6.スアンモークを通過したたくさんの命





問 : 先生。ここで先生に、最初からの沙弥の管理や世話についてお尋ねします。初めに、お寺を管理する規則は何かお尋ねします。

答 : ほとんど規則はありません。管理することに興味がないからです。管理する頭がないのが一つ。そしてもう一つはブッダの時代のようにしたいので、管理は必要ありません。全員が義務を知り、義務を行なって欲しいだけで、何も強制しません。

 初めに人を見て、それからいろんな仕事について全員で納得します。托鉢も読経も勉強も、お寺を運営する仕事も、全員が意見を言う権利があり、そして昔からの手本のように自ら納得し、手本にしたがってします。

 初めは二三人で暮したので、何も規則はありませんでした。四五人になると少しできました。そして決まりではなく、伝統習慣に従います。住む人が多くなっても、そのように暮らしています。今でも、決まりやルールはどこにもありません。不思議です。すべての人を友達と見て、そして伝統習慣に従ってします。

 読経やいろんなことも、文字で書いた規則や強制する項目は何もありません。あまり秩序はなく、きちんとしていない物もあります。しかし私は、自己責任で暮していること、誰も強制しない暮らしに満足しています。そうしていられるなら満足です。誰も強制する人がいない管理と言います。

 タンマの面では、日常の勤めは何か知っていて、誰もが、できるだけたくさんするように努力しています。その他のことは互いに納得し合います。托鉢のことも納得し合うことができ、朝遅く、何人、何曜日はどの方面に行くか納得します。

 供物などはあまりないので、自然にしています。結局、どんな管理規則があるのかという質問には、どう答えたらよいか分かりません。こういうのはどうか、安全という類になると信じて、賭けています。ひどい損害はありません。損害や欠点があるのは当たり前です。中にはこっそり良からぬことをする僧もいます。

問 : ここでの沙弥の仕事は、五十年以上変わりませんか。

答 : どんな時期、どんな時代でも同じで、変更しません。だから人が善い時代には秩序があり、人がきちんとしていない時代には多少乱れたこともあり、帰って行った人もいます。大きな損害はありません。盗みや喫煙があるのは普通です。

 誰にも分からないように酒を持って来た人がいましたが、結局見つかって、その人も出て行ってしまいました。その人は本気で住むつもりがなかったからです。喫煙癖や飲酒癖のあることは、私は大きな問題とは見ません。

 それぞれが、他の人がやっているように働きますが、報酬も褒美も貰わず、「有難う」も言いません。管理原則はないと結論します。徳とカンマ任せた賭けと考えています。しかし上品な人もいるので、大勢でも妥協して生活を維持できています。悪いのは、後ではじき出されます。だから問題がないと見なします。

 管理という言葉を知りません。今後は分かりませんが、今まではこのような形でやって来ました。関心があるのは知識やタンマで、管理に関心を持ったことはありません。呼びつけて尋問するなど、まだしたことはありません。

問 : 先生。映画館や彫塑館などがまだでき上っていない、仕事がたくさんあった時代には、どのように仕事を分担したのですか。

答 : 強制も分担もしませんでした。希望次第です。彫塑の練習をするのも、何の練習をするのも満足のいくようにで、ほとんどは頼みました。彫塑館の館長サワイさんが頼みました。托鉢やお寺を掃くのも義務だと、そう知っています。労働者の日もずっとあり、この日は仕事を手伝う日だと知っています。何かをすると言っても、全員ではありません。例外もたくさんあります。

 私は細かいことを煩く言いません。進んでする人だけで、怠けたい人は勝手にさせます。読経やパーティモッガも、全員行かなければならない決まりはありません。行かないで罰を与えたことは一度もないので、努めをする僧は少ないです。しかしパーティモッガは大勢行くように見えます。管理とは言えません。そういう制度は頭にありません。

 抵抗などは私の耳まで届きません。ほとんどはポーティさんが説得しました。私は一度も誰かを呼んで説得したり、あるいは罰したりしたことはありません。これも幸運と言わなければなりません。それでもこのように暮らして来られました。

