6.幾つかの規則とヤクザな夢





問 : 先生。スアンモークの初期は、耐久建造物を作らない方針のように見えましたが、なぜ後には次々と建築するのを認められたのですか。

答 : 認めたのではありません。必要に迫られて自分で建てたんです。人が来てどこに寝るか考えて見てください。お客が来ても泊まる場所がありませんでした。生徒や学生が何百人も来るので、客が泊まる所がないので建物を増やしました。

 大きな赤い建物は、今日(1985年10月14日)、人がいっぱいです。男の人が一棟、女の人が一棟、二棟あってもまだ足りません。まだチュムポーン宿舎を建設しなければなりません。チュムポーンの人の名前で集めた一棟分の建築費があります。しかしいつか分かりません。私も忙しくて好きではありませんが、必要です。

 今煩わしく思っているのは、ウィロード モーチャオさんが、来年八十歳の行事を企画していることです。人が沢山来たら、どこにその人たちが泊るか、考えて見てください。僧に来るように、在家に来るように宣伝して、彼らはどこに泊まるんですか。僧は森で傘の中で寝て、庶民がどこに泊まるかはまだ問題だと聞きました。

 昔のある時、何も準備なしにパンヤーさんが連れて来て、土の上に寝たことが一度ありました。タンマ堂にいっぱい寝て、土の上にも寝なければなりませんでした。女の人もです。

 菩薩堂や寺院の建設は考えたことはありません。作る必要がないからです。他の物の方が必要です。一般に映画館と呼んでいる魂の娯楽館などは、日常的な布教にとても良い結果があります。舟は水を受ける所で、予備の水を溜めておき、そして二階はパーリ語の勉強、集会、そして雨の時、儀式をするのに使います。赤い建物はお話したように宿泊所です。

問 : 先生。このように建物を増やすのは、住む場所の、あるいは静寂を求めて来た人の静寂な雰囲気を壊しませんか。

答 : それは、半分ずつ犠牲にしなければならない話です。私たちにも利益があり、来た人も利益を得ます。道路局の大物の担当者が道路の建設について、「必ず騒音がありますが、あなたは何と言いますか。どうして欲しいですか。どう迂回させたいですか」と私に訊いたことがありました。

 私は「結構です。双方が犠牲と利益を半分ずつ分け合わなければなりません。人間が利益と便利を得るために、私も騒音を受け入れます」と言いました。私の原則はまったく音がない訳ではありません。永遠にまったく音がないようにしたいのではありません。自然の音があるようにしたいのです。

 それに、私はその音に動揺しない心があります。これが私の求めるものです。音がないようにと執着すれば、非常に面倒です。音がないように禁止できません。この世界には車の音も飛行機の音もありますが、私はその音を聞かず、その音で動揺もしません。心がその音に動揺しない。それが静寂です。

問 : 先生。たとえば映画館などスアンモークのいろんな物は、後でできる道路を見越して建てたのすか。

答 : いや、見越していません。お寺を作ったのは、道路を予測していません。初め道は、自然に歩く道があったので満足しました。道は自然にできました。最初はこの辺の住民とチャード郡長が、このお寺があるのを見て、田んぼの畦を道にしたので、それが道路になりました。それまでは田んぼの畦を歩き、一度田んぼの畦から下りて運河の中を歩いたので、ここへ到着するまでには、びしょ濡れになりました。

 彼らが協力して道路の形にしてくれました。何人もの郡長が少しずつ作ってくれました。チャード郡長が一番たくさん作りました。住民は信仰で来たのであって、何も強制はないと言っておきます。郡長がお役所に頼んで機械の油代を出してもらいました。人力でした部分も車でした部分もあります。

 初めの頃、私も見に行って、私もしました。行ける僧は全員行きました。全員で箕を提げて、列になって道に空けました。遠くで掘って一列に運びました。このようにしました。夜中にも行ってしました。一部の住民がご飯とおかずを持って来て振る舞い、大抵はそうめんでした。僧にも振る舞いましたが、果物です。僧にごちそうすると言えば、たくさん来ます。人にごちそうすると言うよりたくさん来ます。

 手伝った人が腹いっぱい食べられるのは、伝統習慣でした。今はすっかり変わってしまいました。新しい発展によって伝統は衰退してしまいました。このようにして道ができました。アジア線の道は後にできました。(1978年完成) 事前にほとんど何も知らなかったので、見越した計画はできませんでした。

問 : このように住民と一緒に働くことは、他にもありましたか。

答 : もう一度あります。運河をさらった時です。古いスアンモークから荷物を運んだと話した、あの運河で、住民はチャイヤー運河と呼びます。当時私は、こことチャヤーラーム寺を行ったり来たりしていて、トンさんがその辺の人と親しかったので、ゴミで荒廃した運河をみんなできれいにするよう呼びかけました。

