9 サマナの生活の玩具





問 : 先生。古いスアンモークに住んでいらっしゃった頃、鶏や小鳥やカラスを飼い、その他にも、当時はルアンミン爺さんと遊びに行かれるなど、いろんな玩具があったとお話しになったことがありました。すみませんが、その後から今までの人生の、玩具についてお話しいただけませんか。先生の人生を全面的に理解する役に立つかもしれません。

答 : 混じっています。複雑に混じっていると言います。ある時代には物質的利益のある遊びで、蓄音機で外国語を勉強し、文字を打つためにタイプライターで遊び、写真を撮るためにカメラやその他そのような物で遊んだのも、遊びの一部です。

 古い物を買って、修理するのが楽しくて好きでした。役に立つので楽しいです。心の遊びは自然を楽しみ、珍しい木で遊んだこともあります。他の人にとって珍しくなく、自分にとって珍しい木を集めました。魚も、小鳥も、猫、犬、ヤモリやトカゲで遊んだ時代もあります。そして最後には問題になりました。

 その他にも、休憩して遊び、座って遊び、寝て遊び、サマーディで遊びました。遊びでいろんな種類のサマーディをしたことがあります。ふさわしい機会がある度に、ほとんどすべての遊びをしました。順に並べられません。しかし自然に年齢順になっています。状況が変われば、遊びも変化します。

 昔は海へ遊びに行くのが好きで、舟に乗って海へ遊びに行き、海に浮いていたことが何度もあります。シロアリの塚をきちんと並べたこともあり、あちこちにあるシロアリ塚を、好きな所へ移動させ、それからコンクリートの板を上に載せて、テーブルにしました。

 移動しても中にはシロアリがいるので、深く掘らなければなりません。それから四人で担ぎました。土の中の部分は、地表の部分より大きく、上は空洞です。古いスアンモークの辺りのシロアリは体が黄色で、噛みつきません。私のクティの横を列になって引っ越して行きました。

 その辺で足りないと、もっと遠くを探しました。時には死んでしまうこともあり、失敗して放棄してしまったこともあります。タットさんは非常に丈夫で、シロアリ塚の引っ越しを手伝ってくれました。タットさんはスアンモークに初めから関わり、いつでも手伝ってくれた人の一人で、ほとんど何でも手伝いました。

 彼はプムリエン生まれの人で、小さな時から見ていました。私より少し下の世代で、自分で身代を築きました。小さな船を持って、最後には大きな船の所有者になり、炭工場や店もありました。

 私が古いスアンモークにいた頃は、よく相談に行き、いつも考えを聞かせてもらいました。その後クルンテープへ行きました。タットさんの畑はバーントゥン-チャイヤー線道路の古いスアンモークに近い所で、西斜めにあったので、時々お喋りしに行きました。こういうのも遊び、お喋りの遊びと言います。

 タットさんの船で海へ、湾の中の砂洲であるドーンセットへ遊びに行ったことがあります。タットさんは船を持っていたので、便宜を図ってくれました。ルアンボリバーンを連れて向う側の海へ行ったこともあります。だから彼はルアンボリバーンも知っています。史跡を研究に来た西洋人とも知己です。

 遊びというものには意味がたくさんあり、すごく小さなものから非常に大きなものまで、とても意味が広いです。詩を書くことも遊びで、本気ではありません。何と言ったらよいか分かりませんが、言えることは、機会に応じて、これらのもので遊んで来たということです。

 料理の味付けで遊んだこともあります。ラントムの花のゲーン(汁)は、誰もゲーンにできると考えたことがないので、ゲーンを作りました。(笑) ココナツミルクをたくさん入れなければなりません。タマリンドを入れて酸っぱくし、ちょうど良いくらいに砂糖を入れれば美味しく食べられます。それも食べられると認めさせるために、わざと食べさせました。美味しいです。(笑) 

 山ほど捨ててしまうより良いです。有効に利用しなければなりません。ちょっと便通が良くなりますが、下剤と言うほどではありません。いろんな遊びをしたので、どう答えて良いか分かりません。(笑)

問 : 先生はどんな詩がお好きですか。

答 : 昔からあるようなもので、私が暗記しようと努力したのは、クロムプラパラマーヌチットチノーロットのチャン(詩型の一種)、ローガニティのクローン(詩型の一種)も暗記したことがあります。

 クルーテープのも好きで、ラーマ六世のも好ましいと感じます。偉大な話、難しい話だからです。あの方が翻訳されたシェークスピアの詩、戦争の是非について書いた詩を幾つも暗記しました。昔はほとんど暗誦できましたが、今はほとんど忘れました。(笑) 

 なぜかは分かりませんが、スントーンプーの詩は好きではありません。もしかしたら、彼が酒を飲み、女性に酔ったと聞いたので、そういう心情で詩を書いたと決めつけて、好かない気持ちが生まれたのかもしれません。しかし彼の詩の言葉は美しいです。私はスントーンプーを揶揄して書いたことがあります。(笑)

   スントーンプーの詩は良い 酒があるから

   琴線に触れる詩が書けるよう、心を鼓舞する

   酒がない私に あるのは水だけ

   いくら頑張っても 詩は良くならない

 (笑) まだありますが、思い出せません。サンヤーさんは今でもよく憶えています。

 自分で作る時は、内容にふさわしい形を選びます。西洋の詩をパロディにするには、ドークソーイ(詩型の一つ)にし、チャンやクローンにしたのは、クロムムーンウィウィタワンナプリーチャーの、母子で涅槃について会話をしている詩を揶揄して作りました。

