2 翻訳の仕事





問 : 先生。次に翻訳についてお尋ねします。「佛教」の中には三蔵のタイ語訳の部があります。選んで翻訳なさる時、どんな規則を使われているか教えていただけませんか。

答 : あまり決まりはありません。一般の読者にとって珍しいと信じるもの、一般の人が読むべきものを、いつも追っています。

 翻訳するには私の好きな決まりがあります。(笑) 聞いて意味がハッキリ分かること、聞き易いこと、そして内容がタイ語とパーリ語と一致して、読むと同時に、すぐに理解できることです。

 以前も翻訳した物はありました。ソムデットクロムプラヤーの時代のタンマチャックに掲載された、珍しいのもありました。私も見たことがありますが、好きではありません。満足できないので自分式に作りました。文法でつかえて自信がない時は、パーリ語の先生だったプラクルー・チャヤーピワット(クラン)に相談しました。当時、マイ寺(プムリエン)に住んでいました。

 英語からの翻訳はちょっと厄介なことがあり、良く考えなければなりません。翻訳した限りでは、黄檗希運の本が一番訳しにくいと感じました。自分のタンマの知識を使って、この言葉をどう訳すか判断しなければなりません。外国で語学の学位をいっぱい取った留学生も翻訳できません。タイ語に精通していなければ、もっと大変です。

 クリスマス ハンフリーの「十二の規則」もそうで、クルンテープにいる知人は、二項翻訳できずに諦めました。同じ内容を、私は十二項全部、英語から訳しました。理論的に判断しなければなりません。

 あの時はびっくりしました。ハンフリー氏が向うから来て、サンガ王に十二項の提言をしました。ソムデットワットボーウォンだったと思います。そしてスチーブさんがタイ語に訳しました。私が取っているイギリスの仏教新聞に掲載されたので、私も読んだことがあります。彼は世界中の仏教徒に、彼が実践している提言を受け入れるよう提言しました。

 私たちタイ側は、形式的に受け入れました。私は彼に会ったことはありませんが、チエンマイでの会議の時私の写真を見て、そして私だと分かると、彼は非常に敬意を表したそうです。前から知っていたと言うことです。誰がそれを私に話して聞かせたかは、忘れました。


問 : 先生。ブッダの言葉で翻訳本を作る考えは、何が最初ですか。

答 : 私は、出家してスリランカのアイランドホーミテチャ島にいるドイツ人、プラ・ヤーナディラカが著した、「ブッダヴァチャナ」という名の小指くらい厚い本を見たことがあります。中を見ると、そういう状態で、自分の言葉を使う必要がなく、パーリ(ブッダの言葉である経)の言葉を繋げて行きます。四聖諦から始まって、苦の説明、集の説明と続いて、五蘊の段階では五蘊を説明しています。著者の言葉は必要ありません。

 見た途端ハッとして心を捕え、こういう作り方が最高だと満足しました。それで私も作ろうと思って、試しに作ったのが「ブッダの言葉によるブッダの伝記」です。初版の時好評で、マハー・トーンスーブがマハーマクット教育院の教科書として使わせるほどでした。

 ヤーナディラカさんの本は、一冊目はA5版の小さな本でしたが、今でも刷られていて、何カ国語にも翻訳されているようです。

 見たことがある中で、最高に意味が深くて良いブッダの言葉を選んで、最初に「ブッダの言葉による四聖諦」を「佛教」に連載し、それを中断して、代わりに「ブッダの言葉によるブッダの伝記」を作り、それから「ブッダの言葉の宝箱」(初版1956年)を作り、それから「ブッダの言葉による四聖諦」全二部を、マハー・サムルーンの協力を得て完全な物にしました(初版1969年)。

 マハー・ウィチット(チェムサワーン)がいろんな便宜を図って助けてくれたので、一度に二冊出来上り、それから中途になっていた「ブッダの言葉による四聖諦」に戻ったので、四部が揃い(1984年)ました。総括も合わせると五部になります。しかし初めは親指くらいの厚さでしたが、作り直すと二十五センチくらいになりました。(笑)