 私は前に、管理規則の案を作ったことがありますが、実施しませんでした。案だけで、ただ遊びで書きました。住職が一人、それぞれの仕事の責任者が九人、救急、接待などすべてが住職の下に、十分な数いなければなりません。

 スアンモーク式では、一人で幾つもの仕事をしなければなりません。書いただけで実施しませんでした。お寺が小さくて人が何人もいないので、お寺の全員が責任者になってしまうからです。(笑) 大きなお寺は百人から二百人の僧がいるので、こうするべきです。

問 : 先生。まだ先生がお元気な時代には、毎日お寺を見回って、強くお叱りになったと聞いたことがあります。

答 : 誰を強く叱ったのか思い出せません。見回りましたが毎日ではありません。秩序や正しさを見て回って、僧の一人としての信頼を維持するよう説得しました。前に食堂でありました。私も食べに行って、食べ終わると、他のことより先に、こういうことを話す機会が多かったです。タンマの研修をしてしまうほどでした。

 アーナーパーナサティの講義も食事を食べ終わった後に、食堂で話しました。食べたら座ってメモしました。話したようにたくさんの話があります。そこも出家したばかりの僧に自覚させるように話す機会と見なすので、あまり問題はありません。厳しい管理はありません。

問 : ここに住んだ僧で、ここを出てから批判する人はいましたか。

答 : いたと聞いたことがありますが、私は興味がないので非難しません。自分には非難されるべき落度や損害を与えたことはないと確信します。非難するなら、その人自身の問題です。その人は自分の利益のためにするから、私を非難するのです。たとえば私が托鉢に行ったことがないなど、小さなことを。特に後の時代には、他の僧よりも良い暮らしをしていると、こういうことを非難します。(笑)

 定住している僧の中には、何人か托鉢をしない人がいます。ほとんどの人は、働かなければならない何らかの理由があります。しかし権利を乱用する人も、いることはいます。しかし言わない方がいいです。私も行かないので言えません。

 しかしその人も理解することができます。必ず例外があること、特別な何かがあることを自然に知ることができ、恥に感じれば、権力の乱用を止めます。

問 : 先生。特別期の沙弥の研修が終わって、その後誰も訓練しようとなさらなかったのですね。

答 : 誰も訓練しません。できないと見えていました。

問 : マハー・サムルーンは違いますか

答 : 本気で訓練しないで、彼の好きなようにしました。彼はパーリ語の勉強をしていて、自分で三蔵の探究ができたので、説法の練習をするように提言し、招聘があると、説法に行かせました。慣れるために断わらないようにと。でもできませんでした。時代に合うようにすることを知りません。今でも時代や人に合わせて話すことができません。

 私がここに越して来た時、あの方はまだ古いスアンモークにいて、暇が好きなので、読んだり書いたりする時間がありました。お寺にいると、しなければならないことがたくさんあり、ほとんどの時間は個人的な勉強に使うことができません。しかしあの方が古いスアンモークにいた頃は、まだ他の僧もいました。あの方は言葉使いが丁寧で面倒見が良く、僧や沙弥たちに勉強も教えていたようです。

 その後家に戻らなければならなくなりました。あの方がいなくなると、一緒にいた僧や沙弥が散りはじめました。マハー・チャウィエンは付き合いが終わるまで一緒にいて、その後ここへ来ました。

 あの方はパーリ語の翻訳を手伝ってくれたことがあり、「ブッダの言葉の宝箱」は、たくさん訳し、勉強好きな性質に合いました。正しく厳格な手法については、私がこのテーマに関連のある物があるか調べて、使えるかどうか検討し、使えれば訳文の下書きをし、それを私が直し、終ったら段落順に並べました。その後は私一人でしなければなりません。