 やる気を出すために、僧の舟行列を企画しました。住民は僧の舟行列を開催する信仰心があるので、徳を積むために、みんなで運河をきれいに整えました。利益があり、僧の舟行列のためにもなります。ただ運河の掃除をするより、気力になりました。

 当時はまだ道路はありませんでした。昼間は稼いでいるので時間がなく、彼らは夜来て、伸び過ぎた木を切り、木の根を切り、滑車を使って掘ることもありました。夜中の零時までしました。

 伝統です。僧の舟行列がこのお寺から河口まで行くなら、どこの運河でも、人は喜んで運河を整えに来ました。以前は道路も同じで、僧の行列がある季節になると、道を平らに均しました。どこかデコボコしていると、招集して行きました。プムリエンでは外道線も、サーラーカオホンへ行く内道線も、僧の行列のために均しました。

 きれいにした運河も使わないので、今はすっかり荒れてしまいました。道路ができ、車があって便利なので、運河を使いません。

問 : 先生。コンクリート建ての小さなクティ二棟は、特別な物があるのですか。その他は全部木造です。

答 : あそこは特別です。サムルーンの丘と言います。最初にマハー・サムルーンが一人で住みました。当初はみなこの辺に住んでいて、あの辺はまだ何もなく、一人でそこに住むのは、勇敢と見なします。臆病な人は住めません。マハー・サムルーンは頭陀をする人で、ある時代に行って住んだ初めての人です。

 その前は森の自然を美しく整えた最初の場所で、珍しい木があります。マイネはヒルギに似ていて、根はロープのようで、剪定したら美しくなりました。タンマの会話をする場所に使い、来訪者はあそこへ行ってタンマの会話をしました。

 その後、小さくて遠いので歩くのが大変になりました。後で遠巻きに木造のクティがたくさん作られたので、サムルーンの丘はクティの輪の中になりました。だからあの丘にふさわしい特別のクティを二棟作っておきました。

問 : 先生。建設工事の限界を決めておかないと、森の中に建物がいっぱいで醜くならないか心配ではありませんか。先生はまだ建てられるようですが。

答 : 可能なだけ作ります。風光を損なわないように、見ながら作らなければなりません。私は、自分は自然主義者だと考えています。自然主義で自然の技術があり、何をするにも自然と調和するように、何度も繰り返し考え、調和しなければ、調和するように変更します。

問 : 先生。スアンモークのいろんな工事は、必死でかき集めなければなりませんでしたか。

答 : まったくありません。少しずつ、自然にこうなりました。知る人が増えると、少しずつでも大金になりました。寄付を募ったことはありません。したのは映画館の時だけです。一度だけ規定を説明する個人的な手紙を書いたことがあります。

 それに年恒例法話の時、五六年、年に二三千バーツ貰いました。当時はたくさんと言います。それに、寄付で何かを作っても、私の所は、名前を刻まない習慣があります。小さなクティなどは、名前を呼ぶのに便利なので、特別な例外です。

 男女のための二棟の赤い大きな建物は、この規定に賛同した親戚と友人、他の人も含めたお金で作りました。

問 : 先生。寄付されたお金の使い方の規定はありますか。

答 : 特にありません。何か作るには、最高に理由があるように、最高に節約して、最高に価値に見合うようにします。自分でできることは自分でし、人を雇う必要があるものは雇い、買わなければならない物は買い、スアンモークの名前、あるいは個人の名前で作ったものは、完成したらお寺のもにします。

問 : 先生。「自分で作る」と言うのは、僧や沙弥が力を合わせて作るという意味ですか。

答 : 初期のスアンモークの僧は非常に力仕事をしました。誰が来ても、いつでも何か仕事がありました。その後便利のために、労働者の日を作りました。半月の日とワンプラの前日を、汗で「俺」を洗い流す日にして、身勝手をなくすために奉仕する日にしました。

 それ自体が高いレベルのタンマの実践で、誰も感謝する人はいません。以前は労働者の日は食べ物が足りませんでした。その日はあればあるだけ昼食を食べなければなりません。今は気持ちを理解して食べ物を振る舞ってくれる人が増えたので、少し良くなりました。何も報いを求めず、有難うの一言も期待せずに働きます。身勝手を減らすためにしました。

問 : 先生も労働者の仕事をなさったのですか。

答 : 初めは立って見ていて、一緒に働くこともありました。今はできません。昔も思いっきりはしません。立って見ていて、指揮してアドバイスしました。同時に本の仕事もあったからです。自分で砂を運び、セメントを捏ね、何でも自分でしたのは、チャヤーラーム寺にいた時の方が多いです。前に話した小さな建物は、子供二三人と一緒に作りました。自分で設計し、自分で流し、自分で削りました。ここではあまりしません。

