4.本堂・年例法話・曲石庭





問 : 先生。スアンモーク式菩薩堂はどのようにできたのですか。そうなさった目的は何ですか。

答 : 簡素で倹約で、ブッダの時代のようです。ブッダの時代には、現在のような菩薩堂の建物はなく、ブッダは野外を使うことに決めていました。あるいは滞在している精舎を使われました。国王から与えられた土地の中にいると規定しています。国王から与えられた土地は、人の集落から離れています。

 ここへ来た当初は、チャヤーラーム寺の菩薩堂へ行って出家式をし、その後お寺になって国王から土地を下賜されたので、プッタトーン山の山頂を菩薩堂として使いました。

 最初は、あそこをスアンモークの年恒例行事である説法をする場所として何年も使いました。初めは高い丘だったので、その丘に説法台を三つ作りました。聞く人が周囲に座り、下に座る人までいました。

 その後、サンガの仕事や出家式をする菩薩堂として使うために、丘を削って平らにし、つい最近、もう一度平らにしたのが最後です。菩薩堂として使っている所は、シーウィチャイ時代の塔が建っていた場所で、シーウィチャイ様式のレンガが散らばっていました。

 私が発見した時は深い穴があり、下に塔の基礎が転がっていました。盗掘の話なので、発見した後レンガや土で穴を埋めて、上を平らに均して座れるようにし、それからずっと説法する場として、菩薩堂としても使っています。国王から下賜される前に、「僻遠の地」として一二回使いました。十分村から離れているからです。

 国王から下賜されると、塔の基礎も、丘の高い所も全部境界線の中に入って許可されました。担当者が来て、きちんと下賜された土地の境界を埋めました。しかし結界は結んでいません。必要ありません。「ニミッタの子を埋める」と呼んで、彼らはお金を集めるためにしますが、私はしようと思いません。するべきことはちゃんとしました。

問 : 先生。さっきスアンモークの年恒例行事についておっしゃいましたが、それはどんな経緯がありますか。

答 : それは、珍しい話を選んで、社会が聞いたことのない話を聞けるようにするためです。ヴェッサンタラジャータカ(布施太子)の話もしたことはありますが、他の人と違うようにし、私には私の様式がありました。

 僧のこともあり、在家のこともありますが、ヴェッサンタラなどの話を歌うのが上手な人を選んで、その人が美しく歌った内容を説明しました。歌ったのはソーンさんやプラクルー・ソムブーンで、重要な部分を十五分ばかり歌ったら、私が一巻から最後の十三巻まで、部分に区切って説明しました。意味が分かっていいです。区切って交互に歌うと、聞く人も満足します。誰もした人がいません。

 今までしていたのは、何時間も背中が痛くなるまで聞いて、あまり意味が分かりませんでした。私は全部タンマで説明するので、簡単に理解できます。私の会はだいたい三時間で終わりました。夕方過ぎまで掛かるのは駄目です。住民は遠くから来ているので、家へ帰らなければなりません。

 ある特別な年は、パンヤーさんとブンチュアンさん、そして私の三人が説法をしました。普通は私とマハー・サムルーンが基本です。ほとんどは私が解説者で、決まった準備はしません。半分は準備し、半分は法台の上で考えました。よく知っていることを質問する質問者次第で、たとえばアナッタラッカナ経について説法をすると、いろんな観点から質問し、アナッタ(無我)などについて理解を生じさせました。ミリンダパンハー経も説法したことがあります。

 ここへ来て二年目、一九四五年から始めて、四五年して止めました。食事を振る舞う人が見つからなかったからです。人が多いので非常に疲れます。見積もって見たことがありますが、一年に二千人から三千人でした。

 ソンクラーン(旧正月)の行事をすると、人がお寺へ遊びに来て、説法も聞きに来ました。昔からの習慣で、この辺の住民はソンクラーンにナーンエー山へ遊びに来ました。ターチャーンやターチャナの人が、ソンクラーンにはここへ遊びに来て、洞窟にある仏足を拝みます。

