11.タイ社会とサンガ





問 : ここからは、先生がタイ社会をどのようにお知りになったかについて、一つ一つお尋ねします。初めは、先生がタンマを教えて来られた五十年の間、常にその時社会に起きている出来事を取り上げられ、他にも、タンマの教えで社会の出口を探そうと努力をなさったように見えます。

 私は共感することもあり、共感しないこともあり、中には先生の説明は十分でないと感じることもあります。いずれにしても、先生はどのような方法で社会の問題を勉強なさったか、あるいは社会のあり方を理解なさったかお話しいただけませんか。

答 : 何もテクニックもなく、計画もありません。どうすれば庶民がタンマを知る手助けができるか、どの人たちにどう話すべきか、ということだけ、それだけです。どの集団、どの種類にはどう話すべきか見て、計画も(笑)何もありません。私も一般の説法師と同じで、一瞬の考えです。

問 : しかし先生は、常に出来事を追跡していらっしゃるように見えます。

答 : ラジオを聞く機会があれば、いつも聞くのはニュースです。(笑) 今ニュースは、直接政府報道局のニュース、間接にはソムジンなどのがあります。私は今でも「社会を勉強する」という意味が分かりません。

問 : 私たちは理解しなければなりませんよね。そうすれば社会の問題を解決するにふさわしくタンマを応用することができます。

答 : (笑)それほど緻密でも、選んでもいません。この話はきっと役に立つ、聞く価値があると考えて、気楽にタンマを話します。ほとんどは、社会に道徳が戻るように話しているようなものです。社会に道徳が欠けていると見て、道徳を戻すように、常に提言しています。

問 : 先生はどのように社会についての知識を、得られますか。

答 : 普通に新聞やラジオでいろんなニュースを見ると、人の心が悪くなっていると、ますます身勝手になっていると見えます。

問 : ラジオは、二つの番組の他には何をお聞きになりますか

答 : 聞きません。あまり聞く時間がないからです。それに聞かなければならない物がありません。ある時期ある時代には、定期的に聞くと言うほどではありませんが、楽しく北京のラジオ、BBC、日本のラジオを聞きました。気に入った話はありませんでした。

問 : 先生。それで先生はピッタヤーロンコーン親王の後期の新聞の他に、先生がお好きでいつも読まれる、社会批評家の記者はいますか。

答 : (笑) ピッタヤーロンコーン親王の作品を、私は社会批評と見ていません。文学であり、言語文化に関したものです。他人の考えを聞くために聞くのではなく、ニュースとして聞き、そして何がどうか、自分で判断します。他人の考えはあまり好きではありません。それはただ、社会はこうだと括るだけです。

 つまり道徳に興味を持つように説き聞かせ、まだ道徳が戻るよう話しています。最近も、道徳が戻って来るよう話しています。戻るという言葉を使わなければなりません。昔はあって、そしてなくなったので、「戻る」という言葉を使わなければなりません。

問 : 人とのお喋りで社会を理解なさることはありますか。先生に、特にニュースや情報を持ってくる人はいますか。

答 : あまりいません。タンマの話、用事の話をし、政治の話はしません。

問 : プラスード サッパヤスントーンの時代には、先生もたくさんお喋りをなさいましたね。

答 : 寺の子として知り合い、時々彼がここに来た時には話しました。ラーチャーティワート寺の寺の子で、お寺に住んで勉強し、そして彼は文学部の学生になったので、佛教新聞に文章を書いてくれたので、それで連絡をしました。

 彼は西洋の物を翻訳して、佛教新聞に寄稿しました。当時は政治の兆候はなく、その後大分たってからコミュニストに転向し、コミュニズムについて「このように良い」と説明しました。私が「良く分からない」と言うと、彼は本を持って来て読ませました。

 タイの本でしたが、理解する、あるいは気に入るというほどの気持ちはありませんでした。私は本気で社会学を勉強しませんでした。

問 : 先生。それで一九三二年(民主革命)の時は、プムリエンにどう知らせが届いたのですか。

答 : ほら、新聞があるでしょ。面白くて(笑)、ちょうど私がここに来ると、彼が革命を起こしました。まだ(クルンテープに)残っていた僧の友達が、その後スアンモークに住みましたが、その友達が、彼が何をやらかしたのかわからない手紙を書いて来て(笑)、 何をしたのか分からず、その後新聞のニュースの政府の発表で知りました。