 ああ一つあります。本を仕舞っておく倉庫の床と、本の仕事をする建物の前の床は、私が自分の手で作りました。他の人がしたのは気に入らなかったからです。濃い赤の床は、私が自分で磨きました。他の人は本気でしないので、自分でしなければなりませんでした。

 監督しなければなりません。いい加減にはできません。壁に小さな穴があれば、米粒くらいの穴でもシロアリが登って来るので、いろいろ面倒を見なければなりませんでした。昔は私用の大工道具が一揃いありましたが、今はどこへ行ってしまったか分かりません。みんなの道具と区別して、夜中でも便利に使いました。

問 : 先生が「仕事は、お金をつぎ込んではいけない」と弟子に忠告して叱っている文章を読んだことがあります。背後に何かご体験がおありですか。

答 : 困るからです。何かの仕事をする時、何も考えず、働く人の能力以上にお金をつぎ込んではいけません。力を越えれば困ったことになり、挫折します。お金の使い方に関して知識がなければなりません。人から貰って、布施されて、誤った使い方はできないので、節約して使わなければなりません。

 繰り返し考えて、何度も復習して、少しずつ広げて行くようにします。大きな計画をして人に借金して作ってはいけません。使い方を監理する智慧がないので破滅します。私は人から借金までして作ったことはありません。あるだけで作って、常に大きくし、能力に応じて拡張していく方がいいです。安全です。

 私の所には車が三台ありますが、捨てられた車です。チャムナーンさんが一台、モームチャオピアランシットが一台、そしてサーリーさんが、映画館の工事の運搬に使う時に買ったのが一台。あのトラックです。全部使わなくなった車です。モームチャオピアランシットがそう言っていました。「車を一台捨てて行きます」と。

 以前はここへ泊りに来ました。夫婦で清信女の区域のタウィーさんの大きな家に泊まりました。特別なお客さん(王孫)なので、男の人でも泊まりました。

問 : 先生。特別に泊める、どんな規則がありますか。

答 : あの方は特別なお客でしょう。特別でない物がありますか。他に仕様がありません。どこかへお泊めすることもできません。こういうのは律にもあります。特別に大目に見るのもあります。仏教の教えです。

問 : 先生。なぜ一般庶民のようになさらないのですか。

答 : 都合が良くないことがあります。モームチャオプラスードシー チャヤーンクーンも家族であそこへ泊まりました。他へ泊まると非常に大変です。

問 : 先生。四十年前のスアンモークに関した夢と、今のスアンモークの現状と一致しますか。それともどれくらい違いますか。

答 : 夢見たことはありません。考えたことも、何かたくさん計画したこともありません。このようにしてきました。一瞬の考えで、気楽に作って来ました。初めはほんの少しで、タンマの実践のために、スアンモークという簡素なタンマの実践をする場所を探し、今は広大な場所になりました。

 初めはこのような建物ではなく、小さな小屋に住むことを望みました。しかし作らなければならない状況に迫られました。庶民の利益を考えてプムリエンで始め、そしてここへ移転して来て広くなりました。

 話したように時々ここを通ったので、何度も話しているうちに、「よし、ここを買おう」という話になりました。まだチャヤーラーム寺でぐずぐずしていて、まだあそこに縛られているけれど、思い切って、とりあえず買っておこうと、買いました。買おうと思って買えました。登録やら何やらをして、サンガと関わらなければならず、不都合が生じるのが心配で、初めはお寺にしようとは考えませんでした。

 森の施設のように住むことはできないので、初めは二つに分けていました。誰も何もしないように見えたので、お寺にした方が便利だと考えるようになりました。県僧長も「できない。二三十人いたらお寺にした方がいい」と言いました。向こうも妥協して簡単にお寺にしてくれたので、王から下賜される土地の申請も簡単でした。幸運にも、常にいろんな仕事をして来られました。

 今一か月の支出は一万バーツ近いですが、これも幸いやっていられます。初めの頃は月に五六十バーツでしたが、今はおかず代が六千バーツで、電気代が上がって二三千バーツです。初め電気代は月に千バーツは越えませんでした。電気コンロ、アイロン、電気釜を使わないようにお願いしたことがあります。きっと隠れて使っている人がいるんでしょう。米代、砂糖代は別です。工事代はこの中に含めません。それは月に一万バーツくらいです。

問 : どこから入りますか。

答 : いろんな人がくれます。ほとんどは親しい人で、誰でもくれます。定期的な人も、定期的でない人、楽な時の人もいます。それからお寺に徳を積みに来る一般の人もいるので、合わせると生活できます。

