4 三蔵の分析





問 : ここでいろんなタンマを判断する基準についてお尋ねします。佛教新聞の創刊号を読むと、先生が三蔵を批判し始められたのが見え、「律蔵と論蔵は後に加えられた詩文で、直接ブッダの言葉ではない。そして三蔵全体に、混入させた物がある」と書かれています。

 その時はお仕事を始めたばかりで、本の世界に踏み込まれたばかりで、あのような提言をなさる確信を、どのように得られたのですか。そしてどれが本物で、どれが加えられた物かを判断する基準はありましたか。

答 : 基準はなく、(笑) 感じたように言いました。何回も読んでいくと、常識で自然に感じます。そう書かれ、そう説明されているので、内容が自然に教えます。律蔵の中の枝葉の説明は、ブッダの時代に書かれた物ではないことが明白に見えます。

 それほど不思議ではありません。誰でも感じます。特に西洋人は観察が得意なので、簡単に感じます。私は「これは違う」と疑い始めました。当時はそれほどではありませんでしたが、今は(笑)、今では絶対にそうだと感じます。そしてそういう気持ちは、今では強くなっています。

 こういう話はパーリ語になった教典の中にあります。たとえばブッダウォン、マハーウォン、あるいはサマンタパーサーディカーのような本にも、『初期にはまだ三つの蔵(訳注)である三蔵はない。律蔵は小部の中にあり、蔵という言葉はなく、代わりにアーガマ、あるいはニカーヤという言葉がある。ディーカニカーヤは長い物、マッジマニカーヤは中間の物、サンユッタニカーヤは短い物、アングッタラニカーヤ、グッタカニカーヤは雑多な物』という文章があります。

 註: 元のパーリ語は「蔵」ではなく「篭」。タラバヤシを入れておく篭。

 自分で読まなければ分かりません。それに説明し難いです。中には理屈に合わない物もあります。特に律は多いです。必要もなく非常にたくさん、事件の見本の仮説(笑)のように著しました。そのように生まれたのなら、一つ一つそのように判断し、この部分の律は増やした物だと、そういう判断になります。

 増やしていない物もあります。本当に元からある物、本当の規則もあります。無くはありません。しかし私は、論蔵の部分には混入があったと見ています。幾つもの理由があると、前に書いたことがあります。特に使っている言い回し、天国で説教しなければならない話は、尚更信頼できません。もう一つ、論蔵で説明している話の初めの主題は経蔵にあり、経蔵で発見できます。

 何年も撫でまわしていたら、判断基準である一般原則を発見しました。マハーパリニバーナスッタ(大涅槃経)の中のマハーパテーサ(法教)と、律の中の四マハーパテーサ(四大法教)、そしてパチャバディー ゴータミーに言ったタンマウィナヤ(法・律)の判断基準、そして最高に濃いのはカーラーマスッタです。

 これは私も使うことを知っています。(笑) 初めからこれを使うことを知っていたので、問題が生じた時には、この四つの道具を使います。誰でもこういう教えを遵守しなければなりません。

問 : 四つの規則の一つを使うのですか。それとも一緒に使いますか。

答 : どの面の問題が生じたらどの教えを使うかは、場合によります。律に関したことなら、律のマハーパテーサを使い、スッタンタ(経)に関してだったら、スッタンタのマハーパテーサを使います。そしてスッタンタは三か所あるので、中を読んでみれば、どんな場合に使うべきか、だいたい分かります。

 カーラーマスッタは、すぐに信じないで、どう滅苦ができるかという原則を掴ませるだけです。タンマヴィナヤ(法律)を判断するには、ゴータミースッタで「こうならそうで、こうなら違う」とハッキリ言っています。

問 : 先生。ゴータミースッタは、一項だけでも使えますか。それとも全部一緒に使わなければなりませんか。

答 : それは場合によります。二項しか使わないこともあり、八項全部なら、念のためです。マハーパテーサスッタンタ(経蔵の大法教)は範囲が広く、話していること、提言したことが、スッタンタ(経)とヴィナヤ(律)のほとんどの教えと一致すれば、それは使い物になり、仏教の手法の滅苦です。

 スッタ全般、あるいはヴィナヤ全般に使うことができなければ、仏教の教えではありません。これは最高に広く(笑)、そして最高に善く言っています。熟慮検討して見て、ほとんどの物と一致しなければ、混入した物なので、取り出してしまいます。ブッダは「一般の教えと矛盾する」という言葉を使っています。

