問 : 先生。ナリケー池は何方が手伝いましたか。そしてどんな経緯がありますか。
答 : あれは、ローグッタラ(脱世間)の深い意味がある、南部の、特にチャイヤーの子守唄に由来しています。この池は、先祖のタンマの真剣さを記念するために作りました。「涅槃は輪廻の中にある」という意味がある、ローグッタラの最高のタンマの歌詞があるので、五六百ある子守唄の中からこの詞句を選びました。
ナックタムの学校で、ローギヤ(世間)とローグッタラ(脱世間。聖)は、天と地のように方向が反対と教えられました。それは、ブッダが『どこに苦があっても、そこに滅苦がある』と言われたことを、誰もが揃って忘れているからです。涅槃は滅苦の極みなので、最高に苦のある所になければなりません。
スアンモークには、目を引き、心を引き、タンマについて考え熟慮する切っ掛けになる物をいろいろ作りたいと思いました。この池もそうです。精神の娯楽の備品と言います。
この池はスチット パントゥマナーウィンさんが作りました。トラクターを借りて来て、スチットさんが一人で池を掘りました。トラクターを使ったので一人でできました。信じられません。(笑) 神業です。信じられない技術者です。
問 : 先生。それでスチットさんは、どのように先生を支援したのですか
答 : スアンモークを知って町の生活を捨てたくなり、向うから来ました。きっと森の暮らしの利益が見えたのでしょう。それで出家させてくださいと言って来ました。私がすぐに出家しないで、それ以上に役に立つことをしてくれるよう頼んだので、黄衣をまとわない形の出家をし、出家の様に住んで、いろんな仕事をしてくれました。
一番の仕事は電気小屋でした。それまでの電気は不便だったので、自家発電にしました。医者のパイブーンさんが発電機を送ってくれ、スチットさんは知識があるので、いろんな道具を買って、電気関係の仕事は何でもしました。
車の修理、道路工事。あちこちから石を運んで来た時は、スチットさんがトラックの運転をしました。彼はクティを自分で建てて、ナーンエー山の上に住んでいました。鉄骨で二棟作りました。その後ティエンさんが少し年を取って先生格になったので、別れてあそこへ行き、木造のをもう一棟建てました。
私も自分で小さな東屋を一棟建て、座って景色を眺めました。屋根はトタン葺きで、床の下は物置になります。あの頃はよく日の出を見に行きました。そこに泊まらずに、朝四時頃登って日の出を見ました。写真も撮りました。夕方は座って景色を眺めました。あの頃、木は邪魔になりませんでした。景色を隠す小さな枝を剪定したこともあります。
問 : 先生。スチットさんのような出家に成果はありますか。
答 : 成果はありますよ。勉強と仕事を同時にしました。スチットさんだけでなく、あと二人、サーンさんとピニットさん、そしてマハー・イアムは同じ種類の生活で、出家を先送りして、仕事を手伝いました。サーンさんはスチットさんの仕事の手伝いで、ペンキを塗ったり、ニスを塗ったりしました。セメントを混ぜるのはスチットさんの仕事で、非常に長い間混ぜました。ピニットさんは清信女の家を建てる時に大いに貢献し、何棟も建てました。
その後スチットさんは、病気になった母親の世話をするために帰宅しなければなりませんでした。母を援けるお金を稼ぐためには、仕事をしなければなりませんでした。意志が強くて、ここへ来た時、奥さんがどんなに頼んでも家へ戻ろうとしませんでしたが、今はナコンサワンに、高齢になってから住む家を作ったようです。私の詩を鋳抜いたプレートをいっぱい作りました。行って来た人が言うには、良い風と良い水があり、何もかも美しい丘だそうです。
サーンさんはその後出家したいとせがんで出家しましたが、三四年で還俗し、今は妻も子もあるようです。戻って兄さんと旋盤工場をしています。ピニットさんは今でもあの状態のままです。あまり元気でなく、気の毒です。いろんな仕事を手伝ってたくさん働いたので、今は休んで養生しています。
舟の頭の向こうの森の「チャムナーンさんの池」は、スチットさんが作り、他の人も手伝いました。舟の頭の所を島のような塊にしました。チャムナーンさんは、彼の母親の記念に何か作りたかったので、こういう形で池を作りました。
池は以前には、綺麗な石を椅子にして、タンマの会話や休息する場所でした。昼間お客があると、そこで会ってタンマの会話をしました。池の周りに座ると、静寂が会話を聞き易くし、大声を出す必要はありませんでした。