問 : それでプムリエンの人はどんな反応をしましたか。

答 : 反応は無いと言ってもいいです。タンマタートが、統治制度の変化について説教を一度するよう、「民主主義は仏教の教えとよく合う」と話すよう、私に命じました。(笑) 私はそれに従って、民主主義はサンガの統治のようだと話しました。

 仏教ではサンガが重要で、会議で決定したら厳格に守ります。そして全員が自由で、同じだけ自由の権利があります。要するに、民主主義は仏教の教えと一致すると見えるように話しました。住民は、聞いても意味が分かりませんでした。住民で正しく理解した人は何人もいませんでした。彼らは、仏教も良く分かっていません。その上民主主義など、もっと珍しく、変わった物です。

問 : 当時先生とタンマタートさんは、一九三二年の変化に賛成だったということですね。

答 : (笑) 賛成するとかしないとかいう考えはありませんでした。住民が驚いて大騒ぎをしないように、そうなった状況を受け入れなければならなかったので、そういう風に話しました。私は興奮しませんでした。多少は変化に興奮しましたが、大きな驚きではありませんでした。

 ずっと前から外国には民主主義があるので、そのうち我が国にも入って来ると聞いていたので、悪い方へは考えず、良くなると感じました。しかし人物を見たのではなく、「民主主義はきっと良い」と括りました。

問 : 先生。一九三二年からの社会の状況を、その後の先生のお考えでは、どうお感じになりましたか。

答 : 勉強するつもりはありませんでしたが、民主主義の方向に動いていると感じました。みんな列をなして民主主義の方へ向かった結果、僧の間にも民主主義が生じ、パトゥムコンカー寺でも(笑)、住職の権力を取り上げて(笑)平等にし、住職は委員会の支配下になりました。

 しかし私は関わらず、賛成しませんでした。それに私はここへ来てしまって、そこに住んでいません。私が住んだことがあるパトゥムコンカー寺では、マハー・ノーイが夢中になって先導し、サンガに民主主義を行使しました。その後そのようになり、民主主義の形のサンガ新法ができ、その形のサンガ議会があり、サンガ大臣、サンガ総理大臣がいました。

問 : 彼らが活動してサンガに変化を生じさせた時、先生はご存知でしたか。

答 : 知っていました。その僧がいつも手紙で知らせて来ました。改革団は、マハー・ピン、マハー・ノーイが主脳者で、パトゥムコンカー寺から始まりました。

問 : お寺以外の知識人は、一九三二年の変化に対してどんな反応をしましたか。先生が愛読なさっていたピッタヤーロンコーン親王や他の人たちは、どんな反応を見せましたか。

答 : 当時の有名な知識人たち、クルーテープ、ピッタヤーロンコーン親王などは「それに従わなければならない。手を繋がなければならない。権力は世界の最重大事と見なして、誰が権力を握っても、その人に従わなければならない」。つまり「攻撃妨害してはいけない」と見ました。

 ピッタヤーロンコーン親王も手を組むのが良いと見、クルーテープも手を組むのが良いと見ました。ピッタヤーロンコーン親王は、スアンモークができる前、私がパトゥムコンカー寺にいる頃から、イギリスの民主主義の話をしていました。

 ピッタヤーロンコーン親王は、講演でイギリスの議会の話をして、民主主義の話をしたので、人々が民主主義に興味を持つ導火線に(笑)なりました。その時の講演を憶えています。

 ある時ジョー氏の子ブタを十ポンドで買う人が来ました。本当は一ポンドもしませんが、票のために買いに来て、ブダの所有者は、なぜそんな高値なのか分かりません。(笑) キャベツ一つを何ポンドもの値で買う人が来ます。

 私はその時の講演を聞きに行って、話された例えの意味が、あまり分かりませんでした。分かったのは、タイの国と非常に違うということだけでした。

問 : サーマッカヤーチャーン協会で話したのですか。

答 : 当時、ちょっとした講演をする時は、必ずサーマッカヤーチャーン協会で、スアンクラーブ学校は、重要な人や、重要な来賓が重要な講演をする所でした。その時私も聞きに行き、他の僧も聞きに行きましたが、理解できませんでした。初めて聞いたので理解できませんでした。

問 : プムリエンの状況は何か変化しましたか。

答 : 統治制度の変化に関連した変化は何もありません。庶民は、従来どおり王族や役人の言うことを聞いて(笑)いました。何もかも、今までどおり王族や役人に聞き従っていました。

