4 話して本にする仕事





問 : 先生。次は話すことについてですが、他の人の説法の仕方を勉強なさったことはありますか。

答 : パトゥムコンカー寺にいた時、マハー・ノーイの近くにいました。あの方はクルンテープで一番有名な説法師で、当時はそのレベルの人は二三人しかいませんでした。あの方は、結集説法、つまり問答する僧にするために、いつも私を連れて行ってくれました。

 でも私は使い物になりませんでした。真似できません。私も有名な説法師の話を聞く努力をしましたが、多くはありません。有名な人は何人もいなかったからです。私は使い物になりませんでした。

問 : 先生。それでスアンモークができて、いつから本気で説教を始められたのですか。

答 : 本気の説教と言うほどのものではなく、自分なりに説きました。法施会の定例法話から始め、プムリエンとチャイヤーへ越してからも、気に入ったように説法して、内容が時代に合うように改善しました。昔から話されているような古い形の説法を脱し、大学の講義のように説法しました。「ナモー」から始めても、話をする時は講義になります。

 古いスアンモークから歩いて線路傍にある法施会に行く時、その前にターポーの学校に寄って説法をしたことがありました。ほとんどは親戚たちが聞きました。彼らは以前に希望していましたが、招聘を言い出せないでいたので、私が「行く」と言って説法をしました。その辺の人々は、教典の説法とは違う珍しい説法を聞くことができました。

 終わると法施会へ歩いて行って説法しました。定期的な聴衆は二三十人でした。昼休みに説法をしたので、公務員も聞きに来ました。その後プッタニコム学校に移ると、学校がいっぱいになることもありました。マハー・サムルーンと問答をした時は、何百人もの人が聞きに来ました。

 それから完璧な形の講義を、クルンテープ(バンコク)で開幕しました。(笑) プッタタムシリーズの講義が幕を開けると、後で律に反すと抗議する人がいたので、その後脚が疲れるので椅子を借りて、座る規定の枠を逃れられる程度に、高い椅子に座りました。

 聴衆から見ると、立っているのか座っているのか分かりません。初めは立っていました。今は立っていられません。脚が疲れて、脚が震えて、すぐに話ができなくなります。(笑)パンヤーさんはまだ立っています。

 法話の形でない講義をする考えは、昔からの形は当時いっぱいあったので、一般の形を真似てみようと思って、一般のように立って講義しました。しかしそれは言葉としては律に反しました。病気でないのに座っている聴衆に話すのを禁じています。座っている人に立って説教するのは、どの決まりでも破戒です。でも私は律を、別の時代、別の場所、別の国と解釈しました。

 初めてクルンテープで話したのは(1940年)、当時法務省副大臣だったサンヤー タンマサックさんに招聘された時で、壇上で話しました。ボーウォン寺の前のマハーマクッドの本屋にあったプッタタム協会で話しました。聴衆は部屋いっぱいだったようです。

 説教に行く前に、どうすれば招聘してくれたサンヤーさんに恥をかかせないか考え、主題を決めて、学生用の小さなノートに書きました。話さなければならないと知った時、当時の協会の名前であるプッタタム(ブッダダンマ)という言葉を使いたいと思いました。仏教を呼ぶのに一番ふさわしい名前だと思うので、このシリーズをあらゆる面でプッタタムに関わる物にするつもりで、プッタタムに関してだけ話しました。

 たとえば「プッタタムへの到達の仕方」(1940年)、「プッタタムの静寂の結果」(1942年)、「プッタタムと平和」(1946年)、「プッタタムと民主主義」(1947年)、「道の山」あるいは「プッタタムを理解する障害」(1948年)、「プッタタム道の山の説明」(1949年)、プッタタムに関する現代の考え」(1950年)。

 初めて話す時は、良くできないこと、恥ずかしいこともあるかも知れないと、多少動揺しました。しかし恐怖と言うほどではありません。その時は歴史的な長さで、三時間でした。(笑) 聴衆は講義をする部屋いっぱいで、二三百人はいたかもしれません。主催者が日刊新聞に宣伝を載せました。速記者がいて、それをタイ語に訳し、私が間違いを調べて「佛教」に載せました。彼は、テープの録音機ができるまで、毎回速記をつけました。

問 : 初めての講義の結果はどうでしたか。

答 : 彼らは珍しいものと見なし、興奮したようです。珍しいと感じたようです。「形・声・臭・味・触は、音波と光波とガス波などに関わる自然です。特別な物と見ないで、観察することを知ってください。無明があれば、一つの物も別の物に見え、蛇が紐に見え、紐が蛇に見えます」と説明しました。こういうのは、人は今まで聞いたことがありませんでした。チャオプラヤータンマサックモントリー(侯爵)がこの話を読んで、「この本は死なない」と言ったと話してくれた人がいます。

 今でも印刷している人がいて、今でも売れています。印刷して葬式で配る人がたくさんいます。プラヤーパロットラーチャブリーが、印刷して葬儀で配りたいと言ってきた最初の人です。それでクルーテープの手に入り、大興奮させた本です。

