8 支援者団体と知己





問 : 先生。これから、先生のいろんなお知り合いについてお話しください。特にスアンモークと法施会の事業を支援した人について。

答 : 仕事の支援者は何人もいないので、どう話していいか分かりません。(笑) 支援者に頼らなければならない大きな問題、お金の面の支援について話すなら、チョロチョロと途切れずにあり、初期に本気で頼みごとを聞いてくれ、支援したのは、チャオクンラップリーです。願いを聞き入れる決意のある一人で、「欲しいだけ」と言えるくらいでした。初期には、その他にここまでする人はいませんでした。

 その後、お分かりのようにだんだん増えました。名前を挙げて宣伝するのも良くありません。恥ずかしがるし、憶えていなので、言うと間違いだらけになります。忘れてしまって、定かではません。心で応援してくれた人について言えば、非常にたくさんです。疲れも厭わず労力で奉仕してくれた人たちも、多くはありませんが一部にはいます。説明しても利益はありません。(笑) 非常に差があります。

問 : 先生。重要な方だけで結構です。

答 : チャオチューン(シローロット)さんなどは、まだお寺が貧しかった頃から、タンマ堂を建てる支援をしてくれました。サオシーさんも映画館を建てる時に、最高に力を注いでくれ、本の印刷を助けてくれた人は数え切れません。本に名前が公表してあるので、自分で調べてください。全部では何人もいます。住民は食費や水道代、電気代などの生活費、配る本の印刷費などを助けてくれました。

 要するに、こういう話はごく当たり前のことです。何としても知性の面の仕事が維持できれば、自然に、知性の光を増やす方へ針が向くので、これらの人の支援には利益があり、あるいは徳になります。私たちが何もしないで、ただ支援を受けるだけなら、私は公正でなく、明かりで照らせば正しく、公正と感じます。関わった人すべてが、いつの時代も助け合いました。

 チャムナーン(ループラスード)さんなどは、非常に支援し、非常に努力し、非常に疲れました。今は病気で体の自由が利きません。お金も、交通費の支援をして、あちこちへ連れて行ってくれ、仕事で必要な連絡を取ってくれました。人々がハヌマーン奉仕(ラーマヤナのハヌマーンのような大活躍という意味)と言うように、「何でも」と言うことができます。交通費を支援して、どこにでも連れて行ってくれました。

 自分の得意なことで支援してくれた人はたくさんいます。合わせれば、危機を脱せるだけのもの、あるいは仕事ができるだけのものが全部揃いました。あの面この面の支援ができる人との出合いがだんだん増えて、何も不自由しなくなったということです。

 たくさんの名前を挙げるより、こう言う方がいいです。中には名前を出されたくない人もいます。純粋に徳を積みたいので、仏像の前側に金箔を貼るより、仏像の裏側に金箔を貼る方が徳があると捉えるので(笑)、名前や顔を出したがりません。私は本当にそうして、ほとんど持ち上げず、公表も称賛もしません。名札を貼って宣伝しません。

 「何か建てたい」と言って来る人がいれば建てるだけ、名前は公表しません。ほとんど名前を貼りません。あるのはうっかりしたので、何も重要ではありません。面白いと思って貼りました。

 映画館などは、サーリー大佐の名前を貼るべきですが貼りません。小さな船にはトーンディー イサラクンさんの名前が貼ってあります。彼は一人で出したいと言って、二十万バーツ出しました。ヌアンさんは大きな舟の四五十万バーツを出しましたが、名前は貼ってありません。タクアパーの方の人で、今はもう亡くなり、子供たちはまだ来ます。

問 : ヌアンさんは先生とどのように知り合ったのですか。

答 : (笑)他の人と同じに、噂を聞いて本を読んで来て、一回来て気に入ったので、それからずっと、何年も来ました。知り合った時はどうだったか憶えていません。思い出せません。でも他の一般の人と同じだったと言っておきます。ここへ行って来た話を聞かせる人がいたので、来て見たくなりました。

 お金のことは、誰でも多少は支援している、と言うことができます。物質的には何もしなくても、便宜を図ってくれた人もたくさんいます。励まし、心配し、発展を願ってくれた人も多いです。(笑) 

問 : 気力面で重要な方はどなたですか。

答 : 名前は言いません。(笑) 名前を言うと困ったことになるので、いるのが当たり前と思ってください。普通は必ずそうです。誰もが知っていて、ハッキリ名前を言えるのは、チャオクンラップリーで、何でも助けました。