魚を飼って楽しむこともできます。雨季には水がいっぱいで、野生の黒鳥が来て泳いでいたこともありました。体は黒く口が赤でした。こっそり見に行った人もいました。池の縁は全部石です。大きすぎたかもしれません。何かが間違ったので、地下水の水位によって水面が上下し、雨季には縁まで水があって、涼しいです。
問 : 先生。プッタトーン山の上の「三蔵塔」と呼ぶ二階建ての家はいつ、何に使うおつもりで作られたのですか。
答 : 三蔵を仕舞っておく場所にするつもりでした。ここにスアンモークを作った時から、三蔵を安全にまとめて仕舞っておく場所が欲しいと思っていました。パーリ(ブダの言葉である経)があり、アッタカターがあり、長部、中部がある、クルンテープのような完璧な三蔵塔が。しかし完璧でなかったので住まいに使っています。特に行事があって僧がたくさん来た時など。
その後、去年、船の頭の所に図書館を作りました。ソッムヨット(プラ・ソムヨット ヨットモー)さんが中心になって作り始め、今年(1985年)開館しました。何組もの三蔵をこの図書館に集めました。ちょうどランチュアンさんが来たので、ラームカムヘン大学の司書部が何度も来て並べたので、きちんとなりました。以前は本を読むだけの小さな図書室で、タンマ堂の一階に、テーブルを置いて椅子が囲んでいるだけでしたが、最後には舟の頭の下に来ました。
図書館の本は、いろんな人から貰い、何年もたつとたくさんになりました。三蔵をくれる人が何人もいました。百科事典はチャオチューンが買ってくれ、中国の三蔵もはタンモーシエン医師の紹介の中国人が買ってくれました。名前は忘れてしまいました。ビルマの三蔵は、ビルマで開催された第六回結集の講演に行った後、送って来ました。それ以外は貰った一般の本です。
プムリエンのスアンモークにいた頃から、送ってくれる人が出始め、知る人が増えると、送ってくれる人も増えました。プラ・ドゥラヤパークスワマンが亡くなった時、子孫が彼の本の一部を送ってくれました。全部ではありません。。自宅を「プラドゥン図書館」として開放したので、たぶん重複している本を送ってきたと思います。
問 : 先生。ではサーラータンマコートにある本は何ですか。
答 : あれは録音テープも含めて、私が書いた本を全部まとめておく場所です。それに遺骨を置く場所でもあります。私が死んだらあそこに置きます。仏像の台の下に入れてコンクリートを流します。何千年も後の人が開けて見ると化石になります。(笑) 三千年後には人骨の研究の利益になります。(笑)
もう一つ、本を書いた人は書いた本と一緒にいるべきです。そしてここをタンマの会話をする場所にしたいです。刻んでおくための詩を書いたので、記憶して行く人もいます。
あまり本気ではありません。何でもいいです。後の人次第です。後の人がしなければそうなりません。しかし後の人が便利で利益になるように考えます。ワンプラ毎に、あそこでタンマの会話ができれば、私がまだ生きているような、まだ居て、仏教に奉仕しているのと同じようなタンマの進歩があります。
サーラータンマコートは、この世でどれくらい仕事をしたかを証明する作品を集めておく場所です。
問 : 先生。サーラータンマコートに置いてある、行事の時に持ち出す法台は、他の物と違っているように思いますが、あのようにする理由があるのですか。
答 : 貧乏だからです。(笑) 貧しいので、これで十分だと考えました。質疑応答が二か所である時のために、手すりがあるのを二つ作りました。寄りかかれる背もたれがあります。法台がなければ、何を使ってもいいです。どこへ座っても構いません。椅子でもいいです。どうにでもなります。
私は、どこにでもある前が開いているのは好きじゃないので、横を開けました。横から上ります。どこへ行っても、前面から法台に上る物ばかりです。座ったことがありますが、煩わしいです。きちんと脚を組むまでもたつくので、衣がはだけないように気をつけなければなりません。聞きに来た人も注目しているので、横開きの方が良いと考えました。しかし本当の昔のように高い、頭よりも高い尖頂のついたのは、横から階段を上るので快適です。