 クラーブ サーイプラディットは毎回聞きに来て、彼が書いている新聞に載せました。聞きに行くよう勧める応援のような形でしたが、初回に来ていたかどうかは定かではありません。当時は時々クルンテープへ行きました。毎年行った時代もあります。そして続いて他で話すよう招聘する人がいたので、他の会場でも話しました。

問 : アーチャンプリディー パノムヨンが毎回聞きに来ていた、と書いている人がいたようです。

答 : たぶん正しくないです。憶えているのは一回だけです。入って来ると全員が立ち上がり、話し終わって出て行く時も全員が立ち上がるので、目に焼き付いているからです。彼らが法台に近い所に一等席を設けました。当時はアーナンダマヒドン国王陛下の摂政でした。その時私が話したのは、プッタタムと民主主義でした。

問 : 先生。プッタタムシリーズは、一番初めの「プッタタムを理解する方法」と「プッタタム道の山」とどちらの回が人を驚かせる結果がありましたか。

答 : 初めの方のように見えます。「山」の時はプラ・ティップパリンヤーがブッダの代わりに怒って、非常に抗議して、コミュニストの嫌疑で政府に私を捕まえさせたがりました。陸軍元帥が信頼する何かだったルアンカードソンクラームまで話が行き、私がコミュニストから利益を得て、仏教に被害を与えていると訴えました。これは後で知ったことです。

 ルアンカードソンクラームはたぶん信じなかったと思います。気に留めないように見えたからです。プラ・ティップパリンヤーはそこまでしました。彼はサンガ王にも訴えました。ボーウォン寺と、引き継いだベンチャマ寺の、二人のサンガ王に訴えたようです。

 その結果プラ・サーソンソーポンが、嫌疑を雪ぐために、私が会いに行くべきだと考えました。いつもよりも多くの面から訴えられたので、プラ・ティップを信じる人も多かったからです。特にアビダンマの人たちと保守主義の人は手のつけようがなく、私がブッダを侮辱したと訴えました。

 本当は「人物の視点で見れば、ブッダはヒマラヤだ」と言っただけです。しかしプラティップは「人物の視点」を切ってしまったので、私が「ブッダはヒマラヤだ」と言ったことになりました。

 ボーウォン寺のサンガ王は彼を信じましたが、何もできませんでした。明らかな証拠がないからです。きっと私がコミュニストに雇われてそう言わされたと思ったと思います。プラサーソンソーポン(ラーチャティワート寺)がプラタンマコーサーチャーンだった時代に、拝謁に連れて行ってくれました。

 階段に顔を現した途端に「どうして清浄道論の話をしないで、ブッダが山だとか何とかいう教えを話すのだ」(笑)と怒鳴りました。私はあの方に説明し、一時間ばかり会話をしました。たくさんではありません。それであの方は、地方僧長と運営のことか何かで話さなければならない用事がありました。

 その後、事は静まったように見えました。処罰の命令も(笑)何の命令もありませんでしたが、基本として清浄道論を(笑)使うように注意があり、私は黙ったまま何も答えませんでした。

 その時チャムナーンさんも一緒に行って、彼は、彼にできる限り(笑)何でもサンガ王に抵抗しました。紳士的に、滑稽に。

問 : 先生。このプッタタムを話す前に、これほど大騒ぎになると想像されましたか。

答 : 考えませんでした。なぜ考えなければならないんですか。試しです。酷くやっつけられようとは考えません。立って話すのは、どの決まりでも小さな破戒だけですが、文化が変化したので、私はそう感じないし、内容も怒らせるつもりはなく、興味を持たせたいと思いました。

 誰が話してもびっくりします。悪意のない人は、反対に検証して見ることができます。私はプッタタムを理解するあらゆる面の障害について話すつもりでした。間違ったブッダに執着することも含めて、山ほどあります。正しいブッダなら遮りません。ヒマラヤではありません。

 ウィラート(マニーワット)さんは何が嬉しいのか知りませんが、「もし捕まって島流しにされたら、プッタタム道の山という本を一冊持たせてもらえれば十分だ」と新聞に書きました。私にはどういう意味か理解できません。

 スアンモークやチャイヤーの人は、何が起こったかあまり知らないので、心配しませんでした。そして彼らは、こういう話を聞いて正しく理解できました。

問 : 先生。それでアビダンマ(論蔵)の人たちとは、どのように衝突したのですか。

答 : その一年後、私は運よく、プラアーティット通りに移転してきたプッタ協会で話す機会がありました。大きな衝突になったのは、私が「アビダンマはブッダの言葉の形になっていない。新しく並べた言葉だ」と言った時です。彼らは非常に怒りました。

 彼らは「アビダンマはブッタワチャナ(ブッダの発言)ではない」と言って話を打ち切りました。私が言おうとしたのは、アビダンマはプッタの発言の形でなく、タンマをアビダンマの形で綴った人がいるという意味です。

 彼らはその日は反論しないで、頭を寄せ集めて、アビダンマ闘士七八人で本を、親指くらい厚い本を書きました。全員集まってアビダンマ式に私を罵りました。次の年に私が土曜法話の中で「アビダンマとは何か」を話しました。向こうが先に非難したので、私もちょっと非難しました。(笑) 

