第五章 ブッダの奴隷の義務




1 本の執筆





問 : 先生が本を作るのは楽しいとおっしゃったのは、どう楽しいのですか。

答 : 自動的に楽しくて満足します。それ自体に満足します。何か新しいことを思いつけば、一度成功で、小さなことでも成功すれば満足します。どんな観点でも考えつくと、使い物になる言葉を二三語思いついただけで満足し(笑)、 満足して幸福になります。(笑) たとえば「俺、俺の物」「名誉」「愛欲」「食う」「清潔・清明・静寂」などの言葉は、非常に言葉を節約し、話を早くします。

 本の仕事は、狂ってくると(笑)一日十八時間できることがありました。遊び遊びやっていて、合わせると一日に十八時間でした。これはちょっと大げさです。朝から昼までして、午後から二十一時、二十二時まで、寝るまでほとんど翻訳の仕事でした。話によっては調べなければなりません。

 新しいこと、珍しいことを調べなければなりませんでした。私のパーリ語の知識は成熟していないので、調べるのに苦労しました。一日十八時間働いたと感じたのは、時々でした。

 当時は、体の衰えはありません。スアンモークを作った初めの頃は、楽しさと満足で衰えを知りませんでした。その後長い間、激しい病気はしたことはなく、一二度マラリヤになっただけです。

問 : 先生。佛教新聞の初年の物を読んで、ブッダについて王語を使うのを止めると言及していたように思います。これは誰の考えですか。

答 : 考えたことはありますが、しませんでした。恐れ多くてできません。非難される(笑)ので、世間に逆らわないという方針にしました。世間の人の言葉で話しますが、意味に囚われません。ブッダは凡夫の言葉を使わなければなりませんでしたが、凡夫の意味に囚われませんでした。

 初めは、ごちゃごちゃして非常に面倒なので、王語を除外したいと思いました。しかし考えて見るとそれはできません。社会にいるなら社会のことを考えなければなりません。もし全部捨ててしまえば、大混乱します。

問 : 先生。当時先生は若い学生の話をとても強調されていましたが、どんな理由ですか。

答 : 普通です。これらの人たちのためのタンマがありません。特にタンマタートは「男女の学生」という言葉を使うのが好きでした。これらの人たちに、読んで理解させるタンマを書く人がいませんでした。私たちは、若い人たちに深いタンマの知識を持ってほしいと思いました。そうすれば将来、仏教に何かできます。

問 : 先生。クロムムーン ウィウィタワナプリチャーの作品が、時々「佛教」に載っていますが、お好きなのですか。

答 : 好きです。珍しくて好きです。それに有益に使えるかもしれません。しかしタンマの核心レベルの教えではありません。そして今多くの人はこの種の話に興味があります。「冥土経」と「死への帰依」はチベットの物の翻訳のようで、その他は珍しい詩です。複製のような翻訳と考えます。

 父子が涅槃について会話する話は、英語の「 The Better Land 」という詩の翻訳と観察できます。泣くことがない国、死体を埋める穴のない国について話していて、あの方は同じように書いています。それに言葉が美しいです。「佛教」に掲載しました。

 あの方は、サマーディの修行に身を捧げたラーマ四世の子と言われ、他の兄弟にはその方面の人はいません。出家はしないで在家でしたが、催眠術ができるほどだったと言われています。これは話です。私は(生まれるのが)間に合いませんでした。(笑)

 誰かに大小の罰を与える時、呼んで来て「泳ぎなさい」と言うと、言われた人は水中にいるように感じるので泳ぎ、どんどん泳いで行きますが、本当はそこにいて、降参して「許してください」と言えば止めました。

 人々はそういう話をしました。まだ色々あります。スットさんから聞いたのか、誰だったか忘れました。あの方を崇拝する人ばかりでした。タンマも教えました。常見のタンマに興味があり、自分があって生死を繰り返し(笑)、 サムパウェーシー(次に生まれる場所を求める生き物。求生)の話でも何でも、誰より説明が上手でした。

問 : 先生。本を書くアイディアは、どのようにして得ますか。

答 : 読んで考えたり、思ったりしたことを憶えておくと、書く時、話す時、決意が強くなって生み出されます。普通はそうです。何かを読んでたくさん憶えておくと、使いたい時に出てきます。