 その後あの方がサムイ島に住んだ時、私が空の話を集めてほしいと頼んで、あの方は物すごくたくさん集めてくれましたが、空の話ではないぼけた話で、何にも使えませんでした。あの方の生き方はサンドーサ(知足。人と群れない)で、菜食にこだわったので体が衰弱しました。

問 : 先生。マハー・サムルーン、マハー・チャウィエンの代の後、どなたか身近で先生のお手伝いをする人はいましたか。

答 : いません。誰も本気と言える形になった人はなく、この人が少し、あの人が少しです。プムリエンのスアンモークからここへついて来て手伝ったのはチットさんですが、今は亡くなりました。当時は出家していて、還俗するまで手伝ってくれました。

 彼はこの辺の人で、ウィエン寺で出家して古いスアンモークで私と一緒に暮らし、主婦のような仕事をしました。食べ物のこと、おかずの順番のことで住民と連絡をとり、食事の世話をしました。この辺の人を良く知っていて、この辺の子供全員に勉強を教えました。当時はまだ学校がなかったので、子供が何十人も来ました。何年も山の学校を開いて教え、ケオ寺で試験を受けさせました。

 チットさんが還俗すると、チャルーム(プラ・チャルーム チュティワノー)さんがその仕事を引き継ぎました。チャルームさんはソンクラーの人で、たぶんどこかでスンモークの話を聞いて、利益があるかもしれないので賭けにきました。あの方はスアンモークのいろんな仕事の日誌を、何年もつけてくれました。こういうことは緻密で、要点を掴むのが上手で、滅多にいない賢い人でした。

 ここにいても進歩がないと見て、進歩がある道を探して、しばらくチエンマイへ、「仏教者新聞」を作りに行きました。ここにいる時もお寺の中で読むタブロイド版の新聞を作ったことがありました。その後バーンドーンで住職になりました。それでパンヤーさんがチョンプラターン寺の仕事を手伝うように頼んで、今もいるようです。

問 : 先生。チャルームさんの時代が終わって、その後は主婦の仕事で先生の手伝いをしたアーチャンポーティの時代ですね。あの方について話してください。

答 : そのようです。衝突もないし、停滞もありません。間に誰かいたか忘れました。ポーティさんの時代になると、食の面、子供の面の義務はありませんでした。初めは生活や病気など何でも支援しました。ナックタム三級なので勉強の支援はできませんでしたが、知識はナックタム一級のダメな人より多かったです。

 僧の世話をする人で、目となり耳となって、何年も僧の世話をしました。サワイさんより後に来たようです。私はそう記憶しています。サワイさんは在家で、ここへ来て、チャヤーラーム寺で出家しました。私はこういうことを記録していないので、憶えていません。

問 : 先生。ここで、他にスアンモークの生活で相棒に近い人がいたらお話ください。ブンエークさんもそうみたいですね。

答 : ほとんど話すことはありません。(笑) ブンエークさんはお喋りする友達、考えを言う友達です。他で出家して来て、何年も私と一緒に住みました。五年以上です。チャルームさんの時代に当たるようです。当時は若くて怒りっぽく、ちょっと反対すると怒りました。(笑) 珍しくていいです。怒らせたくて、からかって怒らせましたが、根に持ちませんでした。怒りが消えるのも早かったです。

 タンマの勉強の話もし、問題を訊くこともありました。本を読んで話して聞かせてくれました。それに帳簿もつけ、佛教新聞の何の帳簿でも、きちんと、便利にしました。小さなカメラを持っていて、写真を撮ってくれることもありました。今ポンテープさんがいるクティに住んでいました。

 意見を言う時も、珍しくて良く、価値のある意見でした。昔は公務員で少尉でしたが、出家する決意をしました。そしてその後別れて、たぶん還俗しました。ここにいても進歩がないので出て行って、そして還俗して家に戻りました。今はチョンプラターン寺の清信士のリーダーです。