 田舎には君主主義の役人がいるので、田舎式にしなければなりません。田舎は田舎式にしなければならず、庶民は従わなければなりません。昔から尊敬して従って来た人は、まだ「旦那様」「奥さま」と呼ばなければなりませんでした。

問 : 一九三二年から現在までの社会の道徳的状況は、どう傾いたとご覧になりますか。

答 : 道徳は、たぶんこの話と関係ありません。これは世界の発展や学問の進歩と関わりがあり、人間は必ずこうなります。統治制度の変化がなくても、人間は物質的楽しさ、物質の味に夢中になります。君主制の時代でも西洋に夢中になり、新しい時代に夢中になって、仏教を時代遅れと見ることもありましたが、これは普通です。

 西洋の後を追いすぎれば、仏教を古臭い時代遅れのものと見て、僧は手で食事をするのを止め(笑)、スプーンとフォークで食事をします。私の気持ちの中では、それは重要な変化と感じませんでした。それだけです。つまり人間はあのようです。しかし私には、相変わらず煩悩を滅し苦を滅す話を教える義務があります。何も変わったことはありません。

問 : 近代的な発展がチャイヤーまで来た時、住民の暮らしにどんな影響がありましたか。

答 : ああ、それはドカーンとではなく、少しずつ来たので、気付かないほど少しずつ変化しました。たとえばおしゃれ、綺麗な服装、贅沢好き、喫煙、コーヒー屋に座るのが好きになりました。今まではコーヒー屋がなかったので、コーヒー屋に座れませんでした。

問 : 先生はどんな物質的例をご覧になりましたか。なぜ当時から、現代的発展の害が見えたのですか。

答 : 国中、あるいは世界中、全部ひっくるめて、物質的発展の時代のという意味で、タイばかりでなく世界中の人が、幸福や発展に溺れていました。新計画による物質的発展があれば、利己主義が生じ、宗教を嫌い、正反対のものを嫌い、新しいタイプの幸福の享受を妨害する物と見ます。

 物質的な例は、お寺へ説教を聞きに来る人が減り、昔式の布施や徳を積む人が減り、仏像を引く山車や僧行列などの伝統行事も減りました。

問 : 仏教を攻撃する人たちはどういうグループでしたか。宗教は麻薬という考えも、出始めたのではないですか。

答 : 宗教を麻薬と見るのは、コミュニズムが生まれた時に「宗教は麻薬」という言葉が生まれました。それ以前はありませんでした。庶民は「喜んで麻薬である宗教を受け入れる」と言い、そして中毒になっていると言った人もいました。コミュニストが宗教は麻薬と言っても、誰も信じる人はいませんでした。誰もそう認めなかったように思います。

問 : この集団より前に宗教を攻撃したのは、どのグループですか。

答 : ハッキリと現れていません。幼稚な人たちは幼稚に、ただ嫌いなだけで、彼らはそれほど闘う砦を作りませんでした。誰も自分の宗教を攻撃しませんでした。宗教を時代遅れと見、一面しか見ないでそう発言する常軌を逸した学生が生まれるまでは、多分どこも同じだったと思います。

 その発言は正しくありません。公正ではありません。常軌を逸した人たちが仏教を攻撃するのは、仏教を完全に理解できないからです。彼らは、人を弱くして遅らせ、怠け者にさせる面を見ました。

 これは西洋に根源があります。タイ人はそこまで考えません。仏教の「サンドーサ(知足)と言われる物は人を働かなくさせる」というのも、サンドーサという言葉の誤解です。ショーペンハウエルは悲観的な面を見ています。彼は悲観論者で、あれほどの知識者でも周到に緻密に見ないので(笑)、仏教が彼らの社会に近づくのを阻止する重りです。

 本当は「仏教は、世界を原因と縁で変化するという観点で見るので、良くすることもできる」と言わなければなりません。正しく理解すれば、悪い物を良くすることもできます。彼はこのように理解しなければなりません。

 楽観でも悲観でもなく、原因と縁で変化し、彼は望むようにすることができます。タイ人は仏教の教えに関した問題はありませんでした。そして彼らは簡単な形で祭るだけで、風俗習慣で呪術になるほど信仰しました。