 中には、他の人の利益になるように、自分自身を揶揄した物もあります。本気で作り、長さも適当でした。あるのは「ロッブリーを離れて」ばかりで、遊びに連れて行ったサンヤーさんのために作りました。その他のカープクローン(詩型の一つ)は、暇な時に作りましたが、長い間にはたくさんになって、一冊の本になるほどでした。(笑)

問 : 先生。カメラの話もしてください。撮られたのはどんな写真ですか。

答 : 景色の写真です。箱にしまってあるような、自分の気に入った景色で、写真を撮って遊んだ頃、他の物よりも景色をたくさん撮りました。映画のカメラで遊んだこともあり、今でもあります。サーリー大佐がくれた十六ミリ五十フットで、八ミリスーパーと普通の八ミリで撮ったのも少なくありません。

 きっとカビに備えていて、全部細々したものです。一番好きなのは、ガラスケースの中の魚の映像で、とても美しく、沼の宝石と言います。沼にいる時は美しくありませんが、ガラスケースに入れて映像にすると、どれも特別に綺麗です。

 映写機は二台あります。今は誰が使っているか知りません。その頃はブンチューさんがいて、彼は何でもでき、スアンモークの僧の仕事も撮ってあります。今は犠牲にしなければなりません。腐敗、カビの犠牲にしなければなりません。維持が難しくて、空気や湿度を調整する部屋が必要です。それに何のためにするか分かりません。

問 : 先生。カメラの友達は何方がいますか。

答 : 何人もいます。マニー シーパットさんはクルンテープにいます。チャイヤーで写真やカメラで遊ぶ友達と言える人はいません。私は、楽しめるようになるまで、何人にも教え、オン先生も私に習って使えるようになりました。

 私はクルンテープ一帯を撮ったことがあります。ざっと全部です。私は場所を知らないので、プラクルー・チャヤーピワットが連れて行きました。クルンテープにいた頃は、彼がどこへでも連れて行き、トンブリー側の美しいお寺に、一日中行きました。

問 : 先生。それではラビン ブンナークはどうですか。

答 : 初期ではありません。私がカメラを止めた後知り合いました。タンマの学習者として知り合ったので、カメラで遊ぶ友達ではありません。ラビンさんは、ブッダの歴史の石像の複製を写真撮影する面で、スアンモークの仕事を手伝いました。映画に撮ったのもありますが、今はどこへ行ったか分かりません。スライドにしたのもたくさんあります。

 「ある日のスアンモーク」の映画は、ラビンさんと、スクムさんという友達の作品です。その他に、写真のプリントもしてくれ、何かプリントしたい時は、彼がテクニッククルンテープトゥンマハーメーク大学のプーン ケーットチャムラットさんに頼んで、プリントしてもらいました。

 プーンさんは先生で、たくさんの部下がいます。乱雑に置いてあるインドで撮った写真は、テクニックマハーメーク(大学)でプリントした物ばかりです。経費を出してくれる人がいました。ラビンさんは額を作ってくれ、手作りで精巧でした。それらの写真は今でも色褪せません。

 そしてブンチュー(プラ・ブンチュー)さんに、撮影と現像、プリントを教え、いろんなコツを教えました。彼は賢い人で、その面の頭があり、ラビンさんに習ってできるようになりました。

 写真関係で付き合ったもう一人はティエンさんで、彼はソンクラーに写真屋をもっていましたが今は止めて、他の物を売っています。一人だけの写真を、二人で会話しているように見せるコツを教えたこともあります。ブンチューさんはこういうことが上手でした。

 もう一人、私より後に始めたのはチャオチューン シローロット チエンマイで、インドへ行った時も、タイ国内でも、ビルマでも、一番たくさん撮った人です。ハートヤイにいるパイブーン シッティクー医師は、すべての機材の面で支援してくれました。最後に、今日まで写真に関して便宜を図ってくれたのは、マナット チラウォンさんです。

問 : 先生は、まだスライドが普及していない頃から、ご自分でスライドを作って使われたと聞いたことがあります。材料や作り方について話していただけませんか。

答 : クルンテープで、下に本の絵を挿入すると、画面にその絵が映し出されるタイプのスライドを映しているのを見て、それで作って見ようと思って、勉強しました。初めの段階で、買おうと思いませんでした。資金がないので、どう作るか分かるまで勉強し、そしてテストをして(笑)、原理を知りました。

 自動車のライトを光源に使ったので、距離が必要でした。求めるコンデンサーを探すのが大変で、うっかり買ったら焦点が長くなり、ちょっと大きなカメラのレンズを使って、合わせると二メートル近い重い木箱になりました。

 次にフィルムをポジティブにする現像の仕方、つまり既成のスライドのようにする方法を知らなければなりません。現在のように洗い戻せるタイプはまだ買えなかったので、普通の赤いフィルムを、人は赤いフィルムと言います(笑)が、七十六ミリのフィルムで撮ったら一回現像して、そしてもう一度洗い戻せば使えました。

 緑のフィルムでは使えません。そうすれば作った機会にちょうど良い十六ミリのスライドができました。それで、これがあればいいと思う、望みどおりの写真を撮って、いろんな本の複写も撮影しました。最後には期待どおりの結果になりました。ただ、大きくて重いので不便なだけです。