 古いスアンモークで知り合った頃(1938年)、あの方が本を買う時は、必ず二冊買って一冊私にくれました。何年もそうしていました。クリシュナムルティの本、セン ウィウェーグナンタの本、チュアンチュアの本もたくさんありました。こうしたのは、質問する時に便利だったからです。質問するには良く知っておかなければならないので、一冊ずつ持って読んでおくのは便利でした。

 手紙で話したこともあります。そして、クルンテープへ行くとたくさん話しました。(笑) 面白い話をしました。一緒に車に乗って行って、チュラーロンコン大王騎馬像広場に止め(笑)、静かでいいので、夜中のこともありました。男女で出掛けて行って話すみたいですが、私たちはタンマの話をしました。

問 : 先生。チャオクンラップリーは本気でタンマの実践をしましたか。それとも知的な興味だけでしたか。

答 : あの方は、力の限りタンマを実践する努力をしていたと言うことができます。タンマに対して誠実で、公正で、率直な性格で、勇猛果敢で、あまり笑いませんでした。部下や事務員や職員は畏敬していました。誰にも微笑みかけることはなく、ユーモア感覚はとても少しで、めったにありません。知的な興味は確実です。念処・ヴィパッサナーができないで、知的な勉強が基本だったからです。

問 : 話す時、先生と見解が一致しない点はありましたか。

答 : 思い出せません。違う考えを言い合ったことがあるような気がしますが、何の話か思い出せません。

問 : 先生。それでは、先生を南部地方全域に説教行脚に連れて行ったプラヤーアマルットタムロンを、先生の一人とおっしゃったことがありますが、どんな面ですか。

答 : 私が知らないいろんな話を聞かせてくれた点です。他の人では話せない話で、付き合っている間中、汽車に乗っている間も話して聞かせ、どこに泊まっても、いつでも話をしてくれました。個人的なことも、他のことも、非常にタンマが身についている考えを聞かせてくれました。

 時には私が書いた、あるいは言い間違ったタイ語を指摘することもありました。私が「喧しい」と言ったら、あの方は「今言ったのは、『賑々しい』という意味でなければなりません。それには悪い意味がなく、楽しくなければなりません。喧しいは悪い意味です」とこのように。

 ある時は、国が「食」の問題の顧問として招いた「食」の専門家である西洋人が、シンガポールから汽車に乗って来ると、線路の両側に田んぼが見えましたが、それが何かを知らないので、一緒に乗っている人に、あれは何か、と訊かなければならなかった、という話もありました。

 時にはルードさんなど、親しくからかい合うクルンテープの友達の話をしました。からかい合って仮定した話もありました。それで私は、これらの人たちがどのように進歩発展してきたのか、どんな考えや感覚でいるのか、どう勉強して今のようになったのかを知ることができました。後の時代には二度とあり得ません。何もかも変わってしまったからです。

 このタイプの人は、昔の時代の普通の人で、情緒や考えは、現代の若者と正反対です。彼ら(プラヤーアムルットタムロンなど昔の人)は慌てふためいて大騒ぎせず、自慢する考えはなく、自分の考えがあり、知ったかぶりをしないで、上品にからかうような楽しい会話をしました。

 プラヤーアムルットタムロンさん自身タンマに関心があり、タンマの学習者であり、簡単な念処をしていました。お世辞を言ったことがなく、素直で上品な考えでした。誠実で冷静で、温和で、堂々としている偉大な貴族の姿で、尊大でなく、礼儀にうるさくもなく、とてもユーモアがありました。ユーモア精神があり、笑いが好きで、いつも笑って楽しませることを話しました。昔の大人物の笑いです。

 政治面ではどちらの側にも付かず、非常に自分自身の立場があり、自分の側が正しいと見れば、どちらの側かを顔に出さない、昔の人の手本の一人でした。出家して学んだことがあり、常にタンマの勉強をしていました。三人の息子をここで出家させたことがあります。町の僧でなく、森の僧として出家させたいと望みました。

 この人たちの話をすると、自分を持ち上げているようで、自分を褒めているようで、私が自分の利益のために話している、そしてこういう話しかないと感じさせます。人に尊敬され、称賛されている人の話をすると、自分を持ち上げているのと同じです。

