第六章 外面の学習



1 勉強する理由



問 : 先生。初めにパリヤッティタム(タンマの勉強)の目的についてお尋ねします。タンマの実践をするためにプムリエンに帰って来られて、反対に、再び勉強の仕事に手をつけられたのは、どんな目的でしたか。

答 : それは目的ではなく、必要に迫られてです。つまり私がクルンテープを出た大きな目的は、タンマを実践するためで、タンマの実践を始めてみると、知識が足りないことが分かりました。それにもう一つ、他の人たちが伝承して教えている物もありましたが、私は賛成できないので、自分で教えを探す必要がありました。それで、パリヤッティ(学習)と呼ぶ物に興味を持たなければならなくなりました。

 しかし三蔵の学習家になるためではありません。実践に使う教えを集めるには、自分でしなければなりませんでした。だから三蔵から探し出しました。

 翻訳された物は、あっても非常に少なく、それに信頼できるものではありませんでした。私は他人に頼らずにするのが好きなので、頼ることができる教えを探して実践原則にするために、自分で探しました。これらの教えも必要なだけ得られ、「阿羅漢の足跡を追って」という本の形になりました。

 もう一つ必要がありました。法施会が季刊で佛教新聞を出して、私も手伝うことになり、布教の部である三蔵の翻訳の部を作りました。だから三蔵の布教すべき部分、あるいは経を選んで翻訳し、佛教新聞に載せました。だから二つの話になり、かなりたくさんパリヤッティ(学習)の形で三蔵と関わらなければならなくなりましたが、パリヤッティ(学習)ではありません。

 パリヤッティの形の勉強ではなく、実践する教えを選んで、実践する教えに使う形で勉強しました。新聞で広めたのもそういう目的で、実践の利益になる経だけ、あるいは一般の人々の実践に関わる知識も選びました。これが、三蔵と関わらなければならなかった本当の理由です。戻ったとか何とかの話ではなく、前進です。

問 : 先生。三蔵の他に、後で他の物もたくさん研究なさっていますが、どうしてですか。

答 : 本当のことを言えば、初めの頃は三蔵だけを目指していました。しかし禅などの他の側の物を読んだり、見つけたりした時、それにも利益があることが分かり、勉強のために良い副教材として使えると思いました。

 特に禅は、最高に早く到達する技術で、サマタもヴィパッサナーも同時にし、そして最高に巧妙に話すことができる特殊な物があります。そういうのを見つけたので(笑)興味を持ちました。興味をもって、最大限に有益に利用できるよう努力しました。だから三蔵以外にも、たくさんのことを勉強しました。性格的に範囲を限定しない勉強が好きな性質だったので、簡単に対象範囲が広がりました。

問 : 科学なども、先生はかなり本気で勉強なさったように見えます。

答 : (笑) それもできるだけ勉強しました。遊びか本気か分かりません。(笑) 好きなだけ、満足するだけです。それに夢がありました。科学を使ってタンマ布教をすることと、将来に非常に影響力のある科学者にタンマを広めることで、それにはどうするべきか知るために、できる限りの科学を勉強しました。

 それほどたくさんではありませんが、可能な限り、科学者にタンマを広める望みに応えられるだけ、あるいはタンマを広める道具として科学を使うためです。有益に使えるものは、精いっぱい努力しました。

問 : それで、インドの哲学に関してはどうですか。

答 : 私は、インドの哲学は仏教と関わりがある物と考え、中には仏教の基礎、あるいは背景である物もあり、そしてインド人の中には、仏教はヴェーターナタから分かれたと言う人もいます。こういうのがインドの哲学を勉強しなければならなくさせました。

 もう一つ、後にマハーマクット仏教大学教科書局などの、幾つかの部の本を書きましたが、ブッダの歴史を書くには、初めの章として、ブッダが生まれた時代のインドの人々はどんな知識があったのかを知るために、インドの哲学を知らなければなりませんでした。これもインドの哲学を勉強しなければならなかった理由の一つです。

 仏教を良く知る利益がある勉強であり、非難される問題に答えるための勉強です。それに、楽しさを見つけました。つまり勉強する味がありました。そして、ある面は全部ではなく、ある面は仏教の基礎の部分もあるという真実を発見しました。あるいは少なくても仏教を良く知る助けになりました。だから短い期間でしたがある時代、インドの哲学の勉強に傾倒しました。

