7.サンガの公務と目上の僧





問 : 先生は一時期、サンガの公務を任命されたことがあると聞きました。その経緯をお話しいただけませんか。

答 : 短い期間でしたが、サンガの管理制度が民主主義に変わったことがありました。僧議会があり、僧首相がいて、五つの機関が運営し、私をスラータニー県の布教監督に任命する辞令が出ました。その後このことを知っているチャオクンカセーム ブンシーに会ったので、「何に任命したのですか。どうして前もって打診がなかったのですか。こういうのは良くないですよ」と言ったら大笑いして、「聞けば断るから打診せずに任命した」と言われました。

問 : 先生。県の布教という地位でどんなことをなさいましたか。

答 : 会議の時何かを話した以外には、何もしませんでした。中心は県にあり、チャオカナサンガーティカーンの研修をそこでしました。彼らに頼まれていろんな講義をし、郡僧長、村僧長、いろんな住職がそこで研修をしました。職権で部下を会議に招集したことはありません。(笑)

 その後地方レベルの会議に、地方僧長(プラ・サーソン ソーポンプロット)と行きました。あの方が私を、会議に招集できる地方布教部長(1949年)に任命しました。私は、人が招集した時に出席する以外には、何もしませんでした。何かを命じ企画する職権を使ったことはありません。アマチュアの職位です。(笑)

問 : 先生。それではいろんなサマナサック(王から賜わる栄誉名)やパッタヨット(階位を表す団扇)は、職位に関係ありますか。

答 : あまり関係ないように見えます。いろんな名誉名は、チャオクンサーソンソーポンがしてくれました。あの方は私を精いっぱい支援しました。プラクルーやチャオクンや戒師になったのもあの人のお陰です。あの方はラーチャーティワート寺にいて、地方僧長だったことがあり、その時プラタンマコーサーチャーンになりました。

問 : いろんな栄誉名は、どんな順に拝受されましたか。

答 : 自分で調べてください。(笑) 初めはプラ・グアムで、それからマハープラ・グアム(1930年)、そしてプラクルー・インタパンヨーチャン(1946年)、その後プラアリヤナンタムニ(1950年)、プララーチャチャイカウィー(1957年)、そして最後がプラテープウィスッティメーティー(1971年)。(笑)戒師になった時、ボロマタート寺の住職になり、そしてプラアリヤナンタムニーになったのは、ほぼ同じ時期のようです。

問 : 先生。先生は本気でサンガの仕事をなさらないのに、どうして彼らは、これらの階位をくれたのでしょう。

答 : 私にも分かりません。もしかしたら彼らが、スアンモークの仕事は社会に利益があると見なしたのかもしれません。公的正義かもしれません。こういうのを、彼らは特別な支援と見なしています。プラクルー・インタパンヨーチャンの時、こちらは請願をしませんでした。普通は職権のある地方の大物僧は何か請願しますが、私のは、上の大物の話でした。こっちも不思議で、県僧長は訳が分かりませんでした。

問 : 先生。いろんな団扇は、クルンテープへ貰いに行かれたのですか。

答 : プラクルーインタパンヨーの時は県まで貰いに行って、タンマユットの寺、タンマブーチャー寺で式をしました。プラクルーを受ける人が一人、チャオクンを受ける人が一人いました。その後クルンテープへ行かなければならなくなりましたが、病気だと言って行かないで、教育局に保管しておいて貰い、パットさんが行った時に、二回持って来て貰いました。

 最後はチャオクンパンヤーが持って来てくれました。病気というのは、姿勢を維持する神経が悪くて、集会で転んでは台無しにしてしまうからです。

問 : お祝いをなさいましたか。

答 : プラクルーになった時は彼ら全員で祝ってくれました。後になると私が貰いに行かないので、誰が祝うのも捨て、しばらくしてから貰ってきました。ボロマタート寺のカティンで、国王から拝受する時や、お偉方がお出での時など、必要な時には使わなければなりません。

 以前に王子が行幸されて仏舎利の先端を上げられた時などは、私もその集まりに出席しなければなりませんでしたが、そういう時は団扇を使わなければなりません。

問 : 先生は、チャオクンになるより住職になる方がいいと書かれたことがあります。それでこれらの階位を受けられたのは、書かれたことと矛盾しませんか。

答 : その詩は後で書きました。団扇を拝受する絵に書きました。あの絵がどこへ行ってしまったか分かりませんが(笑)、広める訳にはいきません。自慢になります。団扇をくれた人、任命者を軽蔑するので支障があります。