 もう一つ、意図しなくても自然に浮かんでくる考えもあります。内部に十分な原因と縁があります。急いで書き留めておかなければならないと話したことがあるように、二度と戻らないで消えてしまうことがあります。プムリエンにいた時代には、そのような考えが良く浮かびました。歩いて説教に行く時、托鉢に出ようとする時、今まで考えたことがないような、そして非常に新しい深い考えが浮かんできました。

 意図してなく、どんな偶然か知りません。カオナムプットを歩いて托鉢すると、掌いっぱいにメモして(笑)、戻ってから帳面に書き写しました。托鉢する時もペンを持って行きました。

 托鉢の時は、全部書ききれないほど多かったような気がします。歩く時は心が静まっています。パーリ(ブッダの言葉である経)にも、「歩く時念処をすると、最も証明に耐える」とあります。絶えず夢を描いても、起きて座ると違う、寝ている挙措と違って、歩くと、間違うことはありません。

 寝る時も考えが浮かんで来て書き留めることがありました。ライトがついたペンを買って来てくれた人がいたので、暗い場所でもボタンを押すとライトがついて書けました。古いスアンモークにいた時から今でも、書き留めています。書き留めておいて、どこで何に使うか時々開けて見て、いろんな話に使います。

 今はあまり書きとめられません。(笑) 封筒に書いておくこともあります。本当は手帳もあります。話す時の手引きにするつもりでした。でも他の人は読んで意味が分かりません。読めるのは一人だけです。それに鞄に入れるのが好きじゃないので、手近にある紙に書き留めます。(笑)

 問 : 先生。そのようにして得る知識は、どんな心の働きから生まれますか。蓋とどう違いますか。蓋も意図しないで生じますね。

答 : 蓋は悪の側で、これは善の側、知性の側です。しかし動きや状態は似ていて、意図しないで、そのつもりはなく生まれる考えです。パーリ語で呼ぶ言葉も多分あると思いますが、思い出せません。それはいろんな面の原因と縁で間がよく生じます。

 「チャリタ」というものを思い出します。プッタチャリタ(ブッダの所行)、ヴィダカチャリタである人は、このような考えが簡単に生まれます。考えの自然で、人が「神様の贈り物」とか何とか呼ぶような物です。他の人にも同種の物はあると理解しています。

問 : 先生。初めの頃に書かれた涅槃や空や無我など深遠な話は、論理で書かれたのですか、それとも実践からですか。後で読まれて、間違いはありましたか。

答 : こういう話は、良く注意し、しっかり決意するので間違いません。注意深く見るよう努め、書く時も、読んで、探して、試して、あるいは実践して保証できる、あるだけの物を使いました。理論的に推測しなければならないことは推測し、それらを書く時は読者の利益のために全部集めました。他の人がどんな書き方をしても、自分は自分の書き方で書きます。

問 : 先生は日記をつけていらっしゃいますか。

答 : 気まぐれに人の真似をして書いたことはありますが、二十年も前に止めました。その当時は寝る前に記録しました。

問 : 先生。プラヤー・ラップリーに当てた手紙で、先生が判断するために、無我に関したいろんな質問を集めてもらうのを読んだことがあります。当時はブッダの無我について書かれていたように思いますが、他の物を書かれる時も、こういう手法を使われたことはありますか。

答 : ありません。そうしてくださいと頼むべき人がいないからです。チャオクンラップリーも書いて来ませんでした。

問 : たとえばルアンサーラーヌプラパンの占星学のような、仏教の誤解に対して反論するために書いた形のは、たくさんありますか。

答 : 多少はあるようですが、他のは思い出せません。

問 : 「優越感」はこの形で書かれたのですか。当時サワーミー・サッタヤーナンタブリーが「劣等感」と「異性」を書いたからですね。

答 : 近い時期に出ているようです。私は「劣等感」に同感しません。すべて優越感=アスミマーナ、「俺、俺の物」の問題が、人間が問題を抱えなければならないようにしている背景にあります。仏教の核心である教えです。世界でも、タンマの面でも、すべての問題が生じるのは、根源に優越感があります。