 私にはそこまで判断する義務、あるいは必要はありません。この規定を宣伝し、一般の学習者に「それは判断するためにある」と教えるだけです。しかしまだ、この原則を使って何かの項目を判断して説いたことはありません。

 カーラーマスッタは、「ブッダが言われたこともすぐには信じないで、滅苦ができることを検証して見て、それから信じなさい。それから実践して見なさい」と、広く話しています。しかし誤解している人が多く、誤解して、私が言ったとバカなことを言い、話を聞いてはいけないとか、人々がしていることを見てはいけないとか、噂を聞いてはいけないとか、三蔵を開いて見てはいけないと言います。

 そうではありません。何でもできますが、すぐに信じないで、滅苦ができるかできないか判断して見て、滅苦ができれば使います。滅苦ができれば、誰が言ったことでも構いません。一般の教えをたくさん勉強すれば、この言葉は煩悩を減らすか、煩悩を退治し、縁起を阻止するか、自然に分かります。そうなれば使い物になります。

 カーラーマスッタに習熟して、自分で何でも判断できるようになれば、他人を信じる必要はなく、そして自分を信じるにも、自分の考えは滅苦の話と一致しているか判断して見ます。自分の考えと一致するから正しいのではなく、滅苦ができるかどうかを見ます。カーラーマスッタは、最高にたくさん学ばなければなりません。

問 : しかし私たちの実生活では、滅苦ができるかどうか検証できない物を信じなければなりません。

答 : それなら保留にしておく方がいいです。滅苦できる道が見えないまま仏教の教えの実践をするなら、保留にして、理由が明らかになるまで待ちます。つまりもっと勉強し、あるいはたくさん見たり聞いたりして、疑問に思ったら、あるいは試してみるべきと感じたら、試してみます。

 今は、滅苦ができる正しい教えもたくさんあるので、聞けば問題はありません。大丈夫です。しかしそれでも、これ(カーラーマスッタ)に従ってしなければなりません。聞いたらすぐにするのではなく、信じる前に智慧がある仕方でします。カーラーマスッタの教えで判断するのは、信仰の前に智慧があるようにすることです。智慧について話すのは注意してください。(笑)

 一度も智慧があったことがなければ、間違って勉強したかもしれません。だから「それは貪・瞋・痴を消滅させる」という言葉で確認しなければなりません。ほとんど常識と言えますが、常識だけではなく、推測して、考えて、試して、むしろ熟慮熟考ですが、常識のように使えば、これは滅苦ができると、自分自身で自然に知ることができます。

 私がこの話を広めたのは、誰もがこの教えを使えるようになって欲しいからです。あらゆる種類の信じ易さを抜き取らなければならない時代なので、こういう教えを引用して、他の人に理解させなければなりません。

問 : その後先生は、三蔵の中にあっても、ヤターブータサンマッパンヤー(如実正慧)の理由と一致していなければ、捨てても良いとおっしゃっています。

答 : それは、カーラーマスッタで見ても正しくありません。同じ言葉が、ヤターブータサンマッパンヤー(如実正慧)で見て正しくないなら、カーラーマスッタでも正しくありません。

問 : ヤターブータサンマッパンヤー(如実正慧)とはどういう意味ですか。

答 : 「真実のままに知る智慧」と言っています。「真実のまま」は深いので、勉強し、復習し、熟慮し、推測し、対比しなければなりません。

問 : 先生。凡夫が知ることはできますか。

答 : 凡夫は段階的に知らなければなりません。苦と呼ぶものはどう生じるのか、貪・瞋・痴とは何かを、少しずつ知ります。本当に何も勉強したことがない凡夫が知る道はありません。しかしカーラーマスッタの教えを使うことを知っていれば、少しずつ知ることができます。

 「怒りは苦か」というのも同じ話で、体験した感覚を素材にして判断します。愚かすぎなければ、珍しい話を聞いて心に入った時、それが貪・瞋・痴の方に行くか、非貪・非瞋・非痴の方に行くか、すぐに観察できるので、貪瞋痴という言葉の意味を知ることができ、貪・瞋・痴になれば滅苦ができないので採用しません。