問 : セーニー プラーモートさんが帰国した時、仏教を攻撃する論文を書いたそうですが、憶えていらっしゃいますか。

答 : 憶えてます。アグンプリアオというペンネームで仏教を攻撃しましたが、誰も信じた人はなく、結局誰も信じませんでした。(笑)

問 : 先ほど先生がお話しになった、変化を生じさせたい僧たちの活動ですが、先生は改革団との関わりはありましたか。

答 : ありません。与しません。考えも行動も関わりません。私はまだ確信がなく、揺れていました。その時私がそこにいたら、きっと彼らと一緒でした(笑)。私も進歩的な考えでした。

問 : 一九四一年のサンガの法律をどのようにご覧になりましたか。

答 : 何とも思いません(笑)。施行されるまでほとんど関心がなく、施行されて、こう変化したと知りました。彼らは私をスラータニー県の布教者に任じました。

問 : この法律が発布されて、実践面でサンガにはどんな結果があり、社会にはどんな結果があったとお感じですか。

答 : 答え難いです。何もできなかったからです。何年でもないので、何もしませんでした。実際その規則は形式的で、本当の結果はなく、仕事を分担しただけです。強制や催促は、私が見たのは非常に少なく、従来と変わりありませんでした。

 私は布教が便利になりました。公務の権力(笑)になったので、プラスされました。スアンモークの布教の目的も増えました。公務での布教は、前に話したように、ラーチャーティワート寺にいたタンマユット派の僧だった地方僧長が、地方僧長の名前の集会で講演させるために、私をとても褒めて、地方布教者にすると宣言しました。

 しかし私は何もしませんでした。する勇気がありませんでした。賭けと感じていました。民主主義式の統治は、本当に良く実施できれば、仏教のタンマ・ウィナイと一致するので、害はありません。

問 : タンマ・ウィナイ(律)のどの面ですか。

答 : 「サンガを主とする」です。涅槃に入られる時、サンガが主という規則を作りました。

問 : それなら、なぜ先生は独裁を提言なさったのですか。

答 : サンガに独裁させます。

問 : サンガによる独裁は、独裁と違いますよ。

答 : ごちゃごちゃ、でこぼこ、モタモタして威力がないより、厳格さがないより良いです。

問 : サンガによる独裁は民主主義です。私たちは独裁とは呼びません。なぜなら・・・

答 : なぜ呼べませんか。コミュニストでも独裁と呼べます。

問 : コミュニストは独裁ですが、サンガが主になるのは、独裁ではありません。合意によって決定するからです。

答 : 後で私は、サンガにモタモタしないで、断固とした行動をしてくださいと書いています。

問 : サンガが決定した後、断固とすれば、使い物になるに違いありません。一般に使っているような独裁でなく、集団の合意によるので、公正な権力です。

答 : タンマとウィナイ(律)で厳格に、サンガがタンマとウィナイで独裁をします。今の独裁はこうしないのでモタモタしています。

問 : そういうのは、新たに独裁の定義を書かなければなりません。サンガに独裁をさせるなら、一般の理解による独裁ではありません。意味が違います。

答 : タンマ・ウィナイ(律)による、サンガによる独裁で、誰かの煩悩による独裁ではありません。

問 : スアンモークの規律にするために、サンガの歴史的経緯を勉強なさいましたか。

答 : それはお話したように、しっかりした形にする意図の話ではなく、そういう種類の倦怠を感じ、そのように復興したいと思ったからで、どこにも手本はありませんでした。

 私は手本、あるいは教典にある規律や手本を整理しました。教典以外に原則にする物はありませんでした。教典以外に、ラッタナコーシン時代の改革の歴史もさっと読みましたが、成り行き任せで、何もないように見え、そして使えないと信じました。

問 : ではラーマ四世の改革はどうですか。

答 : 何とも思いません。新しい宗派を作った外は、律の実践をするよう、厳しくするよう煽り(笑)ました。それに誰でもできます。これは言わない方が良いです。言うと支障があります。

問 : ラーマ四世のいろんな変更は、先生の時代まで影響がありましたか。

答 : 直接私への結果はありませんが、国に結果があり、タンマユットができて、二つの宗派になったのが原因の問題が生じました。

問 : 大宗派が改革するようになった部分はありますか。

答 : 良くなったと言わなければなりません。実践を良くした部分はあります。プラマハーサマナチャオの時代に、クロムプラヤーワチラヤーナワローロットが、もう一度一つにする規則を作って、大宗派を、タンマユットと合流できるくらい善くしようと、あの方はそう目指しましたが、成功しませんでした。