問 : それでは西洋の哲学はどうですか。

答 : 西洋の哲学は非常に少しです。あまり信仰がないので、軽蔑しがちだからです。滅苦の面で深い物はありません。普通の思想家の話、あるいは普通の考えで、滅苦の方法、あるいは聖向、聖果、涅槃にならないので、興味は非常に少しです。

 もう一つ、多すぎると見るので、何人かの幾つかの話だけです。ショーペンハウエルなど、特に仏教に関して言及している人の物を勉強しました。

問 : しかし先生は西洋の心理学を掴んでいるように見え、「優越感」を書かれた時は、比較なさっているように感じます。

答 : 仏教を理解するため、そして悪い結果になるのを防ぐため、区別することを知るために、比較できることは比較しました。低くて下賤だと、軽蔑のような考えをすることもありました。それについて話す時は、まだそれは正しくない、滅苦としては正しくないと分かるように話しました。

 彼らをひどく下に見る訳ではありませんが、滅苦の話をするには、まだ標準に達していません。仏教教団員に仏教の価値を知ってほしいので、できる範囲で比較しました。それほど多くありません。

問 : ではキリスト教はどうですか。

答 : キリスト教はいろんな方向のいろんな種類の原因があります。タンマタートは私より前から興味があり、法施会の友達と話す時、よく引用して話したので、(笑) 私も少し興味を持ちました。もう一つは、なぜ信仰する人が多いのか知りたかったからです。

 それと同時に、スアパー(軍事訓練を受けた民間人)講義を書いたラーマ六世が、なぜすごく評価されたのか疑問が生じたからです。

 私も、時には楽しくなることもありました。佛教新聞を出した時、ある神父が、善意か悪意かは知りませんが、踏み付ける機会を探すような形で仏教について話す手紙を書いて来ました。当時はキリスト教について非常に少ししか知らなかったので、彼らが使う意味での「神様」という言葉しか知らなかったので、キリスト教のマイナス面と感じる物を勉強して(笑)、神様に反論し(笑)、本にしました。

 「神父の質問に答える」です。その神父はジョン ウリアーナで、その後友達になり、今は亡くなりました。

 しかしその時書いた物は、イスラムにまで波及し、イスラムの学生が、神様について言及した文章に反論する無礼な手紙をよこしました。私が「人物である類の神様」と話したので、たくさん結果があり、キリスト教新聞がこれに反論を書きました。

 しかしその後、ヒト語-タンマ語の原則を使った時には、「ヒト語のように教える神様は愚かな人に教える神様。神様は智恵のある人に教えるタンマ語の意味であるべきだが、彼らはヒト語のように記録している」と、別の方向から見えたので、教育のない人たちのための言葉も、教典の一部にはなければならないと思いました。あるいはほとんどかもしれません。

 だから私は、その後別の形の神様、利益があり、そしてどの宗教にも同じ神様が世界を支配する状態で話しました。これは後に本になりました。これが長年神様について関心をもった結果です。

 キリスト教については、初めは確実にライバルと思ったので、相手側についてできるだけたくさん知る必要がありました。だからできるだけ勉強しました。しかし何も十分と言えるほどではなく、森の僧ができただけです。今は反対に、今世界にあるすべての宗教が、これからも世界にあり続けるようにする目標があります。

 ある集団の人たちは、だんだん低下しているので、異教間で、互いに関わり合うべきと見ます。政治でも経済でも、互いに宗教の違う人同士で関わらなければならず、異教徒同士で結婚もしなければなりません。そして良い関係作りをする原則があります。

 宗教の違う夫婦は、どんな宗教に関わる教えが必要か、今でも考えています。(笑) 仏教徒がキリスト教徒と結婚することもあり、イスラムと結婚することもあります。それには、宗教面でどんな教えを作れば、彼らが親しく暮らすことができ、問題が生じないか考えなければならなくなります。

問 : 仏教だけでも大乗と金剛乗(タントラ仏教の左道密教)のような宗派があり、先生はたくさん勉強なさいましたか。

答 : たくさんとは言えません。他にたくさんあるので、機会があるだけ勉強しています。キリスト教と大乗の勉強を比べたら、たぶん同じくらいです。でも大乗は、テーラワーダと似ているので、それほどたくさん勉強する必要はありません。(笑) テーラワーダと同じ部分がたくさんあるので、省略できますが、キリスト教は違う物なので、そして反論者として勉強しなければなりません。だから最初は、大乗の勉強よりも非常に細かく勉強しました。