私は、特別な法台を見たことがあります。真似しようと思いましたが作りませんでした。上り下りする扉以外は、全面が覆われていて、穴だらけで風通しがいいです。上は尖っていて、中に入ると誰にも見えず、声だけ聞こえます。四方は風通しが良くて説教者の顔は見えません。座っても寝ても、どんな姿勢でもでき(笑)快適です。
チエンマイで見ました。初めは何だかわからなかったので人に訊くと、法台だと言うことでした。説法をする僧には好都合です。大生経の法話に使うのではないかと推測します。揺れても動いても震えても自由で、見苦しくありません。首を振っても顎を動かしても、体を揺するにも快適です。しかし今は作ろうと思いません。過剰です。
問 : 先生。では「クティ・アーチャンチャー」と呼ぶ小さな建物は何ですか
答 : ああ、舟の頭の所にあるクティ(僧房)は、大物の僧など特別な客のために作りました。アーチャンチャーの名前が出ましたが、アーチャンチャーがここへ来ようとしたことがあったので、泊まれるように作りましたが、その前に病気で倒れてしまったので、もう来られないでしょう。それでその時から、記念にクティ・アーチャンチャーと呼んでいます。特別な客のためです。
問 : 上に五本柱がありますが、意味は何ですか。スアンモークでこういう建物をたくさん見たことがあります。
答 : 五本の柱は好きです。考え方、本当の起源ははアマラワディです。アマラワディの寺院はどこにも、仏像を祭ってある所にも五本線が引いてありました。私は五という数が好きなので、他のいろんな物に代わる一つの象徴として五本の柱にしました。
「五を捨てる」とは五蓋で、「五つの行動」は五力で、五つの結果は四つの聖向と涅槃で五つです。他にも五つの物はたくさんあります。心の中にある個人的な満足です。他の人がどんな解釈をしても自由です。私は心で五根、五力と考えるのが、一番ぴったりします。インドのアマラワディ時代には、五人のブッダを意味していたかもしれません。
問 : それでは先生が今住んでいらっしゃる小さな住まいは、どのようにできたのですか。
答 : あれは病気になってできました。病院を退院してほとんど歩けず、あの部屋には病人のベッドがあるので、病院から戻った後(1975年)ここに住んで療養しています。浴室もトイレも中にあるので便利です。あの頃は夜中も小便をしました。
問 : 先生。清信女の区域はどのようにしてできたのですか。初め先生は認められなかったと聞いていますが。
答 : 初めの考えでは作らないつもりでしたが、台所が必要になったので作りました。台所がない頃は、沙弥や僧が助け合って問題を解決していました。チャルームさんがプラメーバーンと呼ぶ、煮炊きができる小さな下屋をプッタトーン山の方の食堂の裏に作り、その後それでは足りなくなりました。
僧や沙弥が増えると、手伝う人も増えました。初めはニアムさんの母親のセー小母さん一人だったので、ニッパヤシで葺いた小屋を作って住みました。それから客の出入りが多くなって、初めはセー叔母さんと一緒に泊まりました。その後、耐久性のある物を建てました。永続的な台所です。それから台所の手伝いをする人が増え、ピーシンが二番目だったと思います。
だからその後小屋を作って、最後には何とか住める家になりました。ヨーム小母さんは三人目で、四番目がいて、五番目はアルンワディーさんです。チューム(ホンナンタ)さんがいた時に拡張して、老人の共同生活所になりました。タクアパーが泊まる家を作らせてほしいと言い、クーイ小母さんの親戚が隅の家を作らせてほしいと言い、タウィーさんは大きな家を作り、何人にもなって、清信女区域の敷地いっぱいに、一角になりました。
そこが広く空いていて、何もしなければ荒れ地になるので、道を作って清信女区域にしました。しかしチーの施設は作りません。チーの出家は受け付けず、他で出家してから来ました。これらの家は、資金を出した人もいます。ピニットさんは、幾つかの棟を建てるのを手伝ってくれ、出したのは備品代で、ピニットさんは労働力で非常に奉仕しました。人に請け負わせて作らせた棟もあります。
私は、極力簡素にするよう、適度な間隔を空けるよう提言しただけです。
問 : 先生。台所ができる前は、僧や沙弥はどのように食事を作ったのですか。
答 : ほとんどは貰った弁当を温めるだけでした。弁当ごと蒸し器に入れて蒸しました。当時は弁当をもって歩きました。子供が僧の後から弁当を下げて行きました。(註:日本のお花見の弁当のような、何段も料理だけを入れる容器を弁当と呼び、食べ物のことではない)。