問 : 先生。それではプラ・ナーガセーナはどうですか。

答 : 彼はインドの国費留学生としてタイへ来て、インドから来てベンチャマ寺に籍を置き、スアンモークのことを知って、住まわせてくださいと言ってきました。その時四年目か五年目だったようです。ここに住んでも自分で勉強し、私は話をするだけで何も教えませんでした。

 来た時、ちょうど彫塑館を作り始めたので、塑像の顔がインド人の顔になるようアドバイスしてくれました。それまで全部タイ人の顔だったので、彼は細かいことを手伝ってくれました。私の像を作りましたが、誰もが似ていないと言って、それでトーンスックが手直ししました。

 あの方は賢い人で、英語の知識もインドで十分身につけていました。インド人はヒンディー語もサンスクリット語も知っているので、タイ語の勉強が簡単で早いです。来たばかりの時は、仏教の知識はあまり良くありませんでしたが、今はかなり良くなり、アーナーパーナサティ完全版を英語に翻訳しました。私は「使い物になる」と言います。

 サマーディ家でもありました。ここに一年いて、それからナコンシータンマラートのアーチャンペーンの所に行き、その後ベンチャマ寺に戻って、イギリスへ布教に行きました。菜食も守っていました。クルンテープにいるインド人何人もが、喜んでお金の面の支援の連絡をしてきました。今はイギリスにいますが、期待したような結果は出ていません。

問 : 先生。ではアーチャンポンサックはどうですか。

答 : 力仕事を手伝ってくれました。私から、直接タンマの勉強はしていません。私が説法をする時に聞くだけで、個人的には教えませんでした。労働者の仕事はとても上手でした。サマーディは、ここにいる時はあまり興味がなく、チエンマイへ行ってから本気になりました。

 私は直接念処を教えず、三蔵の一般的な教えを教えました。つまり話して聞かせ、あるいは教えて知らせました。直接の実践ではありません。今でもそうです。実践するために直接は教えません。しかし話は教えます。

問 : それでバンヤットさんは?

答 : 同じです。労働者の仕事を手伝いました。体は小さくても丈夫で、遊びのように簡単に鉄を切りました。舟(の形の建て物)を建てる時、ほとんどの鉄を切ってくれました。プライドが高く、意志が強い人で、私と一緒に暮らしたのは、長くても二三年です。

問 : 先生。それではルアンポー・クアンはどうですか。

答 : 在家として来て、インドへ行く時に誘って一緒に行き、通訳の仕事をしてくれました。戻ってしばらくしてから出家しました。私が出家させました。出家前からタンマの知識は多少あり、禅の本、英語のタンマの本を読んでいました。考えがあり、智慧があり、基本的な賢さのある人でした。

 出家前はエンジニアで、工業の本を山のように持っていましたが、全部シロアリに喰われました。一緒にいたのは少しで、カオクロット洞窟へ行かせてくださいと言いました。一人で暮せると思ったのでしょう。ずっとそうしていて、結局負け、利益がありませんでした。慢性の病気になって、ポーティさんが迎えに行って、ここに戻って来ました。

問 : 先生。それでは映画館の絵の説明は、どのように僧を訓練なさったのですか。

答 : 初め、僧全員が理解するまで私が説明したので、説明できるようになりました。外の石の彫刻のブッダの歴史は、私がしばらくの間説明し、内部はコーウィットさんが最初です。描き手でもあり、解説者でもあります。スチャートさんは描くのも手伝い、その後説明も手伝いました。誰にも教わらずに説明しました。何度も聞けば説明できます。自分の考えを加えて説明しても構いません。オーラサックさんはコーウィットさんの後です。

 私は何でも義務で、満足でしているだけです。ここでは誰が勉強するにも、自分でしてみます。マハー・プラティープ クンパヨムも同じで、個人的には教えません。生活すること自体が教えであり、勉強でした。彼は自分で勉強し、自分で聞き、そして彼は、ナックタムの勉強もしました。

 自分の考えがあって、話すと、必ず一致しない点がありました。普通に必ずありました。だから話さないで、他の人に話して聞かせました。他の人にタンマを説いて聞かせました。何をするにも、彼は自分で見て、自分で選んで取り入れました。