 ここで言わなければならないのは、今言った大乗とは、教育がない人のための大乗のことで、私は、禅は大乗に入れません。しかし多くの人は禅を大乗に入れていて、中国やベトナムで生まれた物はみな大乗と言うようです。

 本当の禅は大乗に反論し、大乗を揶揄しています。だから大乗の書き物、大乗の経を揶揄するように説明し直しています。禅の人たちは、天国が西方浄土にあると信じないで、天国は本来の心(自性)に到達した所にあります。これを大乗に挑戦し揶揄する人と言います。

 大乗の良いレベルは、テーラワーダと違う物はありません。長くて重要な経、たとえば妙法蓮華経などの要旨は、五蘊の取を捨てることです。他の宗派のその他の重要な経も同じです。これらの経の冒頭が泥だらけでどこへ暴走していても、どれも五蘊の取を捨てることで終わります。

 楞伽経はスリランカの人たちに教えに行って、トッサカン(十頸夜叉王)に戒を持たせるために、肉などを食べないように教えますが、経の終わりの部分は、五蘊への執着を捨てる話です。だから鈴木(大拙)博士は、この楞伽経は禅の糸口と見ています。(笑)

問 : 先生。それでは金剛乗(タントラ仏教の左道密教)はどうですか。

答 : 私が知っている限りでは嫌いで、幾らも勉強しませんでした。そして性に関した、特に欲情に関した特別なものがあると聞いて、興味をなくしました。割いてやる時間がありません。男と女が体の器官を挿入して組み合っている像の意味の解釈は、最悪だと思います。

 本当かどうか知りませんが、人はそう言っています。インドに行った時に見たので、一体買って来ました。誰かに見せる勇気はありません。未だに見せる勇気はありません。どうかしてしまったと誤解されます。最近もう一体送ってくれた人がいたので、そっと仕舞いました。誰かに見られれば誤解されます。

 ブッダとパーラミター哲学を組み合わせる形。こう例えるなら、時間に見合わない物の解釈と見なします。だから興味がありません。そういうのではない物、良い物もあると理解します。そうでなければ、ダライラマさんは多分金剛乗を信仰しないでしょう。

 しかし外部の人に教えるのは、このように非常に変わった例えを使います。それをするのは大変です。説明して理解させるのが難しいので、タイにはあまりいません。信仰と智慧が対でなければならないと説明する人もいます。

問 : 先生。現代社会学の面は、科学と同じくらい勉強なさったのではありませんか。

答 : 社会学という言葉について、サワーミー・サッタヤーナンタブリーは、「ほとんどすべての学問で、社会学でない物は何もない。社会が知るべき学問は何でも社会学で、宗教も法学も、衛生も健康も、何でも社会学の一つと言う」と言っていますが、私はこれに同感です。そして学習には終わりが無いと、サワーミー・サッタヤーナンタブリーはこう捉えています。

 私もこれを初めて聞いた時から、こういう原則を捉えています。そして「私たちは社会学のすべての学問を広めることはできない。一つの学問だけ、特に哲学、滅苦と言われる宗教を選んで広めるだけだ。これが、社会が知るべき学問である」という見解で一致しました。

 語句もそういう機会を与えているので、社会が知るべき学問は数え切れず、言語学やいろんな文化も社会学と見なします。私は仏教に関した物だけを、時々勉強しました。多少多く読んだ社会学も、インドの哲学から逃れられません。

問 : 西洋の系統の社会学は、まだ読まれていませんね。

答 : 興味がありません。同じと見なして関わりません。社会が知らなければならないことは、自然に知ることができるので、読む必要ありません。その類の本を買って無駄遣いする必要ありません。(笑) 

問 : 先生は一時期、古代史や歴史を楽しまれたことがおありのようですね。

答 : あります。チャイヤーは遺跡がいっぱいあるので、歴史的関心を抑えることができませんでした。私が興味をもって、そしてバーンドーン湾周辺の古代史の本に書いた他にも、まだたくさん蒐集したのがあります。

 でも今は疲れて力がないので、これ以上書けません。もし書けば、同じくらいの分量の物があります。そのつもりでいろんな写真も集めましたが、今は飽きてしまって、そのままになっています。考古学は滅苦ができません。(笑) 考古学の勉強をしても苦は消滅しません。

 昔からしている滅苦の方法に多少興味を持たせる物は、こういう古代史には興味があります。しかしいろんな物を、仏教の話と信じる気持ちはなくなりました。それは考古学的物質であり、技術であり、人間の技術の面の考えによるものです。建築学まで拡大すれば、もっと大きくなります。

