自由な旅を望んだので、食べ物のことは考える必要ありませんでした。ある日の朝は、コーヒー一杯とお菓子一切れでラーチャガハの辺りの山に登りました。(笑)
ヴェーパーラ山では菱の実しかないので、菱の実を買って食べました。生の菱と茹でた菱があり、その日は水の代わりに生の菱を、ご飯の代わりに茹でた菱を食べました。(笑) そういう旅で何も問題はありません。誰に頼むこともできないので、誰もが進んでそうしました。
問 : 先生。国民の生活を観察なさいましたか。
答 : 行った所はどこでも、常に観察していました。貧乏な人は非常に貧乏で、金持ちはまるで御殿のようで、金持ちの屋敷の周りには、乞食がいっぱいいて、歩道は乞食で溢れていました。十分と感じました。一度見るだけで十分です。住むにはふさわしくありません。悲しい情景しかありません。乞食が多すぎます。牛も多くて不潔で、綺麗な女の人はカシミール系で、少ないです。
ダージリン住民の女性はニグロのように黒く、衣服をゆるく着て、私はああいう着方は好きじゃありません。腹の所を開けて体に巻き、背中も開いています。
本当のシーク人は、男の人も女の人も綺麗でした。若いシークは、彼らが印刷して売っているクリシュナ神の絵のような髷があり、そして女の人も綺麗でした。しかし一般のインド人はみな黒く、大きな体も、小さな体もいますが、全部黒いです。
問 : 先生。ブッダは何族ですか。
答 : 私の考えは、他の人と違って、黄色人種、モンゴロイドよりも、むしろオオストラーロイドだと思います。モンゴロイドなら目が小さく、細い目で大きく開かないチベット人や日本人のようになるはずですが、推測するブッダの容姿はそうではありません。
ブッダはペルシャから来た西洋人ではありません。アーリヤ族のようなことはあり得ません。ブッダはネパール人だったと信じています。肌が黄色で背が高く、鷲鼻でなく、西洋のようなコーカシアンでも、チベットのようなモンゴロイドでもなく、ネパール、セーマン、カレンと同じオーストラーロイドだと考えます。
タイ人もこの種族です。彼らは大騒ぎをしました。特にスパットさんがククリットに話すと、ククリットが「バカ。何でもかんでもタイにしてしまう」(笑)と言ったと聞きました。今この問題はありません。ブッダはどの国でもいいです。(笑) 何でもいいです。気にしません。どのように滅苦をするかだけを教えたと知るだけで、滅苦ができれば尊敬して帰依します。
問 : 先生。ブッダの姿がないブッダの伝記の石のレリーフは、インドへ行った時に持って来られたのですか。
答 : ああ、あれはあちこちで投資しなければならず、探し回らなければなりませんでした。本、実物、本物、イギリスの博物館へ行った物など、思い切り探せるだけ探しました。博物館は非常に親切にしてくれ、私が何の写真が欲しいと指定すると、担当者が送ってくれて、そして料金も普通の写真代と同じでした。
良い石のレリーフは、たぶんたくさん失われ、個人所収の物も多分、売買を繰り返すうちに失われました。イギリスがインドを統治していた時代は、何でも好きなようにできました。庶民は何も知らず、これらの物は政府も知らず、これらの物に関心を持つ暇がなかったので、住民が発掘して、見つければ西洋人に個人の物として売りました。
東インド会社の職員が(笑)たくさん買い、ほとんどは British Museum の物になっています。私は彼らに頼んで集めてもらいました。しかし消滅した物も少なくないはずです。
問 : インドへ行った時、どこかで探されましたか。
答 : サーンチでは自分で写真を撮りました。本にある写真より良いです。ブッダガヤにもありました。インド博物館は、パーラフット時代の物を全部、森の中から壊して来て展示していました。そして少し、他の場所のもあり、それを複製しました。痕跡程度でも何とか作れました。
サーンチでは大抵大きな柱の上にあり、どの方向の門の柱にも、これらの絵が彫ってありました。こっちの門、あっちの門、そっちの門。ほとんどは門柱にありました。
パーラフットは、全部持って来て新しい建物に貼ってあったので、どこにあったのか知ることはできません。以前はどうなっていたか知りません。職員は「今残っている物で、私らが集めたのは二十五パーセント、七十五パーセントはどこへ消えたか分からない」と言います。