 絶えず観察していれば、欲望・執着は苦であるという教えで自然に理解でき、「何々したい」「強く執着する」という言葉を聞けば、すぐにそれは苦だと自分で知り、そこで欲望や執着の問題になる新しい感覚があれば、知ることができる部分が増えます。

 しかし正常な(笑)凡夫でなければなりません。正常な感覚があり、苦の状態、苦のない状態、貪・瞋・痴・非貪・非瞋・非痴を観察することを知っていなければなりません。

 彼らは専門的な言葉ではなく、全部普通の言葉で話したので、これらの言葉はすべて普通の言葉と見なします。現代は理解できなくなり(笑)、特別な勉強をしなければならないので、専門用語になりましたが、ブッダの時代には、これらの言葉は専門用語ではなく、庶民が聞いて分かる言葉でした。

問 : 先生が三蔵を切り捨てるように提言した後も、どれを切り捨て、どれは切り捨てるべきでないと判断する時、常に同じ教えに依存したのですか。それとも他の教えがありましたか。

答 : お話したように、苦に関わりがない、滅苦に関わりがないと明白に見えるものです。たとえば月食や日食に関した物は、当時の教育のない人たちを仏教に振り向かせるためで、滅苦に関わりがなく、ブッダの名前を出すだけで、魔王は月を開放します。インドかスリランカの物で、この経を混入させた時代には、たくさんの人々が信じていたので、三蔵に入れてしまったと理解しています。

 鬼の話も同じです。多くの人が鬼を恐れたので、鬼を恐れなくても良い話があれば、大衆の利益になります。それらのアーチャンは、きっと教育のない最低の庶民を見ました。

 人々が天人を信じたので、その機に、天人を使って仏教に振り向かせ、天人もブッダを信仰しているので、普通の人が信仰しないはずがないという要旨で、仏教に振り向かせる手段に使いました。本当の聖諦、本当の八正道の話の経で、「世界に素晴らしい物が生まれた、誰も反論することのできないタンマが生まれた」と、天人に称賛させなければなりませんでした。

 天人の話を聞けば、彼らは、基本的に天人任せなので、庶民は受け入れます。「切り捨てる」という言葉は乱暴に感じますが、どんな言葉を使えば良いか知りません。

問 : 先生。先生が切り捨てるとおっしゃるのはどういう意味ですか。

答 : どんな種類の人に説教する時も除外し、制止します。一般の人、教育のない底辺の人のためなら、切り捨てる必要もないし、切り捨てる物もありませんが、本当の科学者、本当の考古学者に説くなら、六割を捨てて残り四割にすれば純潔で、残るのは要旨だけ、ダイヤモンドや金ばかりです。(笑)

問 : 先生は王国版三蔵の、この経とこの経を捨てるようにと提言なさらなかったということですね。

答 : しません。どの版も直接は触れません。どの版も全部同じです。「科学者や考古学者に広める時は」とだけ言います。彼らはいろんな文体を勉強して、三蔵の経緯を知り、アビダンマのようなのは、考古学者は認めません。

問 : 先生。三蔵の経緯をお話していただけませんか。

答 : 誰も正しくは話せません。推測するだけです。

問 : はい。先生が推測なさる限りの。

答 : 今明らかになっている推測では、ブッダが言われたと認める理由がない教典、あるいはそういう部分、あるいは「煩悩・欲望を滅すことで苦を滅さなければならない」という科学的な理由のない経があります。天人の応援は要らないので、天人を引き出さなければならない部分は、科学者と考古学者も含めた現代の学習者の知性に耐えるよう、捨てて良いです。

 その段階になったら、四割は捨てなければなりません。経全体を捨てなければならない物も、部分的に捨てなければならない経もあります。

 全部言いなさいと言われても、全部言える人は誰もいません。その時に生まれていないので、見ていないので誰も言えません。現在ある物で、「これはこれと矛盾する」「これは行き過ぎだ」「理由を越えている」と推測するだけです。

 周到に見れば、こうでなければならないと結論することができます。何千年も前のことなので、自分が見て来たように話せる人は誰もいません。

問 : 初期は僧たちが記憶していたのですね。

答 : 書かれていることによれば、三回の結集までは、全員で記憶していて、第五結集で記録しました。しかし私は信じません。もしかしたら書いていたかもしれません。特に第三結集では、多少は書いていましたが、完璧でなかったかもしれません。スリランカへ持って行った時、多少書かれたかもしれません。だからスリランカにはいろんな状態の文字があります。でも彼らは、第五結集と言います。