 もう一人いますが、名前を出しません。招聘して、ゲン担ぎのような古い信仰で、寝室で食事をするほどでした。私がいつクルンテープに行っても、いつでも「何を食べますか」と聞いて、世話をしました。私は言いませんが、いろんな系統のいろんな人からの弁当がありました。

 たくさんの人と、亡くなるまでいつでも連絡を取り合い、たいてい火葬には行きません。チャオクンラップリーの火葬も行きませんでした。彼は、火葬に行くよりずっと良いです。からかうように逝きました。何でもからかいました。

 ソムデットワットシリンの火葬にも行きませんでした。プラニーさんの火葬、チャムナーンさんのお母さんの火葬も行きませんでした。名誉を受けたくありません。名誉のある人になりたくありません。喪主は残念かも知れませんが、一人で亡くなった人の恩について考える方が、行って焼くよりいいです(註:名誉ある賓客が火葬の時点火する)。

 彼らの恩は非常に多く、火葬に十回行っても、彼らの愛や犠牲には見合いません。昔クルンテープで、二三人の火葬に行っただけです。

 トゥムさんの子、メープーンの火葬が一人。トゥムさんから、クルンテープで勉強をしている頃から、いつも恩を受けていたからです。そしてプラヤーアッタクロムナヌッティーの火葬に行きました。家が近くて、前にお話したように、子供の頃から親しくしていました。そして私が先生の一人と見なしているプラヤーアマルットの火葬は、日帰りしました。

問 : 先生。プラーニー(プムチューシー)さんは、先生の仕事をどの面で支援したのですか。

答 : 細々としたことです。チエンマイへ行った時など、何をしても、どこへ行っても、どんなことでも、彼がいつもスポンサーでした。(笑) 何を勉強するにも、誰と連絡するにも。「お寺に一日三回来た」と言います。

問 : かなり先生のお気持ちを良く知っているのですね。

答 : そりゃあ、知っていますよ。絶えず観察していますから。

問 : プラニーさんが亡くなったのは、働き過ぎですか。

答 : 働き過ぎ。仕事のしすぎです。売るのも製造も、何でも旦那の代わりにしました。彼女はチャオチューンと昔からの知り合いなので、それでスアンモークを知って、連絡して来て、人生の問題、仕事の問題を解決するためにタンマを勉強しました。彼女はチエンマイの富豪の一人で、一般の人に良く知られていました。古い人間同士で、チャオクンラップリーとも、とても親しかったです。

 私がチエンマイへ行く時約束して、チャオクンラップリーも一緒に行ったこともあります。町の中で泊るより特別にするために、スアンチャー(チエンダーオ郡ゲーンパンタオ)へ泊まりました。亡くなる前には、タンマを精いっぱい使う努力をしていたと理解しています。チエンマイの仏教社会に、勉強の面でも実践の面でも多少の変化を生じさせました。

問 : 先生。プラ・ドゥンラヤパーグスワマンは、どのように先生と知り合って、親しくなったのですか。スアンモークに近い人の一人と聞いています。

答 : どう知り合ったのか思い出せません。佛教新聞の方だと思います。あっちからスアンモークのことを知って、それで他にもスアンモークを作りたいと思い、私に一緒に考えてくださいと言ってきました。プラ・ドゥンラヤはナコンシータンマラートに作りたがりました。

 当時そこで役人をしていました。賛同する友達がたくさんいて、中心になって話しをまとめて、私に連絡してきました。そしてマハー・チュンと一緒になり、そしてお話したように、最後には挫折しました。

 しかしプラ・ドゥンラヤ自身は、常にスアンモークと連絡を取っていました。あの方はほとんどをソムデットワットテープに学んだようなもので、そして宗教の外の個人的な部分で尊敬していて、子や孫のように話して忠告でき、あの方の所で出家しました。本気でタンマの実践をした人の一人です。

 信仰で本気になって、念処もしました。善意でスアンモークを応援し、他の人に説明して宣伝し、お金の面でも、お金持ちでない人なりに助けてくれました。

問 : 先生。それではアーチャンサンヤー タンマサック(元最高裁長官。第16代首相)は先生の仕事をどのように支援したのですか。

答 : 食べること、あちこちに連れて行くこと、便宜を図ること全般です。私は気の毒に感じて、何が欲しいか知られないように努めました。そうしないと、観察して、飛び回って買って来てくれるからです。アーチャンサンヤーはお金持ちではありません。