問 : スアンモークは、British Museum から、何パーセントくらい集めましたか。
答 : 非常に少ないです。インドで集めたよりも少なく、十パーセントだけです。アマラワディの物はマドラス博物館からで、彼らは元の場所から運んで来て、博物館で所蔵しています。元の場所にダムを造ったので、今は遺跡が水に沈んでしまいました。
だから彼らが運び込んだ博物館へ見に行って、彼らが撮っておいた写真を、写真に撮りました。綺麗で鮮明に撮ってあります。特に天人がモーリー神を天国に招く写真は、元の物よりきれいです。
問 : 先生。初めからこういう物を作る手本になさるおつもりだったのですね。だからそのためにカメラやら何やらを用意なさって。
答 : (笑) それは全部です。私は以前に、仏像がない種類があったと本で読んだことがあり、そしてそれは仏像ができる前の古い時代の物で、仏歴六百年から仏像ができ始めだという知識がありました。そして仏像ができる前のことを完璧に知りたいと思ったので、集めました。
まだ映画館(絵画と塑像が展示してある説教のための大きな建物)はありませんでしたが、知りたいので集めておきました。知りたくて、どこかに展示するために準備して来て、映画館ができたので、映画館の壁に貼る方が良いです。
問 : 先生。結局インドへ行ったのは役に立ちましたか。
答 : 小さなことはたくさん。重要なのは「線香やロウソクなどで祭って拝むことで、ブッダの恩に報いることはできない」という感覚が生まれたこと、そして今話した、今までなかったブッダの伝記の写真と本を何箱も手に入れたことです。
その後もう一回行ったのは、何も話すことはありません。ブッダガヤのタイ寺のチャオクンが結界を結ぶ時に、名誉ある人の一人として私を招聘し、名誉で行き、公共の予算を使いました。どこも旅する時間はなく、ある本屋へ行って皺くちゃの写真を一枚買ってきました(笑)。話したことがあるでしょう? 結界を抜く言葉を読経した外には、ほとんど何もしませんでした。
問 : 一時期、考古学を楽しまれた話しについて聞かせてください。切っ掛けは何か、そしてどのように楽しまれたか、その後どうして止めたのか、エピソードが知りたいです。
答 : 私が考古学に関わったのは、ボロマタートチャイヤー寺でナックタムの教師になった時代です。出家して四年目の一九三〇年、プラタート寺で雨安居している時、いろんな考古学の担当者、特にルアンボリバーンブリーパンが来て、プラクルー・ソーポンチェッタシカーラム(イアム)と計画して、博物館を作りました。
あの方は個人で蒐集していましたが、その後博物館に寄贈しました。そして彼らがいろんな話をするのを聞いているうちに興味をもつようになり、最後には偉大な名誉あるシリウィチャイの糸口を掴みました。だから興味を持つのは当然です。(笑) 故郷だからです。
それで近づいて観察して勉強し、考えや意見を出しました。私は何をしても本気でするタチなので、その時から一時夢中になり(笑)、一時狂って、バーンドーン湾周辺の考古学の本を印刷しました。興味はそれくらいあり、人から聞いたり、自分で観察もしました。
問 : バーンドーン湾周辺の考古学の本を作る前に、先生はどこで研究方針を得られましたか。
(註 : この質問は、チャイヤーの考古学者、クルーキンユー ピンヨーシリクンの質問)。
答 : 私がシリウィチャイに関心を持って初めて読んだ本は、イギリス人考古学者、クォーリス ウェールズ博士が書いた Towards Angkor で、タクアパーからチャイヤーまで旅をした話です。
読んで見ると、いろんな面白い話がありました。インドから来て、タクアパーのところでマレー半島を越えて、それからカンボジアを目指すという意味です。彼はそう信じているので「追跡する」という言葉を使っています。インド人の後を追って、インドからカンボジアへ直行しました。
その本がとても面白かったので、私も探し(笑)、彼が書いているように探して観察しました。それはあまり完璧ではなく、あるいはすべてが正しくはありませんが、大部分は正しかったです。そしてチャイヤーの所は、絢爛豪華に書き(笑)、あの話この話を明示していたので面白かったです。私は信じたり信じなかったり、気分次第でした。
問 : 先生はソムデットクロムプラヤーダムロンに会われたことがありますが、どんな理由ですか。