 これらのアビダンマ家の中には、こっそりここへ聞きに来た人もいました。この話をするという知らせを聞くと、クルンテープからわざわざ汽車に乗って、ここまで聞きに来ました。すごく大勢で、十人はいたようで、知らせ合って聞きに来ました。それで静かになりました。ウィロードさんが印刷して本にすると、長い間静かになりました。

 アナン セーナーカンさんが僧だった頃、一度私を非難しました。まだ何年もたっていません。私を踏み潰そうとしました。何人かのアビダンマ家、ブンミー メーターンクンさんと、文字どおりに捉えすぎるスガイコーロックのアメリカ人僧が一緒でした。プラ・アナンが一番下品な言葉を使ったようです。

 ある年(1980年)の齢を笑う日に、私が大々的に回答し、それでいがみ合いは終わりました。ウィロードさんが印刷したのは、「タンマの水でタンマの泥を洗う」という名前の本です。私は反論点が十分揃うのを待って、それから一度に答えました。

 彼らは泥のタンマをわざと投げつけたので、私は本当のタンマ、純粋なタンマで洗い落としました。彼はきっと私を踏みつけて地面に埋めようと考えたのでしょうが、私は一度もそうなりませんでした。その時答えたら、それっきり大人しくなりました。

 結局、私はさんざん攻撃されましたが、死なないで生きています。誰か知りませんが、叩けば叩くほど有名になると、褒めるような言い方をした人がいます。(笑)

問 : 先生がクルンテープ(バンコク)へ行ってブッダ協会で話された後、他で話すように招聘した人がいるとおっしゃったのは、どこなどですか。何方が招聘者ですか。

答 : 一度行くと、二三か所で話さなければならないことが多かったです。サンガ病院、シリラート(病院)、ノーラナード寺、チュラーロンコン大学、トンフア中国協会は二三回話したことがあります。国税局にも行ったことがあります。時にはチエンマイやピサヌローグへ行ったこともあります。

 クルンテープからの帰路は、ペッチャブリーのタムスレーブやラーチャブリーにも寄らなければなりませんでした。その他にも、南部のほとんど全県を説教して歩いたことが二回あります。お役所の主催でした。

 旅行で依頼されて行った所も幾つかあります。ピサヌロークやスコータイは、旅行に行くと、私が説法師だと知って、向うの人が招聘しました。遺跡や出土品を勉強するためにスコータイの町を見に行きたいと思いましたが、彼らは必ず招聘しました。

 一度クルンテープへ行くと、たいていどこか一か所遊びに行く機会がありました。スコータイへはパンヤーさんと行きました。パンヤーさんが説法に行きました。私たちはスコータイの町のマハータート寺に泊まり、文化局長がそこの文化局の係官に便宜を図るように命じたので、文化局の担当者がどこへでも、森へいろんな史跡を見に行く時まで案内してくれました。

 サンガ病院が招聘したのは、ポー寺からだったようです。サンガ王がまだサンガ王になっていない頃、病院の資金を集める支援者だったので、私を呼ぶと、たぶんたくさん助成金を集められたのだと思います。それとも少しかは知りません。しかし人々の献金は全部彼ら(病院側)に渡しました。ウィラット マックドゥアンケオ病院長と、県の代表であるピパン ニラワットナーナンさんは友達です。

 シリラートの方はプッタクラブの招きで、名前は思い出せません。たぶん年寄りの医師たちです。ロート医師、プラパン医師、あと何人かの医師がいました。仏教学の精髄について話しました。

 ノーラナート寺はプンさんがタンマセンターを作って、私だけでなく、誰でも招聘しました。それに住職も好きでした。

 チュラーロンコン大学では、プラ・ドゥラヤナートとウィチットさんが主催し、トンフアの中国人と協力して法施して徳を積むために、チュラーロンコン大学講堂を借りました。大講堂です。彼らがどんな広報活動をしたのか知りませんが、聴衆は講堂いっぱい、何千人もいました。

 その後もう一回話に行ったことがあります。ブッダクラブができた時、ルー シートゥラーさんが会長でした。プララーチャチョンニー殿下が聞きにお出でになりました。

 タンマサート大学は二度ほど話しに行ったことがあります。大学は、ほとんど全部、説法に行きました。師範学校も何か所か行ったことがあります。教職員議会にも、クックリットさんとの論争(笑)で一回行ったことがあります。そして教育省の小講堂は何回も話しに行ったことがあります。

 国税局では、私に汚職の話で脅させようとしたようですが、私は普通に説しました。普通に心に関するタンマの話をし、不正な公務員に当て擦りませんでした。

 公務員にも何回も説法をしました。大々的に印刷した時もあります。法務省の崩御事件を検証するための特別棟で説法したものを、プン チョンプラスードさんが省略して印刷し、「お化け公務員を追放するタンマ」という名前を使いました。初めはそんな名前ではありません。

 国王とは何かという説法の時の、新しい訳語が評判になりました。一つの話が何回も続けて印刷された講義です。「国王とは、国民に『満足』と叫ばせる人」です。

 チエンマイではウモン寺に泊まってプッタサターンチエンマイへ行って話しました。主催者が宣伝したので、聞く人がたくさん来ました。その他にもいろんなお寺に招かれて話しました。パンアン寺へも行ったことがありますが、人はあまり多くありませんでした。