問 : 先生。しっかりした三蔵の学習は、ラーマ四世が基礎を敷いた結果と見なすべきでしょうか。

答 : 分かりません。しかしラーマ五世の時に現れました。ソムデットプラマハーサマナチャオの時代に、関連した結果があったかもしれません。時代も繋がっています。あの方はラーマ四世の王子なので、影響を受けているかもしれません。しかしラーマ五世の時代は、非常に変化がありました。

 あの方は並べるため、融合させるための善意だったと信じますが、そうならず、反対になりました。これは、人間の煩悩、傲慢と言わなければなりません。

問 : 先生。スアンモークができたばかりの頃、学習派とヴィパッサナー派が歩み寄ることはありましたか。

答 : 付き合わないので、衝突し合う機会はありませんでした。森の僧が町の僧のことを、「修行しない」と悪口を言うことは多くあり、良く聞きました。町の僧は「森の僧の良い点は闇雲に修行するだけで、ブッダの言葉もブッダの望みも正しく知らない」と答え、互いに違うことを言っていました。

問 : 当時の森の僧の声は、どっちの方ですか。

答 : 東北地方にはたくさんいて、南部には非常に少なかったです。南部には頭陀僧は多少いました。基地である施設はあまりありません。東北地方にはありました。

問 : 厳しさを自慢する僧についてお書になっていますが、当時、彼らはどう自慢しましたか。

答 : 誰が見ても厳格に見えるくらい、ほとんど何もできないくらい厳格に律を順守しました。(笑) 食・住・衣・往来、乗車、乗船、何でも厳格さを自慢するので、お金を触らない問題、牛乳を飲まない問題がありました。

 それまでは牛乳を飲んではならないと知らず、誰でも飲めて、飲んだことがあり、急に飲んではいけないと知りました。牛乳を飲まないグループは、彼らは「食べ物」だと言います。食べ物について何も律での理由はありません。

 時間外に食事はできませんが、牛乳は食べ物の範囲なのか薬の範囲なのか、定かではありません。薬ではないと分かる前に、一時薬だと迷ったことがある人たちもいます。

問 : 先生。それでは僧の大学の設立に、何を期待なさいますか。

答 : 良く分かりません。彼らが今何をしているのか良く知らないので、正しく期待できるか分かりません。知っている限りでは、現代的、世俗的な勉強が増えるでしょう。

問 : 一部は、先生が佛教新聞でずっと叫ばれてきたように、サンガの教育を改革させます。

答 : より深いタンマと律を知るために、教育しなければなりません。次に大学を作るとタンマと律に興味がなくなり、外国式に、他のことに興味を持ちます。

問 : 一九四一年に法律を変えた後、宗派の差別は減りましたか。

答 : 衝突が減りました。お互いに干渉しなくなったと言います。いろんな事件を体験したので、双方とも自覚しました。

問 : プラ・ピモンタムが訴えられて逮捕された時、サンガにはどんな影響がありましたか。

答 : それはあのようです。大宗派は欠点と感じ、宗派にとって損害と感じたように見えます。必死で闘っていた大勢の僧は、闘い難くなり、あるいは闘えなくなりました。しかしそれらの方々が裁判で勝つまで闘うのは、あるいは何に勝っても、仏教に関しては価値がないように思います。

 それは大宗派だけの損害ではなく、地域社会を通した仏教全体の損害だからです。どうしようもありません。このようなことが起きてしまったら、誰も何もできません。そうなるしかありません。

問 : あの方の逮捕は、一九六二年の憲法改正と関係があるのでしょう? どうして一九六二年に改正して施行したのですか。

答 : タンマユット側にとって幾つか公正でないと捉える人がいたので、動きがありました。大宗派、つまり一九六二年の改憲が原因ではなく、タンマユット側の足掻きです

問 : どんな点ですか。

答 : 私はよく知りません。知っているのはそれだけです。しかし率直に言えば、不利に見えたので、タンマユット側が有利と見なされている法律、バンコク歴一一二に戻そうと努めました。(笑)

問 : 先生。この五十年を振り返られて、どの面が良くなり、どの面が悪くなったとお感じですか。

答 : 感じません。自然になると、原因と縁で変化すると感じます。普通は必ずそうなります。不思議ではありません。道徳面は善くなったと見えませんが、知識面、学問の面は非常に良くなりました。道徳面は非常に悪くなりました。