 あの洞窟は石を削って作った洞窟で、石像を作って、町へ持って行って下に仏足を彫りました。洞窟の入り口に彫刻もあります。きっとアユタヤー時代で、彼らは町中にアユタヤー式の仏像を作りました。きっとプラボロマトライローガナートの時代で、当時は、国も宗教面で穏やかだったと思います。

 年恒例説法は、お寺のいろんな物を作るために、必要な物を集めたこともありました。一つの村でプムタナバット(木の枝に住民が寄付した紙幣を挟んだ、七夕の笹のような物)を一つか二つ作って、あの村もこの村も、列になって持って来ました。だから行事にはプムタナバットでいっぱいになりました。

 モーターイ方面、タクルップ方面、パーウェー方面と系列があり、小さなチラシを配って親しい人に知らせました。こういう風習は、何度もしないうちに簡単に賭場ができ、何年にもなると家の主人も堪らなくなって止めました。

 彼らは遠くから四五時間も歩いて来るので、お寺に着くとお腹が空くので、食事を振る舞わなければなりません。買おうにも、今のようなのはありません。お金は幾らも掛かりませんが、作る人は大変でした。二三千人の人に食事を振る舞うのは、簡単ではありません。関口に住んでいたピーホーが料理長になって、誰も何も言えないくらいきちんとしました。料理をする人はほとんどこの辺の、関口集落の人でした。それにケオ寺の辺りの人もいました。

 お寺に泊まってそうめん(の汁)を作らなければならず、あるいは持って行って家で作る人も、家から作って来る人もいました。ターンナムライの所に、今大きなゴムの木がある所に、調理場を作りました。あそこには大きなシロアリの塚があったので、塚の周りを掘って回りに中華鍋を置けるようにしました。それに物を置く長い小屋も作らなければなりません。すべて疲れるだけでした。

 食べる人も疲れます。貰うまでにはすごく歩かなければならないからです。説教を聞く時は、一階に寝て聞かなければならない人もいました。そして聞き終わったら、急いで遠くの村に帰ります。あまりしっかり聞きません。近くに住んでいる人は利益がありますが、遠くに住んでいる人は、あまり利益がありません。しまいにはできなくなって、止めさせてもらいました。四五年やっていたようです。

問 : 先生。曲石はどんな経緯がありますか。

答 : 初めはタンマ堂で食べていましたが、外で座って食べる考えが生じ、外で座って食べました。まだ曲石にはなってなくて、何か特別な行事の時という意味です。その後「模範会食」と呼ぶようになりました。

 普段はタンマ堂で食べていて、それから曲石の考えがだんだん生まれました。どんなきっかけで生まれたか憶えていません。しかし私は曲線が好きです。三日月は下手な芸術より美しいです。それに便利です。僧の長が真ん中に座ると、他の僧が全部見えます。

 初めはもっと前の方にありました。今のように山の麓近くまで奥まっていませんでした。地面の上は便利じゃなく、清潔を維持し難いです。ある年にクルンテープ(バンコク)から来た人が、そこで説教を聞いて体中が痒くなりました。原因は犬の蚤だったかもしれないので、地面を高くして曲石にすることを考えました。

 僧に振る舞う時も使い、普段は説法を聞くのに使いました。雨が降ったら、初めはタンマ堂を使い、その後映画館や舟ができてからは、雨が降った時は食堂として使い、説法は大きな舟を使いました。いつでも変化しています。

問 : 先生。模範会食は、何のためにあるのですか。

答 : 模範という言葉は一般に使われる言葉で、行動して見せます。話すだけでなく見せます。模範会食は、ブッダの時代はどのように僧に食事を振る舞ったかを見せます。

 昔は僧がきちんと座り、それから施主が配膳するために鉢を預け、施主が鉢に食べ物を入れて座っている僧の所へ持って来て献じ、食べ終わると祝福します。初めはここでもそうしていました。つまり曲石の前の大きな石の上に鉢を並べて、在家支援者が鉢に入れ、曲石に座っている僧に献じました。