問 : 先生。南部地方の県庁所在地を巡回説教したのは、どんな経緯ですか。

答 : 初めは内務省の地方監督だったプラヤーアマルッティタムロンと一緒に行きました(6月14日-1950年7月20日)。プラチュアップから南へ、南部十六県全部。あの方は地方監督なので、地方普及会議も兼ねて行きました。そこで知り合い、そして説法行脚をすることで合意しました。汽車に乗ったり、舟に乗ったりしました。

 あの方はまだ若者でしたが、秘書を一人連れていました。歳は私より五つ上です。飛行機にも乗ったことがあり、汽車が故障することもありました。人が満員で、他の人のように窓から登れないので、動物を乗せる貨車に乗せてもらい、貨車の中で少し食事をしました。公務のような旅で、全部決められていました。

 毎日説法をし、五回した日もあり(笑)、ほとんど死にそうでした。朝、食事の前に説法をし、食後に村長や区長などに説法をし、午後は公務員に説法・教育をし、夕方は刑務所の中の人に説法をし、夜九時には村人に説法をして、一日に五回説法しました。当時はまだ力がありました。声も嗄れませんでした。

 私はお寺に泊まり、地方監督が泊まる場所は、地元の公務員が連れて行きました。その時は楽しかったと見なすことができます。行ったことがないいろんな土地へ行くことができました。説法をしに行こうとソンクラーの湖を旅した時は、船であそこに止まり、ここに止まり。こういう形の説法行脚は大事業でした。

 もう一回は教育省のアヌサーサナーチャーン一行と、南部地方の全県に行きました。彼は私に先に話をさせ、その後彼が話しました。ピン チュンワン陸軍元帥が主催者で、ワット ニラワッタナーノンさんが世話人で、説法で庶民を教育するために私を行かせました。

 このように説法の旅をして公務員に話しても、あまり効果はありません。あまりしっかり聞いていないように見えました。住民に説法すると多少は成果があります。しかしアヌサーサナーチャーンと行った時は、まったく成果がありませんでした。彼は私に先に話させたので、私が説法をして憐みを生じさせても、アヌサーサナーチャーンの話を聞いて大笑いすると、タンマの気持ちがすっかり消えてしまったからです。

問 : 先生。1949年頃は、法施会の移動宣教部隊があったと読んだことがありますが、どんなものでしたか。

答 : え、誰がそんな言葉を使いましたか。

問 : 佛教新聞です。

答 : ああ。船に乗ってバーンドーン、カーンチャナディット、サムイ島へ説法に行きました。個人的なもので、サンガの名前ではありません。郵袋船と呼んでいる帆船一艘を使って、タットさん(船の所有者)とサティさんも行きました。あの辺の人が拡声器、あるいは録音テープの声を聞いたのは初めてで、大興奮でした。船がバーンドーンの河口に入ると、拡声器を柱の半分くらいに引き上げ、ソムデットワットシリンの説法を流しました。

 そのレコードはとても良い話で、驚かせる良い機会でした。それに大きな音で、夜中の十二時近くです。どこの船着き場にも立って聞く人がひしめいていました。(笑) その時は楽しかったです。彼らには何の音か分かりません。聞いたことがありません。

 運河に入ってからバードーンの船着き場に到着するまでに通過した船着き場には、特に子供がいっぱいいました。翌朝に、大きくて美しい音は何の音かと尋ねる人がいました。

 バーンドーンに着くと船を乗り換え、カーンチャナディット郡長が舟を探して迎えに来て、カーチャナディットと、その後サムイ島の人々に説法・教育するために案内しました。

 サムイ郡長が島の周りを案内しました。彼は地域管轄法による通達を出し、十五才から二十七歳までの子供を全員招集しました。区長や村長も名を連ねて署名してあるので、逃げられず、どこもたくさん集まりました。観察すると、歯を固く噛みしめて座っていました。話を聞きたくないのに聞かなければならないので、怒っていました。

 それで私も「この島が海に沈むのはあなたたちのせいで、素晴らしく浮き上がるのもあなたたち次第です」と強く言いました。そしてアバヤムック(悪事。破滅の原因)について話し、激しい言葉ばかり使いました。ほとんど全部の場所で若者に説法をし、夜は年寄りたち、清信士、清信女にも話しました。

 時には船で寝ることもありましたが、たいてい夜は陸に上がりました。区長は部下を連れて来て荷物を引き上げてくれました。場所によっては、腰まで水に浸かって拡声器や録音機やスライドを運びました。その時は私がスライドを映写しました。その時初めてサムイ島パガン島を、一か月近く周遊しました。

 当時のサムイ郡長はポーティ シワーライさんで、その後クルンテープの郡長学校の学長になり、何年もしないでその職責のまま亡くなりました。もし亡くならなければ、国の役に立つことをもっとした人の一人でしょう。帰路は、できたばかりのスラータニー県仏教協会の名前で、スラータニーで二三か所説法をしたように思います。タンマブーチャー寺で説法をするよう頼まれました。