食べ物が残ったら、一つの鍋に集めて煮詰めました。ゲーンルアムと呼びます。聞くとおぞましく感じますが、それが食べられる物になります。時にはどう調和したのか、美味しいこともあります。何でも構わず入れてしまい、毎日煮ました。水牛の糞のようで、ゲーンルアムと言います。何年もこのようにして来て、できなくなったので台所を作りました。野菜やら何やらは住民が持って来てくれたり、買ったりしました。
台所がまだ完全でない時、雨安居にはゲーンウェンもありました。つまり住民が順番でゲーン(カレーなどの汁物)を持って来ました。一日に四つか五つの鍋で、九人か十人の沙弥と僧でちょうど足りました。
台所が出来ると住民に迷惑を掛ける必要がなくなりました。初めの頃の食費は月に五六十バーツで、段々高くなって、今は月に六千バーツ、一日二百バーツです。僧がだいたい七十人なので、平均一人三バーツです。雨安居が明けると僧が減るので、残ったのは取っておきます。特別の行事がある時、研修や何かがあると僧が多くなります。
問 : どうして初めの頃、先生はチーを置きたくなかったのですか。
答 : 昔の人は、女の人、あるいはチーが関わって来ると問題があると信じていました。昔の人の言葉です。
問 : 実際に面倒なことがありましたか。
答 : 「一度もない」と言うことができます。読経でも勤めでも、初めから別にしました。チーと僧や沙弥が一緒に唱えるのは適切ではありません。
問 : 先生。受け入れる規定、住む規定は何がありますか。
答 : 何も決まりはありません。人を見て、面倒を起こさないと信じられそうなら、住むのを認めました。規則は自然に分かります。あるいは習慣に従います。
問 : それでセー小母さんは、どんな支援をしましたか。
答 : 台所の主任を十年以上していました。初め彼女はかなり暇でした。夫が亡くなって、家には子供であるニアムさん一人だけで、暇があったので、台所を手伝う前に、草刈りをしてくれ、最後には寺に泊まるまでになりました。人がいないのでみんなが勧め、私は頼みませんでした。直接勧誘しませんでした。他の人が「お寺の手伝いをしなさいよ」と勧めたので、彼女はお寺に来ました。
その後チャオチューンが時々来て、娘を説得してチエンマイに行かせました。セー小母さんは年を取ると、チエンマイにいる娘と一緒に暮らしました。あっちではいろいろ良くしてくれ、旅行や何かをしました。行く前にチーのプラトゥアンが来、ワートさんもペッブリーから来ました。セー小母さんは長い間苦労して、高齢になって、向こうで亡くなりました。
問 : 先生。いろんな工事をする時に先生の力になった人は、どなたがいますか。
答 : 初期の長い間は、クリン叔父、プラクルー・ストンができなくなるまで、歳をとるまで、亡くなるまでしました。トンさんもとても老いました。その次の時代はスチットさん、ピニットさん、お話したサーンさん、その後はピンさんが工事を指揮しました。スアン爺さん、ポーティさんが協力して、私が人を雇って、ピンさんが監督して大きな建物二三棟を建てました。最後の時期はピンさんが監督しました。
請け負う人はいません。この村では誰も請け負いません。食堂と赤い建物二つは、この方法で作りました。人を雇ってピンさんが監督しました。今でもこの方法でしています。人を雇って部分毎に、あるいは一つずつ、平米当たり幾らか、一メートル当たり幾らか見積ります。サーラータンマコートは素晴らしいです。
僧と沙弥の力で作りました。人を雇っていません。ルアンチェーム爺さん、ポーティさん、ソムヨットさんが中心で、私が簡単に、すごく簡単に設計しました。
問 : ピンさんはどのように支援しましたか、
答 : これも珍しいです。チェムさんが誘いました。ピンさんは食べるに困らない生活で、家での勤めが終わってから、昔の伝統で最後の人生を宗教に捧げたいと思ったので、可能な限りお寺の手伝いに来ました。建築工事の知識があったので、すべての工事の監督を任せました。
お寺に住んで、善以外に何も報いを求めず、あるいは出来事にふさわしい小さな支援だけで働き、私の負担を非常に軽くしてくれました。
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