問 : タンマの実践、タンマの理解の面はどうでしたか。

答 : 知的な話だけで、バーヴァナーの話はなく、社会の方を向いていました。自分自身のことをするより布教を目指し、社会のため、精いっぱい世界を支援するために奉仕し、時間を捧げました。

問 : 先生。それでは仏教協会の仕事の成果はありましたか。

答 : 私も知らないので答えられません。しかしそれなりの、しただけの結果はあったはずです。結果はなくはありませんよ。きっと幾つも形になったと思います。たとえばタンマの教育の形を整え、基礎固めをしました。教育振興目標にしたがって、しばらくアビダンマを教えたことで、たくさんの人がアビダンマを知りました。それも関わった人の知性や能力によってできました。しないよりマシと言います。(笑)

問 : 先生。それでは世界仏教徒連盟と関わりはありますか。

答 : いや、関わりはありません。しかしプーン夫人は個人的に知っていて、ここへ来たこともあります。

問 : アーチャンサンヤーが、公務の話を相談されたことはありますか。

答 : ありません。そういう話はありません。多分答えないだろうと、私の気持ちを良く知っているからです。

 総理大臣の職を引き受けなければならないことについて訊かれたことがあります。何のタンマを遵守するべきかと訊かれたことはあります。私は確信を持って答えました。あの時私は病気でシリラート病院に入院していたので、そこへ訪ねて来て、入院中にお喋りをしました。

 私は自信をもって「菩薩のタンマ、純潔、智慧、慈、忍耐(笑)」と答えました。サンヤーさんはメモして、ウドム医師もメモしました。理解できれば善く使うことができます。意味が非常に善いです。純潔で正直で、そして智慧があり、油断せず、慈悲があり、そして最初に忍耐できます。どんなに大物になっても、大物になった分だけ偉大な忍耐がなければなりません。

問 : 個人的にとても親しかったのですね。最初から親しく支援してくれたグループの一人ですね。

答 : そういうことです。でも「とても」という言葉は正しくありません。いつも心に掛け、可能な限り支援してくれたと言います。

問 : 先生。それでリアップさん、リアムさんはどうですか。

答 : 知り合った時からお金や何やら援けてくれました。チャムナーンさんから連絡したと思います。

問 : 先生。このグループの人は、本気でタンマに関心がありましたか。それともお金の面の支援だけですか。

答 : 個人的にタンマにも関心を持つよう努めていました。しかしできるだけしかできません。布教のためのお金のことは、力に応じて支援しました。

問 : チャムナーンさんなどは、それほど高いタンマの実践はしなかったのでしょうね。

答 : まあ、彼としては精いっぱい。

問 : 念処はしましたか。

答 : え? 君、自分は進歩的だと慢心し、その上他人の人間性を尊重しませんね。そういう訊き方は人権侵害ですよ。

答 : 私は先生とスアンモークの歴史を勉強する、後世の人の利益になるように考えました。先生の周辺の人がどんな人かを知ることができ、少なくとも先生の視点で見ることができます。最近「周辺には話にならない人もいた」と言うのを聞いたので、私は歴史に厳しい秘書の義務をしているだけです。

答 : (笑) チャムナーンさんは、彼の仕方で念処をし、ヨガも太極拳もし、簡単なアーナーパーナサティをしました。空の話に非常に関心のあった人の一人です。

 「ユシー」「ユーシー」と唱えているほどです。中国語で「あるがまま」という意味で、タタター(真如)の訳語です。本当の中身は空で、彼は憶えて使っていました。実践の結果は、多いと見なします。たとえば病気の時を「非常に良い」と見なしたので、苦や恐怖はなく、死を嘲笑っている状態が十分ありました。

 今は病気がとても悪くなっていると聞きました。奥さんのイムさんが先に亡くなって、遺体を病院へ献体して、何も儀式はしません。イムさんはたくさんタンマを憶えていて、非常に深く緻密に理解していましたが、女性だったので、堅固な物にすることはできませんでした。

問 : 先生。それではチャオチューンは、どんな段階のタンマを理解していましたか。

答 : 概略のような、概要のようなタンマを理解していて、あまり念処をする時間はありませんでした。幾つかの言葉を憶えて信条にし、原則にし、そしてそうなるようにしました。しかしまだ物質を創るのが好きな病気に非常に支配されていたので、今軽くするようにお願いしています。

