5 過去のアーチャンたち





問 : 先生。「過去のアーチャンたちの説明は全部間違っている」と言って、過去のアーチャンたちを軽蔑していると先生を非難する人がいた時、先生は「それは違う。私は非常に過去のアーチャンたちの知識のお陰に与っているが、同意しないことは否定する」とお答えになっています。

 先生が過去のアーチャンたちから、どのように知識を学ばれたか、お聞かせいただけますか。

答 : 人物であるアーチャンの話は、集めて聞き、常に判断しています。これはスアンモークができる前からしています。どこかに誰かの何かがあれば、熟慮熟考して見ると言います。ほとんどは有名な人の説法で、チャオクンウバリークヌーパマーチャーン(チャン シリチャントー)、ソムデットワットテープシリン、一般社会ではあまり知られていない、尊敬すべきたくさんの人も読んだことがあります。

 しかしそれは説法の練習に関わる話で、説法師になりたい人は誰でも(笑)します。友達も、有名な人の本をわざわざ探して集めました。本を売り歩く中国人に探させ揃えさせなければなりません。人物であるアーチャンを最高に努力して、探せるだけ探して聞きました。

 正しいとか間違いとか批判する勇気はありませんが、私たちは、この人がこういった、あの人がああ言ったと聞いたら、この話はこうだが、同じ話を他の人はどう言っているか、反対の物も聞く伝統があります。

 一番変わっているのはチャオクンウバリーで、他の人がすることとまったく違います。私は軽蔑という考えはありません。主張できます。聞いておきました。珍しいものを聞いておいきました。私はまだ若僧だったので、老人を消す考えはできません。

問 : 本を通じてでなく、直接会われたことはありますか。

答 : おー、会うのは難しいです。高齢で、そして亡くなっている人もいました。そして私は若僧で、誰も私を知る人はいません。在家の人もいました。たとえば(笑)、クロムムーンウィウィタワンナプリチャー。私はあの方の本をたくさん読み、たくさん考えを聞きました。大乗式の魂の話、大乗式の来正か何かの話でしたが、それにも、人に道徳を(笑)持たせ、罪を嫌い、徳に勇敢にならせる利益があります。そして反対に見る部分もあります。

 残るのはアッタカターだけで、アッタカターは、アッタカターのようには全部認められないと言うことができますが、幾つかは、非常に感謝しています。アッタカターに依存しなかったら、解釈できない物もありました。アッタカターをどうするか、言うのは難しいです。

 利益のある物、あるいは有効に使える物を選んで、同意できない物は無視して、黙って、取り上げません。本当のタンマを解説しているアッタカターの解説は、一部分は認めます。物語の梗概は(笑)あまり認めません。なぜならあの方が住んでいた土地の話を混入させたと見えるからです。

 ブッダコーサーチャーン(註1)はアッタカターダンマパダを書いて、あの方が住んでいた土地の話を、ブッダの時代の話のように話しているからです。場所に関したこと、風俗習慣に関した話、バラモンを褒めて国王を軽蔑する話などは、スリランカの話で、私にとって意味がありません。

 自分で見て、自分が感じたように自由に考えるので、解釈するなら自分の解釈にします。アッタカターに糸口がある物も、アッタカターの解釈にしません。アッタカターを糸口にして考え出すこともあり、無くはありません。だからアッタカターを軽蔑しなければならない理由も必要もありません。

 しかしですよ。「アッタカターにすぎない」という言葉が、いつでも口から洩れます。時々こういうのが口から漏れます。本心では軽蔑する考えはなく、私は説明したいように説明します。人はわざと、私がアッタカターを軽蔑していると、あるいは抵抗していると責めます。抵抗というほどではありませんが、私は採用しない(笑)物も時々あります。何だったか忘れました。あまり思い出せません。

問 : 縁起を説明したアッタカターで、正しいのはありますか。

答 : 「系統が違う(笑)」と言います。アッタカターで縁起を説明しているのは、幾つもの生が関係している話で、一巡りが幾つもの生に関わっていると言っています。アッタカターは全部、清浄道論を書いた人物が書いています。

 私は初めそう勉強し、そう受け入れ、そして他人に教える時もそう教えました。しかしその後系統を(笑)変えて、「考えや感覚の中の生」の話にしました。衝突する必要はないので、道徳の話と第一義諦の話にしました。こういう説明も道徳面の利益があります。その人が死んで、もう一度同じ人に生まれるなら、常見です。私は「人は死んでまた生まれる」と言わず、欲望が生じた時が縁起の一巡と言います。

 だから一日に何回も欲望が生じれば、欲望が生じる度に苦になります。一度苦が生じれば、縁起の一巡という意味で、一日に何回もあります。「原因がこの生にあって、結果が他の生にある」というアッタカターと相反します。一日に何回も欲望が生じるのに(笑)、それがその後の生の原因になることはあり得ません。