 だからこの本に、チャイヤーの河口で酔っ払いが仏像を引っ張る話を書きました。本当に見れば、もっとすごく楽しいです。最高に良く書いてあれだけです。見れば、人の優越感は不思議です。

問 : 先生。それではマハーマクット(仏教大学)は、先生にブッダの伝記を書いて欲しいと、どう連絡してきたのですか。

答 : マハーマクットが連絡してきたのではありません。私が、教科書局長だったマハー・トーンスーブ(スパマーク)と知り合って親しくなった時、彼が「ブッダの言葉によるブッダの伝記」を見たことがあり、そしてマハーマクットの学生の教科書として使うように提言したので、それで私に、もっと書くように言いました。

 実際、当時は今言ったような角度から関心をもったのは私だけで、こういうことが好きな人は誰もいませんでした。それで話は、教科書として使っているブッダの伝記の本のことになりました。デーヴァダハの人たちをコーリア族としている点を、私は、誰も反論する人がいないくらい、たくさん証拠を引用して、デーヴァダハはシャキャ族でコーリアには関係いないと証明しました。デーヴァダハはシャキャ族側の小さな国です。

 書けたのは一編だけでした。その後、インドへ行って勉強してハッキリと見、最高に明らかに知りたいという考えが生まれ、行って来れば良く書けると考えましたが、続きは書きませんでした。スアンモークの仕事への愛が強くなって、一人で静かにそういうものが書けなくなりました。それとインドから戻った時には、マハー・トーンスーブが還俗したようで、他の人が教科書局長になったので、続けませんでした。しかし作った本は、今でも印刷しています。

問 : 先生。マハー・トーンスーブと知り合ったことで、ボーウォン寺のサンガ王と知り合うことになったのですね。

答 : そう。便利でした。サンガ王は夕方、マハー・トーンスーブが局長をしていた教科書局の人たちとお喋りをなさりにお出でになりました。彼は以前から、スアンモークの話をいろいろサンガ王のお耳に入れていたので、初めて会った日に、「君はなぜ、お寺を賃借して僧を住まわせているの」と言われました。(笑)

 スアンモークのことを知っていたと言うことです。私は答えませんでした。笑う話です。話す時は家臣側の王語を使わなければなりませんでした。クラオクラポム、クラオクラモム(わたくしめ。王族に対して話す時に使う一人称)。あの方は「君」と呼ばれました。

 その後もう一回行きました。プラ・サーソンソーポン(ワットワーチャティワート)地方僧長が私を連れて、コミュニストの嫌疑(笑)を晴らすために拝謁に行きました。プラ・ティッププリヤーが、私がコミュニストだと、コミュニストから利益を得ていると、誰彼なく吹聴して歩いたので、サンガ王が私を正しく理解する機会があるように、プラ・サーソンソーポンが私を連れて行きました。

 私の顔をご覧になると憶えておいでで、「スアンモークへ行って君と一緒に過ごしたいんだけど、ここは今本当に忙しくて」。(笑) その日は、嫌疑を晴らすことについて話す機会はなく、楽しく笑って話しました。それに地方僧長も自分の用事の話をしたので機会がありませんでした。あるいはその話を切り出すのにふさわしくありませんでした。

問 : マハー・トーンスーブとはどのように知り合ったのですか。

答 : 思い出せません。きっと佛教新聞を見て知り合いたいと思ったのでしょう。誰が先に手紙を書いたか忘れましたが、お互いに学生同士(笑)のように連絡を取り合っていました。私はホームライブラリーシリーズのコミュニズムという本を買って、マハー・トーンスーブに上げたことがあります。(笑) マルクスのではありません。誰のか知りません。彼に買って上げたのは、彼がどう考えるか知りたかったからです。

 当時コミュニズムは有名で、新しい物で、仏教の敵と見られていたので、知っておくべきでした。ホームライブラリーシリーズは、二三冊買ってあり、「コミュニズム」はざっと読んで、意味が分かったり分からなかったりでした。まだ新しい物だったからです。その後禁止され、コミュニズムの本の所持、印刷、販売が禁止されました。だから勉強するために買った何冊もの本は、ピユ(プルームディッタ)さんに上げなければなりませんでした。(笑)