 それで人に見せ、マイプムリエン寺の住職だった私のアーチャンの火葬に、持って行って映しました。アーチャンヌンです。(笑) 子供二人で担いで行って、リノリュームのカーペットの裏側にブロンズ塗料を吹き付けて、広げてスクリーンにし(笑)、 長さは二メートル余りで、子供四五人がかりでした。

 初めはどこへ行っても、人が興奮しました。そうやって二年してから、パイブーン医師に貰った西洋製のを使って、その後カモン スコーソンがくれたのは良くなり、そして教育省が買ってくれたのが、スライドでは一番いいです。(笑)

問 : 先生はある時期、布教に影絵芝居を使おうとなさったことがありますね。

答 : つい最近です。「亀のひげ、ウサギの角」の絵があったので、影絵劇団の人たちに、タンマの教育として演じてくれるようにお願いしました。ヒーローとヒロインと鬼がいるので、影絵にできれば良いと思って、たまたまウィエン寺で影絵芝居を見たので、ヌアンサックさんが書いた台本で試してみるようにお願いしました。

 スライドの絵を映して、それから影絵芝居のような説明と音楽があれば、楽しいはずです。しかし時間が長すぎたので、飽きて我慢できなくなりました。四五時間あって、話も面白くなく、ちょっと見ると眠くなりました。ここで一回試しました。

 もう一つは知り合いの友達、ソンクラーの方の有名な影絵劇団に、こういう話で、こういう絵で、試しに演じてみるよう話してもらい、向うも引き受けましたが、その後、難しくてできないと言ってきました。(笑) 演じ難い話で、庶民が好まず、説明も正しくできないと言いました。

 つい最近、最後にもう一回、挽回のため、都合が良ければ、影絵芝居のスライドと影絵の説明のビデオを作ろうと考えました。できそうな話ですが、今は飽き始めました。登場人物を増やす必要があるかも知れません。今のところ時間がありません。

問 : 先生。魚に関しては、先生はいつから飼い始めたのですか。そしてどう楽しいのですか。

答 : チャヤーラーム寺にいた頃から、住まいの周りの水槽で飼い始め、水槽は自分で作りました。マハー・チャウィエンは金魚、銀魚を飼い、私は大きな魚を飼いました。ここへ来てからも、涼しさと、アリやシロアリの侵入を防ぐために、クティの周囲を水槽にして、その中で魚を飼いました。

 タウィーという僧が、今はチャンタブリーの家に帰りましたが、金魚を何千匹も繁殖させました。私は魚の百科事典も持っています。(笑)

 早く大きくし、色を変えて、死なないようにする秘訣を知っていれば、魚の飼育は楽しいです。何十種類もいて、時間を奪われてしまいました。私はしばらくの間夢中になって、一日中座って魚を見ていたこともあります。交配した結果、国旗のような色になったのもいました。

 プラユーンさんの親戚が観賞魚を売っていたので、彼はクルンテープから、一番高い一つがい四千バーツのを何匹も持って来てくれました。ディスカス・ポンパードゥアは、簡単に飼えて本当にいいです。紫、緑、藍色、いろんな色があって、観賞魚の中で一番高価な魚です。原産地はアマゾンで、沼に生えている芦の間で生活する魚なので、体が皿のように薄く、それで彼らは、皿という意味のディスカスと呼びます。

 タラートの人で、クラチャーンという名前の郵便配達夫がいて、彼も飼っていたので、私の魚に餌を持って来てくれました。お返しに魚をたくさんやりました。私は科学的なレシピで餌を千切ってやりましたが、生餌ほど良くないことが分かりました。この辺の海にディスカス・ポンパドッゥアに似た魚がいます。海水魚で、あまり美しくなく、地元の人はキーケンと呼びます。いろんな色で美しいのもいます。

 魚を飼って、魚に鼻があることを知りました。蓮の葉の上に餌を置くと、知ることができ、餌の下の葉をつついて、穴を開けました。

 それに音も聞こえます。どの種類の魚もレッタラルラインがあり、長さは喉から尾まで体に沿って、両面にあります。音を感受する線、あるいは耳で、何が近づいているか分かり、音を聞き分けます。私が歩いて行くと分かって浮いて来ました。地面から伝わってくる音を聞き分けて、餌をくれる人と分かります。他の人では浮かんできません。

 もう一つ、魚には二種類あるという知識を得ました。宿がないのと、宿があるのとです。(笑)

 タピエンとハーンチェークは常に移動していて定住しないで、卵を産んでも捨てて行ってしまい、頓着しません。自分の場所、自分の巣、自分の子供として執着しません。何も執着がありません。信じられません。機械のようです。金魚にも見られます。タピエン魚も全部同じです。

 群れになって追いかけ、卵を草に産み付けると行ってしまいます。卵は自然に、徳とカンマに従って生まれ、生き延びるのは一割もいません。アリに喰われたり照りつけられたりしても、それでも種は残ります。何百万も産むからです。タピエン魚族の魚は、一匹のメスが少なくても五千の卵を産みます。

 もう一種類の魚は、反対に「俺、俺の物」があり、ちょっと大きくなるとペアになって、「俺の妻、俺の巣」があり、その辺に誰かが近づくことはできません。「俺の巣、俺の妻」ができて、死に物狂いで戦います。特に闘魚やプラーキム、プラークラディー、プラーモーなどは尾が扇のようで、二つに分かれていません。水の流れに逆らって泳ぐ必要がないからです。あるいは遠くまで泳ぎたがらず、常に一か所にいるからです。