 プラ・ナーガセーナが、私に団扇を返上するように勧め、その先導者になるよう懇願したことがあります。彼は、私が団扇を返すよう望む僧をたくさん集めました。こういう考えはバカです。正しい考えではありません。この世界には必ず凡夫の仮定があるということを知りません。

 チャオクンになると、何かを話す時に、お百姓から公務員まで聞く人が多くなります。ラジオで話す時、プラA、プラBでは関心のある人は少ないです。それは煩悩のある動物の習性で、チャオクンの説法を聞くのと、プラクルーの説教を聞くのでは全然違います。

問 : 先生。ボロマタート寺の住職の地位と、これらの団扇は関係がありますか。そして住職として何をなさいましたか。

答 : 王室寺院の僧なので、初めは関連があるかもしれません。最初に住職にしておいて、それから住職という理由でチャオクンに任命し、それから次々に移動しました。しかし私は住職の仕事は何もしませんでした。打診もせず、誰にも言わずに任命しなければならなかった住職です。

 住職を拝受したばかりの時、地方僧長の命令で、チャヤーラーム寺からパレードがあり、知事をはじめ郡長や誰もかも大騒ぎでした。私は一晩泊っただけでスアンモークに戻りました。

 本当は、前にプラクルー・シリシーウィチャイキットが住職の仕事をしていたので、あの方が伝統で住職に繰り上げされるべきでした。ことろが王室寺院になったので、もっと高い、あるいは信用か何かある僧が必要になり、だから地方僧長が私を見つけて住職にしました。

 私はお寺の中の日常の仕事は何も手をつけず、国王の儀式や国や県からの通達以外は、それまでのように副住職と前からいるグループに任せました。

 ある時代(1950年)、私は、プラクルーソーポン(イアム)の後、国立博物館スラータニー分館の館長に任命されました。当時は常任の上級公務員がいなくて、保全担当者だけだったので、国は地方のサンガの協力を求めなければなりませんでした。当時はルアンボリバーンが遺跡局長の時代でした。

 プラタート寺内のいろんな修繕部は、ほとんど国の予算を使ってしていました。スラータニー県会議員のパット ニラワッタナーノンさんが、仕事が順調に進行するように、当時は常に私と連絡に来ました。

 仏歴二十五世紀の祝賀の時は、たくさん問題がありました。彼らは国の命令でして、私は委員長として名前を書かれました。そして郡の委員会や県の委員会が請負ったいろんな仕事の委員でした。本堂の建設、菩薩堂の建設、塀の建設などで、これも結構忙しかったです。(笑)

 私は住職でしたが、そこに住んでいなかったので、これらの仕事は、副住職や、そこにいる人の手伝い同然でした。その後の副住職チャオクンチャヤーピワットが何でもし、それに私より良くできました。大きな集会所の建設は、あの方の考えと、非常な努力と忍耐で作りました。私には建てられません。(笑)

問 : 先生。戒師の仕事で、出家する人を選ぶ時の規則はありますか。

答 : 選べません。頼んでくる人がいれば出家させてやるだけです。チャイヤーには、プムリエンに県庁があった時からの習慣があり、市僧長、副市僧長がいて、どちらも戒師だったので、みんなプムリエンへ行って出家しました。

 戒師の私がいるポーターラーム寺でなければ、チャオクンチャヤーピワットがいるサムハニミット寺で、時には出家者が何人もいて、終わるのが夜になることもありました。出家してからどこのお寺に行って住むこともでき、ほとんどは家の近くのお寺に住みました。私が戒師になると、そうしたいと言う人が来ました。

 私は「辞退させてください。そういうことはしないでください。今戒師はたくさんいるので、どこかのお寺に住むなら、近くの戒師を探してください」と言いました。だからここに住む人以外の出家は受け付けないのが伝統になりました。

 私が出家させた人はとても少ないです。初めの頃は、ほとんどこの辺の住民で、チャヤーラーム寺で出家するのはチャヤーラーム寺の近くの人で、プラタート寺で出家するのはプラタート寺の近くの人でした。その後スアンモークとプラタート寺だけになり、その後プラタート寺の副住職のユアンさんが戒師になったので、プラタート寺に住む人の出家式はしなくなり、ここに住む人だけになりました。