問 : それらの機械一式はどうなさったのですか。

答 : 一つずつ集めました。初めての拡声器は六千五百バーツで、クルンテープのスアンモーク支援会が買ってくれました。(1947年6月3日) 発電機が三万バーツ、録音機は一台三千バーツで二三台。あの人この人が買ってくれ、医者のパイブーンさんがスライドを買ってくれました。

 移動式は一回で止めました。疲れるので億劫でした。それに一緒に行く人も、しなければならない仕事があります。サティさんは長者で(笑)精米所の主人で、電気担当でした。時には頼まれる仕事もしました。たとえば学校の仕事、お寺の結界を作る儀式など。でも大変でした。

 ナコンシータンマラートで開催された地方僧長の会議に、一揃い持って行ったことがあります。向こうにはまだなくて、いつも私の所のを使いました。特別な役目です。(笑) だから地方僧長が、仮の地方広報に任命して(笑)、サンガの会合で公表しました。十六県全県の県僧長と、大勢の郡僧長の集会を開く権力を与え、仕事を命じることができる地方広報です。

問 : 先生。それで判事研修の説法はどんな経緯ですか。

答 : あの年(1956年)は、ちょうど新しい法律ができて、裁判官や判事になる公務員は、職務を行う役に立つすべての学問の研修を受けなければならなくなったので、いろんな研修をいっぱいさせました。音楽や舞踏や全種類の博打まで研修を受けて、何でも知らなければなりませんでした。そうしないと真実を知らないので、それに対して正しい判断をすることができません。今でもそれを原則にしています。

 英語の研修はターニン カランヤウィチエンさんが何年も教えていました。完璧な判事になるために、身の回りの知識を身につけさせます。サンヤーさんが仏教も知らなければならないと見て、仏教を知るようにさせる方法を探し、私を招聘して初めての研修をしました。全課程は十時間で、私はあっちでの研修を十一年、スアンモークに来ての研修を三年、全部で十四期しました。

 私がクルンテープ(バンコク)へ行かないで、ここへ来て研修をした三年は、とても大変だったと思います。面倒で大変で、判事はここでは暮せません。三年やって止めました。お寺の子のように寝なければならないことに、判事たちは嫌気が差したらしいので、クルンテープで便利にする方が良いです。その後はパンヤーさんが引き継いでいます。多分今もしているんじゃないかな。

問 : この研修は、どんな方針でしたか。繰り返しでしたか。結果はいかがですか。特に判事である人への結果は。

答 : 私も古いのを繰り返さないよう、高くする努力をしました。最終回の時に、「無為やローグッタラ、涅槃などについて話して、判事たちは受け入れられるかな」と漏らした人がいるほどです。誰も合格しないので、研修をしない年もあり、八十二人も合格した年もありました。

 研修に来て興味をもって記録した判事は、言葉を知っている人ばかりで、みな大物になっています。たくさん書き留めました。私が研修した一期生はプラパード ウアイチャイさん、プリディー カセームサップさんです。

 判事自身にどんな成果があったか、調査したことはありません。関わりません。結果を報告する人もいないし、私は追跡していません。しかし本になったこの研修の結果は、非常に大きいです。初めての研修は「人間マニュアル」になり、この本が役に立ったと公言した人は数え切れません。英語の本も好評で、今ドイツ語にも訳されています。それに、裁判官シリーズの本が何冊も印刷されています。

問 : 先生。スアンモークでの説法の経緯について、初めからお話していただけませんか。

答 : 越して来たばかりの頃は、まだ連続した説法はなく、毎年恒例、ワンプラの日、重要な日に話していました。特別講義として話し始めたのは、雨安居の間の夜で、何年も続けました。その後記録する人の都合が悪くなって止めました。

 食堂で話す時代になると、これもたいてい雨安居の間に話し、そして記録する人がいました。記録して編集して本にしました。「出家者の教え」「アーナーパーナサティ完全版」などもこうしてできました。

 今チュンポーンにいるシュア(プラ・シュア シリパンヨー)は、本気で記録し、真実を知る決意がありました。あの人の記録のお陰で何冊もの本ができました。その後録音機があるようになってからは録音しておいて印刷しました。

 印刷したのはたくさんあります。「正しいタンマの勉強」(1957年)「タンマを理解する人、人を理解するタンマ」は大きな講義集です。その後ウィロードさんが三冊の本に印刷して、「俺、俺の物」(1961年)にしました。今でも印刷しています。

 食堂で話すのを止めると、夕方映画館の前で話す時代、土曜法話の時代です。その他にも、録音機があるようになってから、老人の日、新年、マーカの日、ウィサーカの日、アーサーラハの日のような重要な日に講義して、全部録音しました。満六十歳の時から、齢を笑う日の講義を始め、今はタンマコートに入れたのもあります。

 映画館の前では、夕方、一回に三四日から七日話し(1967年-1971年)、聞く人のほとんどは僧や沙弥やお寺内の人でした。当時はまだコーウィットさんがいて、いつでも質問者、批判者でした。「空評論」「タンマパティモーグ」もここで話しました。

 沙弥にはヴィナヤパティモッガがあるので、タンマパティモッガがあるべきと見て、「ヴィナヤパティモッガに対して「タンマパティモッガ」という題にしました。これもタンマコートに入れたのもあります。何年もしないで土曜講義に変えました。(1971年-現在)