 こういう状態のすべての魚をプラーチックリットと言います。初めのようなタイプをプラーカープ(鯉)と言って、一か所にいません。だから魚にも二種類あると言います。家を持たないのが一種類、家を持つのが一種類(笑)です。

 闘魚は「俺、俺の物」では最高の種類です。死ぬまで闘う闘士です。子供の頃飼ったことがありますが、最高に興奮したら、見に行くこともできません。誰かが見に行くと、噛みつく態度を見せます。胸ビレを広げ、尾を広げ、見ている人に噛みつこうとします。それほどです。最高に自尊心があると言います。

 他の魚はそうしません。今もプラーオスカーがいますが、誰かが近付くと、噛みつく態度を見せます。ガラスケースで飼ったことはなく、水槽で飼いました。指を入れると噛みつく態度を見せました。プラーチックリット族です。

 飼っている魚は何でも、餌より酸素を欲しがり、酸素が不足すれば餌も食べません。タンマに関した魚の話を書くつもりで、まだ全然書いていません。今は体が思うようになりません。たくさん資料を溜めてあり、山ほど記録してあります。滅苦に関した魚の話を書こうと決意したことがありました。(笑)

問 : 先生。それでヤモリやトゥッケー(カメレオンに似たトカゲ)は、どう遊ばれたのですか。

答 : 飼っておいて虫を捕ってもらいました。(笑) それも遊びです。アレが何をするか、どれくらい賢いか、気をつけて見ていました。猫がいじめるので、今はもういません。前は何匹もいました。ただ飼っているだけで、虫や何か、自分で餌を探して食べ、声を聞いて遊びました。

 トゥッケーの声の真似を練習しましたが、練習の仕方が分かりません。トゥッケーの声を最後に入れようと考えました。講義が終わって、「毎日毎晩・・・してください」と言ったら、「トゥッケー」。きっと大騒ぎになってしまうので、しませんでした。考えただけで、する気にはなりませんでした。(笑)

問 : 先生。それで鳥とはどう遊びましたか。

答 : カーンケンコン(ツグミ科の鳥の一種)が、窓のひさしの上に置いた小さな壺に卵を産んだことがありました。二三個卵を産みました。囲うことができず、ネコが見張っていて巣を掻き回すので、最後には屋根に近い、高い所へ移動させました。

 ネコからは逃れてもトゥッケーからは逃れられず、ヒナが生まれると全部食べられました。壺はまだ取りつけたままです。でも暑すぎるようです。温度が高すぎるので、卵を産みません。今は、カーンケンコンはほとんどいません。罠で獲ってクルンテープへ売るからです。

 カーンケンコン属は黒くて胸が赤く、メスは少し灰色かかって胸が黄色です。クルンテープへ持って行って売ると、野鳥でまだ手馴づけていなくても一羽三百バーツで売れると、人が話していました。お寺の横の子供たちが罠で獲って、市場で仲買に売りました。

 一度バンヤットさんのクティの中に、カーンケンコンが卵を産んだことがありました。彼は生まれるまで面倒を見て、全部巣立って行きました。生肉を食べるのでとても飼えません。ご飯は食べず虫を食べます。豚肉を叩いてミンチにして食べさせると、糞がすごく臭いです。

 一時期、タットさんが飼って来てくれて、クジャクを飼ったことがあります。彼はバーンドーンで魚の商売をしていて、どこで買ってきたか知りませんが、オスで、一羽たった三バーツでした。古いスアンモークで飼い、それからここへ来ても飼って、ここで死にました。

 篭には入れず放し飼いにしたので、集落へ遊びに行って住民の鶏のヒヨコをつつくので、住民に翼の羽を折られて、飛べない鳥になって、高い所へ飛び上がれなくなって低い場所に寝たので、黒トラに喰われて一巻の終わりです。

 また別の時代に、ノッカーハン(サイチョウ科の鳥の一種)、大きなグアック(同じ鳥の別名)を飼いました。私は、すべての鳥の中で、グアックが一番賢いと思います。どんな鳥より賢いです。賢いと言われているカラスでも、グアックには敵いません。何でも早く憶え、深く知り、観察することを知っていて、賢い遊びをし、物を投げると受け取り、外したことがありません。離して投げても、首を伸ばして受け取り、頭の上に投げても受け取れます。

 ソンブーンさんがヒナの時に一ツガイ買って来てくれ、彫塑館の所に放しましたが好きじゃなく、この辺に住んだので、飼いました。果物を食べ、ブドウが一番好きで、一掴みも食べました。一つずつ投げてやり、いい加減に投げても受け取ります。それに、すごく悪さをし、テーブルの上にある物など、全部壊しました。掴んではひっくり返し、掴んではひっくり返し、ひっくり返して捨て、全部壊してしまう時もありました。

 蓋がしてある鉢も、一回こじ開けるだけで中身が飛び出すので、それを食べました。悪戯は全域に及びましたが、楽しかったです。人が来ると、頭をつつき、背中をつつき。最後には高圧電線に止まって、タンマ堂の階段横の電信柱の下に落ちました。前日の夕方に死んで、翌朝見つけた時には、体が硬くなっていて、足は二本とも焦げていました。

 この辺の人は、体が小さければグアックと呼び、大きいのはノッカーハンと呼びます。小さいのはプムリエンのスアンモークにいた時に飼ったことがあります。チャヤーラーム寺に持って来てくれた僧がいて、それをプムリエンのスアンモークに連れて行きました。クルーシリ(タンマタート氏の長男)が小さな頃、飛びついて傷をつけ、目の上と下に痕があります。危ないところで、もし目の所だったら大変でしたが、目玉を跨いでいて良かったです。