 スアンモークの周辺の住民は、みな息子をここで出家させました。ここで出家したがらない人もいました。出家する人次第です。勉強や仕事に厳しくて煩い、タバコを吸わせないと嫌っているようで、このように、他のお寺で出家する人もいました。

問 : 先生。先生の本を読んで尊敬を感じ、土地を離れて出家をしに来て、親と問題のあった若い人はいましたか。

答 : 出家させてやった人で、親と問題があった人は思い出せません。

 ある王孫の一人が、しつこく出家いしたいと言ってきたことがありました。私はできないと言いました。「あなたがどこから来たか知らないし、両親の許可を得るのが先です」と言いました。両親が出家させないのではないかと心配しました。話が大きく、他の人をけなすほど知ったかぶりをしました。

 出家させてやることはできないと言うと、彼は親に「頭を剃ったので出家許可をください」と手紙を書きました。本当はまだ剃っていないのに両親を騙しました。親はハガキで、何も知らないうちに頭を剃ったと、私を非難し、私も短く、まだ頭は剃っていないと返事をしました。大分してから、チエンマイで出家すると言って帰りましたが、まだ出家していません。

問 : 先生はどのようにプラ・サーソンソーポンと知り合って、どんな交際をなさいましたか。あの方はタンマユット(宗派の名)なのに、二人のサンガ王に申し開きをするために連れて行ってくれるほど、いつも先生を支援しました。

答 : あの方は宗派に執着しませんでした。あの頃のサンガは、二つの宗派が一緒に運営していて、あの方が地方僧長の時、お話したように、私はあの方の下で働き、いろんな所に講義に行き、(南部地方の)全県の県僧長、郡僧長に講義をしました。あの方が集会の開催者です。

 あの方は私のことを、非常に暖かい目で見てくれました。どうしてかは知りません。知っているのは、仕事を支援してくれたことだけです。

 ラーチャー寺は、私と多少は関わりがあります。叔父はみなあそこで出家し、私が出家する時も、ラーチャー寺で出家するように誘いに来て、母も喜びました。親戚(笑)だからです。でも親族会議でシエン叔父が「なんだって? 三か月の出家ならクルンテープで出家しなければ」と言うので、その案は消えました。

 私がラーチャー寺で出家していれば、歴史も違っていました。スアンモークが生まれたかどうか分かりません。(笑)

問 : 先生。ビルマでの第六結集での講義は、どんな経緯ですか。

答 : チャオクンピンラタム(アード)団長が、会議で挨拶を述べるのは私がふさわしいと上の人に提言したので、十分前から連絡もなく、行かされました。だから大慌てで挨拶の準備をしなければなりませんでした。私は「テーラワーダ仏教の幾つかの不思議な状態」について話し、英語で挨拶しなければなりませんでした。

 私とピユさんで原稿を一度英語に訳し、それからサンヤーさんが直しました。いっぱい直して真っ赤でした。適切でない言葉や、だらだらした言葉をサンヤーさんが直してくれ、挨拶の原稿を印刷して、タイから準備して行くことができました。

 到着すると向うの担当者が知りたいと言うので、挨拶の原稿を一日だけ渡しました。彼は挨拶を小さな冊子に印刷して、頭より高く積み上げました。挨拶の時間になると、全部話さず、時間があるだけなので、楽でした。(笑)

 この時のビルマ行き(1954年)は、観察点がたくさんありました。その時はシアヌーク殿下もお出でになり、ビルマは、私たちがこれほどとは想像もできない類の、最高の敬意で歓迎式典を催しました。そして宗教儀式の時、ウ・ヌ殿下他、国の最高に名誉のある人が、他の清信士清信女と同じように、僧の前に平伏し、偉大な権力者の態度は何もありませんでした。

 それと同時に世界仏教連盟の会議があり、私も出席しましたが、一つ不思議なことがありました。(笑) 国の最高に名誉のある人、国としても宗教としても尊敬されている人、つまりウータウィンさんは、英語を話そうとせず、外国人の会議でもビルマ語を話しました。聞いた所によると、イギリスの統治が終わった時から、英語を話そうとしないそうです。

