5 庶民とスアンモーク式の儀式





問 : 先生。ターンナムライに越して来た時、バカみたいな仕事と見る住民はいましたか。

答 : 情報はありません。住民に理解できない変なことは何もしなかったからです。お話したように、ここへ来た時、住民のレベルを上げる決意したこともあります。ここは最も遅れていた地域で、古い習慣がまだ残っていました。

 たとえば野菜や何やらを作って盗まれたら、僧を招いて、その作物の畝に黄衣を掛けました。泥棒にとって危険になるので、私を招きましたが私は行きませんでした。たぶん地元の僧が昔からしてきたのでしょう。僧はたぶん知りません。僧を騙して、泥棒がたくさん集まるバンスクン(糞掃衣を僧が引っ張って取る儀式)の手伝いをさせました。

 しかし一般の状態は、住民は助け合って暮らしていました。暮らしは同じ程度で、貧豊の問題はなく、友達のように暮らしていました。風俗習慣が友交の後押しをし、精いっぱい助け合っていました。あの人がこの人を助け、この人があの人を助け、誰が何回助けてくれたから、借りを返さなければならないと憶えておくほど、借りを全部返しました。

 お返しをし、どちらかが得にならないように憶えておきます。後で誰かが自分を助けてくれると考えます。自分が助けなければ、一人欠けてしまいます。しょっちゅう助けなければ、欠けたのと同じです。

 お寺の周辺の地域は稼ぐ所で、仮登記しておいても住めない場所でした。子供を通わせる学校もなく、不便で寂しくて、住むべき場所ではありませんでしたが、お寺ができるとそれらの問題がなくなったので、周りいっぱいに移り住んできました。それはこの辺の習慣です。

 私は役所に、何人か分からないほど多くの管理担当者に提言しました。郡長にも話したことがあります。どこかを開発するなら、お寺を先導者として利用すれば、非常に効果があります。お寺を槍の鉾先に使って導けば、どこでもこのようになります。このお寺が見本のように、森の中、山の中でも、お寺ができれば人は近くに住みたいと思います。

 話して聞かせてもいいです。来た人には何でも助けました。お寺ができると、お寺の財産がたくさんあり、陶磁器の食器もあり、スコップやナタもあり、水を担ぐブリキ缶もあるので、越して来たばかりの住民は、ナタを借りて行って開拓し、スコップを借りて掘るほどでした。田んぼで(田植えを手伝った人に)大勢に食事を振る舞う時は、お寺の皿やどんぶりを借り、水を運ぶ缶を借りて水を運びました。

 それに、苦を軽減させる方法を教えました。稲刈りの季節には非常に病気が多く、毎日、何日も疲れるので病気になりました。蚊も多いです。私は薬の使い方を教えました。朝、田んぼへ行く前にキニーネを一錠飲んで、稲刈りが終わって家へ戻ったら、アスピリンを一錠飲むと、重症になるのを防ぐことができます。アスピリンは疲れを防ぎ、眠りを援けます。それまでは眠れませんでした。疲れて体が痛くて眠れないので、健康を害しました。

 キニーネはマラリヤを非常に予防するので、熱が出ず、体がゾクゾク震えません。快眠できるので十分な休息になり、起きれば毎日よく働けました。その後彼らはこれを憶えて、自分で買うようになり、やる必要がなくなりました。昔は飲もうとしませんでした。西洋の薬、白い錠剤を飲もうとしないので、飲ませるには、よく説明しなければなりませんでした。

 普段は強い薬は勧めませんが、あることはあります。小さな女の子が全身イチゴ状腫になり、私が強いヒ素の、サパイロシスの小さな錠剤を一錠与えると、何日もせずに治りました。それでみんなが貰いに来たので、こういう薬はやれないので、自分で薬屋で買わなければならないと言いました。

 今はあまりないようです。サトラサーン サパイロシスはこういう病気を治し、一番効きます。しかし多すぎれば危険です。この子は可哀想でしたが、一錠飲んだら一週間で治り、一か月で、すっかりきれいな肌になりました。