問 : 先生。すごい分量をどうして記憶できたのですか。

答 : 自分で知ってください。しかし私がビルマに行った時、全部記憶している方がいて、国中の人が認めていました。試験をして、どの経を語るように言っても、全部言えました。三蔵全部ではありません。時間がないので多すぎるからです。しかしどの経でも言えました。どのニカーヤのどの経も、いくらでも言えました。彼らはこの人を第六結集の問答者として招聘しました。私も参加しました。

 仮定して質問し、仮定で答える方法でしました。本当はそうしませんが、儀式として、結集説法のように、質疑応答しました。その僧が個人的に私の宿泊所へ訪ねて来て、靴を一足くれました。今でも仕舞ってあります。国中の人が認め、政府も認め、三蔵を維持する人として、名誉や何やらを与えています。私も信じたくはありませんが(笑)このようです。

問 : それで私たちが使っている版は、最高どれくらい後退したと見なせるでしょうか。ある時期に燃やされたことが分かっているので。

答 : 常に交流し、燃やされるとスリランカから借り、ビルマから借りて書き写して、タラバヤシの葉に刻みました。当時はどこもまだ、紙の本に印刷していませんでした。ビルマのは標準にすることができます。彼らは火事に備えて(笑)大きな大理石の棒七百本あまり、八百本近くに彫りました。私が行った時、彼らがマンダレーの町に連れて行ってくれました。

問 : 初めはインドの文字を刻んだのですね。

答 : 彼らが言っているようにスリランカのシンハラ文字で刻まれたのではなく、私は、それ以前に多少は刻まれていたと信じています。そして第四結集と呼ばれるプラマヒンダラの時代に、プラマヒンダラがこの文字をスリランカに持って行きました。プラマヒンダラはアショーカ王の子です。

 本当に彫ったのなら、当時はプラークリット語しかなかったので、プラークリット語で彫りました。アショーカ王の時代に、文字による記録が始まりました。何の石柱もみなプラークリット語です。

 何語を使っているか分からない石柱が幾つかあります。パーリ語ではありません。プラークリット語に訳すと、多少歪みがあります。多分インドのどこかの地方でしょう。東部、西部なら、規則があって良く分からないパーリ語でなく、哲学者の言葉でなく、地元の人が読んで意味の分かる地元の言葉で刻むはずです。

問 : シンハラ語からインドの言葉に訳された時、もう一度焼却されたのですね。

答 : 確かではありません。ブッダコーサー師(註1)が燃やしたと言うのはアッタカターです。それまでにあった三蔵の解説は正しくないと非難して書き直し、そして元の、古いのを燃やしました。しかし三蔵は燃やされたことはありません。プラブッダコーサーチャーンはアッタカターと呼ばれる三蔵の解説を見せてもらい、そして正しいと信じる解説を書き、間違っている物を焼却しました。

問 : 先生。私たち南の方で使っている三蔵と、北(中国など)の方で使っている三蔵を対比なさったことはありますか。

答 : できません。調べようがありません。別種の物です。大乗の三蔵について言えば、新しく書かれた経ばかりです。しかし私たちの側の経も、大乗の経典の中に流れがあり、特にグッタカニカーヤ(小部)は、リエン サティエンスットさんが調べた結果、以前はあったかもしれない(笑)ことが分かりました。

 小部はまだ大乗の教典にあります。大乗のすべての経の中に、テーラワーダの小部と同じ物があります。その他はまったく別種の経ばかりです。

問 : マッジマニカーヤ(中部)、ディーカニカーヤ(長部)はないのですか。

答 : 痕跡程度にはあります。同じではなく、経全体ではありません。昔はあった、受け入れて使ったと分かる痕跡だけです。私が自分で調べたのではないので、答えられませんが、他の人が調べた限りでは、あるのは痕跡だけで、一致するのは非常に少なく、ほとんど別物です。

問 : 私たちが現在使っている三蔵は、スリランカの物を写したのですね。

答 : 推測ではそのようです。三蔵を文字にするのはスリランカで行われ、他の国は多分、スリランカの物を写しました。ナコンパトムを、アショーカ王がタンマ使節を送ってきたスワンナプーム国と見なすなら、直接インドから、その種の三蔵を(笑)受け入れたはずですが、現れていません。