問 : 先生。先生はナックタムの教科に関した本を作ろうと考えられたことがおありですね。

答 : 私には義務はなく、それはサンガの義務です。しかし私は一冊、「正しい手法でタンマを学ぶ」という本を作りました。初心者レベルのタンマで、ナックタム三級から使えます。より簡単で、より便利で、より段階的ではっきりしていて、より深く理解できる説明です。見本として一冊だけ作ると、時間がなくなり、力もなくなり、楽しくなくなりました。他の人が、「こういうのも作れる」と気づくように作りました。

 クルンテープ周辺のナックタムの先生で、これを使ってみた人がいます。名前は憶えていません。それと大物のテーラ(長老)に、ナックタム一級以上には深遠なタンマを教えるでべきだと提言したことがあります。もっと高いタンマがあるからです。親しいテーラに提言し、その方も賛同しました。しかしほとんどの人は、「教える人がいない」と言いました。だから現在まで誰も作りません。

 特別なパーリ語の教科書を作ったことがあります。習い始めたその日から訳し始めます。昔式にすれば、文法を七巻まで勉強してからでなければ翻訳をしませんが、私は、楽しく作って楽しく教えて、楽しいばかりです。本に印刷するには至りませんでした。

問 : 先生。佛教新聞の一九五三年に、法施会の二十周年という張り紙があり、一部に「法施会は商品として膨れ上がる、あるいは政治の道具である三蔵の学習を追放することを誓う」とあります。これはどういう意味ですか。

答 : 「商品として膨れ上がる」というのは、商品として溢れるように大々的に売っている参考書を書く基盤になるもので、「政治の道具」というのは、怒って話す(笑)ことで、サンガ内の宗派の話です。話すのは良くないです。話すと差し障りがあり、下品な話になります。三蔵の学習家やサンガの統率者の世界にいる人は、これだけ言えば分かります。これ以上言うと嫌らしいです。つまり「不満で言うことは、何も言わないのと同じ」ということです(笑)。

問 : 先生。タンマを書く時、あるはタンマを話す時、なぜ先生は世界の出来事と関連させるのですか。

答 : 世界の人の利益になるように、世界の事件を良く知っている、普通の庶民の利益になるようにしたいからです。別の分野で、本当は、ナックタムの学校では規則で禁止されています。禁止していますが、論点は社会の出来事に、あるいはあの人このことに関わって来ます。これは良いと自慢できます。タンマは人のことなので、禁止や制限はできないと捉えます。タンマは人間の話なので、すべての人について話さなければなりません。

問 : 先生。今見て、あの時は正しく書かなかったと思われる作品はありますか。

答 : あまりありません。「え、これ私が書いたの? どうしてこんなに良く書けたのだろう」(笑) と思うことはあります。反対の戸惑いの感覚で、「自分が書いたのではない」と思うほどです。あなたはそういうことはありませんか。

問 : 私はまだ本を書く練習を始めたばかりです。しかし先生は五十年以上で、私は間違いもあるんじゃないかと思います。

答 : 一パーセントくらいはあります。一つ、つまり死んで生まれる話で、私がナックタムを勉強していた頃は、常見のように勉強して、そのように説教しました。しかしスンモークを作ってから三蔵を直接学んだので、それは間違っていると知ることができたので、その後は、そう教えるのを止めました。

 もう一つは「ヴィパッサナーは考えること」という言葉の使い方を間違っていました。以前は「ヴィパッサナーとは考える日夜」と言っていましたが、正しくは「ヴィパッサナーとは自然の真実を見る日夜」と言わなければなりません。熟慮という言葉は考えるという意味に理解されがちなので、使えません。

 ヴィパッサナーとは、心が見るように準備することで、見れば自然に見えます。言葉は難しくするので、話してもあまり意味が通じません。言葉には違う二つの意味があるので、あまり一致しません。

 だから私は言葉を定義するのが好きです。簡単に理解させ、簡単に憶えられて便利です。たとえば「タンマとは、自分と他人の利益のために、発展のどの段階でも、人間として正しく自分の義務を行なうこと」。こういうのは最高に完璧です。この定義を知る人は、タンマを知ります。タンマはブッダの教えではなく、タンマとは人間として正しい義務です。