問 : 先生。これから、初めに落とした、その他二三項目の質問です。先生が新しい仕事を始められた時代には、今のように、産業のようなお守りの売買はありましたか。

答 : 私が判事研修の講義に行った最後の頃、王宮広場に出始めていました。私も王宮広場に行って見たことがあります。お守りを売っていました。小さくて痩せた西洋人が、隠れて私の写真を撮ったのが、今でも目に焼き付いています。スウェラー(スアンモークにいた西洋人。註1参照)くらいの背格好(笑)でした。私は座らずに、お守りが並べてある篭を見ていて、歩いていました。行ってみたいだけでした。

問 : もう一つ。ルン爺さんと話したら、彼は先生と同期の寺の子だったと言いました。そしてその時の寺の子には、からかう言葉があったと聞きました。先生は憶えていらっしゃいますか。

答 : (笑) 私の先生が「チットは食いしん坊、キーチットのグアム、かがんだ沙弥のナーク、お喋りなルン、下賤なジョン、泣き虫ユット、隠れるチュアイ、最高の美ヒラン、大切なケート、魚の糞のルアンナーク」(笑)という詩を作りました。

 キーチットというのは、土地の言葉でケチのことです。私はケチかどうか、意味か分かりません。分かっているのは、他人の物を欲しがらない、そして人に物をやらないだけです。沙弥のナークは体をかがめて歩き、ジョンは、まだ収穫できないトウガラシやナスをよく採り、泣き虫ユットは私の親戚で、何か言うより前に泣きました。

 隠れるチュアイは何か聞くと隠れてしまって答えず、最高の美ヒランは(笑)判事の子で、家はお寺の前にあり、父親が少しお寺に預けました。綺麗な顔で頬が赤く、最後は国税局長になりました。亡くなったばかりです。同期の中で残っているのは私とルン爺さんだけです。(笑)

問 : 普通、先生は本を読むのが早いですか遅いですか。

答 : ざっと読みます。(笑) 粗く、ザツに、要旨だけ読みます。あまり得る物はありません。雑な性分で、下線を引くほど、あるいは書き抜きをするほど読みません。「こういうのは知っている。私が知っていたのと同じだ。下線を引く必要はない」と自慢します。私が読んだのを見ても、下線はありません。あっても極少なく、クアンさんの本のようではありません。クアンさんの本は、ほとんどすべての行に線が引いてあります。

問 : 先生の箱の中に、カードがあるのを見ました。あれはどんな種類の何の言葉ですか。先生が書き留めていらっしゃるのは。

答 : ああ、あります。使いやすいように、一時期したことがあります。タンマの類の言葉で、本気じゃなかったので、あまりしませんでした。忍耐がありません。しかし考えはあります。こうしよう、ああしよう、良い考えを溜めておいて、便利なようにきちんと整理しようという考えは、今でもありますが、できません。

 三蔵の目録を作ることも考えたことがあります。今は、そういう考えがないことを認めます。つまり今残っている考えは「どうしたら滅苦ができるか」だけです。

問 : クルンテープへ行かれた時、どの本屋の本がお好きでしたか。本を買わなければならない時、どこの店で買われましたか。

答 : ほとんどは、店の前に「善往善来」と書いてあるシーカックプラヤーシー クルンテープマハーナコンに良く行きました。西洋の本を安く売っていました。たとえば National Geographic がたくさんあって、安く売っていましたが、表紙がありませんでした。売れなくて会社へ戻す本を、表紙を剥いで返してもらって、安く売っていました。

 綺麗な写真を選んで、買っておいて見て楽しみました。その店には本がたくさんありましたが、値段は少しも引いてなく、値引きしない店でした。クルンテープバンナーカーンも、最後には止めました。

問 : 外国へ直接注文した本もありましたか。

答 : ありません。タンマタートはありますが、私は注文の仕方を知りません。知人が買ってくれた、あるいは買って送ってくれた物はあります。カルナーさんがインドにいる時は、本を買って送ってくれました。

註1 : ドナルド K スウェラーは、ターン・プッタタートの作品を本気で勉強しに来た最初の西洋人で、西洋の仏教学者にターン・プッタタートの作品に関心を持たせ、プッタタート師の作品を英語に翻訳し、師についての文章も書いている。




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