 当時私は、マラリヤ菌を殺すのにサトラーサンをよく使いました。効能書きにマラリヤ菌を防ぐとありますが、誰も使う人はいませんでした。私はリンパ液が侵される疱疹、たとえばイチゴ状腫などの治療に使いました。

 私が思い切って使ったもう一回は、非常に賭けでした。腸チフスで水のような下痢、血液も混じっていましたが、この薬は効き、菌の繁殖が止まりました。チュンポーン医師がシエン叔父に使ったのを見ました。彼が熱の治療に使うのを見ていたので、それで治療しました。サトラーサンを与える時もありました。買って常備していましたが、配りませんでした。危険のないヒ素で、ドイツの薬です。今は売っていないようです。

 その他に、法律に関しての質問にも答えました。しかし彼らが訴訟するようけしかけることはしません。契約書をタイプしてやったこともあります。そして話したように一緒に道路を作り、運河の手入れをし、チャイヤー運河に覆いかぶさった榕樹の森など、公共の物を管理維持しました。

 それから読経をさせ、読経の競技会が開かれるほどでした。農業をする若者たちに、得意に応じて説教の練習もさせ、商品にナタやスコップなどをやりました。私の説法が終わると、説法大会でした。

 ノーイさんは毎年のように話しました。彼はマノーラーだと大それた宣言をして、自分の考えでタンマの話をしました。お手本のようなタンマではありませんが、これにも利益がありました。二三年やると繰り返しになり、どちらの側も飽きたので止めました。

問 : 先生は子供の名前をつけてやったと聞いたことがあります。どんな規則がありますか。

答 : ここに住んでしばらくした時、何度かありました。昔は親戚だけにつけてやりました。そのうちここへ来る人がいて、近くの人も遠くの人も、手紙で頼んでくる人もいました。その後飽きて止めようと思い、手紙が来ても何もしないで、訊きに来ても忘れたと言いました。

 何度にもなると彼らも嫌になって少なくなり、ほとんど無くなりました。親しい親戚くらいです。昔、ある家族は全員に名付けました。あの写真のマナット(チラウォン)さんの子孫などは、家族全員の名をつけました。チャムニエン(ラッタナミーシー)医師もそうです。

 私は呪術を信じませんが、名前を考える時は文字的に、教科書を見て正しくつけました。その子が大きくなって、文字が正しくないと知ったら、あるいは誰かから聞いたら煩わしいので、正しい綴りでつけました。

 よく選ばなければなりません。それに姓と合わなければなりません。それに善い意味、珍しくてよい意味で、しかしタイの国中(笑)の誰とも重複しない名前でなければなりません。一つの名前を考えるのに、四つ五つは考えなければならないので疲れます。後で止めさせてもらいました。

 つけてやっても、好きじゃないと言う人もいました。ソムニーなど、彼の父親がメーチー(寺に住んでいる剃髪した清信女)のような名前だと言いました。私は「私はこういうのが好きだが、使わなくてもよい。好きにしなさい」と言いました。彼はまだ使っているようです。

 チャオカナラップリーの子二人も、私が名付けました。彼は非常に気に入っています。プムリエンにいる時につけ、初めの子はルンタムで、チャオカナラップリーの時、タンマに興味を持ち始めた時に生まれて、もう一人は、チャオクンがタンマを楽しんでいる時に生まれたので、ルーンタム(笑)と名付けました。他の名前はみな忘れました。(笑)

問 : 先生。それで住民との関わりはどのように拡大してきたのですか。

答 : 初めの頃は、お話したような関係で、彼らの子供のほとんどは、私が出家させました。他で出家した人もいますが、多くはありません。以前は来客があると、住民に客の食事を頼み、弁当を持って来て、お寺で接待しました。これも関わり合いです。