問 : 先生。「佛教」にある「現代の仏教布教の概要」(1953年)は、どのような経緯ですか。

答 : それはその後の地方僧長、プラ・タンマウォーラナーヨック(ソムブーン)の命令で作りました。当時あの方はナコンナーヨックにおられ、しかし寺務所はクルンテープのマハータート寺にありました。この時マハーチュラー(仏教大学)の学長で、当時私はその配下にいました。

 会うのはほとんど仕事で、普通に訪問して挨拶し合ったのではありません。書いて渡すと、あの方が公表したことがあります。しかし誰かがそれを使ったかどうかは、知ることができません。

問 : 先生。サンガとの関わりはいつ終わりますか。

答 : いつ終わらせることができますか。今でもプラタート寺の住職として関わっているので、何かあれば彼らの規則でしなければなりません。終わりにできないこともあります。県の布教の任務は、サンガの管理規定が変わった時(1962年)になくなりました。布教部も、何の部も全部なくなったので、私の職位も無くなったと見なしています。

問 : 先生。この時のサンガ管理規定の変化は、地域の仏教にどう影響しましたか。

答 : 私はこの話に関わりたくありません。この話は宗派間の政治に関わると知っているからです。だからラーマ五世の時代の管理制度に近い規定である、サンガ管理規定に戻りました。どれだけ良くなったか、それとも悪くなったか、私もあまり良く理解していません。前も何もできませんでした。いろんな機関も形式だけでした。

問 : 先生。それでプラ・ピモンタム(アード)が逮捕された時(1962年)、サンガにも影響があると考えましたか。

答 : 考えませんでした。何も憶えていません。

問 : 先生。先生のお話を伺った限りでは、先生はタンマユットの大物と親しかったようですね。地方僧長ワットラーチャーや、ソムデットワットテープシリンなど。マハーマクット(仏教大学)の教科書局、特にマハー・トーンスーブとも親しく、そしてソムデットプラサンガラート(大僧正)ワットボーウォンまで関わっています。マハーチュラー(仏教大学)の方は、どなたか親しい人はいましたか。マハーチュラーは先生に何か本を書くように頼みに来ましたか。

答 : いや。何も頼まれていません。インドでパーリ語を勉強して来た人が十分いるので、たぶん必要ないと考えていると思います。チャオクンタンマナーヨックが用事で南部へ行った時にチャイヤーを訪れて、まだ出家していたマハー・チャルーンを連れて来ました。

 あの方はマハー・チャルーンに、私が持っている英語の本の名前を全部(笑)メモさせ、買って、マハーチュラーの図書室に揃えたいような感じでしたが、本当にそうしたかどうかは知りません。

 マハーチュラー(仏教大学)から本を書く注文が来たことはありません。私が手いっぱいなのに配慮したのかもしれません。しかし年恒例行事の時は、何回も説教に招聘されました。マハーチュラーの例年の資金集めの行事です。それにこ最近(1979年)、私に、非常に名誉と見なされる仏教学部の名誉博士号をくれました。

 親しさについては、マハータート寺の僧何人とも親しく、その中の何人かは、私がパトゥムコンカー寺で勉強をしていた頃から親しいです。

問 : 先生。ソムデットプラワンラット(フーン)とは親しいですか。

答 : あの方とは親しくありません。あの方はただ、私の前でも、他の場所でも、良い翻訳だと褒めただけです。影で褒めたのは、ルアンボリワーンが、私の翻訳は良いと褒めていたと話してくれました。ご自分の弟子に、意味が良く分かる訳だと話しました。

 聞いて見るとそれほど本気ではなく、あり得ない森の寺の僧を見て、みんなの気持ちを奮い立たせ、励まして競わせるために言ったに近いかも知れません。その世代は何人も精いっぱい仕事をしたと、ルアンボリワーンが話していました。その後ソムデットが私に会いたいと言われたので拝謁に行きましたが、良い翻訳だと言われて、褒美として(笑)三衣をくれた以外は、あまり話しませんでした。

 あの方の葬儀の時は、葬儀委員会が私を呼びました。その時プラ・サーソンソーポン(ソーイ)が葬儀委員長でした。初めはアーチャンソッドと一回、パークナム寺のアーチャンウィパッサナーと一回の問答の形の説法だと聞いて、私は「しません。絶対にしません」と言いました。一人で(笑)説法をするからです。「涅槃のいくつかの不思議な状態」という話をし、始めと終わりは説法で、真ん中は講義でした。