 古いスアンモークで飼っていた頃、托鉢に行く時の僧を追って、近くの道端のあっちに止まり、こっちに止まりして、僧の後を飛んで追いかけていました。その後、鉢に(食べ物を)入れる人の頭をつついて大騒ぎになり、結局かまうのを止めて、お寺から追い出さねばなりませんでした。森へ行ったと思いましたが、集落へ行って、あの人の家、この人の家へ行き、初めは楽しいです。

 彼らはバナナやり、何をやり、馴れて来ると自分で釜の蓋を開け、汁の蓋を開けて全部食べてしまうので、家から追い出され、こっちの家からあっちの家へ、商店街の端から端までと聞きました。この鳥は、プムリエンの町の一番上から一番下まで、十軒から二十軒以上の家に行きましたが、最後には誰も構わなくなったのでモスリム(イスラム教徒)の集落へ行って同じようにし、それで捕まってカレーにされて終わりです。

 トック鶏も飼ったことがあります。大きな声で寺中に響き渡りました。結局護らず、ジャコウネコに全部食べられてしまいました。七面鳥も飼ったことがあります。クアンさんが置いて行きました。彼は検事で、その時他所へ引っ越して行きました。模様のある種類で、不思議なことに、七面鳥は突いて叩くことを知らないで、敵を踏みつけます。だから小さな鶏とはケンカになりません。小型の鶏はタイボクサーで、七面鳥は何ボクサーか分かりません。可笑しいです。(笑) 

 普通の鶏は、ずっと飼っています。以前は食堂で飼っていて、夕方に梯子を掛けてやると、木の上で寝るので、そしたら梯子を外します。木をトタン板で覆っているので、ジャコウネコは登って行って喰えません。

 いろんな種類を飼ったことがあります。ルン鶏という種類は、尾羽がなくてウズラのようで、今は全部いなくなりました。オスもメスも尾羽がないので、ルン鶏と言います。食べ物が尾羽にならないで、全部肉になるので、飼っている人は儲けがあると言います。一時はたくさんいましたが、その後管理が悪く、ジャコウネコに食べられて全滅しました。

 ピエン(ロートラット)さんが、コンテストで優勝した純血のレグホンを一ツガイ連れて来て、一年に三百個卵を産みました。五個になると、孵化させるために一軒の家にやり、ほとんどどの家にやりました。初めは白い鶏でしたが、タパオ鶏とかけ合わせたので、少しずつ黄色くなり、純血を守ることができませんでした。コーンさんの家は、混血にして年に百八十個の卵を取り、それからだんだん薄くなって、この辺の集落にレグホンは残っていません。

 純血種の鶏を一羽孵化できるようにして、チュアンという沙弥にやると、木箱に入れて、タバコ屋の店に置いてあるような小さなランプを灯して、そして温度計でいつでも三十二度を保つようにして、二十七日たって生まれました。木箱の中でランプを使って生まれたヒヨコです。(笑) その沙弥は賢く、シロアリのところにご飯を撒いて食べさせました。普通の食べ物を食べて特別に太りました。

 羽の色艶が良く、普通の鶏より大きく、そしてお寺の中を歩いている人を、後ろから追ってつつくので困りました。女の人はつつかれると大騒ぎでした。きっと、女の人は叩かないと知っています。(笑) 何人も蹴爪で突かれて血を流し、最期は、誰にか知りませんが叩き殺されました。

 古いスアンモークにいた頃、一度レグホンが来たことがありました。野生の鶏と交配して、しばらくの間いろんな色の混じった鶏になって、それからだんだん元の野生の鶏に戻りました。私と暮した鶏は何羽もいます。それらは統治するために自ら来ました。食べるためだけではありません。

問 : 先生。それで犬はどうですか。古いスアンモークにいた頃は一度も飼いませんでしたが、どうしてここでは飼われたのですか。

答 : 飼おうと思ったわけではありません。ほとんどは自分で来ました。飼うつもりで飼ったのもいます。サティさんがすごく大きな種類の犬を連れて来ました。シェパードは一番賢いと見なされていますが、なぜか知りませんがバカでした。犬や猫を飼うと、リスや蛇が来なくていいです。

 ある時代には、わざと「サンパーラ(住職)」と名付けた犬がいました。耳が垂れている黒いタイ犬を、宝くじの番号を聞きに来る人に応じるために、そう呼んでいました。三ケタの数字を聞きに来た人に、「あっちの住職に聞け」と言うと(笑)首を振ります。アレに合掌して頭を下げて拝んで、アレが舐めた回数の数字を引くのは、間接的に叱られたと分かります。

 トーンスックさんが作った私の像には、サンパーラが一緒にいます。アレはいつでも私の傍にいて、どこへ行ってもついて来ました。説法に行くと、ついて来て法台の横に寝ていました。アレも、私をとても愛していました。

 しかし私には、私を護るために愛していたと分かります。人はよく勘違いします。アレが私を護るのは、本能で何かを敵と感じるからで、愛している人に誰かが危害を加えれば闘います。敵わない相手と分かっていても闘います。恩返しと言うのは言いすぎです。

 横で寝ているのが好きなのは、安全だと知っているからで、他では、誰が護ってくれるか分かりません。私の傍で寝れば安心なので、よく眠れます。もし敵が来れば、敵と闘います。

