3.映画館と彫塑館





問 : 先生。映画館と彫塑館はどちらが先にできたのですか。目的は何ですか。

答 : 次々に、同時にできました。映画館ができたら、中をタンマを教える絵を展示するのに使い、外はどうしたら良いか考えていると、インドの石の彫刻を思い出したので、彫塑館がなくてはと思い付き、石の彫刻の形を塑像で作って外に置きました。

 古い彫塑館は今のような人形のためのものでなく、最初は、石の彫刻の複製による、ブッダの伝記を現したレリーフを作る場所でした。その後タンマを教える人形を置くようになり、そしてアパーヤムッカ(破滅の原因。悪事)を捨てる所、いろんな中毒になるものを止める場所になりました。

 スアンモークは常に工事していました。私が今いるクティの隣の建物は、本の倉庫で、一階も二階も、タンマコート百セットが仕舞ってあります。全巻揃うと百セットあり、学習するために、いろんなふさわしい場所に上げます。

 今は五六十印刷できますが、百冊で十分だと思います。百冊で百セット。でも、もしかしたら先に死ぬかも知れません。後の人がきっとしてくれるでしょう。全部セットにして、贈呈するべき場所に贈呈します。外国も、もしかしたら必要かもしれません。

 映画館を作ったのは、初めはタンマを教える絵を描きたかったからです。インドのアジャンダー洞窟の絵を見た時から作りたいと考え始めました。無駄にならないように、中は集会にも使えます。カンマターン(業処。念処)やヴィパッサナーを教えることもでき、タンマを聞く場所、スライドや映画を映すこともでき、何でもできます。

 二つの舟は、雨水を溜める所です。映画館の前の小さな船は、映画館の屋根の水を溜めます。それから私は石庭が欲しいと思い、屋上が平らな建物の裏に設計して、しばらくの間石庭にしました。禅のような石庭ですが、すごく面倒でした。本当はもっと綺麗に作れますが、非常に大変です。それに一人で作りました。作って見せる人もいません。来た人のほとんどは、そこまで目が届かないし、意味が分かりません。

 だから決意を変えました。しかし確かではありません。楽しいと思えば、もう一度作るかもしれません。綺麗な石は島や海へ行かなければ、変わった石はないので、石を見つけるのは大変です。

 それに雨水を貯める場所が足りないので、もう一つ大きな舟を作りました。上は集会所、説法を聞く場所に使って、雨が降った時は、二階は訪問してきた僧の休憩所、在家の男の人、訪問者が一時休憩する場所です。

問 : 先生。舟の建設、映画館の建設は、どなたが支援しましたか。

答 : 知ってる人は誰でも協力しました。トーンディー イサラクンさんは小さな船に一人で二十万バーツ、映画館はサーリー パーラクン大佐が他の人より多くしようと必死で、軍の人に連絡して支援させ、職人の頭領をここの頭領にしました。

 私も職人を雇ったり、住民の力を集めたりしました。先生方は学生を連れて来て非常に応援してくれ、コンクリートを流し入れるのを、一日一晩、あるいは一日二晩、あるいは二晩一日、しょっちゅう手伝いました。お金に換算したらたくさんです。住民も、この辺の人は先生も生徒も、住民も、ほとんど郡中の人が代わる代わる来たようです。

 サーリー大佐が、自分が働いている軍にラジオで報道したので、人が絶えることなくお金を送ってきました。クルンテープではチャムナーンさん、ウィロードさんがお金を集め、私もスアンモーク式の映画館の建設についての手紙を出しました。(1965年9月1日)

 たぶん百万バーツくらいお金を使いました。でも私の方は確実に記録していません。タンマタートがまとめた法施会を通した金額は(824.597.70バーツ:1966年)で、百万以上のお金を使いましたが、二百万バーツの価値のある物を作りました。市場の値段で買う必要がなかったからです。

 サーリー大佐などは、非常に安くするよう連絡してくれ、そして人々は労働力を出してくれて、住民もたくさんいて、あっちの集落、こっちの集落から十人、百人と連れだって来て、夜働いたこともありました。このように来ると、私たちも食事を作って振る舞わなければならないので、支出もありました。バーントゥンにはピット地区長がいて、モーターイではパッティ先生が中心で、チャヤーラーム寺の方はプラクルー・ターウォンがいました。