 「ブッダの言葉によるブッダの伝記」は、古いスアンモークで一人で作り、(初版は1936年) その後二回増補しました。読んで見つけると書き留めておいて印刷の時挿入し、最後に(1980年)にマハー・ウィチットが、初めからやり直して全部をまとめました。

 彼も常に、これは入れるべきかどうかと探していました。私が選んで、それから話し合いながら翻訳して、何か問題があると、彼が訳語を下書きし、私が満足するまで訳語を調べて、ポンテーブさんがタイプして、できたら話になるように突き合わせをして、それから索引を作りました。

 突き合わせる時が一番大変でした。マハー・サムルーンがしようと考えたことがありますが、できませんでした。マハー・ウィチットもできませんでした。木のように根元が一つで、それから枝分かれして読みやすいように、きれいに並べなければなりません。国中の人への挑戦、自分自身の知性への挑戦で、二三十年間少しずつして、知識と理解を少しずつ集めました。最高の自分の訓練であり、勉強と言います。最高の学究者です。

 「ブッダの言葉による縁起」はあっという間にできました。丸一年、午前も午後も毎日して、それから夜はマハー・ウィチットが調べましました。三蔵を調べなければならないからです。もしマハー・ウィチットがもう一度手伝うことができれば、あと一冊か二冊、信じられない本が作れました。「ブッダの言葉によるサマーティパーワナー」が一冊、「特選三蔵」が一冊。

問 : 「ブッダの言葉によるサマーディパーワナー」は「ブッダの言葉による四聖諦」の正しいサマーディと重複しませんか。

答 : おーい、まだいっぱいあります。「サンマーサマーディ」の巻に収蔵できないくらいいっぱいあります。非常に詳細です。必要以上に詳細で、全部集めれば読者は眩暈がします。パーリ語のサマーディパーワナーとは、心のことすべてを意味するので、自然について、普通にしている時はどうか、そしてどのように問題が生じるか、どのように問題を解決するか、話さなければなりません。

 吟選した三蔵は聖書に例えられるかもしれません。初めのページは聖書のように、アッガンニャスッタ(起源説経)の中の世界はどのようにして生まれたか、人間はどのように生まれたか、ブッダの言葉以外も入れなければなりません。三蔵なら全部入れ、一冊で終わる三蔵です。それでもたぶん「ブッダの言葉による四聖諦」より少ないないでしょう。

 既に作った三四冊の中の部分も混ぜ、重要な要旨は重複するでしょうけど、違う形にまとめます。作った三四冊にも重複はあります。同じ話を四聖諦の観点から見ることもあり、縁起の観点から見ることもあります。こういうのは重複します。

問 : 先生。それぞれの巻を作る時、マハー・ウィチットは三蔵を開いて、毎回初めから見直さなければならなかったのですか。

答 : 初めから追わなければなりません。憶えている限りでは、念のため「戒」も開いて見て、関わりのある問題があれば論蔵も使いました。話を引用せず、「論蔵の中ではこの言葉をこう説明しています」としました。

問 : 先生。「佛教」の初年の一号に、どうしてアッギカントーパマスッタ(火聚譬喩経)を翻訳して載せられたのですか。

答 : (笑) ああ、この経は強烈で、現代人には衝撃です。富や財産に関わっている現代の僧には衝撃です。こういうのはチユさん、ティエンさんが大好きでした。私以外に誰もこの経を訳す人はいません。彼らは恐れて、今でもこの経を訳す人はいません。六十人の僧が血を吐き、六十人の僧が衝撃を感じて還俗し、六十人の僧がタンマの憐みを感じてタンマに到達するとあります。この話は、もっと宣伝しなければなりません。(笑)

問 : 先生。本当にそうなりますか。

答 : 研究したことはありません。パーリ(ブッダの言葉である経)にはそうあります。

問 : 大々的に宣伝したら、僧は全部還俗するでしょう。

答 : 還俗しませんよ。彼らは、自分は十分強いと信じています。(笑)