答 : ルアンボリバーンブリーパンが引き会わせて、ペー・ラー人の話をお聞かせに行きました。ペー・ラーの人たちは、もしかしたら昔のチャイヤーかも知れないと信じている住民が一部にいたからです。
彼らは住民の発音でサイヤー(笑)という呼び方をし、つまりサイヤー、薬であるサイの木(ガジュマル)で、そしてもしかしたら古代のチャイヤーかもしれないと疑う人がいるので見に行きましたが、何も見当たらず、山に囲まれた自然の山でした。彼らは野生の象を追いこむ場所として使い、囲いを作るまでそこに置いて、囲いができたらそこへ入れました。
問 : 先生はあの方の本を読まれたことがありますか。
答 : 読みましたよ。考古学について書かれたあの方の本は、努力して全部読みました。タイ語では、あの方の本ほど興味深い本はありません。しかし当時はその種の本は何冊もありませんでした。初めて読んだのは「サヤーム国の仏塔縁起」だったと記憶しています。あの方の他の系統はあまり読みません。国の統治の話はあまり読みません。歴史は読み、スリランカについても読みました。
問 : バードーン湾周辺の考古学の本を見ると、先生はいろんな場所に調査に行かれたようですが、どのように始められましたか。
答 : 始めはありません。出掛けるにふさわしい時間があれば出掛け、遠くてもウィエンサラです。そこは赤砂石器時代の物しかなく、クォーリス ウエールズ博士は、そこで掌くらいの大きさのグプダのような仏像を発見しました。
小さいので、鞄に入れてインドから持って来られますが、奇妙なことに赤砂石です。インドで赤砂石で作ったことは分かっていません。彼らは焼いた土で作りました。タクアパーにも行ったことがあります。あちこちに行きました。時によって、車で行ければ車で、船の必要があれば船で行きました。
シリウィチャイの領土の話は、ウェールズ博士に同意しない人が何人もいるので、二派に分かれました。一派はマレー半島でなければならず、チャイヤーの辺りはもう一派で、この人たちは、インド人のマレー半島の研究家であるマシュムダール博士の考えを信じています。
ウェールズ博士はマシュムダール博士と、その他の多くの人の考えで歩き、もう一つの派は、ジョージ サーカス(笑)教授で、スマトラ島にあったという説の先導者です。しかし場所を見に行って見ると何もありません。パーレムバンには何もありません。
私は、マレー半島のほとんどすべてが、かつてはシリウィチャイの中心として栄えていたと信じています。チャイヤーも、ナコンも、ケーダーも。ソムデットクロムプラヤーもそのような見方をしていたようです。彼らはインドから来て、最初にタクアパーに来て、それからチャイヤーに来て、それから少しずつ移動して、南へ行った人と、もう一部東へ、カンボジアへ行った人がいます。
私の観察では、チャイヤーで発見された古い物は、どこよりもインドの物に似ています。他は、どんどん地元の物になり、特にバリは、インドの面影はまったくありません。これらは、新しく発掘された証拠によって変化しなければならない推測です。
追跡には時間が掛かり、三蔵すべてを勉強するのと同じくらいの時間を使わなければならないので、止めました。前に話したように、十分な時間がありません。結論として、考古学は滅苦の役に立ちません。
問 : 先生。考古学の勉強はどんな点が楽しいですか。中には溺れるほど注いでいる人がいます。
答 : 私は何もありません。考古学はアマチュア以下です。故郷の話なので、興味を持ったのは当たり前です。夢中になったのは、珍しかったからです。自分の故郷に関した珍しい物、新しいことを聞き、中国で証拠が発見され、サムフットシー、あるいはシーブーサーなどのアラビア語を聞いたからです。
溺れるほどの考古学者は、発見した証拠、考古学的な物も遺跡も、証拠文書も地理も、全部寄せ集めて、系統的に撚り合わせ、こうなるはずだ、ああなるはずだと考え、道理で推測するのが面白いのでしょう。もう一つは名誉のある仕事で、有名になりたい気持ち、発見し、会議で発表し、そして多分生活するお金も手に入るでしょう。本気でしているのは、たぶんこのタイプだと思います。
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