問 : 先生。考古学のようなは、タンマタートさんの方が先に興味を持たれたのですか。それとも一緒ですか。

答 : 先かもしれません。ハッキリしません。忘れました。彼はほとんどチャイヤーについて検証することに興味があり、私はチャイヤーだけに限定せず、全般に興味がありました。





2 研究に使った本



問 : 次は先生が探求なさった本と教典についてです。先生の学習者としての人生で、探究に使われた大切な本は何か、憶えてらっしゃいますか。

答 : 教え全般です。最重要な全集である、心臓部である三蔵、それに三蔵の解説、アッタカターも必要です。私はアッタカターもあるだけ必要です。英語訳の三蔵は、タイの訳語と比較する時、多少役に立ちますが、英語訳には賛成できない点もあります。

 唱える言葉の「スヴァチャ ムトゥ アンティマーニ」という言葉を、西洋人は「善い言葉」と訳していますが、タイでは「説得しやすい。教えやすい」と訳していて、まったく方向が違います。「善い言葉」と訳すのは、善い言葉使いを意味しますが、本当は「教え易い人」と訳さなければなりません。「ス」は「簡単」という意味で、「善い」という意味ではありません。こういうのが時々あります。

 それから実践原則と言われるものは、実践者でなければ訳せません。正しく訳せません。「サッパ カーヤ パティサンヴェーティ」という言葉の、「サッパ」を、西洋人は whole と訳していますが、幾つも体があって、どの体もなので、正しくは all と訳さなければなりません。

 all なら、すべての物、あるいはいろんな物全部という意味で、パーリ語にもその意味の語句はあります。whole はサッパではなくサカラ、あるいはケヴァラという言葉を使わなければなりません。西洋の訳語、特にアーナーパーナサティスッタでは、whole body と訳しています。

 私は言えるだけの人に、こういうのは間違っていると教え、信じる人もいたし、信じない人もいました。私は私の考えと知識で判断し(笑)、それには理由があります。もし all と訳すなら、どの体も、つまり肉体と気体を意味し、whole という言葉を使えば、気体だけですが、一つの体のすべてと言います。

 私は、自分が正しいと信じます。だからこういう話では、こういう場合は西洋に従いません。それでも西洋の方が良く訳せている部分もあります。重要な教典である英訳三蔵の Pali Text Society 版を買って持っています。

 その他に、The Sacred Book of the Buddhist には、パーリ(ブッダの言葉である経)と、アッタカターの両方が収められています。The Sacred Book of the East は、ハーヴァード大学が西洋のすべての知識と智慧を集めて、学生のために作りました。

 いろんな分野の教授のレベルの西洋人が、いろんなことを一人一冊か二冊書いて、全部で七十五冊あります。これは全部揃っていません。買えたのは二三十冊だけです。こっちが先に作られましたが、西洋人による正しくて確かな東方学問研究です。

 その大部分が、多少違ってしまい、仏教に関わるいろんな経も変わりました。ヒンドゥーに関しても変わり、 The Sacred Book of the East の中にあるヨーガスッタなどは、タイ語訳のサワーミー・サッタヤーナンタブリーの本は結構いいですが、これと全然違います。

 彼はサンスクリット語を知っていて、サンスクリット語から訳しましたが、西洋人はサンスクリット語の何も知らずにサンスクリット語から訳すので、推測や憶測で訳す類の翻訳になり、その結果利益がありません。

 何冊もあります。老子の道徳経も、何人もの人が英訳していますが、あまり良くなく、タイ語を知っている中国人が訳したのとは比べ物になりません。西洋人が東洋に関心を向け始めた時代で、まだ何も分かっていません。深すぎるので(笑)、ただ本にしただけです。それでも出た時は一番称賛された本、その時期最高の本でした。

問 : 先生。先生がお持ちの三蔵は、全部で何カ国語ですか。

答 : パーリ語とタイ語とそして英語に訳された物だけです。それにパーリ語をビルマ文字で書いたのがあります。これは第六結集に参加した時、お礼として後で送って来ました。タイの三蔵とほとんど全部同じと言えます。

 たまに違う言葉があり、それには間違う理由があります。私たちには「アトゥティヨー」という言葉には第二人者はいませんが、ビルマのには「アッタトゥティヨー」で、自分が第二人者、つまり一人という意味です。アトゥティヨーは第二人者がいない、つまり一人で、アッタトゥティヨーは、第二人者である自分がいる、つまりどちらも一人です。しかし言葉が違います。