問 : 先生。一九三四年からの著作で、「からっぽ」という言葉を使われています。何という言葉を訳したのですか。

答 : 空という言葉以外にはありません。市井の仏教徒、年老いたアーチャン、あるいは出家したことのある老人はみな、「から」という言葉を知っていました。昔はタンマで繁栄した土地なので、この辺の人の間では話されていました。見てください。子守り歌の歌詞にも、涅槃の意味があります。

問 : 先生の「ブッダの言葉」シリーズは、マイナスの反応を受けたことはありますか。たとえば訳が的確でないとか。

答 : 思い出せません。「正しい」あるいは「響きが美しい」という以外に、反論はありませんでした。ソムデットプラワンラット(ヘン‐ケーマチャリー)は良い訳だと褒めてくれました。面前でも、背後でも。





3 本の刊行



問 : 先生。それでは先生の本の出版、販売、配布は、どのように始まったのですか。

答 : 最初は「佛教」に掲載した物をまとめて本にしたので、「ブッダの言葉」シリーズ、短編集、長編集、自由な思考集、特定の日の言葉集、シリワヤートの詩集、重要な時の説法集があと二冊あります。この時代には、初めは法施会で印刷しました。

 新聞を作るのが間に合わないというのは、読者への言い訳です。そして他の人も印刷していました。マハーポーティ新聞も同じようにしていました。印刷して「佛教」に広告を載せると、注文がきました。

 その後サアード ワッチャラーパイさんが徳や善を積みたいと、そして収入も得たいので、スウィチャーン出版を作って、印刷させてほしいと言って来ました。当時彼は国会に関した仕事をしていました。秘書か何かです。それでタンマの本を印刷して売りました。

 著作料などは取りませんでした。彼は芸術面の頭があり、表紙をかなり美しくし、出す度に週刊サヤームラットに書評広告を載せました。その結果、彼の店はタンマの会話の場になり、常設の場ができました。

 クアン(プラ・クアン ムッティパットー)さんも、パック ナ ソンクラーさんもこの中にいました。その後、一時期コミュニストになって捕まりました。サアードさんの友達です。儲けはそれほど多くなかったようです。その後病気になって止め、ウィロード(シリアッド)さんが後を引き継いで、タンマブーチャー出版になりました。

 サアードさんは最初は手紙で連絡をしていましたが、その後二回ここへ来たことがあり、プッタトーン山の上にクティを二棟建てました。今デートさんがいる、あれです。

 サアードさんが止めると、ウィロードさんが後をやらせてほしいと言って来ました。私に連絡してきたのではなく、タンマタートにしてきたようです。彼が話しているように、私はその面の義務はありません。彼は「人間マニュアル」を読んで人生が変わったので、タンマを広めたらきっと徳になるだろうと考え、本屋を開きました。初めは弁護士をしながらで、つい最近止めました。

問 : 先生。プン チョンプラスードさんはどのように先生の出版の手伝いに来たのですか。

答 : 手伝いじゃありません。彼は自分で印刷しました。彼は突飛な考えの人で、公務員を止めると、悪徳僧を懲らしめ始め、そして彼も新聞を作りましたが、この種のばかりです。ほとんど私の所の本の一部を使っていました。「仏像の見方指南」などは、「ブッダの言葉の宝箱」から切り取った物で、「人間マニュアル」は、判事研修シリーズの要旨で、プンさんが先に作って、その後私が手を入れたのを標準にしました。

 あと一回、縮小版を作って、私に連絡しない物もありました。彼は一部を切り捨てるので、他の人に誤解させ、わざと言い掛かりをつける人や知らない人は、私を攻撃しました。省略して、彼自身の考えを挿入した話もあります。死んで再生する話などは、私の許可を得ずに自分の考えを入れました。

 私は何も禁止しませんでした。それにプンさんの本を読む時間もありませんでした。彼が何と言っているか、想像どおりでした。ほとんど彼はタンマタートと連絡をとっていて、出家する時になって私に連絡してきました。