 もう一匹はディンという名前で、これも黒いタイ犬ですが、耳は立っていました。これはお寺の中を案内する義務があり、歩く人が遅ければ、その人が間に合うまで待っていました。お寺の中をずっとそうやって歩き、県外にまで知れ渡っていました。(笑)

 訓練したのではなく、たまたまそうなりました。年をとってから、外のたくさんの犬に殺されました。犬に関しては、他の人のように勉強したことはありません。犬は高価なので、私の仕方では遊べません。私は普通のご飯を食べさせました。シェパードにも普通のご飯を食べさせ、肉も骨もありませんでした。

問 : 先生。木や花はどのように遊びましたか。

答 : 本気になったことはありません。篭に入れた蘭を二本育てたことがあります。木のクティに住んでいた時、ひさしの下に蘭の木を吊るしました。チエンマイに一回行くと一本持って来て、何回もなので何本にもなりました。ある時、チャオラーチャパーキナイチエンマイが、バンダコエルレアを記念に一本持って行ってくれと言いました。余所ではいっぱい枯れているのに、今でもあります。

 チエンマイの蘭を南部で育てることもできるということです。テウダーのように、適当な場所に吊るしてなり行きのままに栽培しても、何も問題はありません。

 チャオクンプロットラーチャスピンの家は、最高にいいベニウチワの宝庫で、行くたびに一本くれました。私は一本だけ、ベニウチワでも蘭でも、一度に一本は受け入れました。今はあまり見掛けません。花は大きいです。チャヤーラーム寺に置きましたが、全部盗まれました。

 興味をもって蘭のテキストで勉強したので、私がチャイヤーの花と見なしているバンダという蘭を沼地で見つけ、その結果今では、クルンテープの人がみんな持って行ってしまいました。貨車に積んで運びました。私が紹介して、だんだん知られるようになり、クルンテープの良い愛好者が来て全部持って行きました。

 タイ語の蘭のテキストは、クロムプラナコンサワン版が、一番詳しくて正しいです。大きな本で、ピエンさんが持って来てくれました。他に、あちこちの本や、農業新聞などです。プムリエンのスアンモークにいた時、ワーイタモーイという蔓性の蘭をお寺の横の森で集めて、一列に植えたことがありました。

 白い花を木に貼りつけ(寄生させ)、お寺の自然にしました。今はあまり見掛けません。多分残っていると思います。ワーイタモーイ。白い花で、国中同時に開花します。私が見た限りではどの町も、どの郡も、どの県も。(笑) 南部は、南部一帯は、年二回咲きます。

 他の木も、多少勉強しましたが、植物学というほどではありません。薬などを有益に使う方の勉強で、高価な木、安い木、フタバガキ科の木、ゴムの木などはどうか、一般的なことを勉強して、木を良く知って騙されないようにするためです。

問 : 先生。それではラジオはどのように楽しまれましたか。

答 : ラジオは聞いて楽しむだけで、組み立てませんでした。チャヤーラーム寺にいた頃は、ラジオをつけて、クティの周りで聞きたい人に聞かせました。当時はまだ、ラジオをもっている人はあまりいませんでした。それに戦時中は、市場で電池を売っていないので、持っている人も聞くのを止めていました。

 私は降参しないで、アンモニウムクロライドのある温泉水を小さなカップに入れて、懐中電灯の使い終わった電池の外側を剥いて捨ててしまい、芯を包んでいる中身だけにしてカップの中に入れ、それから亜鉛を一欠け落とし、そうしてこのカップからあのカップへと、必要なボルトになるまで繰り返しました。

 大きなトラックも、電池がない時代には、ラジオを点けるのに使えました。人は連れだって聞きに来ました。特にニュースを記録する任務の公務員が聞きに来て、急ぎの命令のある時はメモしました。

 後で温泉の水を顕微鏡で検査したことがあります。砂糖水状になるまで煮詰めて、顕微鏡で見ると、正方形の結晶が一番多く見え、これがソルジニウムクロライド、普通の塩です。次に多いのが筒状の結晶で、Leclanche Cellという方式の電池で、亜鉛を腐食させるために必要なアンモニウムクロライドです。

 その次に多いのはポルテスシウムクロライドで、紡錘形の結晶ですが、水中にあって誰も取り出す智恵のある人はいません。分離できれば高く売れるので大金持ちになれます。

問 : 先生。温泉水にそれらの成分があると、どうして分かったのですか。

答 : プラクルー・ソーポン(イアム)の考えと合せて見ると、水の中にそれらがあるに違いないから、試してみるべきだという考えが生まれたので、いろいろ試してみて、できたので、有益に使えました。でも人が使っているアンモニウムクロライドのように良い結果にはなりません。塩が混じっているので亜鉛の腐食が早いですが、ないよりマシでした。

 多少大変な思いをして、亜鉛をしょっちゅう取り替えました。推測で使ってみたら何とか使えるので、その後サマック ブラーワートさんが訪ねて来たのでこの話をすると、アンモニウムクロライドと分かりました。そして他の結晶も教えてくれたので、全種類を知ることができました。

 私が住民に、電池が終わっても捨てる必要はないと言うと、使用済みを持っている人が持って来てくれました。使用済みの電池で礼を言い(笑)、ビールの小瓶で礼を言って、それを切ってカップを作りました。

 ビンを切る時は、機械油のような濃い油を切りたい所まで入れて、瓶の口に入る大きさの鉄を真っ赤に焼いて水位の所に触れると、上が熱くなり、下は油で守られて熱くならないので、一部が膨張し、一部が膨張しないので、キレイに分かれます。鉄の先だけを赤く焼いて、急いで瓶に入れ、油に触れるとビンは二つになります。