問 : 土曜法話はどのように始まったのですか。

答 : これも布教の仕事の一部です。土曜日を選んだ理由は、遠くの人、県外やクルンテープ(バンコク)の人も聞きに来られるからです。金曜日の夜に電車に乗って、土曜日に聞いて、夕方帰ります。あるいは日曜の夕方までいて帰れば、月曜の朝には仕事に間に合います。一時期そのようにしてクルンテープから来る人がいました。その後だんだん気持が薄れたので、あまり来なくなりました。距離があるので、長い間は時々来られません。

 土曜講義を始めたのは、私が出掛けないことが多くなったので、土曜日に話す方が都合が良かったからです。しかし心の中では、説法をしなければ、本を作らなければと、そればかりでした。

 説法する話は、三か月まとめて一つのシリーズにしました。全部は計画しません。ものすごく多くてできません。三か月でタンマコート一冊になります。ある時期は深遠な第一義諦のタンマの説教で、ある時期は社会の話、道徳の話もあります。頼まれて講義したのも二冊あります。「ブッダの恩」などはチャオチューンに頼まれて話しました。他の人もいましたが忘れました。

問 : 先生。スアンモークでの学生研修はどうでしたか。

答 : 少しずつ学生が来始め、それからだんだん増えました。ボロマタムは、学生が増えたので、二回話さなくてもいいように、今後の見本として話すべきだと考えたので、明け方に石の学校を開きました。それから「カラーワートタム(在家のタンマ)」「マヒドンタム」、他にもあります。それから後の基礎にするために、力の限り話しておくよう努力しました。ほとんどは仏教クラブの会長たちが主催しました。

 この頃、人はほとんど来る必要がなくなりました。自分で買って読めるので、本が非常にたくさんあるので、来る必要はありません。しかし有名な先生は認めないで、まだ毎年来ます。ほとんどは先生たちです。教育について、教師であることについて、私はたくさん話しています。正しいか間違っているかは、人それぞれです。私は力の限りしました。

問 : 先生。それで先生のタンマがラジオで放送されたのはいつからですか。

答 : 初回はトンブリーの陸軍放送局が「仏教の教え」を、朝六時半に定期的に朗読しました。(1959年7月22日から) 一九五六年の法務省のカティン祭で配った本で、判事研修の初年の講義です。その後サーリーさん(サーリー パーラクン陸軍大佐)が、録音して放送させてくださいと言って来ました。

 サーリーさんは放送局長でした。毎日、一回三十分放送しました。私は食堂で話した「タンマを理解する人、人に届くタンマ」と「俺、俺の物」を、三十分に区切って読みました。この頃、映画館を作り始めていましたが、まだ完成していませんでした。長い間放送していたので、何年も連絡を取りました。

 最後は月一回、毎月第三日曜の、今も話しているシリーズ(1978年6月28日から)です。これはクルンテープの民衆情報局が直接連絡して来ました。私だけでなくパンヤーさんも、他の人もいます。他の人はきっと民衆情報局で録音していると思いますが、私は行けないので、録音してスラータニーの民衆情報局へ届け、彼らがクルンテープへ送ってくれました。

 それからこの時バーンドーンで、毎週土曜日に「タンマは幸福に導く」を放送しました。テレビにも出ました。一度に何回分も収録して放送し、再放送もしました。

問 : 先生。色々あった時代には、どのように時間を分けていたのですか。

答 : 分ける必要はありません。都合に合わせてし、固定した時間表はありません。手落ちがないように、重要なことを先にして、重要性の少ないことは二の次です。

 今は体力がないので、あまり仕事に邁進できません。若い頃でも私は、体を壊すほど働いたことはありません。これは怖いです。悪い病気になってあっという間に死んでしまうのではないかと、心配したことがありました。体や心が休めと言っているか、まだ大丈夫か、いつも観察しています。

 心身全体が教えました。神経系統が「もう十分だよ。疲れたよ」と教えます。頭の周りの神経が、何かを表して熱くなります。それ以上できなければ、熱くなる症状が現れて、もう寝てもいいよと教えました。

 仕事の途中で病気になったことはありません。マラリヤがほとんど治りかけた時、どこへも行けないので寝て考えたことはあります。寝ていても十も、百ものことを考えましたが、ほとんど使い物にはなりませんでした。病気の時出て来た考えは、あまり使い物になりません。

問 : 先生。説法にはどんな原則がありますか。

答 : 原則については良く答えられません。考えているのは、タンマの面で彼らに最高の利益になるように話すことだけです。それから、この集団の人たちには何を話すべきか、聞く人は誰か、子供である学生か、あるいはレベルが低いか、それともレベルの高い大人か。聞いて美しいように、可能な限りふさわしく話します。

 何も原則はありません。成果があればいいし、なくても構わないに近いです。初めは慣れていなくて、熟達していませんでした。

問 : 毎回話す前の準備は長いですか。

答 : 長くありません。長い必要はありません。考えの流れで話します。土曜講義がある時は、仕事の状態で話す、概要カードを作りました。アーナーパーナサティ完全版などは、準備をしなければなりません。経典で話すので、何を話してから何を話すか、構想を練っておきます。