 このように比較すると、時々タイの三蔵には、文字が抜け落ちているのがあります。一つの文章のことも、幾つもの文章のこともあり、ビルマの方が完璧です。いろんな方向から照合し、作ったばかりなので、道具も揃って進歩しました。

問 : 先生。中国語版もお持ちですね。

答 : 三蔵と呼んでいますが、本当は三蔵ではなく、三蔵について中国で書かれたすべての物で、直接禅の話もなく、あるのは禅についての説明だけで、どう口論したかなど、その中に全部あります。(笑) 三蔵ではありませんが、中国三蔵(大蔵)と呼んで、アッタカターのような解説集です。中国三蔵には、いろんな経はありません。

 私は中国語は読めませんが、いろんな楽しい話があり、以前サーンさんがここで出家して、読んで聞かせてくれたのは鋭い知性でした。書いた人は複数で、一人ではなく、書かれた時代も時期も違う、たくさんの人が書いています。

 だから本は書棚いっぱいあり、ちょうどいっぱいです。経ではありません。考察や評論である、後の時代の解説だけです。知性があるアーチャン誰でも、何か解説をすると書いておきます。

 私も不思議なのですが、お金を寄付する小母さんが、中国三蔵を注文して買ってくれました。初めは中国の三蔵だと喜びましたが、開いて見ると三蔵ではなく、アッタカター集で、三蔵の解説なので三蔵に関係があります。三十年ほど前に贈って来ました。

問 : 先生。アッタカターは全部お持ちですか。

答 : 使わなければならない必要なものは全部揃っています。使いたくない、持っていたくないアッタカターもあります。アパターナの物やペータワット(鬼の物)などは持っていたたくありません。しかし今は買えるかもしれないので、買おうと思っています。発刊したばかりなので。

問 : それではラーンナー(チエンマイに昔あった国)で書いた経はお持ちですか。

答 : ラーンナーの三蔵は持っていません。その他は何も多くありません。あるのはパンアヤーサチャードックだけで、全部タイ語に翻訳されています。もう一冊はマハーサウェーン モンウィトゥンが翻訳したチンカーラマーリパコンですが、仏教に関した考古学的な物にすぎません。それとマンクラッタティーパニー、ウェササンタラティーワニーなど大して重要でない物です。

 それでもわざわざ集めたのは巧みと見なし、アッタカターのどの説明も全部集めてあって、とても便利です。自由なタンマの説明ではなく、アッタカターのあちこちの説明を集めた物です。同じ話を全部集めるので、叩き合い(笑)、アッタカターでは普通です。

問 : 先生。仏教以外の本で、先生がお持ちの、あるいはお使いの重要な物はありますか。

答 : たくさんあります。貰った物も、自分で買った物も。これは私が持っているべきだと考えて、人が買ってくれた物もあります。インド哲学全集で、サワミー・ウィウェーガナンタの大きなセットは、チャオクンラップリーがくれました。あの方は興味があり、そして誰も話す相手がいないので、買ってくれました。一度に二セット買い、話し相手になれるように一セット私にくれました。

 しかしどちらも用事があったので、討論する機会は少なかったです。多少批評したのは、クリュシュナムルティについてです。その他禅の重要なシリーズは鈴木(大拙)の本で、もう一つの全集はチャール・ルックスの本です。

 これらの全集の幾つかは、プラパン アーリヤミット医師がくれました。彼は禅に興味があったからです。マハトマ・ガンディーの本もあり、多少興味がありますが、彼は政治家なので、強い興味はありません。リオ・トルストイの全集はクワン(プラ・クワン ムッティパトー)の物で、私も見ることがあります。

 以前に私が考えたこととあまり変わりません。ある人が、私が持っているべきだと考えて(笑)、リエムさんに買わせたもう一つ重要な全集は、The Great books of the West で、全部で二十六冊あります。並べると二メートルもあり、西洋の哲学を目指しています。ホメロスのイリアットからマルクスまで時代順に、哲学者一人一冊で、どんな人のもあります。

 この全集の中には、有益に利用した物もあります。聖書もこの全集の中にあります。ほとんどは、今勉強しているこのこと、話そうとしているあのことを、西洋人はどう考えるのか知りたい時に使いました。仏教関係の本は読み切れないほど多いので、関わりがあり、今問題になっている部分だけです。哲学の話は好きではありません。