問 : 先生。これらの人たちが来たことで、慈悲深い富豪と資本家を分けたのですか。

答 : この人たちのことを言ったのではありませんが、この人たちは、悪質な資本家でない富豪もいることを見せてくれました。つまり何も掻き集めず、集めるなら正しい方法でします。あるいは集めた物で、援けるべき人を援けます。慈悲深い富豪の話は、教典の話で、ブッダの時代にはたくさんいました。

問 : 先生。ペッチャブリーとラーチャブリーから来た清信女の人たちは、先生のどんな仕事を支援しましたか。

答 : 彼女たちは何でも手伝いました。お土産をくれたこともあります。ペッチャブリーのタムクレーブから来たワートさんは、カティンを手伝い、カティンに来た人に振る舞う料理を作りました。彼女はこういうことが得意です。他に今、印刷するためにテープの文字起こしを手伝っています。この面で私の仕事を軽くしてくれる人もいます。

 ワートさんはタムクラーブの施設にいましたが、チーを管理する人ではなく、他に厳しく管理する管理者がいました。彼女は資金面で支援していました。募金して、あるいは寄付されたお金を集めて基金にし、利息を使って、元金を使うことがあったかどうかは知りませんが、定期的に全員に配っていました。お寺の維持もし、月に十日は募金をしていました。クルンテープででもです。リアップさんとリアムさんも、絶えず手伝っています。

 タンマの理解も使い物になり、いろんな時代のたくさんのアーチャンのテープをいつも聞いています。判事研修講義のテープを、ワートさんは全巻聞きました。彼女がテープ代を出してコピーした物を、メーチー何人もで毎日聞きます。一日一本。善い知識があると言います。

 ナックタム一級のメーチーばかりです。学校の先生をしていたことがあるモンター セーンソンブーンさんは、ワートさんと一緒に住んで、テープの文字起こしを手伝いました。今はしません。休んでいます。

 ラーチャブリーの方は、キー ナーナーヨンさんが、自分の知性の限り、精いっぱい布教に協力してくれました。本当のタンマの知識が欲しい人で、連絡し合っている間は、何もかもタンマのためでした。

 お金を集めて予備の資金にしてから、カオスアンルアンに施設を作りました。家を出てから話をし、相談に来ました。彼女は果敢で死を恐れず、リーダー的資質があり、自分たちで管理する女性のための施設を作ろうと考え、考えた通りに実現しました。弟子として付いてくる人が増えています。

 タンマの理解は彼女式で、あまり緻密ではありません。当てずっぽうで、一つのことだけを話し、でも非常にお喋りで非常に強調し、骨に届くまで繰り返します。それに従って実践すれば、滅苦ができます。強調して話すのは、私が話した論理だけです。つまりこれらの人にも、それなりに利益があります。

問 : 先生。キーさんは、初めてはどう連絡して来たのですか。

答 : 古いスアンモークにいた頃から、彼女は佛教新聞を読んで良く勉強し、それから私に会いに来たので、在家の家に泊まり、昼は池の畔のクティの下で話しました。話すことは、彼女が勉強してきた第一義諦の話で、理解するために質問しました。だから特別な女性と見なさなければなりません。(笑) 

 結婚せず、妹も結婚しないで施設の仕事をしていて、キーさんが亡くなった後、訪ねて来ました。少しも苦があるようには見えず、タンマの学生のように来ました。彼女は詩を書きたいと思っていましたが、書いたことがないので、私が手紙で教え、当時の佛教新聞に何編も載せました。

 彼女が来てお喋りをしたある時、その池で鼠が蛇を追っているのを見ました。池の縁を囲っている木の杭の穴にネズミが入っていると、大きな蛇が穴へ入ろうとし、ネズミは蛇を遠くへ追い払いました。ネズミが穴に戻ると、蛇がまた入ろうとするので、ネズミがまた追い払います。そんなことを二三度していました。(笑) 

 キーさんは目を見張って見ていました。幸運の兆しを信じなくても、信じなければなりません。カビラ仙人の住まいだったカビラバスツの都のように、トラがシカを追い詰めれば、反対にシカもトラに立ち向かい、蛇がカエルを追い詰めれば、カエルも蛇を追い払います。