 この縁起の話は、まったく別の系統で、向こうは反論できません。私が「一度欲望が生じたら、縁起の一巡」と言うのに、反論できる人は誰もいません。アビダンマの中でも認めているに近いです。つまり一日に何回か煩悩が生じたら、それだけの回数の縁起が始まると規定しています。

問 : 先生。ブッダゴーサーチャーンについてですが、先生は一九三三年に、「あの方(ブッダゴーサ)は、清浄道論など特別な書籍以外は、ただの翻訳者にすぎないという見解の人がいる。しかし清浄道論も、その後、ヴィムッティマッガ(解脱道)を書き写して原本を焼却したという人がいる」と書かれたことがあります。

答 : そこまでではありません。あの方が解脱道の構造で清浄道論を書いていますが、見本である物語を、原書より増やしただけです。

問 : それではなぜ、原書を焼却したのですか。

答 : 気持ちは分かります。二種類あれば論争が尽きないので、勉強になりません。(笑)

問 : 機に乗じたのと同じです。

答 : そう言うこともできますが、それほどではありません。あの方は最高に良くするつもりだったのかも、最高に良くする善意だったかもしれません。あるいは自分の教養を最大限に見せるためだったかもしれません。ヴィムッティマッガ(解脱道)は、中国語に翻訳されていなければ消滅していました。ヴィムッティマッガで説明されているだけでちょうど良く、簡潔で良いです。そして良い証拠です。

 ブッタゴーサーチャーンは非常にたくさん解説していますが、珍しい物は何もなく、物語を入れて、文法や言葉を詳しく解説しているだけです。ヴィスッティマッガ(清浄道論)には、何十か分からない話がありますが、ヴィムッティマッガ(解脱道)では必要なく、物語で話を重くしなくても説明できます。

問 : それで先生が「阿羅漢の足跡を追って」を書かれた時、先生は清浄道論式に、道徳類、サマーディ類、智慧類と、このように分けましたか。

答 : そんなにハッキリではありませんが、そういうのは避けられません。仏教の実践は、必ずそうなっているので、戒の面の基礎的な説明をし、それからサマーディになり、最後に智慧になります。誰が書いても、必ずそう書きます。

問 : それで、この智慧の部の説明には同意できないと、その時思われましたか。

答 : まだ、まだその問題はありませんでした。つまり戒・サマーディ・智慧の説明をする規則、あるいは習慣がありますが、今、本当の実践の面から見ると、いつでも必ず智慧が先導しなければならず、智慧に導かれた戒になるように、智慧に導かれたサマーディになるようにしなければなりません。

 八正道では、智慧群が戒群やサマーディ群より先にあります。「阿羅漢の足跡を追って」を書いた時は、まだ習慣どおりに(笑)、一般の教えどおりに、戒・サマーディ・智慧の原則を掴んでいました。そして重さのある、意味のある話を探し集めて、戒の部、サマーティの部、智慧の部にしました。

 頭陀の部は、戒の部とサマーディの部の間に入れて、頭陀の部と呼びましたが、本当の原則では、戒、サマーディ、智慧になります。簡単に早くサマーディになるには、頭陀もしなければなりません(笑)。戒も、サマーディになる便宜のためにあります。サマーディにするために本当に重要なものもあります。

 ブッダが滅苦の方法を説かれる時、ほとんどは八正道で話され、時には八正道と言わず、短い二つの言葉、「サマタとヴィパッサナー」と言われました。戒はサマタに含まれるので消えます。頭陀も必要と見る人は、サマタの中に含まれると知ってしまってください。

 サマタの系統すべては静めるので、戒と頭陀は一緒にでき、智慧の系統、あるいは洞察の系統は、別の物として分けなければなりません。ブッダが八正道と言われず、サマタとヴィパッサナーという二語で言われているのは、少なくありません。

 私は初め、あまりこの言葉に関心がなく、庶民の言葉のようだと考えましたが、後でパーリ(ブッダの言葉である経)を見た時、ブッダは「サマタとヴィパッサナー」と二語だけで言われていても、拡大すれば八正道になると気付きました。サマタはサマーディの部で、ヴィパッサナーは智慧の部で、戒の部はサマタに含まれます。

問 : 清浄道論の縁起の解釈は正しくないと見始めたのは、いつ頃ですか。

答 : それは、スアンモークができて三蔵を開く時間が多くなり、縁起の勉強をたくさんするようになってからです。スアンモークができる前、あるいはできて二年くらいは、昔のように教えていました。

 三蔵に関わるようになり、直接パーリ(ブッダの言葉である経)を読むことが多くなると、終に「欲望があれば必ず取があり、有があり、生がある。そして私たちは一日に何回も(笑)欲望がある。このように一度棺に入る類の生が重なるはずがない」と、明らかな縁起の法則があると気付きました。それで説明の仕方を探して、最後に「生」という言葉には二つの意味があると気づきました。