 病気の時も見舞いに行き、特にプラクルー・ストンが一番行きました。どこの誰が病気になっても、お寺として見舞いました。チャルームさんがいた時も、薬を持ってよく行きました。宗教儀式もあります。読経して昼食を食べる儀式もし、読経してやりました。今でも僧は宗教儀式に行っています。

 しかし私はどんどん減らして、本を作ることや布教、タンマの話をする時間を増やして、お付き合いからも離れています。今は店があるので、来客の時は料理を買うことができ、労働力も雇います。私が監督できないので、どんどん離れています。

 その結果道徳、伝統、実践面が衰退しています。特に今の子供の世代は。お寺の物を盗む子がいるほどです。この面で住民を発展させる仕事は、挫折したと言わなければなりません。私は他の仕事で力も頭脳も使い切って、始めたことを、その後、本気で続ける人がいません。

問 : 先生。この辺の子供のためのスアンモーク式の翻訳経について、当時たくさんの子供が読経したとお話になりましたが、先生が読経の経を翻訳した始まりは何か、訊き忘れました。

答 : 聞いて意味が分かる所が良いと考えたのでしょう。この辺の人、ピットさんなどの希望があり、何人もが、翻訳した経を唱えたいと希望しました。昔の人の翻訳もありましたが、読経できませんでした。ソムデットプラワンラット(タップ)さんも訳したことがありますが、読経になりません。その後地方僧長のチャオクンタムワローグモーンコーン(ラーチャーティワート寺)が、一編が二三分の翻訳読経を送って来ました。

 あの方は地方僧長で、送って来て無理やり読経させました。それが、翻訳経を読むのはいいと感じさせた理由です。あの方は良いアイディアをちょっと閃かせました。たくさんではありません。二三分の物一つだけだったので、私が全部訳しました。朝の勤め、夕の勤めも、読経の本の中にある他の人が訳した古い物を使って訳し直し、自分の好きに、韻が揃うように美しく訳した物もあります。

 聞いて耳触りでないように、語呂が悪くないように、この辺の子供たちを使って練習して見ました。初めは何度か手を入れて、満足できるようになってから本に印刷して(1954年-)、スアンモーク式の読経本になりました。朝の勤め、夕の勤め、菩薩戒も、パッチャヴェーガ(観察)も、そして細々した物も。どういう経緯か分かりませんが、ちょっとした偶然です。

 人に好まれたので広まり、今は国中の人がこれで読経しています。法施会の本が一番多く出版されています。自分で印刷したのもあり、人が印刷して配るのもあり、合わせると何十万部にもなるでしょう。(笑) サンガが翻訳経の手本を出すとしたら、どこもかしこも、庶民はスアンモーク式の翻訳経を唱えているので大変です。(笑) これを使っている学校もあります。

 ドイツ人のプラ・パーサーティコーがここへ来て住んで、彼はそれなりにタイ語を知っていたので、一番ふさわしい訳だと感じ、他で翻訳したのでは満足しませんでした。彼は聞いて美しいドイツ語訳が欲しいと思って、ドイツ語に翻訳しました。朝夕の勤めと、本の中の何編かを訳し終わると、ここで印刷してドイツに送りました。タンマコートの中に見本があります。

 彼自身もパーリ語から訳すことができました。そして彼が勉強のために訳した物を見たことがありますが、意味は深くなく、明瞭でなく、スアンモーク版のように響きが美しくありません。彼はパーリ語から訳さずに、タイ語から翻訳しました。

問 : その方はどうして先生と一緒に住むようになったのですか。

答 : 彼は三人で来ました。パーサーティコー、ウィマロー、シリチャントーは全員ドイツ人で、三四年いました。パーサーティコーはインドで出家したようで、ウィマローはビルマで出家し、シリチャントーはチャックラワン寺のソムデットティーラヤーンムニーに出家させてもらい、ここで出家したのではありません。その後シリチャントーは日本に戻り、日本で禅を勉強して、それから還俗しました。