 しかし私たちが見たのはカエルではなく、木の穴に逃げ込んだネズミでした。(笑) 今でもその杭はあり、池の縁を囲っていますが、穴は塞がってしまったかもしれません。古い菩薩堂の柱を壊して持って来たきれいな木でしたが、長い間に腐食して、ネズミが入れる穴ができました。

問 : 先生。最後の質問は、先生を知っている作家や新聞記者についてで、初めに知りたいのは、ウィラート マニーワットさんはどのようにして先生との関係ができたのですか。

答 : 憶えていません。ウィラートさんについて思い出せません。初めはチュラー(チュラーロンコン大学)で新聞の編集長をしていて、私の記事を載せたいと言って来たようです。それが初めてかもしれません。私はタンマか何かの話を書いてやりました。タンマの意味を二三十、考えられるいろんな角度から説明しました。

 卒業してから佛教新聞を購読したので、私のことを良く知り、彼は時々スアンモークのことを「風と陽光」のコラムに書いたので、スアンモークを知る人がたくさん増えました。好きなように、得意なように書きました。

 一度ボロマタムの本を紹介してくれたことがあり、在庫がすっかり売り切れました。(笑) 少なくとも彼は同郷と見なさなければなりません。彼はチャイヤー生まれです。会う時も、あまりタンマの会話ではありません。自分で読む方がいいと捉えているからです。時々私を訪問して来ます。最近も一度来ました。と言っても何年も前です。

問 : 先生。ウィラートさんは、スアンモークを読者に紹介するような書き方をする、たった一人の新聞記者ですね。他にもいますか。

答 : クラーブ サーイプラディットさんも書いたことがあります。その後はナワラット ポンパイブーンがいます。私が仏教協会でいつも話していた頃、クラーブさんが、彼が編集長をしている新聞に時々書きました。何という新聞だったか思い出せません。ブッダタムシリーズの話をしに行く度に、毎回要約を載せていたようで、それからスアンモークに来ました。

 ウィラート マニーワットさんと来て、いろんな会話をしました。しかし教えの話は、彼はタンマの実践を探求に来ましたが、私は教えず、直接実践の提言をしませんでした。時間がなかったからです。一日二日では足りないので、「阿羅漢の後を追って」などの本を探して読むように言いました。

 当時もその本を読むことができました。クラーブさんは利益があるタンマを選ぶことができ、自分の生活に使えると言えますが、お寺にいる人のように勉強せず、庶民のように勉強しました。お寺にいる人は形式的にいろんな教えを暗記し、庶民は自由に勉強します。

 チャオクンラップリーもそうで、クラーブさんもチャオクンラップリーのように勉強しました。英語のも読み、外国の仏教雑誌を定期購読しました。彼はチャオクンサーパイを連れて来ると言って、来ませんでした。クルンテープで二三人一緒に会ったようです。

 その時プラヤーサーパイは、きっと権力にうんざりしていて、誰かが「威力は世界の重大事」というブッダの言葉を聞かせました。これらの人はブッダがそう言われたと信じなかったので、私に答えさせようと質問しました。私は、ブッダが言われた意味は、銃の威力や何かでなく、銃を使う原因である(笑)煩悩の威力という意味だと答えました。

問 : 先生。S.タンマヨットはどうですか。

答 : スラータニーで一度会ったことがあります。出家していたチャオカナマハーカセームブンシーの一行について来て、私とタンマの話をしようとしましたが、時間がありませんでした。聞いてみると変わっています。以前書いた物を佛教新聞に投稿してきましたが、佛教新聞の読者の趣味に合わないと理解して、載せなかったことがありました。私はS,タンマヨットさんと関わったことで利益を得たことはありません。珍しい言葉を幾つか聞いた以外には。

問 : 先生。それではアーチャンスラックはどうですか。

答 : たぶん初めて会ったのは、トーンノップクン寺だと思います。チャオクンパッタローンの火葬の前か、あるいはそれ以前に会ったかも知れません。スラックさんは私を良く知っていると感じました。もしかしたらいろんな本を読んでいたかもしれません。彼が私を、チュラーの先生たちと会話しに連れて行ったことがあり、それらの先生たちが私を認めようとしなかったことだけは、まだ憶えています。