 私に「死んだら生まれないと、ナッディカディッティ(断見)を教える」と手紙で非難して来た人がいます。本当は、その考えはプンさんのです。私の目に入って問題になりました。プンさんもさんざん非難され、匿名の手紙で非難されました。サワイ ケオソムさんも同じで、抜粋してそのまま話して度を越しました。私は興味がありません。非難したい人が非難しても何とも思いません。どの本でも、私は本当のことを言っている証拠があります。

問 : 先生。それではタンマコートはどのようにしてできたのですか。

答 : それは、「私が話したたくさんのタンマは、みんな消滅してしまう」と発言したことから生まれました。小さな本や、他で印刷した本は散らばって、きちんとした形になっていないので、その後は完璧な全集になるように努力しています。だから話し方を変えて、印刷する時便利なように、繋がった話としてシリーズで話します。

 映画館の前で話したタンマパーティモーグシリーズ、土曜シリーズは三か月話して一冊になります。その前に食堂のシリーズがあります。食堂で話した幾つもの基本的な話で、アーナーパーナサティ完全版も食堂での講義です。これらを大きな本に印刷しようと考えています。その時は、タンマコートという名を使おうと思います。簡単でいいし、意味もいいです。他に二三候補がありますが、ごちゃごちゃしています。

 印刷資金は、初めはチャオクンラップリーから大きな本の印刷費として贈与された資金を使いました。以前は三万五千バーツで一回印刷できましたが、今は一回に十五万バーツ掛かります。本に先祖の写真を載せたので、兄弟何人もが、先祖への追善供養として寄付した時もありました。

 印刷したら、次の資金にするためにほとんどは売ります。配るのは配るべき人だけで、少しです。それといろんな施設、いろんな大学。初めは配る先が三十五件でしたが、今は五十件くらいでしょう。

 初め印刷はタンマタートがしていましたが、体が急に弱ってできなくなり、スアンウソム財団の名前でアルンワディーさんがこの役目を引き受けました。彼が手伝わなければ、中止しなければなりません。アルンさんもかなり体調が悪いので、いつ終わるか分かりません。

 今は本が売れない問題もあると聞いています。しかしこういうのはまだ、それほどの障害ではありません。スポンサーにならせてほしいと言う人もいます。

 今まで出版した分だけでも溜飲が下りしました。しなければならないことをしました。他人のご飯が無駄になりません。見合う価値があると信じます。少なくとも今タイ国内で、読むタンマの本がないと愚痴る人はいないと、敢えて言うことができます。

 以前は人が口癖になるほど「読むタンマの本がない」と言うのを耳にしました。読むタンマの本がないと、まだ口癖になっています。今愚痴は言えません。

問 : 先生。今まで出版した本の中で、先生が一番満足してらっしゃる本は何ですか。

答 : 一番満足しているのは「ブッダの言葉による四聖諦」です。一番完璧にできていると感じ、何よりも満足しています。この世界への記念として贈ります。

問 : 「ブッダの言葉」シリーズを除いて、翻訳でない先生の作品で、一番お好きなのは何ですか。

答 : (笑) 考えたことはありません。(しばらく休んで)感覚的に言えば、第一義諦のタンマのもの、「スンヤタープリタット(空評論)」、「オーサーレタッパタム(説明するべきタンマ)」、「サンタッセータッパタム(教えるべきタンマ)」「イタッパッチャヤター(因果)」、このシリーズは満足できる物と見なします。

 全部まとめてパラマッタム(第一義諦)と言い、普通より深いです。しかし、どの本にも満足していると言う方がいいでしょう。(笑) それぞれの本に、その面のふさわしい物があります。

問 : それまで仏教を勉強したことがない人が仏教を学びたいと思ったら、先生は何を読むように提言なさいますか。

答 : たいていは「ボロマタム(素晴らしいタンマ。ブラフマダンマ。梵法)」の本二冊を勧めます。それから「カラーワーサタム(在家のタンマ)」を読みます。それは基本で、その後は自分で選びます。道徳の類も、第一義諦の類も、国のこともあります。私は能力の限り、すべて作っておきました。もう止めてもいい頃です。(笑)



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