 他の話なら、頭の中で考えておいて、何を話すか念頭において、そして迂回しながら近づいて、その話に攻め込むよう努力します。細かく決めておきません。今でも同じです。細かくすると心がそこで混乱します。

 たくさん話してたくさん勉強すると、自然に深くなります。準備なしに話せることは、理解していることか、熟知していることです。いろんな話をするには、部分的に良い引用も混ぜる必要がありますが、構成全体は、よく理解している話でなければなりません。そうでなければ話せません。

 しょっちゅう話すので、全部調べることはできないので、よく理解して精通していることでなければなりません。根拠が必要な部分があれば、パーリ(ブッダの言葉である経)を調べなければなりません。ナワコワーダを調べなければならないことも、ブッダの言葉を調べなければならないこともあります。

 大きな本を書く以外にも、教典を調べることはあります。何日も、何カ月も時間を費やすのは、また別で「ブッダの言葉集」を書くには、辞書と一緒にいなければなりません。他の物は気楽に、出家した時から、出家前から興味のあったこと、まだ心に基礎として体系的な話として残っていて、身についているものを使います。

 正しくないことは少しずつ抜け落ちます。長い間仕舞ってあるので、いろんな系統があります。何か話す時は、それらを寄せ集め繋ぎ合わせるので、それほど準備する必要はありません。ほとんど毎日話していたので、たくさん準備する時間はありませんでした。

問 : 先生の説法は、社会の出来事で話す形ですね。

答 : もちろん多少はあります。社会に大きな出来事やニュースがあれば、それについて話すこともあります。政治体制が変わったばかりの頃、庶民に仏教と民主主義について話しました。農民に話しても幾らも成果がないのは分っていますが、彼らの願望がどうであろうと、仏教の教えと同じでも違っても、政治体制の変化とは何かを、サンガは全部同じ考えで、一人だけで反対はできないということなども、聞いておくべきでした。

問 :先生がコミュニストと訴えられたのは、初回はプラ・ティップの時ですね。その後コミュニストに関しての問題はありましたか。コミュニストに抵抗するように勧める人も、手を組むように誘う人もいたとお話になっていたことがあったようですが。 

答 : プラ・ティップが、お話したようにルアンカートに訴えました。ある時代、サリット陸軍元帥か誰かが厳しくコミュニストを(笑)調べるまでは、いろんな人が書いたコミュニズムの本をたくさん持っていました。プラスート サップスントーンさんが何冊も持って来てくれて。私は弁護士をしている親戚のピユさんに、コミュニズムの本を持っていることにはどんな罪があるか(笑)と訊くと、彼は、何も罪はないと答えました。

 しかし、コミュニストだと訴えられた時には、これらの本は証拠になるので、逃げ切るのは難しい(笑)と言うので、タイのも西洋のも、何冊も縛って大きな束にして、全部彼にやりました。誰かにコミュニストだと訴えられ、そして捜査されてこれらの本が証拠(笑)になると怖いので、所有するのを止めました。

 一冊もとっておこうと思いませんでした。しかし警官から直接訴えられたことはありません。治安維持警察がお寺に来て、私を監視していると言う人がいましたが、私は憶えていません。

 コミュニストに抵抗するよう誘いに来た人は、アメリカ人のプロフェッサーディレクターで、USISのThe Cultural Assistant の仕事できました。私がコミュニストより煩悩の方が怖いと言うと、彼は首を振りました。(笑) 彼は帰るのが間に合わなくてここに泊まり、タンマ堂で寝ました。

 大きな缶詰(笑)を持って来て、西洋の考えで贈り物をくれました。あまり喋りませんでした。ちょっと話すと会話に詰まったので、山の上に行って話しました。山の上に仕事があったのと、それにちょっと神聖に、ちょっと相手を立てて、山の上の本堂で話しました。

 彼はコミュニストに抵抗させるのを仕事にしていて、自分はタイの担当だと言い、あなたは仏教の僧なので「コミュニストが来れば、タイも仏教が消滅してしまう」と知っておくべきだ、あるいはこのことの世話を焼くべきだと言いました。

 私がコミュニストよりも煩悩の方が怖いと言ったので、彼は何と言ったらいいか分かりませんでした。彼はいろいろ提言し、拡声器は要るか、紙は必要か、本を印刷する紙は要らないかと訊きました。

 私はいらないと言いました。紙が欲しければチャオチューンがいっぱいくれると。彼は欲しい物があったら何でも言ってくださいと言い、私は何もいらないと、彼を傷つけないように言いました。もう少しで恐いと言うところでしたが、言えば関わりができるので、それも言わず別れました。彼は一度で問題を終わらせました。

 もう一度は、どんな団体の部下か知りませんが、遠くから来て寄りました。お寺の前に、日本に使わせる道路ができたばかりの頃来て、タンマ堂に座って話しました。私は「写真で見る世界の歴史」の本を見ていました。映画館の絵を描く時に元絵に使った本です。