 短い時間でたくさんできました。プラクルーソーポン イアムが方法を教えてくれました。他の方法も教えてくれましたが、この方法が一番だったので、この方法でコップを切ったり、ビンを切ったりしました。

問 : 先生。無線機もあったと聞きましたが、ご自分で作られたのですか。

答 : チャルーンさん、プラ・チャルーンはアマチュア無線の愛好家で、自分の機械を知りたがり、組み立てたがりました。私は、あまり強くしないよう、傍から分かるようにして警察に捕まらないよう禁止するだけでしたが、誰も捕まえに来ませんでした。

 チャルーンさんは本で知識を得て、普通のラジオに何種類か部品を足して、発信機の原理で小さいのを作って、お寺内での送信機にしました。本気で作ったのではありません。時々しました。違法だと知っていました。

 その後の時代にピロムが強くしたのは、市場まで聞こえました。市場にある機械まで届いたので、私は「駄目」「そのうち面倒な問題が起こる」と言いました。休み休み、ほとんどは夕方送信し、テープを送信して、清信女区域で受信し、時には食堂での講義を送ったこともあります。清信女は食堂へ来なくても、家で聞くことができました。小さなことを試して遊んだのであって、本気ではありません。

問 : 先生。次に旅行について話してください。先生は旅行をたくさんなさったようですが、一九三五年から「佛教」に書かれている、タイの南端の地域へ旅したのが最初ですか。

答 : 一度に旅したのではありません。旅行のように県外の会議に行ったこともあり、史跡の勉強に行ったこともあり、町の様子を見に行ったこともあります。前に話したように、説法に招聘されたからです。

 最南端に行った時は用事で、クリンさんの案内で説法行脚をしました。このクリンさんは、工事の手伝いをしたクリンさんとは別人です。このクリンさんはナラティワートに住んでいる弁護士で、「佛教」を読んで法施会を知り、出家させてくださいと言って来て、出家する前に、ヤラー、ニラーワートを救う説教に招聘させてくださいと言いました。

 この時はトゥムパットで汽車に乗るためにちょっとマレーシア領に入りました。その時は簡単で、何か知りませんが、国境を越えるのにパスポートがなくても、出入りを許可されました。

 ナラティワートで、何か所も説法をして、それからラヤーを通って、誰さんだったか名前は忘れましたが、ゴム園の中に小さな製材所を持っている人が、ヤラーの説法に招聘しました。説法する人も聞く人も往生したと言います。聴衆は聞いて意味が分からず、説法師も初めてで、この種の人に話したことがないので話し方を知らず、訳が分からずに座っていました。

 クランタンへ行ったのは、タイ人の集落を訪ねるためでした。タイ人の集落にはお寺があり、住職のチェームさんがいて、彼は何か本を送ってほしいと言いました。それで私は佛教新聞に、南のタイ人仏教徒の暮らしぶりと、どんな支援を望んでいるかを紹介し、もし物を送るなら、こことここへ送るようにという記事を書きました。

 ただの観光はあまりなく、大抵用事を先にしました。前に話した南部一帯の説法行脚のように、タンマの布教に行って、ついでに観光しました。外国なら観光と言えるかもしれません。インドなどは観光旅行、ビルマも観光旅行でした。ビルマも旅行と言わなければなりません。一部は任務をするためで、ほとんどは観光でした。タイ国内は、観光目的の旅行はないように見えます。

 紀行詩を書いたロップリー行きは、クルンテープに滞在していて、日帰りで、古い王都であるロップリーを見に行きました。チャオクンラップリーの希望でした。アーチャンサンヤーが見に行くべきだと言いました。サラブリーで仏足石を見て、ロップリーへ着いたら古い宮殿を見て、動物園を見て、カオワンプラチャンを見に行きましたが、遠かったです。いろんな知識を得たのは少しで、観光も結果は少なかったです。

 スコータイは歴史の勉強のように見に行きました。パンヤーさんが説法に行ったので、ついて行って史跡を見ました。アユタヤーはスアンモークを作る土地を探しに行った時に、見に行きました。チャオクンピモンタムが、その時はまだプラ・シースタムで、お話したように、あちこち見に連れて行ったので、何か所か見ました。

 バーンパインも行ったことがあり、ウッタラディットにも行ったことがあり、シーサッチャナーライも行きました。行く前には、読めるだけ読みました。ウッタラディットには、チャイヤー出身で公務員になった知人がいて、案内をしました。

 ペッチャブリーは、プレーム タンマラックさんが来てほしいと言いました。佛教新聞で知り合いました。ほとんどの人は佛教新聞を通して知り合った人ばかりです。それから関係ができて、今のように拡大しました。これは佛教新聞の大きな利益です。

 しかし私は、全県を旅してはいません。東北は、ナコンラーチャシーマー以外は行ったことがなく、それにあまり見る時間がありませんでした。案内者任せで史跡を見に行きました。他のことは思い出せません。

 チエンマイは憶えきれないほど観光し、ほとんどの所へ連れて行ってもらいました。どの郡もと言います。こういうことは良く憶えられません。今日観光に連れて行き、翌日はまた違う郡に行き、全郡回りました。全郡と見なすことができますが、メーホンソーンの範囲は、メーサリエンは行きましたが、メーホンソーンの町までは行っていません。