問 : 先生が以前お話になったベンチャマボビット寺のサンガ王(プロット)の他に、先生を悪意で理解した方はいますか。

答 : 知っている限りでは、初めに誤解したのは前の地方僧長、ラーチャーティワート寺のチャオカナタンマワローコムです。あの方が地方僧長だった時、スアンモークは常軌を逸していると見て、ナリン(クルン)氏と同じ類と見て対処していました。

 あの方は南部のいろんなチャオカナに、そう理解するように言いました。昵懇で私を愛しているプラクルー・ソーポン(イアム)にも、同じようにスアンモークを疑い、注意するように言って聞かせ、庶民が一斉に興味を持つのを恐れました。(笑)

 その後職を退いてから、私に非難すべき点は何もない、信頼できない物はないと見て、長い時間が経過してから、あの方はきっと、罪のままにしてはいけないと考えたのでしょう。私を呼んで、今までして来たことは良い、利益があると、喜びの言葉を言われ、褒美として三衣を一組くれました。その時あの方はとても老いていて、病気もあり、その二年後に癌で亡くなりました。

問 : 先生。私は古い書類に、先生がサームプラヤー寺に泊まったか、何かをしに行った記述があるのを見つけました。何の御用事でしたか。

答 : 住んだことも泊まったこともありません。用事で行きました。ソムデットサームプラヤーに、私のパーリ語の先生になってくれるよう、特別戒師になってくれるようお願いに行きました。プラクルー・チャヤーピワット(クラン)がふさわしい立場にありましたが、あの方はご老体なので、クルンテープ(バンコク)へ来るのが困難だからです。

 話すと、誰だか分かりました。同じ世代で、憶えていたからです。特別のケースとして命じるようお願いすると、あの方は「おう!」と言われました。その後、プラクルーが戒師になり、それっきり関心がありません。

問 : 先生。チャオクンパッタラムニの火葬の時に、先生はスラックさんに初めて会われましたが、他のチャオクンと知り合って親しくなりましたか。

答 : あれは偶然です。私は他の用事でクルンテープに行き、パンヤーさんに誘われました。あの方はバーンフアトゥーイ(スラータニー県)の人で、それほどしょっちゅうは会いませんでした。あの方は私を、故郷を有名にした人と見ていたのでしょう。あの方が私を良く御存じなのが不思議でした。

 私がプラクルーインタパンヨーを拝受した時、何人もの僧と一緒に、私にも喜びの説法をさせるためにプラユーラウォン寺に招聘したので、私は行きました。

 あの方は花を供えてくれました。あの方は私よりずっと大物で、チャオクンであり、パリエン九段であり、私はまだ若僧でした。私がなぜそうなさるのか尋ねると、あの方は、敬意ではなく祝意を表す習慣があると言われました。

 ある時同じ汽車に乗って、同じ部屋で寝て、汽車の中でたくさん話をしました。でも私が知らない占星学の話ではありません。(笑)

問 : 先生。テープシリン寺のソムデットプッタコーサーチャーンは、古いスアンモークに訪ねて来られた後、どんな連絡を取り合いましたか。あの方は先生がしている仕事の、金銭面の支援をなさいましたか。

答 : あの方は本を印刷するために財団の資金面で応援してくれました。一万バーツか、二万バーツか忘れました。他の面では何もお願いしませんでした。利益や階位などの支援は何もしませんでした。私が布教の仕事をしている時、あの方はサンガ王の代行でした。サンガ王は高齢でほとんど仕事ができなくて、あの方が全部指揮しておられたので、私は配下の人間でした。

 しかしサンガの仕事では関わりませんでした。あの方の最高の徳は、難しいタンマを熟慮することを推進し、広めたことです。知り合った後は、クルンテープへ行く度にあの方を訪ねなければなりませんでした。そうしないと、後で分かったら叱られます。

 会話したことの多くは、深いタンマと、いろんな人の話で、私はひたすら聞きましたが、あまり長居はしませんでした。あの方は体調があまり良くなかったので、昼食前に行って、食事前に戻りました。二階にあるご自分の部屋へ上げてくださって、そこでお喋りしました。