 たくさん運ぶ人が必要で、その後運ぶ人が足りないので方法を変えました。僧が座っている前に鉢を置き、鉢の中にいろんな料理を一緒に入れ、お菓子は鉢の蓋に入れます。内部ではネコ皿の托鉢と呼んでいました。

 タンマ堂を使っていた時にこの方法でしたことがあります。鉢を持って行って盛り付けるのは、やり難いです。持って来る時に誰の鉢が分からなくて、入れ換わってしまい、管理が難しいので、目の前でよそるようにしました。何百人の僧でも大丈夫です。そして食べている時にもお代わりができます。断るまで入れる時もありました。食べる時は手で食べました。一日特別にブッダを崇拝するために、手で食べるようお願いしました。

 このように食べるのは、特別な機会だけで、当初はワンプラ(菩薩日)毎に、そして特別に食事を振る舞う人がいる機会にしていました。その後ワンプラ毎の代わりに土曜毎にしましたが、今は止め始めています。

 しかし特別に振る舞う人がいれば、その人を支援します。かなり大変で、振る舞う人も、食べる僧も、非常に時間が掛かります。便宜のために、ほとんどは食堂で食べます。特別な仕事をしている僧は、持って行ってクティ(僧房)で食べることもできます。食堂で食べることを、電車式と呼んだことがあります。ワゴンに食べ物を載せて運び、両側に座っている僧の鉢に、好きなだけよそって、移動します。

 病気になってから、私は一緒に食べないで、一人だけ特別にしてもらっています。そこへ行って座らなくても良いように、パスさせてもらいます。食べ終わるまで座るのは体に堪えます。特別な人、名誉ある、恩のある人が来た時は、歓迎のために、話しに行きます。

問 : 先生。それでは曲石を造った時は、どこからどのように運んだのですか。

答 : プッタトーン山の窪みの所から掘り出しました。時々僧が力を合わせてし、バンヤットさんやポンサックさんが良く働きました。二メートル八百バーツで人を雇って掘ったこともあります。土の混じった石の山で、掘ってお寺中で使いました。石の学校もここの石を使いました。

 その窪みを、洞窟にしようと思って洞窟と呼んだこともあります。山を掘って向こう側へ貫通させ、天井をコンクリートで覆って洞窟にしようと思いました。スアンモークには洞窟がないので、洞窟を作る考えが生まれましたが、中断しました。人を巻き込みたくありません。多分後を引き継ぐ人がいません。非常に大変です。

 作るなら、カンボジアの遺跡のようにします。こちら側から入ってどんどん歩いて、出口まで一キロもある人口の洞窟です。

問 : 石の学校は何に使いましたか。

答 : タンマの研修に使いました。私がまだ活発に動き回っていた頃は、時々使いました。学生たち、判事たち、シスターたちはみなあそこを使いました。ボロマタムの一連の講義もあそこでしました。昔はスアンモークの美しい一角で、景色もきれいでした。今は使わないので荒れました。きれいに片づけて白い砂を下に敷けば、美しくなります。

問 : 先生。曲石や石の学校を作られた時、デザインをしてくれた人はいましたか。

答 : いません。この辺に、この種の技術者はいません。私も何もデザインしないで、何が問題になるかを見る一瞬の考えで直しました。私はスッキリして清々しい自然が好きで、海へ遊びに行った時、いろんな景色を見て、ここにも石があるのを見たので、それを使って、清々しく並べました。

問 : 先生。初期のスアンモークの便所は、なぜ変わった形なのですか。

答 : (笑) 簡単で珍しい形にしたかったからです。窓が広くて鬱陶しくありません。このような森では、どの方向にも見る人はいません。交番と誤解している人もいます。私は、便所を「ヴィパッサナーをするクティ(僧房)」と呼んだことがあります。(笑) 友達を真似れば、アスパ(汚物)を熟慮することもできます。以前そこには、私だけが使う小さな便所が一つあって「クティ ヴィパッサナー」という看板を掛けていました。




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