問 : 先生。マハー・イエンはどうですか。

答 : 在家で来て出家しようとしたので、ちょっと様子を見るように頼んで、何年もして満足したので、出家しました。スチットさん式に暮らしました。同じ時代です。在家の時は何でも真面目にし、大抵はスチットさんを手伝いました。体力がなく体が弱かったので、沙弥の時にマハーになり、そして還俗しました。

 一年出家して家に戻って、お寺を建てました。ここにいる時も他の人と同じに、タンマの知識は自分で集めました。タウィンさんもダーオルアンさんも、誰でも同じで、タウィンさんはほとんど彫塑館にいて、それで自分で知識を集めました。

 この間中、考えが変化したことがあります。もうできない、支援できないと感じました。特に誰かを発展させようと思わないで、因果の法則で変化させることにしました。私は非常に忙しい仕事があったからです。

 県のサンガの役員をしている間は、十六県全部に布教する義務があり、クルンテープへ行って判事の研修もありました。仕事の組織を作る考えはありませんでした。この面の自分の能力を信じないからです。だからご覧のように中途半端な結果です。その後全員が自分で身を立てました。

問 : 先生。ルアンピー・シントーンのように先生の傍で仕えた人は、前に何方がいましたか。どんな形で先生に仕えましたか。

答 : 彼は自分で来て、志願すること、できることは任せたので、自然に近くなりました。傍にいても、本のことではありません。私は自分でタイプし、身体的に出来なくなったので、ポンテープさんの時代になって初めて秘書のような仕事をしました。

 シントーンは、個人的などんなこともしました。英語では「マン オフワーク」と言い、何でも、すべての種類の仕事ができました。食事のことも、病気の世話も、客の接待も、お金のことも、不思議なほどたくさんしました。来客も多かったので、使わなくても洗濯しました。だから私は、何もかも幸運だと感じました。あの人もこの人も、初めを手本にしました。

 シントーンの前はプラ・ナンがいて、今は故郷のパヤオにいます。その前はペーンがいて、今はマハーになって、ナコンパトムのライキン寺にいます。当時私は一階に住んで、ヌイさんのクティ(僧房)にはピロムがいました。しかしその時は、お金の用事は今のようにたくさんではありませんでした。

 ピロムさんはカメラのこと、ラジオのことを教えてくれました。彼は自分でナックタム(僧試験)の勉強をして受験し、若者の煩悩で時が来たら還俗し、ハートヤイのモーパイブンの所でラジオを習い、戻って来ると自力でラジオの修理屋を開き、ゴム園を作りました。

 だから私は、自分をアーチャンと呼ぶべきと、あるいは誰かを弟子と呼ぶべきと思いません。その意志がないからです。彼らは自力でしました。

問 : 先生。それでマハー・ウィチットは、先生の本の仕事をどう手伝いましたか。

答 : 自分で来ました。パーリ語五段を取って、スアンモークの噂を聞いてここへ来ました。何か変わった所があって、人は理解できませんでした。言葉使いも変わっていました。現在までパーリ語に関した仕事を手伝っています。「ブッダの言葉による縁起」から始めたようです。彼が翻訳の下書きを提出し、私が全部好きなように直します。時には説明して聞かせた後下書きをして、それから求めに応じて直します。

 パーリ語の文法に関したことは、まだ勉強したばかりなので記憶が確かです。彼は非常に良く憶えています。勉強したことがあり、先生として教えたこともあります。私は駄目で、みんな忘れました。この言葉は文法的に幾通りに訳せるか、彼に訊かなければなりません。彼が話してくれます。こういうことは、彼に頼らなければなりません。