問 : 先生。考えることから見ることへの変化は、禅の影響を受けられたのですか。

答 : 分かりません。気付かずに受けているかもしれません。しかし受け継いでいるとは感じません。

問 : 先生が書かれた物に、よく日付と場所が書かれているのを見ます。そして重要な日が少なくありません。たとえばウィサーカブーチャー、新年、マーカブーチャー、あるいは誕生日など。先生、何か意図がおありですか。

答 : 日付を書くのは、昔から偉大な作家が習慣にしているからで、子供の頃から今日まで習慣でしています。西洋人もしています。記録として便利です。そしてこれがあるからです。私が振り返って見て、「え、あの頃私はどうしてこんなにできたの」と感じるのは。二度とあのようなものは書けません。(笑)

 重要な日と重なっているのは、その日は特別なことをする日と決めているので、ほとんどは本当にその日に書いています。前や後にずらして書くこともありますが、少しで、ほとんどは日付の日に書いています。

問 : 先生。本を書かれる時、愛用のペンをお持ちですか。

答 : あります。長いこと持っていました。初めは一番安いパーカーで、その後チャオクンラップリーが良いのを買ってくれ、長く使って、何かに当たって割れたので、クルンテープで修理しました。その後珍しい物、ゴムでインクを吸い出して補充し、インクは中の物を使うのが好きでしたが、金属の部分が厚く錆びて、爆発したようになったので捨てました。

 その後は今日までボールペンを使っています。でも私は何色も使うのが好きです。主として書くペンがあり、その他は付録です。一本二三バーツの、中国の赤いペンも使ったことがあります。子供の頃は日本の万年筆を使いました。セーンケオペンと言って、軸が竹で、ペン先はガラスで、一本五サターンでした。

 印刷する物を書く時は、大抵は直接タイプしました。ペンで書くのは考えに間に合いません。すぐに忘れ、行ったり来たりして頭が混乱します。書いても、自分で読めない時もあります。だからタイプをするのが習性になりました。時には全部打ち直さなければならないこともありますが、本の少しです。心が焦って、のろのろ書けません。最初に下書きをして後でもう一度推敲するのは、一度か二度しかしたことがないと思います。

 ナックタムの勉強をしている時、提出する課題を書いた時から、そういうのに慣れてしまいました。彼らは書いた後推敲させず(笑)、 書くとすぐ提出させました。あるいは下書きなしで説法の練習をしました。時間があれば復習できます。長々と話さなければならなので、見出しだけ紙や心に書き留めておいて、それで書くか話すかしました。

問 : 先生。それで書いている時、あるいはタイプしている時、考えに詰まったらどうなさいましたか。

答 : 歩いて考え、クティの中を行ったり来たりします。廊下のある洋館は、歩くのにちょうど良い長さで、考えに詰まったら、長い廊下を行ったり来たり歩きました。気血の流れが良くなると脳が働き、考えが浮かんだら、座って書き続けました。

問 : 先生。手紙の返事にはどんな原則がありますか。先生はたくさん手紙を書かれると思いますが。

答 : 何も原則はなく、好きなように返事しています。ふさわしい手紙、必要な手紙、寝ぼけた手紙もあります。私が手紙を保存するタイプなので、あなたの世代の人は幸運です(笑)。 そうでなければ残っていません。私は複写でタイプして、一枚を送り、一枚は保存し、返事が来たら、一緒にしておきます。誰のやり方か、あるいはどう思いついたのか、忘れてしまいました。

問 : 先生。それで執筆を止められたのはいつですか。

答 : ここへ来た頃だから、十五年くらい前から書く仕事を止め始めました。代わりに話して録音しました。テープがある時代になったので、だんだん書くのを止めました。体もあまり使えなくなりました。元気がなく、敏捷さがなくなって、タイプする指が、考えについていけないので、面倒になって目を閉じて話します。

 良く考えられます。それからテープの中にあるのを書き写し、それから推敲できますが、後で直さずに、書き写したらすぐに印刷します。推敲できればすごくいいです。

 判事に話した一連の講義は一緒にして、講義が終わるとすぐ佛教新聞に連載しました。重要な講義は佛教に載せて、後でまとめて本にしました。




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