 どこも受け取ったと現れていません。受け入れて使っているのは、スリランカが起源ですが、誰もが名誉を傷つけたくないので(笑)話しません。あるいは何も言いません。

問 : スリランカから入ったのなら、スコータイ時代ですね。

答 : 推測次第で、言われているようにスコータイ時代なら、僧は修行者で、三蔵家ではないはずです。ヴィパッサナー僧は、森に住む林住者ばかりだったという証拠があり、私も見に行ったことがあります。スコータイのアランジックに、奇妙な形の塔があります。

 ラーマ六世はチョームヘー塔という言葉を使っています。ヘー(投網)のように掛けてあり、豚の囲いのように小さな石が積んでありました。それがずっと昔の(笑)林住僧のクティと説明がありましした。教典を作る余地はありません。石を四角に積んで潜り込める、石で作った洞窟のようでした。

問 : ラーンナー(チエンマイに昔あった国)の方には、もっと前から三蔵に精通した人がいたのですよね。スコータイより前に幾つもの教典が書かれています。

答 : ラーンナーで書くには、三蔵とアッタカターを勉強した後でなければなりません。マンガラッタティーパを書くには、パーリを勉強し、アッタカターを勉強し、ディーカーやら何やら全部勉強しなければ書けません。スコータイより後かもしれません。それに幾つかは仏教ではなく、チンカーラマーリパコンが書いたプララッタナパンヤーは王朝年代記です。

 こういうことは、今私は考えません。昔は考えたことがあり、考える努力をしましたが、考える術がないと見るので考えません。どこから来て、何回入れ替わって、どの部分をいつ入れ替えたかは重要ではありません。今テーラワーダの三蔵は、違うのは文字だけで、すべての国が同じだからです。大丈夫で。前に私が話した、「アッタトゥティヨー」と「アトゥティヨー」のような違いは、大丈夫です。

問 : 先生。律蔵は、初めはどのようだったと推測されますか。そしてどのように現在に至ったのですか。

答 : 先ず結集の話をしなければなりません。結集の時、律蔵を先に暗誦ました。律を良く知っている人、ウバリーに質問し、この話をブッダがいつどこで言われたか、全部話し、そして全部話して全員で記憶しました。もしかしたら重要な話だけだったかもしれません。

 今あるような細々とした話はなかったかも知れません。重要な話、特にパーティモッガを作りました。聞いてみると話の形になっていて、何も確定的な規定をしないで、パトムパーラージカ(重大破戒行為)など、そこでこういうことが起きたという話をしています。

 そしてその話を全員で記憶し、集会の時に読み上げました。こういう要点は全員で記憶し、詩に綴りませんでした。たぶんもっと後の時代になって、コンパクトな言葉で綴ったのでしょう。律のすべての項目、そしてすべての経がこのようだと思います。概要だけ記憶したに違いありません。詩形に綴られたのは、別の時代で、第一結集、第二結集の時代ではありません。

問 : 先生。結集の観察項目を教えてください。インド、スリランカ、ビルマ、そしてタイと、今までに行なわれた全部について。

答 : そういう質問をすると長くて、非常に広いので、先ず糸口を知らなければなりません。初めの三回、つまり第一回、第二回、第三回はインドでして、それから分かれて一方はスリランカで第四回と第五回です。スリランカの人は、初めの三回を認めて、それに二回増やして五回になりました。ビルマは、スリランカのは第五回しか認めていません。第四回はビルマの系統で、そしてビルマであと二回、第五回と第六回したことなります。

 次にタイですが、良く分かりません。なぜならスリランカの二回を認めて五回になり、それからタイ国内でして、ラーンナーで六回か七回か憶えていません。それからクルンテープ(笑)でして、八回か九回か、数えることができません。それぞれ自分で信じている数え方があるからです。

 このようです。手掛かりしかないので、推測はできますが、確実に見るのは多分難しいです。しかし問題はありません。今は、タイもビルマもスリランカも全部同じで、証拠として記録して、本に印刷してあります。

 私はカーラーマスッタの原則を捉え、今ある物を審査して、滅苦ができる物だけにし、滅苦の話でない物はそのまま跨ぐだけで、現代の三蔵にできます。直接滅苦ができる物は、滅苦の実践原則に使い、滅苦に関わりがない部分は放っておきます。