問 : 設計図はありましたか。

答 : ありました。サーリーさんが作ってくれました。でも最初の計画では玄関がへこんでいたので、玄関を外に出してもらいました。そうしないと内部がとても狭かったからです。初めの計画では薄い石で外壁全体を覆う予定でしたが、私は高価すぎると考えて、ブッダの歴史の絵を貼ることにしました。高価でなく、利益があります。設計を変更せずに、あちこち変えました。

 軍の連絡で来た職人スラデートさんも、私の希望にそってくれました。すべて初めの設計どおりにすることはできません。設計はクルンテープ(バンコク)の様式で、ここはすごくスコールがあり、ここの状態に合わないからです。

 五年くらい作ると格好がついて来ましたが、まだ完全ではありませんでした。三年ばかり作った時に、石の彫刻を貼れるようになったので、外の絵も同時に作りました。内部の絵は、十年くらいして、それから描けるようになりました。

問 : 先生。彫塑館とレリーフについて話していただけませんか。

答 : あのレリーフは、インドに行く前から、本で見た時から目をつけていました。まだ拝む像がない時代の伝記は特別で、インドへ行った時、写真を撮り足して、その後イギリスのブリティッシュ博物館に連絡すると、非常に親切に写真を撮って送ってくれました。だからここのブッダの歴史は、世界で一番豊富と言うことができます。偶像崇拝をしなかった時代の学術的発展を展示しています。彼らは拝むための像ではなく、象徴を使いました。

 始めた頃、絵描きであるサワイ(プラ・サワイ シワーノー)さんが来て、塑像職人の僧は何人もいました。当時はコーウィット(プラ・コーウィット ケーマーナンタ)さんもいて、インドから来たプラ・ナーガセーナもできました。彼は塑像の顔をインド人のように直してくれました。初めは全部、タイ人の顔をしていました。

 彫塑館の辺りは、昔は密林で、サワイさんが住むようになって、だんだん彫塑館になりました。初めはトタンの建物で、少しずつ作って、現在のコンクリート建てになりました。

 作り方は、初めに小さな絵を、作りたい大きさに拡大して柔らかい紙に描き、下絵が気に入ったら、粘土をつけて、できたら粘土を形にを切って、それから常に絵を見ながら、満足するまで粘土を削り、それから石膏を流して型を作り、その後セメントを流して像を作ります。石膏ではなく粘土を彫ります。石膏を彫ったらおしまいで、絶対にできません。

 粘土には二三人の僧が真剣に取り組みました。トーンスック(プラ・トーンスック タンマワロー)さんはこういう腕がありました。しかしこういう絵の彫刻ではなく、緻密な腕の人でした。理容師だった頃もアマチュアの彫刻家でしたが、最後は第一人者になりました。丸くて美しい絵(レリーフと思われる)はみなあの方の作品です。

 髷を持って天国に昇る絵、ナラキリ象の絵、スジャダーが乳粥を献じる絵は、トーンスックさんの作品です。非常に精緻で、最高に良いです。髷を持って天国に昇る絵を彫るのに、三か月かかりました。非常に忍耐が要ります。他の粗い絵は、だいたい十日から十五日で、最後の絵は三か月で満足できる出来になりました。

 トーンスックさんの他にコーウィットさんがいました。他の僧も合わせて十人、パノムベーク山で教えている先生も手伝いに来て、彫る人が全部で十人から十五人いたようです。労働者はデート(プラ・デート チッタチットー)さんが型を取る人で、何度も何度も型を取りました。それと粘土を搗きました。粘土は地面を深く掘らなければなりません。五六十センチも掘らなければ、使える良い粘土はありませんでした。

 出来上るまでには何年も掛かりました。憶えていません。映画館を作り始めたのは一九六二年で、一九六三年の末に彫塑館を作り、出来上ってから運んできました。

 私も不思議と言います。(笑) まぐれです。このようなことができるとは考えたこともありませんでした。

 過去のいろんな物も、すべてが偶然だったと感じます。どのように考えが生まれ、それからどのように人が集まって、どのように他の縁が集まったか不思議です。サーリーさんのような人も、前からよく知っていた訳ではありません。遊びに来たことがあって、それについて言及すると関心をもって、支援の中心的人物になりました。あの映画館はサーリーさんの話です。