 毛沢東の中国革命の時代の絵と毛沢東の写真があり、その絵を見ると、もしここがコミュニズムになったら大変なことだと、大慌てをしました。彼は全部を開いて見ました。普通の世界史の本ですが、人間が生まれた時代から、核兵器の現代まで、この時代には何が起き、この時代には何が起きたかを絵で説明してありました。アメリカ人はコミュニストを恐れて脳がイカレテいたと分かります。

 本当のコミュニストが連絡をしてきたのは最高に滑稽です。このスアンモークを作った時から、私はコミュニストか、あるいはコミュニズムが好きだと考えていたのでしょう。その人は僧で、私に会いに来ました。私がプッタトーン山の上で何か用事をしている時、そこへ来ました。

 彼は、私がコミュニストだと思っているような話し振りで話し掛けました。こういう仕事、ああいう仕事を始めませんかと誘ったので、私が「何の話か分かりません。そのような考えを持ったことはありません」と言うと、彼はビックリ仰天しました。

 コミュニストとばかり思い込んでいれば、びっくりします。だから一時間もしないで帰りました。泊まりません。聡明で機敏そうな僧で、東北から来たようでした。私も何をするのかは訊きませんでした。コミュニストは黄衣の便利さを利用して(笑)、黄衣を着れば、どこへ行き来するにも便利です。それでコミュニズムの仕事をするよう誘いました。

問 : 先生。プラスート サップスントーラさんは先生を誘いに来ましたか。

答 : 誘いではありません。しかし「これは良い」と、「こういう理由がある」と説明しました。信じるようにさせる最初は、「物質は心を導く」という話を、異論を唱える形で説明しました。物は心を導くと口で説明して、コミュニストの背景である論理を信じさせました。

 しかし仕事をするよう、コミュニストのように実行するよう誘ったのではありません。当時、彼はまだそれほどではありませんでした。まだお寺にいて、勉強が終わったばかりでした。語学学者でした。

問 : 先生。それで異論を唱える説明を、先生は理解なさいましたか。

答 : いろんなレベルの理論を使う説明法です。それ以上は知りません。論理だけで、こういう論理、ああいう論理、上の論理、下の論理。(笑)

問 : 先生。その後、今プラスートさんはコミュニズムを止めたと聞きましたが、それから抵抗するよう先生を誘いに来ましたか。

答 : 来ません、来ません。そういう連絡はありません。友達のように連絡して、コミュニズムの話はしませんでした。でも最近、彼が私に、言葉の使い方が間違っていると言いました。「物質主義は物質の味を好む主義」というのは間違っていると。ナワラット ポンパイブーンさんは、私のを正しいと言ったことがあります。私のは、物質を基準と見なす観点の物質主義でも、物質の味で終わるという意味です。

問 : 先生。先生の近くにいたことがある僧で、そっちの系統の考えの人がいたと聞いたことがあります。名前はコーソンとか何とか。

答 : 親しい僧ではありません。この寺にいた沙弥で、ずっと前に姿を消しました。何年も沙弥でしたが、別れてサムイで出家して、それきり消えました。彼がそういうのを好きだったと考えた人は誰もいません。出て行く直前にそうなり、それまでは普通でした。出て行く前に学生の問題があったようで、ベトナムへ行ったと言う人もいるし、多分死んだと言う人もいます。

問 : 先生。当時は本がなくて、どうして好きになったのでしょう。

答 : タイの薄い本がありました。たぶん称賛して与える友達がいたんでしょう。彼は素直な普通の子で、アーチャンポーティの沙弥で、サムイ島からアーチャンポーティの後を追って来ました(笑)。もう一人、タニットという名前の人がいて、ここで出家したのではありませんが、結局コミュニズムが好きになってコミュニズムを称賛し、それで姿を消してしました。

問 : 先生。それでは、ククリットと仲違いをしたのはどんな理由ですか。

答 : 彼は教員議会で討論するよう招聘しました。私の方は二人で、何先生だったか忘れました(笑)。しかしその人は何も話さないで、私一人に話させました。在家でした。あれは教員議会の考えです(笑)。聴く人は満員で大興奮していました。向こうももう一人いましたが、話しませんでした。

 テーマは何だったか忘れました。自分で調べてください。交替で話して(笑)、 私が先に話したようで、重要な教え、つまり空の心について話しました。

 向こうは「社会で働く人は空の心では働けない。それは別のレベルの別の人たちで、両面にバターを塗ったパンと同じで、誰もできない」と言いました。二三時間喋りました。

 王孫スパサワット サワッディワットも聞いていて(笑)、 私を応援に来ました。(笑) 聴衆も最後まで聞いて終わりました。そしてそれからはありません。一回きりです。(笑) それで理解する道はありません。(笑) 誰に招待されてももう行きません。私は断ります。彼もきっと断るでしょう。

問 : それに関して、その後、何か続きはありましたか。

答 : 証拠は現れませんが、きっとありました。しかし彼はきっと、空っぽの心の功徳を信じない考えで(笑)、空っぽの心を揶揄するものを、時々サヤームラット新聞に書きました。私は新聞がありません。(笑) 今は静かになって、空っぽの心を揶揄しません。きっと(煩悩が)ぎゅうぎゅう詰めの心に打ちのめされたのでしょう。(笑)



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