 体は、母の胎から生まれたら一度で終わりですが、欲望から生まれた生は、一日に何回も、欲望が生じる度にあり、一日に何回も取になり、有があり、生があります。体の面の話ではないので、棺に入る必要はありません。だから別にして、そしてもっと理由と根拠を探して増やさなければなりませんでした。

 常に発見があり、述べたような自然に気づいた道理は、どんどん増え続けました。これが原因でヒト語・タンマ語という原則を発見しました。ヒト語の「生」は子供でも見える母から生まれることで、タンマ語の「生」は心で生まれること、「俺、俺の物」という考えが、もう一度生まれることで、誰にも見えません。それに母から生まれる必要がなく、考えや感覚の中に素早く生まれます。

 望みが強くなると、「望んでいる人である自分」という考えが自然に生まれ、このような「生」がタンマ語の生です。だから結局、「有と生は二生に跨っていると説明する形の縁起は、道徳を増やすためであり、第一義諦、あるいは本当の真実は生を跨がないで、一つの生の中に何回もある種類の縁起」としました。

 それも、一回の「俺」という考えの結果が、次に生まれる「俺」に関わる結果になって跨っていますが、生まれるのは人ではなく、心の流れだけです。この種のもので、解脱のための第一義諦のレベルを教えました。

問 : 長い間お考えになりましたか。

答 : 何年も。考えて見ると、スアンモークが五十年ですから、半分でも二十五年になると思います。今は釘を打つように強調するようになりました。そうでなければならず、他の物は利益がありません。それぞれが別の生にあったら、縁起の流れを止めることはできません。

 問題は生きているう間にあるので、苦に到達する縁起の流れを止めるサティがなければなりません。遠い話にしないで、目が形を見、耳が声を聞くなどした時、良く管理し、縁起の流れを作って苦にしてはいけません。これは非常に科学です。

問 : もう一度、過去のアーチャン達についてですが、ソムデットプラマハーサマナチャオは、スアンモークを作ってからも勉強なさいましたか。

答 : 勿論です。それは学ばなければならない本なので、学ぶという言葉を使わなければなりません。ソムデットクロムプラヤーのいろんな説明は、ナワコワーダの中のも、タンマウィパーグ二冊のも、ナックタム一級のためのタンマウィチャーンも、まだ勉強しなければなりません。

 そうすれば、あの方がそう説明しなければならなかった、ということが分かります。あの時代には、あれしかなかったからです。そしてヒト語タンマ語については、あの方の考えの(笑)中には兆しはありません。

問 : あの方も外皮と内皮と芯材(価値のある部分)の考えを使ったことがあるようです。

答 : それは確かです。あの方は智慧があり、そしてどの部分が芯材で、どの部分が内皮か見えました。

問 : 佛教新聞に、ソムデットプラワンラット(プラップ)の書かれたものがたくさん載っているのを見たことがあります。

答 : 幾つかあります。満足できる物なら公開して知らせました。良ければ誰の物でも構いません。一致する説明もいろいろありました。しかし縁起を説明させれば、有や生を跨ぐことから脱せなかったかも知れません。あの方はラーマ四世と五世に亘った時代の人で、アランワーシー(森に住む)側に分類されます。

問 : サンガ王チャオクロムルアンチナウォンシリワットが書いた「アピターナッパティーピカー」は、役に立ちましたか。先生は称賛する批評を書かれていたようですが。

答 : 言葉の話で、タンマの面ではありません。その中に利益のあるタンマは少ししかありません。言葉や翻訳は、あの方の物ではないと理解します。あの方の業績は、その本を正しい文章に洗い直して、そして印刷したことです。その教典を書いた人は誰か、私も知りません。聞いたことがなく、関心もありません。

 あの方は入れ替えて使える同義語や名詞を集めました。ブッダという言葉も何十語もあり、阿羅漢という言葉も何十も、何の言葉もたくさんあります。私はこれを有益に使って、著者から利益を得ました。サンガ王がタイ語にしたので、私は非常に利益を得ました。

 同義語の類、タンマの方面でないいろんな話、植物の話、国の話、山の話、自然の話は、知識を広くし、使い方を知っていれば、その本には利益があります。その本を使う縁は多いと言えます。(笑) 

 しかしアビダンマの人たちには、少しも利益がありません。このように関心を寄せる、あるいはこのように使う話がないからです。彼らには座って数珠玉を数える義務があります。(笑) 

 本当の学習者なら、語学と言語学の部分も勉強しなければなりませんが、アビダンマにはありません。そしてこの本の話は、勉強し、暗記し、座って数えられないほど十分あります。

註1 ブッダゴーサ=インド人僧(仏歴約1000年当時の人)で、スリランカへ三蔵の勉強に行き、新たにアッタカターを書き加えた。さらに「清浄道論」という特別な書物を書いた。それは幾つもの生に跨る縁起の説明をしている。タイの最高レベルのパリヤッティ(三蔵の学習)は、この教典を基本に使っている。




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