 サーリー パーラクン大佐が陸軍放送局のすべての地区に報道しました。すべての局がこの話を宣伝すると寄付金を寄せる人がいたので、彼がまとめて送って来ました。直接送って来る人もいました。絵描きや彫塑家の僧も幸運です。あり得ません。

 呪術を信じるなら、神様か天人がしてくれたと言わなければなりません。そうでなければ偶然です。あの人があれを作って、この人がこれを作って、長くいた人は、何か形になる物を作ってくれた人ばかりです。ポーティ(プラ・ポーティ チュンタサロー)さんはいま、西洋人に教えています。これも偶然です。(笑)

問 : 先生。映画館の中の絵はどんな経緯がありますか。どの絵をどこに置くか、先生が計画なさったのですか。

答 : 常に作っていました。考えながら作っていました。初めは、まだどこから絵が来るか分からず、ちょうどシューマンの絵が来たので、これを基礎に大きな絵にして、その他は細々とした物です。

 タイの格言の絵は、柱に百以上あり、全部コーウィットさんの作品で、発案して考えて、あのように描きました。どこにも手本はありません。余所にはありましたが、私は好きじゃありませんでした。私の考えと違うので使い物になりませんでした。コーウィットさんが構想を描いて、映画館の中のすべての絵の監督をしました。コーウィットさんがこれらの絵の制作者と言うことができます。

 彼は二人の友達を呼びました。サンパン コーンサムットさんとステープ ムアンクラーイで、ステープは以前に寺の子でした。サンパンはサムイ島の人で、ポーティさんが連れて来て、ポーティさんを通して知り合いました。ちょっと名前のある沙弥が練習に来ました。今(1985年)も描き足しているスチャート(プラ・スチャート パヤーティポー)さんは、この当時から練習しています。もう一人、還俗して結婚したダムロンさんは、ソンクラーに住んで画家を職業にしました。

 どこをどのように描くか、コーウィットさんは、私に技術以外の、しかしふさわしいことを相談に来ました。でも私は臆病で、技術に関した話は全部コーウィットさんに任せました。コーウィットさんは非常に働いたと言います。拡大した観音菩薩像は、コーウィットさん一人で作りました。この方面に進めば、最高の芸術家です。しかしどうしてか知りませんが職業にしません。私と何年も一緒に住んでいます。

問 : シューマンさんの絵はどのようにここへ来たのですか。なぜずごく大きな絵にしたのですか。

答 : 他に絵がありませんでした。当時、これも最高に偶然ですが、チャムナーン ループラスートさんが、バンコクで配られていたシューマンの絵「解脱したよー」を送って来ました。それを見た時、これはピッタリだと思ったので、シューマンはどこにいるのか訊くと、少しずつ情報が入って来て、彼はここへ来るつもりでしたが、たぶんアーチャンプラドゥームに会ってパガン島へ行き、そこで病気になって亡くなったということが分かりました。

 考えが鋭くていいです。どの絵にも意味があります。考えさせるために描きました。彼が亡くなってしまったと聞いた時、どんな作品があるのか、ここへ送ってもらうように頼むと、これらの絵が入った箱を届けてくれました。最高に幸運でした。さもなければ、全部無くなってしまっていました。箱の中にいっぱいゴキブリがいました。木版と言って、木を、印刷するように彫りました。

問 : 先生。貪・瞋・痴を表している二階の絵は、先生の考えですか。

答 : ああ、あれはインドの絵の模写です。インドの絵の画集は、一冊あんな感じで、私がタイ人に合うようにアレンジしました。この画集から使った絵は下にたくさんあります。法輪が生まれて世界のいろんな正しくない物を消滅させる絵から、イエスが戻って来て世界を見る絵、平和交渉の絵まで、この本のを使いました。これは偶然です。誰から貰ったのかも分かりません。考えが非常に鋭いです。

問 : それでタイのタンマの謎の絵は?