 ウィマローは帰国してドイツで事業を始め、パーサーティコーはチベットにある経のチベット語を調べるためにフランスへ行きました。彼は何かできる十分なチベット語を知っていて、他の物と一致するかどうか調べて、チベットは興味深いと分かり、今でもこの仕事をしています。サンスクリット語からチベット語に訳した経を翻訳しています。

 私と住んだ時は自由に生活し、機会があると会話をしました。彼の仏教の知識は良いもので、ビルマで勉強しました。中国語も知っていました。ウィマローはビルマで何年も勉強したことがあります。パーサーティコーは賢く、簡単に勉強でき、シリチャントーは他の人より劣り、日本へ禅の勉強に行きました。ウィマローは一時賭け事に凝っていたようですが、今、聞いても音沙汰がありません。もしかしたら還俗したということもあり得ます。

問 : 先生。ここで僧に食事を振る舞う時、僧が食事をしている間住民に読経をさせるのは、ここの発案ですか。

答 : それはここから始まりました。(笑) 始まりはお喋りが喧しくて、何の話をしているのか知りませんがガヤガヤと喧しいので、その間読経することにしました。僧が食事をしている間、庶民が読経をすると、利益もあります。僧は座って快く聞きながら食事ができます。パッチャウェーグの経を唱えれば尚良いです。これらの儀式はここから始まりました。古いスアンモークにいた頃は、まだ庶民に対しては何もしませんでした。

問 : 先生。この辺の住民に関係のある宗教儀式では、たとえばボロマタートチャイヤー寺の恒例行事などは、どれくらい関わっていますか。

答 : 私が住職に任命される前、私はいろんな考えでプラクルー・ソーポン(イアム)を援けました。住職になってからは、できるだけのことをしました。指導者であるプラクルー・シリシーウィチャイキット副住職が郡僧長と連携し、私はその寺に住んでいない住職なので、蚊帳の外にいたようなものです。

 プラタート寺の仕事は、全部郡僧長の名前でしていたので、そういう形になるように、今までのように地域のお寺として、郡僧長の名前でしました。私が住職の時代には、どんな娯楽も興業しないようにお願いしました。必要ないので、本当の古い時代の僧の儀式だけにするように。

 彼もその種の娯楽をなくし、後の代は、思いきり娯楽を取り入れました。行事が終わると悲惨です。歩いて見たことがあります。学校と接している本堂の塀は見られた物ではありません。店が閉まると、鶏の羽がいっぱいでした。それをお寺の中でしたのです。

 酒なども売っていて、ボクシングも、ストリップに近いダンスショーまであり、第二種の博打、軽い博打もありました。だから止めるようにお願いしました。収入のある人は嬉しくありません。止めさせた元だと言って、私のことを一斉に怒りました。郡も面白くありません。収入がないからです。

 郡長の中には、このような催事が好きな人がいます。止めてしまえば残るのは儀式だけ、僧の善の儀式だけです。郡役所の前で娯楽を催した年もあります。お寺で僧が行なう儀式は続けられずに縮小し、善の行事だけになり、年恒例行事という言葉も、すっかり消えました。残っているのはマーカ、ウィサーカ、アーサーラハだけです。以前は五月に恒例行事を開催していました。

問 : 先生。長いこと佛教新聞で発表していた仏歴二千五百年に、その年には特別に何かなさいましたか。

答 : 政府や町などがしたので、私は一冊本を出しただけです。彼らはプラタート寺で開催し、たまたま私は住職で関わっていました。だから、その国と共催しました。憶えている限りでは、宗教儀式は何もなく、習慣で読経して僧に振る舞いました。

 公務では、国内の重要なお寺十六か寺を大々的に修繕しました。このプラタート寺もその一つです。三四十万バーツくれて、郡や県がしました。私はお金のことは関わりませんでした。ブッダカーラ(ブッダが支配すると考えられている時代)の半分(つまり二千五百年)のお金でプラタート寺の本堂を建て、菩薩堂を建てました