問 : 先生。二階の本棚に、性に関した本が何冊もあるのを見ました。たとえば The Sex Life of Unmarried Adults, The Sex Behaviour of Human Male, Encyclopedia of the sex など。

答 : 少しあります。勉強したことがあります。自分で買ったのもあり、人がくれたのもあり、カーマスートラもあります。(笑) パンヤーさんが持って来ましたが、あまり勉強しませんでした。しかし概要は知っています。

 目次しか見ない本もあります。ほとんどはインドへ行った時に買って来ました。そして、あれは欺瞞だと疑うこともあります。たとえば彼らはカーマスートラを書いて、タンマの本なので正しく実践しなければタンマにならないと主張して、この本をタンマの本にしました。

 しかし内容を見ると、いずれにしても普通の話、性の話、欲情の話ですが、彼らは正しく実践させる正しい実践で、すべてタンマだと主張しています。だから欲情を味わうのも、正しく実践しなければならないタンマで、彼らはそう言います。私は賛成しません。騙して興味を持たせるものがあると感じます。そうでなければ、その経を書いた人たちの社会では、本当にそう信じています。

 初めは仙人が書きました。これらの経は必要が少なく、なくても良いと言います。あるなら、人間は、最高に良くすれば苦が滅す何を考えたか、仏教の物と比較して熟慮するためです。

問 : 先生。自然に関した本は、たくさんお持ちですか。

答 : 本気になった話でないので、あまり多くはありませんが、多少は好きです。細々した楽しみとしての動物のこと、植物のこと、魚の本も何冊もあり、鳥の本もたくさんあり、魚の百科事典もあります。そして人の話、世界中の人種も、読むと楽しいです。

 Illustrated Encyclopedia of Mankind という本を、市場を歩いてここまで売りに来た人がいたので、二十冊五千バーツ余りで買っておきました。 Encyclopedia は古いのと新しいのとの二種類あります。Britannica のは、チャオチューンが一セット買ってくれ、自分で買ったのが一セットあります。

問 : 先生。初めから現在まで、先生は何の雑誌を購読してらっしゃいますか。

答 : 良く憶えていません。出家した頃は「タイカセーム」と「ドゥアンプラティープ」を読み、それとルアンウィチッタラワーダカーンの最初の本を読み、「八偉人の学問」のなどを必死で読みました。私だけでなく誰も同じで、大ブームで、私も読みました。

 その後は週刊「ターカセーム」に、佛教新聞の宣伝をしてもらいました。「セーナーサーン」も、昔私が読んだ雑誌の一つです。軍人たちの本ですが、あまり軍人の物ではない物が掲載されていました。

 「サヤームサマイ」も見ましたが、読んだのは何冊かです。ちょっとたくさん読んだのは、日刊新聞「シークルン」で、定期的には買いませんでした。プラヤーアッタクロムマニッティーの家で定期購読して、読んだ後回してくれた「クルンテープデーリーメール」、「サヤームオブザーバー」などです。

 当時私は田舎の青年だったので、政治面を読む考えはありませんでした。他の人と同じように、賢くなりたい、世界に遅れたくないと考えたかもしれませんが、どうしたら良いか分からず、ある物をただ掴んで読むだけでした。

 プムリエンのスアンモークの時代には、あまり読みません。新聞を読む時間がありませんでした。再び新聞や雑誌を読むようになったのは、後になってです。法施図書館がチャヤーラーム寺にできた後は、常にいろんな人がいろんな本を送ってくれたので、自分で買って読みませんでした。

問 : 先生。お持ちのいろんな全集を使う時の原則はありますか。

答 : 何か疑問があったら、どの本がふさわしいかを探して、話すこと、書くこと、勉強することに使います。私は、誰の本が基本、拠り所と執着しないで、いろんな人の本を使います。百科事典などは、宗教の話しか読みません。他の話は読みません。(笑) 道徳の哲学は、百科事典と道徳のフィロソフィについての本から引用しました。

 私はあまり学究者の訓練を受けたことがないので、田舎の普通の生活で、出家してからだんだん関心が出て来ました。昔は百姓の子供と同じで、あまり本などは好きではなく、遊ぶ方が好きでした。

 牛が好きで、水牛が好きで、あひる、鶏が好きで、本などで勉強の味を知る段階に達していませんでした。子供同士で楽しく昔話をして勉強し、タンマの勉強を始めると、タンマを原則にし、何か重要な物があればタンマにし、何でもできるだけタンマにしました。




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