答 : 博物館で見つけました。古文書の山を探させてもらったら、タイのタンマの謎の絵を見たので、全部写真に撮ってきました。彼らは、それが何なのか、どう使うのか知りません。ラビット(ブンナーク)さんが写真を撮ってくれ、それを勉強すると自然に順番になりました。この時博物館には、誰も、自分の所の収蔵品の意味を知っている人はいませんでした。

 もう一冊、カーイナコーンは、プラクルー・ストンがサモーソン寺で手に取って見て、何だか意味が分からないので、持って来て何の気なしに見ていると、影絵に似ていたので、勉強しました。この絵が手に入ったのは映画館に大きな絵を描いた後だったので、描く場所がなく、それで階段の下の角に描きました。先に手に入れていたら、シューマンの絵の代わりに描いたかもしれません。

問 : 先生。それで映画館の視聴覚教育機器はどのようにして手に入れましたか。十分使っていますか。私はあまり使ったのを見たことがありません。

答 : 初めの頃はよく使いました。映画を映したり、スライドを映したり、録音をしたり、最後には故障するほど良く使いました。怠慢で修理をしていません。最後まで使いました。録音機は今でも使っています。いつも誰かが新しい機械を持って来てくれます。

 初めは教育省が二十万バーツくれました。お金でなく、その額の品物をくれました。何に使うか、何が欲しいか書いて、担当者が買い、直接お金ではありません。彼らはそういう制度で、そういう習慣がありました。

 当時王孫のビン(マーラークン)が教育大臣で、アルンワティーさんとその仲間が支援を求めました。スアンモークのいろんな工事は、本を作ることを数えに入れなければ、映画館は、庶民にとって一番役に立ったように見えます。来てタンマの勉強に使う人が増えています。

問 : 先生。観音菩薩像を作ってスアンモークに置いた経緯を話していただけませんか。

答 : それは、シーウィチャイの考古学を勉強した時から、アワロギテースワン(観音菩薩)の話が気に入っていたからです。特にタンマタートがすごく気に入っていました。シーウィチャイ時代の庶民は、お寺でも家でもこの像を崇拝していたと信じます。

 シーウィチャイ時代の仏像は見つかっていませんが、観音菩薩像はたくさんあり、家に置く小さいのと、お寺や崇拝する場所のための大きいのがあります。観音菩薩について話すきっかけになります。そして中国の観音の話も小さなことではなく、観音菩薩と同じです。一緒にして庶民が分かるようにしました。

 私がこの話をたくさん宣伝すると、観音菩薩について書いた物が増えました。タンマタートは私よりも書いたので、広める絵や像があっても良いと思いました。それで他の像が出来上った最後に、コーウィットさんに、大小二つの観音菩薩像を作ってもらいました。小さいのは家に置く物にして、中間のは、小さい原型を複写しました。

 すごく大きいの、つまり食堂の近くの草原の中の高い柱の上にあるのは配れないので、ここに設置してあります。中間サイズは配りました。美しいです。中には小さいのを気に入った人がいます。飽きるまで作って終わったので、配りません。

 効果的な使い方は、よく見える場所に置いて、苦が生じたら、怒りが生じたら観音菩薩の顔を見れば消えます。このように使います。顔を見ると穏やかになります。

 コーウィットさんが作った大きい像は、顔の表情が原型の十割に達してなく、八割から九割くらいです。本物と同じサイズは、チャイヤーの博物館から複製を借りて来ました。チャイヤーの博物館は、クロムプラヤーダムロンがプラタートチャイヤー寺で発見してクルンテープへ持って行ったものを複製しました。

 この像の顔は、清浄と智慧と慈悲を表しています。純粋な人、心の純潔な人と見ることもでき、最高の智慧の人と見ることもできます。慈悲の面を見ることも、忍耐の面を見ることもできます。この四つが揃っていれば、最高レベルと言うことができます。チャイヤーにはいろんなレベルの腕前があり、酷いのは魚を売っている女性のような顔で、最高の技術者は、ソムデットプラヤーダムロンが発見した像のようでなければなりません。

 芸術家は非常に善い心の持ち主でなければなりません。心が非常に静かで、正常で、高いタンマの知識があり、そして彫塑の技術的手腕がなければ、そのような顔を作り出すことはできません。

問 : 歴史的経緯はどのようですか。

答 : 大乗の考えで、インドの至る所で発見されています。タイ国内でも、たくさんの県で発見されています。チベットにも多く、中国では観音です。インドではほとんどが石像です。スズや銅があまりないので、ブロンズ像を作りません。

 この像は、タイの考古学者は、パーラ時代の物と見なしています。しかし、私が写真を持って行ってインドの考古学者に見せたら、彼らは「グプタ、グプタ」と叫びました。そして最高クラスの物でした。私が見た所ではグプタと言われるのと一致します。インドのたくさんのグプタと同じだからです。