 昔はどんな物があったか、どれだけあったか、それ自体が歴史を語ります。その部分は使いません。それを使うのは、昔から伝わっている一字一句に執着する人で、夜叉がお月様を捕まえると信じる必要があります。

問 : 先生。それではラーマ五世が「結集は頭に点々をつける」と揶揄されたのは、どういう意味ですか。

答 : あの方は「私たち国のような、頭に点々をつける結集ではない」という言葉を使われています。何もしないという意味です。間違っている文字や抜け落ちている文字を探すだけで、内容には触れないという意味です。

 頭に塗ると揶揄したのは、頭が小さすぎる文字があれば、それはコー・クワーイという字で、頭が大きければ、それはトー・タオ(笑)なので、一字一字を正しいかどうか調べるのと同じです。だから文字の頭に点々をつけるようなものです。結集と呼ぶべきではありません。文字に関した小さな会議で、削除したり増やしたりする話ではありません。

問 : それで本当には、あの方(ラーマ五世)がそれとは違うと言われたのは、どのようだったのですか。

答 : あの方が意図されたのは、インドで行われた三回の後の、第四回の、北の大乗の結集という意味で、テーラワーダではありません。ガンダーラで行われました。その時は人が言うように文字の頭に点々をつけるだけでなく、内容を洗い直すと言えるくらいまでし、この内容は間違っている、この内容は正しい、と検討するレベルになりました。その後ビルマで行われた時も、文字に点々をつけるだけでなく、内容を検討しました。

 だから「正しくはこうあるべきだ」と推測する文章がありますが、短い枝葉のことばかりです。そして彼らも古い物を改めずに、書いて記録しておき、そして最後に、そのページのその文章はこうあるべきだと、注釈を入れました。こういうのは、頭に点々をつけるとは言いません。(笑)

問 : 私たち(の国)は、そうしたことがありますか。

答 : 知っている限りでは、ありません。このように内容を直したことはありません。そうあるべきだ、こうあるべきだという結論が出ていません。ビルマでは、インドの結集のように会議に提言者がいて、その提言を会議で審議し、そして全部をもう一度重要な委員会で審議し、最後に、この要旨はこうあるべきだ、と結論を出しました。

 三蔵のすべての本の、幾つもの文章が審議され、結集が終わると、いろんな判断を巻末に書いて印刷し、古い物は直しません。これは良いです。こうするのは良いです。タイは結集で頭に点々をつけます(笑)。

 こう揶揄する言葉は、今も教典の中に、私たちの三蔵の中にあります。つまりアタムマヤターという言葉がまだアコムマヤターになっている所があり、「T」か「K」か、どちらが確かか判断しません。きっと、ある地域では「アタムマヤター」で、ある地域では「アコムマヤター」になっている古い物を写しました。

 これを「どこをどうするにも確信がなければ、怖くて手を触れない」と言います。手を触れていないことが分かる見本を、明らかに見ることができます。

 私は三蔵に関してそれほど博識ではありません。ただ三蔵にあるだけの要旨を集めるつもりで、役立てるために必要なだけ集めて話にし、文字にしただけで、結集する部分はありませんでした。彼らが作った三蔵にあるものを、好きなように選んで集めて、ブッダの言葉シリーズの本を作っただけです。

問 : ビルマの結集で、何かの経を加えるという判断はありましたか。

答 : ありません。そこまでする話はありません。知っている限りでは、「この行の、この文章の要旨はこうあるべきだ。きっと写し間違いか、あるいは何かの間違いだ」として、ある文章、あるいはたくさんの文章ということもありますが、それを整理しただけです。月食、日食のような経も元のままにし、手を触れなかったようです。

 私は一回しか行きませんでした。彼らは六回会議をして、私は一回しか行かないで、印刷し終わった時に読みました。調べて修正する会議には行っていません。彼らが調べて修正した物を認めるために行きました。他のグループの方々と同じで、チェックするめだけに行きました。

 二三千人の僧がこのように確認して、このように読むのはむしろ悪いです。待って一緒に読まないで、それぞれが勝手に読むので、非常に喧しかったです。ビルマの人たちはビルマ式に読み、スリランカの人たちはスリランカ式に読み(笑)、タイの人たちはタイ式に読みました。しかし文字はビルマ文字です。