問 : ブッダの時代の半分という考えは、何に由来していますか。

答 : 何でも勤勉にするために仮定した話で、三蔵のパーリ、あるいはアッタカターに根拠は発見できません。こういう考えは、ただ仏教教団員の中で、根拠がなく話されたことです。もしかしたらスリランカの三界論かもしれません。ブッダ族やマハー族の中に書いた人がいるのかもしれません。だから僧が本気で信じるのかもしれません。

 米を搗く杵のように、ブッダカーラの半分までは宗教が先細りで、それから繁栄すると信じています。杵は真ん中が細くなっていて、それから大きくなるので、振興させる機会を逃さないで発展させる機会と見なします。

問 : 先生。それではスアンモークでカティン(カティナ)を受け取る儀式をなさったことはありますか。

答 : 一回して(1952年)止めました。本当はしたくないので、彼らに、ここはカティンを受け取る区域がないから受け取らないと言いましたが、四五年すると、クルンテープの人たちが納得せず、プラシット チャンタセーンサワーンさんやチャムナーンさんや、他の誰も彼も、彼らは「カティンをしようにも、受け入れないんだ!」と言うので、チャイヤーの河口の海でしました。全部彼らの話です。彼らは自分ですると言って聞かずにしました。

 プラシットさんがバーンドーンから、舟行列が済んだ僧の舟を三千バーツで借りて、海上の玉座を借りて、バーンドーンからチャイヤーの河口まで曳いて来て、そこでカティンをしました。(笑) だから最初で最後でした。

 楽しいことも楽しく、大変なことも大変でした。だから、もうしないようにお願いしました。その後儀式を行う境界を作ったので、サンガのことをするには便利になりましたが、それでもしたくありません。忙しいので、今でもしません。受け取るのはパーパー(森の木に衣を掛けて捨てた形にし、僧に受け取ってもらう儀式)だけです。

 カティンをした時は、水遊びや舟のことが楽しく、何十艘もの舟で人が集まり、たくさんのお金を使い、残ったのは八九千バーツだけです。(笑) ワートさんが食事の責任者で、元気な頃は何度も手伝いに来ました。今は立ち上がれないと聞きました。きっと歩けないほど衰えたのでしょう。カティンに来た人には食べ物を振る舞うのがしきたりで、今は何百人も何千人も来るので、すごく忙しいです。(笑)

 もう一つ、現在のカティンは、本来の目的がまったく失われています。本来の目的は、比丘が僧衣を縫えるようになること、比丘は一人残らず、労働者のように僧衣を染めて洗って縫う練習をすることです。

 戒師も住職も例外ではなく、全員が協力して作り、一番古い僧衣を着ている人に贈呈します。今はありません。あるのは既製品の僧衣で、住職に差し上げるだけで、カティンの意味としては何の利益もない、儀式の一つになりました。無い方が良いです。だから今までずっと、ないのが普通になりました。

問 : なぜ水の中でなさったのですか。

答 : 当時はまだ、儀式をする結界がありませんでした。しかし律では、水を掬って投げて岸に届かない広さのある自然の水の中ではサンガの行事ができるとあるので、そうしました。海の中でしたので、水中結界と呼びます。森の中に結界を作る森結界は、近くに家がいっぱいできたのでもうできません。残っているのは水中結界だけなので、一度試してみました。

問 : なぜブッダは水中結界を許したのでしょうか。

答 : それはブッダに聞いて見なければなりません。ブッダが規定されたことです。海や水は、誰も所有者がいないからと推測します。土地は所有者、権利者がいるので、国王が僧に与え、許可した土地でなければなりません。昔のような森に所有権のある人はいないので、もう一つアランシーマーを許可しました。

問 : 先生。スアンモークの重要な日にウィエンティエン(蝋燭と花を持って大切な人や像の周りを右に回る)をするようになったのはいつからですか。

答 : 初めはここにはありません。プラタートチャイヤー寺へ行ってし、私もそこへ行きました。その後県外からたくさん人が来るようになり、その人たちはプラタート寺に行きたがらず、ここ風に森でしたがったので、県外から来た人にふさわしいウィサーカをしなければなりませんでした。