 スラックさんは理解させようと、理解を変えさせようと努力しましたができませんでした。お互いに反対方向から見ていました。後で一緒に島へ遊びに行きました。ラビンさんに誘われたようですが、良く憶えていません。今はぼやけてしまいました。いろんな記憶が、みなぼやけました。きっと、もっとそうなります。

問 : 先生の人生と仕事について書いた人を三人見ました。チット ピバーンテーンさん、アルン ウェーチャスワンさん、サンパン コーンサムットさん。これらの人は先生をどのように知ったのですか。

答 : 彼らはここにいました。チットは出家してここに一雨安居の間住んでいました。彼はプッタニコム学校の先生で、後で退職してクルンテープへ行きました。アルンさんはこの町の人で、家はパークトーのチャヤーラーム寺の裏にあり、ここで出家しませんでしたが、彼は故郷が同じと見なして、故郷を復興させると見なしています。彼はまだ僧の時からこのように発展した仕事をしていました。

 サンパンはサムイ島の人で、ポーティさんが連れて来ました。絵を描く才能があったので、映画館の縁起の絵を書いてもらいました。

問 : 先生。サンパンさんが書いた本に、先生がアーチャンプリディー パノムヨン(元首相。タンマサート大学の創設者)と三日続けて会話をしたとありました。先生はどのように知り合ったのですか。すみませんがお話しください。

答 : この県から出た国会議員ウティ スアンナラックが突然、「プリーディーさんが、アユタヤーにスアンモークを作る土地を探しに行ってもらいたいと言っている」と言ったので、ターチャーンのお屋敷に相談に乗りに行って、宗教の話、仏教の布教の仕方の相談に乗り、仏教の歌を作る相談をしました。

 あの方はベンチャマ寺にいるマハー・ヤーンという名のマハーパリエン九段の僧が、パーリ語に関して相談や奉仕をしていました。行って喋ったのは三日もではありません。あの方は、連絡のために三回お呼びになりました。

 その後アユタヤーに見に行きましたが、そこは狭すぎて、ふさわしい土地が見つかりませんでした。その時チャオクンピモンタムも一緒に行きました。あの方はまだプラ・ピモンではなく、アユタヤーを監督する仕事をしていました。ふさわしい場所はありませんでした。プーカオトーン寺は広くていいのですが、洪水になるので作れません。作れる条件でなかったので、その後プリーディーさんは、止めました。

問 : プリーディーさんは、タンマを良く理解していましたか。

答 : 書かれたいろんな本で調べてください。私は直接タンマの話はしませんでした。むしろ布教の方法を話しました。あの方はスアンモークを何箇所も作りたいようで、布教の仕方を改善して、確実な成果が出るようにする方法について話しました。あの方は純粋な気持ちで宗教に期待していたようです。

問 : 先生。純粋な気持ちと言われるのは、何を見てですか。

答 : 話をして見てですよ。表明した望みを見て。きっと宗教を根拠にし、有名にする役に立ちたいと望んだのでしょう。でもできませんでした。

問 : 先生。サンパンさんの本には、先生が仏教協会に話しに行かれる度に、プリーディーさんが聞きに来られたとありますが、そうですか。

答 : あり得ません。憶えているのは二回を超えません。ハッキリ憶えているのは、仏教と民主主義について話した時です。

問 : あの方が外国へ行かれた後も、連絡を取り合っていましたか。

答 : 直接は連絡はせず、パリへ行く人が訪ねて来た時に、本を託しただけです。その人が「何か預かって行く物はありますか」と聞いたようで、私は本の大きな包みを託しました。それからあの方から、「読むのにちょうど良かった、有難う」と返事がきました。

問 : 先生。地元の人で、いろんな労力を提供し、普通に僧に御馳走する以外に、先生の仕事を支援する人はいますか。

答 : それは、ほとんどないと言わなければなりません。考えてみてください。何の支援ができますか。(笑) 宗教の本を出す方の支援は、彼らにはできません。知識がありません。普通の支援、普通の近所の手伝いです。

 法律に従ってしなければならないことがあると、弁護士のピユ(プレームディッタ)さんが助けてくれました。彼の兄さんはカーンチャナディット郡の郡長で、拡声器を取り付けた舟で布教に行った時、バーンドーンからカーンチャナディット、カーンチャナディットからサムイ島まで舟を手配してくれた話をしたことがあります。