問 : 先生。庶民のお金を使って、見合った価値がないと感じられたことはますか。

答 : お金を使って見合わなかったことは思い出せません。しかし一つ、使って価値がなかったと言うことがあります。本堂の近くにある三蔵塔です。三蔵塔として使うつもりが、小さな住まいになりました。価値があるかどうか検証すれば、価値に見合いません。これから価値に見合うようにしなければなりません。

問 : 先生が夢見て、成功しなかったこともあるということですね。

答 : おー、たくさんです。みんな忘れました。映画館の絵にボタンをつけて、ボタンを押すとどの絵も説明の声が流れるようにしようと考えました。それには絵の所に小さな録音機を設置しなければなりません。ボタンを押すと説明が聞こえ、適当に止まります。作ろうと思えば作れます。しかしお金を使って見合うかどうか心配しました。それほど宣伝したことがあります。サーリーさんに話すと、彼も他に宣伝しました。

問 : それにインドのミニチュアを作るのも成功しなかったですね。

答 : それはまだ懸案中のことの一つです。まだ考えは残っています。あっちの土地で、全部で六ライ(二千四百坪)をインドの庭にします。縮小した複製でインド園を作り、ブッダの聖地を展示して、上から見ます。高い所から見ると、どうなっているか見ることができます。利益を損ねないちょうど良い大きさの塔を四つ五つ。

 念処やヴィパッサナーをする場所にもできます。そして低い部分には水を入れて海にします。インド園の周囲にブッダの伝記の絵を描いて、ブッダの生涯を歩いて見ることができます。まだ考えています。都合の良い時が来れば、続けるかもしれません。

 この考えは、インドの野外博物館から貰いました。古代のもの、石ばかりが、すごく広い広場に展示してありました。屋根はなく、垣が周到に張り巡らされ、時代ごとの通路になっていました。それを見た時に考えが生まれました。でも多分できないでしょう。聖地だけでもたくさんあります。

問 : 何かを作る時は、先生が発案なさって、そして受け入れる人がいるとできるのですね。

答 : 話さなければなりません。話すと手伝わせてくださいという人がいます。インド園の隣の森の部分は、周囲を壁で囲ってヴィパッサナーの区域にしようと思いました。大乗にしようと考えたこともあります。大乗の人が来て住みたくなるような、大乗の区域にしようかと。

 それがダライラマの耳にまで入り、あの方がスアンモークを訪れて「私が作ったら、所有権を貰えますか」と訊きました。私は「駄目です。タイの法律ではそのようにすることは許されません」と答えました。ヴィパッサナーをする区域なら、周囲を壁で囲んだ小さなクティを作ります。ある時代ある時は、托鉢に出なくても良いかもいれません。

 洞窟の話をしたことがあるでしょう? 今また始めるところです。外国人のためのスアンモークです。何と呼ぶか、まだ分かりません。パンヤーさんはスアンモークナナシャート(国際スアンモーク)と呼んでいます。私はアーソムナナシャート(国際修道院)と呼びたいです。

 しかしまだ、スアンモークの事情を考えての合意ではありません。犬はみな外国人がいるのを嫌がります。なぜだか分かりませんが、反りが合いません。きっとバターか何かの臭いでしょう。犬は臭いに敏感です。

 だから道の向こう側の椰子林を買っておきました。ヴィパッサナーの庭にして、適当に泊まる所も作ります。それに傘を立てる所も。西洋人に傘(頭陀用の)の使い方を教えます。それぞれが傘を使えば、自然に心がスッキリ快適になります。でも今は雨季なので難しいです。

 遊び遊びしておいて、乾季になったら人をいっぱい招集して、何とか住める家を建てます。家を建て過ぎれば自然が無くなってしまいます。今は日陰で清々しいです。椰子の木陰が好きな人は多いです。深い教えの知識が十分ある西洋人もきっといるので、私が支援します。

問 : 全部の仕事を、亡くなる前に作られるのですか。

答 : おーい、そんなことは考えません。考えませんよ。楽しくなればいつでもします。遊び半分で考えておいて、楽しくなったらし、死んだら後の人に続けてもらいます。今できなければ作りません。ずっとしなくても良いです。作る必要がない時は、あるいはできない時は、唾を吐くように捨てることもできます。少しも苦はありません。挫折したから恥ずかしいとも思いません。

 できれば作り、今止めることもできます。縁次第です。今あるスアンモークを止めることもできます。今止めることもできます。止めなければならないなら、困りません。心は苦でなく、残念でもありません。

問 : お若い頃、先生は一度スアンモークを止めようと考えられましたね。

答 : それは本気ではありません。止めなければならない原因と縁がはっきりと現れてなく、仙人かムニーになって一人で暮そうという考えでした。それならスアンモークは止めなければなりません。あるいは他の人に任せなければなりません。しかし利益が小さく、このような集団で暮すより、庶民の利益は少ないです。



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