 案内者のほとんどはチャオチューンの仲間で、子のこともあり、孫のこともあり、チャオチューン自身のことも、プラニーさんのことありました。プラニーさんは北の方へ連れて行くことが多く、スアンチャー(チエンダーオ郡)ゲーンパント、フアイタートへ行きました。スンアチャーに泊まったこともあります。お話したことがあるように思います。

 プラシット プムチューシーさんのもので、一番大きなスアンチャーです。虫に刺されました。向こうでは何と呼ぶのか知りませんが南部ではブンと呼びます。ブヨに似ていますがもっと大きく、刺されると問題です。その日はちょっと痕になり、翌日は丸くなって、赤から紫色の丘に変わり、それから黒くなって、何日も、ほとんど十日くらいして消えました。

 フアイタートの隣はラフ(種族の名。ムス族)で、プラシットさんの従業員にもいました。プラシットさんが、お寺を作ってラフを救うよう勧めました(笑)が、それはできません。彼らの言葉を話せませんから。

問 : 先生。それではサムイ島への旅行はどうでしたか。

答 : 他の地方の人がスアンモークを訪れると、ほとんどがその後サムイ島へ遊びに行くので、一緒に行ったこともあります。チャオチューンさんのグループ、プラニーさんのグループなどのように、仲間内で行ったのも多く、サムイ島やアーントーンの島々を案内したことがあります。プラニーさんは二三回行ったようです。何という船か忘れましたが、船を二艘借りました。昔はすぐ名前が口から出ました。

 一昼夜二百三十バーツで、船に三十人寝られました。サムイ島まで定期船で行き、サムイ島で借りて、それでアーントーンの島々へ行って泊まりました。船の中で寝る人もいたし、陸へ上がって寝る人もいました。綺麗な写真をたくさん撮りました。

 夜が明けると尾長舟に乗って小さな島の間へ遊びに行きました。朝はたいてい日差しが強くないので、写真がすごく綺麗です。その時のスライドは全部カビで腐食しました。

 ラビンさんが一緒に行ったこともありますが、プラニーさんの時ではありません。スラックさんも行き、アンカーンさんも一緒に行き、テーン島のタウィー村長が船を探してくれました。スラックさんは船に酔いやすく、誰よりも早く酔いました。(笑)

問 : カーンチャナブリーに行かれたことはありますか。

答 : 行きました。製紙工場を見に行って、ついでにあちこち観光しました。公務員を退職した恩給暮らしの何とかさんは、最高に関心のある佛教の購読者で、この人は競って遊びに連れて行ってくれ、彼からいろいろ便宜を受けました。

 製紙工場は許可を取らなければなりませんが、彼はその必要はないと言い、押しかけで行き、そこの人はみな彼に従いました。彼はそこの年長者でした。ああ思い出しました。クンカンラヤーです。ヌア寺、タイ寺を見に行き、ヌア寺に泊まりました。住職が非常に丁重で、菩薩堂に泊まるのは非常に面倒でした。丁重にすると非常に面倒でした。

 パープケーも行ったことがあります。チャオクンラップリー、チャムナーンさんが連れて行き、何人もで行きました。帆布のイスを持って行って広げて、座ったり横になったりしてお喋りをし、泊まらずに日帰りしました。サラブリーくらいはクルンテープ(バンコクのこと)から近いです。今、植物園になっていると聞きました。

問 : 先生。これらの旅行に行かれて、何を得たと思われますか。

答 : 考えません。一時楽しいだけです。結局行かなくてもいいです。だから今は行きたくありません。

問 : 行きたくないのですか。それとも行けないのですか。

答 : 行きたくありません。頑固に頑張れば行けます。外国にも行けますが、行きたくありません。行く前に厭きています。行くと、「来なくても良かった」という気持ちになります。ほとんどどこでも、厭き厭きしました。外国へ行くのはもっと嫌です。結果は、忙しさに見合う価値がありません。

 現代のこのような発展は、私には結果がありません。昔は珍しい物を見たいと思いましたが、今は珍しい物がなく、全部同じです。だから行きたくなくなりました。自然を楽しむのも、あまり行きたくありません。寝たいです。寝て本を読み、寝て考え、寝て何かを思いたいです。

問 : 先生。もし今、何もする必要がなかったら、先生はイライラなさいますか。

答 : イライラしません。自然に眠ります。イライラするのは、何か求めて得られないからで、今は何が欲しいのか分かりません。

問 : 先生。もし土曜法話がなく、誰とも話す必要がなく、お客も迎える必要がなかったら、暮せますか。

答 : 珍しい本、読んだことがない本を読んで暮らせると思います。でも最後には、見合わないと知ります。目が痛くなります。今は何でも読めます。昔の小学校一年生の教科書でも読めます。読んで楽しいです。でも、その本を読まなければならないと言うほどではありません。ここに山に積んである本の中には、手に入れたきり読んでない本もあります。

問 : 先生。本も読めないほどだったら、何もしないでいられますか。

答 : 前もって考えています。もし目が見えなくなったらどうしようかと。多分楽しいです。きっと変わったことを考えて、他の人に声を録音してもらえば、利益があるかもしれません。憂鬱なほど寂しくはないでしょう。

 心を集中させます。珍しい考えがまだたくさんあります。どうすれば世界が平和に関して合意できるかという問題は、いつも私の心に住み着いている問題です。ふさわしい時が来れば、答が出てくるかもしれません。

 今の、老いた時の玩具は、このようです。何か変わった考え、難しい、新しい考えです。(笑)




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