 初めは十人あまりで、特別なウィエンティエンを夕方からして、夜になったらプラタート寺へ行き、二か所でしました。ここで終わると、私はプラタート寺へ少し話しに行きました。

 だからここ式のウィサーカが生まれました。止めることはできません。彼らは遠くからやって来て、そしてどんどん増えています。この辺の人が加わることもありますが、ほとんどは県外や他の郡から来た人たちです。今でもプラタート寺と同じくらい人が来ます。私はもうプラタート寺には行けないので、止められません。

問 : アーサーラハは、ここが先にしたのですね。

答 : 私は五年以上前にしました。クルンテープの人がそれを見て、チャムナーンさんが向うでその情報を吹聴して、マハーテーラ協会で宣言するよう、そうしなければ彼らが自分でする(笑)と脅しました。

 チョンブリー県僧長であるプラタンマコーサーチャーンが、マハーテーラ協会の集会での提唱者で、そしてアーサーラハの日は僧の日であると公的に宣言したと聞きました。私は「タンマと比丘の日」は今できたばかりと見なします。アーサーラハは僧の日ではありません。それは教えと違います。

 マーカの日をタンマの日とするのは正しくありません。僧と阿羅漢が千二百五十人集まったので、僧の日でなければなりません。今私はラジオなどで、「ウィサーカはブッダの日、アーサーラハはタンマの日、マーカは僧の日」と話して、いつでも耳に入れています。しかし、彼らがあのように宣言してしまったので、変えるのは大変です。しかしそう見る人より、私の見方に賛同する人の方が多いです。

 私はインドのマハーポーティ協会のニュースを聞きました。彼らはそれよりも前に、アーサーラハをサーラナートでしています。私は、重要な日として祭るべき日がもう一日あると知りませんでしたが、彼らは、法輪の発生の地であるサーラナートでしていました。アーサーラハ祭が生まれた地です。彼らはマーカ祭より重要と見なして、大々的に催したようです。

 タイではマーカとウィサーカしかなく、アーサーラハを知って何年もたっていません。

問 : 先生。それでは陰暦十月の十三夜の「勤めをする日」は、どのように始まったのですか。

答 : 何年も前で、十年以上かもしれません。外部の人が考えたことで、プラクルー・ターウォンが提唱者で郡僧長と協力し、初めは何人でもありませんでした。私は特に興味はありません。

 それでどんどん増えて、チュンポーンまで広がって、チャオクンランスアンも病気にならなければ毎年来ました。初めは「勤めをする」と言って、プライベートに近いことでした。私は言い過ぎだと言い、「スアンモークを訪ねる日」と呼びますが、彼らはあまりそう呼びません。

問 : 先生。それでは、齢を笑う日はどう生まれたのですか。

答 : 本当は何もありません。その日にはちょっと特別に説法をして、そして断食をします。昔は内部の人しか知りませんでした。非常に尊敬し合っている内部の人、何人でもない人たちで、断食という贈り物をしました。それが増えて、今は何百人もの人が断食をします。

 クルンテープでは興奮して興味を持っています。この辺の人はあまり興味がありません。彼らは、彼らにとって妨害と見ています。彼らはもっと良く、ワイワイ楽しくしたがりますが、私はそれを減らし、面白いと思って、死を恐れる類の齢を揶揄しようと思いました。死を嘲笑するように「齢を嘲笑」します。

問 : 先生。断食ですか。それとも流動食ですか。

答 : 水様の物を食べます。今ではそれも意味がありません。お腹が空きません。きっと二三日でも断食できます。体重が減らなければ、ご飯を止めてみようかと考えています。今はご飯を非常に少なくしたら、三か月で百五から九十七に、八キロ減りました。

 体が快適で、立ったり座ったりが楽になりました。起きるのも寝るのも軽快になりました。今は九十七と九十八の間を上下していますが、九十八は超えません。(笑)




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