問 : 先生。お寺の清信女区域に最初の頃来て住んだ人たち、先生がシン姉さん、ヨーム小母さん、チューンさんと呼ぶような人たちは、どのようにして来たのですか。

答 : これも答え難いです。シン姉さんはスアンモークのことを知って遊びに来ました。お寺に住みたいと思って幾つものお寺に遊びに行き、そしてこのお寺を見つけました。彼女はバーンナイの人です。ナーイルアと呼ぶ昔の金持ちの子供で、大きな帆船を売っていました。

 その後夫を持って別れ、一人なので、ここに住ませてくださいと言って来ました。そしてヨーム小母さんは、たぶんシン姉さんと知り合ったことが原因でここへ来て、この人もお寺で人生を終わらせたい人でした。

 タンマの知識は自分で勉強し、自分で聞いて、自分の心を維持する話はだいたい分かりました。でもヨーム小母さんは怒りっぽかったです。亡くなったキムリエンさんはタンマをたくさん憶えていて、心もかなり善く、かなりタンマがありました。しかし学習者というほどではありません。この人は父方の親戚で、フアヒンの方のいろんなお寺をふらふら移動して、最後にここに来ました。

 チュームさんはクルンテープで知り合って、私が行くたびにごちそうしてくれました。ブッダ協会の何かで行くたびに会い、向こうも訪ねて来て、それでここへ住まわせてくださいと言って、そのまま住み、そのまま家を建てて住みました。他の人も似たようなものです。満足してお寺で人生を終わりたいので、老人生活協同体が生まれました。

問 : 先生。スアンモークの五十年に、「清信女区域は間もなく、仏教に関心のない建設者の子孫たちの別荘になるのではないか」と危惧を書いている人がいました。あり得るでしょうか。

答 : たぶんありません。見てください。タウィーさんの家は、子孫が何ですか。今は来客を泊める場所になっています。彼は社交辞令的に、住まないならお寺に寄贈するべきだと言っただけです。

 お寺に来て住む子供、子孫もいません。楽しくないので来たがりません。別荘とは違います。亡くなったリエン小母さんの子孫で、来て住む人はいません。チューさんが番をしています。亡くなったサップ小母さんの家も、来て住む子孫はいません。だから子孫が来て住むとは思いません。お寺が、使うべき他の人を住まわせています。

問 : 先生。「佛教」の中で先生が、弟子を持たないというような意味の宣言をなさっているのを見たことがあります。これについてどんな主義をお持ちですか。

答 : そうです。一度も弟子、あるいは弟子のようなものにしたことはありません。しかし人間同朋としてできるだけの支援をしました。彼らは自分でしました。私は「アーチャンと弟子」と考えません。考えがありません。人間同朋として、習慣で、伝統で、年上として、住職として支援しました。これらの人は、タンマを勉強するために一緒に住みたいと言って来て、私は伝統習慣でし、意図はありません。

問 : 先生。この面を先生の弱点と見ていいですか。つまり先生ご自身が誰にも習わず、誰も本気で師となさいませんでした。

答 : そうです。本気で先生とした人はいません。弱点か弱点でないかは知りません。

問 : もう一つ、先生は仕事を目指し、人物への関心より仕事をやり遂げようと目指されたのですね。

答 : 本気で人を支援する時間がなく、自分の仕事をやり遂げることだけでした。彼らは自分で自分の物にし、私は、説法して聞かせることを「教える」と見なしました。関心のある人は聞きます。彼らはみな、私のように説法する努力をしたと思います。しかしできるようにしかできませんでした。

問 : 先生。もう一つ、技術のある人がここへ来て、そしてチームを作って残らなかったのは、先生があまりお褒めにならなかったからですか。

答 : そうかもしれません。まったく気に掛けなかったかもしれません。私は自分のことをして、彼らは自分で手本を探しました。それに何を褒めるか知りませんでした。

問 : 先生。お若い頃など、残念ではありませんでしたか。身近にいた人が去って行った時、失恋したように感じませんでしたか。

答 : (笑) 失恋には例えられません。惜しむ間もなく、少しずつ離れて行きました。最後通牒も別れの言葉もありません。私は残念な話はなく、原因や縁のようになると捉えています。




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