 私たちタイは、チャオクンピモンタムが団長で(笑)、あの方が私を引っ張って行き、ソムデットヤーンサンウォンも行き、そしてチャオクンワットノーラナートは、たまたまその年の世界仏教徒連盟の会議があったので、その後別れて、世界仏教徒連盟の会議に出席しました。

問 : 彼らが判断した要旨をご覧になって、彼らが判定者として招待した賢者は、信頼できそうでしたか。

答 : 非常に信頼できそうでした。判断し終わった内容は、信頼すべき、熟慮するべきです。彼らは判断の言葉をパーリ語で印刷しましたが、これは利益があると見なします。結論として、たくさんの国の碩学の僧の(笑)意見や考えを知ることができました。少なくともビルマ、タイ、スリランカ、カンボジア、ラオスがいて、まだ他の国、アッサムの国々もいました。

 大乗の国はまったく関わりません。大乗は別の場所に座り、一緒に座りませんでした。ビルマは、大乗を仏教ではないと見なして付き合わず、一緒にサンガの行事をしません。ビルマは中国や日本を会議に参加させず、別の場所に座らせました。

 このような結集はする価値があります。ビルマがしたようにし、しかしもっと広くするべきです。

問 : 先生。次はパーリ語版三蔵をタイ語に翻訳する話についてですが、佛教新聞の創刊号でこれに言及していたように思います。

答 : 私は、誠実に正しく訳すべきという考えがあり、「権力のある人は、そういう行動の原動力になるべきだ」という考えを表明しました。

問 : 先生。彼らが翻訳したのは、佛教新聞に触発された部分がありますか。

答 : そういう言わないでください。彼らは、時が来たと見ました。ビルマも、つい最近翻訳が終わったばかりで、スリランカも、最近スリランカ語に訳した物があります。大事業で、仏歴二十五世紀祭と捉えて、急いだので多少デコボコしていますが、初版なので少しずつ印刷し、少しずつ改訂します。

問 : その時の翻訳の質についてお聞きしたいです。

答 : できませんよ。私は(笑)私の考えがあるので、その言葉をそう訳すべきと賛成しない部分はありますが、黙っています。公式の物として、国の版として任せられた人の権限だからです。しかし私も使って勉強し、一致しなければ、それにはどんな重さがあるか、どうするべきか、それと対比し、最大限に使う方法を探します。

問 : 明らかな誤訳を見つけられたことはありますか。

答 : 重要なことではありません。重要ではない幾つかの言葉で、誤訳とは言えません。

問 : なぜ彼らは、読んであまり意味の分からない文体に訳すのですか。

答 : 大昔から現代語に訳すのを好まず、パーリ語学校のような言い回しを使います。読者について言えば、重要な教え、あるいは重要な要旨はどうなのか、読者は、もう一度熟慮して訳語の要旨を探さなければなりません。

 それを、そのように言った時どう滅苦ができるか、カーラーマスッタと対比して見て、滅苦ができる道が見えれば、つまり理由があれば採用します。多分現代の話し言葉で書くこともできますが、市井の言葉を使うと、神聖で有り難い物と見なしません。

問 : 私たちのパーリ語の勉強を、膨大な時間がかかる、大昔と変わらない手法で勉強しないで、もっと簡単にする方法があるとお考えになりますか。西洋ではパーリ語の学習法は非常に進歩しています。

答 : 私が観察した限りでは、初めはパーリ語文法は非常に難しいです。本を使っても非常に難しく、何年勉強しても何も分かりません。意味の分からないことを暗唱し、パーリ語を暗唱し、タイ語を暗唱し、何年も(笑)訳が分かりません。

 そこでソムデットクロムプラヤーワチラヤーナワローロットが、勉強しやすいように改革しました。それが現在(ナックタムの)学校で使っている方法で、「パーリ語文法」は、非常に簡単に、何倍も簡単になったと言います。しかしその後誰も改革する人がいません。きっとこの方法で勉強します。

 それでも、西洋人がパーリ語の勉強に使っているような手短な方法よりは良いと言います。西洋のは簡単すぎて、語根について学びません。語尾の変化をあまり勉強しないで、英語やタイ語を学ぶように、「一つの言語を学ぶ」と捉えています。そういうのは深くありません。

 私は、この言葉はどんな語根と接尾詞があるか、幾通りに訳せるか、深く勉強したいです。西洋の方法で勉強するより、タイのように勉強する方が良く知ることができると断言できます。スリランカが作った新しい方式も、西洋人が作ったのではありません。あれも語根を知るには、台無しになりましたね。