 ラオーン(セーンデート)さんは、いろんな来客がある時に、接待してくれました。ラオーンさんが迎えたスアンモークのお客は何人もいます。

 バーンドーンのチャムニエン(ラッタナミーシー)医師は、病気の時、医者として支援してくれました。すべて私の仕事に賛同する、善意の友人としての付き合いです。同じ土地の人間であり、同世代なので、支援できるどんな機会にも支援して、細々した便宜を図ってくれます。善意で、悪いことや起こりそうな被害に気をつけて、守ったり防いだりしてくれます。

 しかし善意の人の精いっぱいの支援以外に何でもないと言うことができます。ピユさんは私と同い年で、ラオーンさんは上で、チャムニエン医師は私より下で、プラクルー・ソーポン(イアム)の時代のプラタート寺の寺の子だったことがあります。

問 : 先生の人生で、友達づきあいの原則はありますか。

答 : (笑) 話せば尊大のようですが、私はあまり友達に助けを求めず、引き寄せて友達にしようとか、友達になってほしいと考えません。しかし向うが何か期待を表明すれば、こちらも喜んで考え、あるいはお付き合いをするので、あまり問題はなく、あまり失望はありません。

 それに私は、何か知りませんが、あまり他人に寄り掛からなければならないと考えません。あるいは人が何でもかんでも友達と見なしているような友達なら、友達に助けてもらわない方が良いと思います。何でも自力でする主義なので、友達と付き合う原則はどうか知りません。

 友達になって今日まで付き合って来た人は、少なくとも半分は、向こうが希望を提示(笑)した人で、私の記憶では、友達になるようにお願いしたことはなく、善い態度に、信頼できるように、他人の利益になるように努めたと思います。それです。それで私と付き合いたい人がいれば、連絡を取り合うよう努め、その結果友達になりました。

 私の尊大さは今もあり、誰かを友達にしたいと考えず、誰かに一方的に助けてもらいたいと思わないので、友達に迷惑を掛けずに、自分でできるだけのことをするよう努力します。しかしここで幸運なことに、あるいは偶然かも知れませんが、友達になって助けてくれる人が現れたので、友情が生まれました。

 そして友情に失望したことは一度もありません。何も期待しないからです。あなたも見たかもしれませんが、今でもあまりお付き合や、友達になる努力をしません。「友達を見つけなさいよ」と、人が忠告(笑)するほどです。

 関係を維持しておくなら、きっとすごくいっぱいいますが、お返ししきれず、憶えきれず、大混乱する恐れがあります。他の人がしているように友情を結べば、私はきっと友達がすごく多いと思うので、だから友情を維持する義務を果たせる力以上に、友達を持たないように管理しなければなりません。

 自慢しているのではありません。自然に、他人に助けてもらわなければならないことをしようと考えず、構想、あるいは計画は、すべて自分でできることにしています。私にどんな友達づきあの原則があるか、あなた自身で見てください。上手く言えません。(笑)

問 : 先生。ということは、親しい友人はいらっしゃらないですか。

答 : 親しいという言葉の意味が分かりません。愛し合っている友達はいます。愛し合っていて、代わりに死ねるような友達もいます。私に利益がある、価値があると見る人が、いないなんてことはありません。

問 : 先生。それは別です。利益になる面、宗教の仕事で付き合う友達とは違います。仕事には関わらないかもしれないけれど、よくお喋りをし、たくさん交流があり、何でも心の中を打ち明け合う友達とはまた別です。後者のタイプはいますか。

答 : 話し友達、相談する友達はあまりいません。私は傲慢すぎるからです。しかし関心がなくても友達がいて幸運と言います。説教に行っても友達ができ、タンマの話をする友達もいます。タンマの友達ではなく、反論する友達もいます。

問 : 先生。代わりに死ねる友達と先生がおっしゃるのは、どなたですか。

答 : 僧である友達で、一人例を上げれば、プラクルー・ストンです。あなたが調べてください。でも見るには遅いかもしれません。一人以上いますが話したくありません。自慢になるので言わない方がいいです。しかし何もお付き合いはありません。百パーセント心の友で十分です。外面はあまり関心がないように見えるかもしれません。(笑)

 今答えたのは、何の利益もないかもしれません。私は友達をもつ計画がなく、友達を必要としない計画があります。しかし向うが満足なら友達になります。あるいは友達でいます。面識がなくても友達である原則も多分ありますが、誰も認めない原則です。人々が一般に捉えている原則と違うからです。(笑)




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