 あの方の難しいタンマを熟慮させる方法は、いろんなタンマの項目の話に誘いました。時には「空を教えるのが早すぎる。庶民には教えるべきでない。空の話を強調し過ぎてはいけない。他のことを教える方が良い」と言われました。隠されたタンマの観点があることもありました。私への法施として、あの方のお考えで、あのタンマをこう変え、このタンマをこう変えるように言いました。

 いつも同感という訳ではありませんでしたが、直接は反論せず、黙っていました。それが一番正しいです。人が不吉だと非難する、何でも目上の人に反抗する現代の子供のようにバカではないので、同意しなくても黙っていました。しかし同意しないことは余りありませんでした。あの方は私のことを、「ウマが合うマハーグアム」と呼ばれました。 

 あの方は、「私は、大念処経はブッダの言葉だと信じない。長すぎるから」と言った初めての人です。それが、私が本気で大念処経を調べるようになった切っ掛けです。どの経も、ブッダが同じ時に話したにしては長すぎて信頼できません。

 「縁起と呼ばれる物は大きな聖諦で、一般に聖諦と呼ばれているのは小さな聖諦」と、あの方が誰よりも先に言われました。こういうことが、話したことです。あの方は「こういう場合は、僕は・・・と見なす(笑)」という言葉を使われました。

 あの方はご自身を「僕」と呼ばれ、私は「私」、時には「わたくしめ」(笑)という言葉を使いました。あの方がサンガ王の代行だった頃は「大慈悲様」と呼びました。そうでなければ普通に「大恩人」と呼びました。伝統に合わない言葉を使ったこともあります。そういうことを重要視せず、何かの規則と見なされませんでした。あの方は、「俺、俺の物」が非常に少ない方でした。毎晩サマーディパーワナーをしておられました。

 私の方が上手に話せると信じられたので、私に言わせ、宣伝させた話も幾つかあります。たとえば、それまで誰も関心を寄せたことがなかったサウパーディセサ人物の話で、あの方は三ソターパッティ、一サキターカーミー、五アナーカーミーの、合計九に関心がありました。

 あの方は「ウパーディ」とは何かを知らせたいと思われました。人が教えている意味とは違いました。私は時々その話をしました。トンブリー側のリンコップ寺のチャオクンシリウィスッティウォンは同意しないで、抗議する手紙を書いて来ました。

 あの方が揶揄された物もあります。マノーラーという言葉は、大きな新聞でも間違って書いていると、スントンとマノーラーの話があるパーリ語の原則と違うと揶揄されました。私たちが知らないと見て、教えたかったということです。どんなことも質問できました。何か疑問があって訊きたければ、いつでも質問できました。私が特別な学校を開設する手紙を書いたのは、あの方です。

 あの方はいつもいろんな人物の話を話してくれました。ある王孫の女性が、ダムトンタンマサーンという名前だったと思いますが、問答を書き、あの方は称賛されて印刷するように言われ、私が佛教新聞に載せたことがあります。いろんな人の話を良く話しました。あの方は、人を何かに例える方法で憶えました。

 私を、テープシリン寺に住んでいた清信士、クンニラーパートに顔がそっくりだと言いました。タンマの第一人者で、きっと布教が上手で、歳は私より上で、亡くなって大分たっていました。しかし忘れないために、その人のその名前を思い出します。その人に似ていると、忘れません。あの方が他の僧に、私の顔がクンニラーパートにそっくりだと言われるのを聞いたことがあります。

 あの方が直接咎められたこともあります。それは頭陀袋を肌に掛けたことです。その時あの方はスアンモークをお訪ねになり、「衣を腕に巻いて、袋を衣の上に載せなければいけない。そうすれば袋が汗で汚れない」と言われました。その時あの方は一晩泊られました。

 全部トタンのクティで、西へ行く道の外れの棟です。今はありません。四角型で、幅二メートル、長さ三メートル、高さ二メートルで、四方に開け閉めできる窓があり、畳めるベッドがあり、立てると机にも、ベッドにもなりました。柱は低く、片方に階段がありました。

 あの方がお出でになる前には、プラドゥラヤパーギスワマンが連絡係をしました。サンガと連絡をしなければなりません。そうしなければ県僧長が歓迎に来られません。

問 : あの方は説法師でしたか。

答 : 上品な説法師、タンマの説法師、教科書通りの説法師でした。芝居を演じるような、闘う説法ではありません。あの方は好かれた説法師の水準に入ります。彼らは最高の説法師としています。




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