 語根を良く知るには、非常に忍耐が必要です。忍耐も努力も必要です。サンスクリット語も同じで、勉強して本当に知るには、多少困難に耐えて勉強しなければなりません。フランス語のように、憶えなければならないことが多く、それぞれの言葉に性別があり、独自の性別があるので、法則で変化させます。

 私はタイ式の勉強法が好きで、簡単に勉強できるようにした西洋式の勉強法は好きじゃありません。

問 : ではタイ式の勉強法を、現在より便利にする道はありますか。

答 : おー、それは改革する権限に関わっています。改革する権限がないので、術はありません。誰も考えた人もいません。パーリ語もナックタム(僧試験)も、もっと簡単にする道はあります。しかしそれをする何の権限もありません。

 しかし私は間接的にしました。つまり私は私の方法でタンマを説明し、あるいはパーリ(ブッダの言葉である経)を翻訳して人々に見せたので、見た人は、こういうのはハッキリしていて良い、分かりやすくて良いと分かります。マハータート寺のソムデットプラワンラット(フーン)は、私を呼んで、目の前で「こういう翻訳は時代に合っている」と誉めました。

問 : 先生が一九三三年から現在まで、アビダンマを批判なさっている文章を見ました。そうしなければならないとご覧になったのですか。

答 : この問題の詳しい判断は、私を包囲して罵ったアビダンマ家に対しての回答である「アビダンマとは何か」という本を呼んでください。内容を要約すれば、「論蔵は、後世の幾つもの時代に何回も書き加えられた物であり、タイでは夢中になるように宣伝されたので、非常に執着する物になったが、それほど執着する必要はないと言いたい」です。

 それは、タラバヤシを束ねて作ったアビダンマ教典、中国人が売っている小さな束を七束、死者の追善供養として供えれば、何物にも比べられないほど高い徳になると信じるなどの、迷信になりました。だからどのお寺も寄贈する人が多く、全部同じで、多すぎて置く場所がないので、クティの天井裏、食堂の天井裏に置くとネズミが喰います。だから止めるように、「ネズミの巣のアビダンマ」と言いました。

問 : それでは先生が「数珠玉のアビダンマ」とおっしゃるのはどういう意味ですか。

答 : それは後の時代で、ビルマのアビダンマがタイに入って来ると、「心が幾つ幾つある」と勉強して分析しなければならないので、迷わないために、数珠玉のような物でアビダンマの勉強を助けなければなりません。

 つまりアビダンマッタサンガハは、膨大な中から、勉強するために簡潔に要約した物で、ブッダの時代のアビダンマは少ししかありませんでしたが、後の結集で増やされて、膨大な七つの教典になりました。ブッダの時代のようなアビダンマなら利益があり、滅苦の方向に、より簡単に深くするためのタンマの説明です。

 その後、本当に深くなりましたが、哲学の方に深くなったので、滅苦の実践には利益がありません。

 西洋ではアビダンマを「形而上学」と言います。本当は哲学のように勉強するのも楽しいです。しかしそういう物に興味を持つと、滅苦ができる(笑)スッタンタ(経蔵)にあまり興味を持たないので、利益が生じません。ヘロインと同じです(笑)。

 だからアビダンマについて反論のように話すには十分な理由があります。しかし闘う、あるいは衝突するつもりはありません。スッタンタ式の実践に、滅苦ができるにふさわしい興味をもってもらうためです。

問 : アビダンマも系統によっては実践があるのではないですか。ユプノー、ポーンノーやビルマのマハーシー セヤドーの系統など。

答 : 彼らはスッタンタの教えで実践していますが、信用としてアビダンマを引用し、その場しのぎの辻褄合わせをします。アビダンマの中には実践の系統がないので、実践する時は、スッタンタの系統で念処をします。

註: ゴータミースッタ=律を判断する八つの原則。

 ①欲情が緩んで、執着が消える
 ②束縛する物がなくなり、苦にならない
 ③煩悩を塗らない
 ④望みが少ない、野望がない
 ⑤足るを知る⑥静寂⑦努力する
 ⑧どんな簡素な生活もできる。

 このようになるタンマは、教祖のタンマ、教祖の律、教祖の教えと知るべきである。




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