 特にヒンドゥーのアジャンダー洞窟のグプタで、あそこのは非常に美しいです。ヒンドゥーでも仏教でも、同じ様式の同じ職人を使ったのでしょう。特にこういう表情の顔が好まれました。アジャンダー洞窟には観音菩薩がたくさんあり、どれも美しい顔をしています。しかしここで発見された物ほど美しくないように感じます。

問 : 大乗の論理ではどのような由来がありますか。

答 : 私たちのゴータマサマナブッダを生まれさせた阿弥陀仏と、いつも一緒にいる菩薩と書いてあります。

 アワロギテースワンという語形では、偉大な人、あるいは主人、世界を照らして面倒を見る人という意味です。当時の大乗の智慧のある人たちが、自分たちの宗派がインドのシバ神に負けないように考え出したと言うことができます。

 作っただけでは人が信じないので、雲の上に住む話を作らなければなりませんでした。最初にはブッダ一人だけで、アーティブッダと言い、アーティブッダが定によってタヤーニブッダというブッダを生み、たくさんのタヤーニブッダがマヌシーブッダ、つまり人間であるブッダを生み、三段階になっています。

 阿弥陀仏も四五人いるタヤーニブッダの一人で、観音菩薩は阿弥陀仏と一緒にいる男の菩薩です。サクティは女の菩薩で、ヒンドゥー教のシバ神とウマ神のように、庶民に祈願させるためにあるような物です。いろんなタヤーニブッダが規定されて全部揃っています。医学のブッダ、何のブッダもいて、人間が拠り所として祈願するすべてが揃っています。教義を守るため、ヒンドゥーの教義と闘うため、あるいは教義を安定させるための闘いです。

 仏像の面では観音菩薩を作りました。中国では、三十以上もの形の菩薩を作り、本家より何倍もすごく、女の菩薩までいます。恐ろしい鬼の形のもいます。普通の心の人なら、こういう物も利益がありますが、心が高くなれば、必要がないように見えます。

問 : それでヤクザ者のような格好で立っているのはどんな意味がありますか。

答 : 王や偉大な人の態度に合わせました。こういうのは仏教にもヒンドゥーにもあります。どの神様像も、偉大な人物に見えるように、三曲の立ち方をし、首と腰と脚が曲がります。脚、腰、首、肩幅が広いことは、偉大であることを表します。三曲の仏像を作ったのは仏教だけではありません。

 この辺でも、一柱シーウィチャイ時代の物が見つかっていて、博物館に見本があります。ルアンウィチットパックディー(ある時期のチャイヤー郡長)が発見しました。曲ったブッダと言います。発見者がソムデットプラヤーダムロンに寄贈しました。

問 : 先生。塑像について最後の質問です。彫塑室になぜ先生の像まであるのですか。

答 : ああ、トーンスック サワイさんが作りたがって、それで写真を各方向から撮って原型にして塑像を作りました。その四五年後、プン(チュンプラスート)さんが見てブロンズで複製したいと言い、お金を集めて来て作りました。それからチャオチューンが知って欲しがったので、二体作りました。職人がここへ来てここで作ったようです。

 チエンマイに一つ、ここに一つあります。映画館の木箱の中にしまってあって、まだ設置していません。設置する意味がありません。死んでから、こういう容姿だったと分かるように設置すれば、役に立つかもしれません。まだ生きているうちは、本物を見に来る方がいいです。(笑)

問 : それで先生は、崇拝する像になる恐れはありませんか。

答 : その人の自由です。仏像のように、庶民が金箔をベタベタ貼ったことがありました。私は誰かに銅像を作ってもらって名誉と考えません。死んだ時に見るために許可しました。死んだ時は役に立つかも知れません。

問 : プンさんが売ったことまであると聞きました。

答 : 作って売る必要はありません。平たい半身の小さな像は、何体も作りませんでしたが、お金をくれた人もいたかもしれません。私がそういうことはするべきでない、そうしてほしくないと言ったので、彼は止めました。

 私が病院にいる時、海軍少佐が持って来て、習慣に従って譲渡式をするよう求めました。きっとプンさんから手に入れたのでしょう。私はしませんでした。彼は残念に思い、恥に感じて、話はそれっきりになりました。




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