第四章 見えるスアンモークを造る



1.スアンモークへ来る前




問 : 先生。今のスアンモーク周辺の、先生が初めてご覧になった状態はどんなでしたか。

答 : 初めこの辺を、彼らはナムライ関と呼んでいて、悪人を捕まえるための狭い関です。悪人が北から南へ、南から北へ行く時は、必ずこの隙間を通らなければならず、象や牛や水牛が南へ行く時も、ここを通らなければなりません。陸の移動には必ずここを通ったので、昔は悪人を待ち伏せて捕まえる場所に使いました。一方はナーンエー山で、もう一方は降りられないプル(深い沼地)です。

 プルとは深い泥で、身丈ほどの深さの草や腐った木が混ざった泥ががあります。プルと言って、昔は海が広がった部分でしたが、隆起して泥沼になり、草がいっぱいありました。標準語でもプルという言葉があるようです。今でも大きな道路の向こう側はどんどん狭くなっていて、浅ければ田んぼにでき、田んぼにすれば早く浅くなり、土が積るのでどんどん田んぼになり、草で荒れたままにしておけば、土は溜まりません。

 私がチャイヤーの花だと言う、ヴェンダー蘭(バンダ)やフッカリアナーなどがこの辺に非常にたくさん生えていました。このお寺の敷地内は、木の他はチガヤだけでした。小川は今よりも大きくて水がいっぱいあったので、降りて行って快適に水浴ができました。上が畑になってから、浅くなりました。

 野生動物は、まだそれなりにいました。この辺には野生のシカがいて、三蔵塔の所のマコーグの実を食べに来ました。登って行った時偶然出合いました。シカは角があって、体は馬くらいです。

 初めから黒っぽいヒョウが一頭いて、何年も一緒にいました。どこに寝ているのか知りませんが、日が沈むと出て来て犬を喰いました。一匹で二三日は食べられ、二十三匹喰われました。数えてビックリしました。(笑) 何年もです。

 プッタトーン山の方で鳴き声を聞く夜もありました。その頃プッタトーン山にまだ何も建ててなく、私たちは下にいました。人に危害を加えた話はありません。人を見ると逃げました。ある夜、暑いので古い食堂でゴロ寝をしていて、犬が傍に寝そべっていたら、黒ヒョウが犬に飛びついて、咥えて行って喰ったことがありました。子供には噛みつきません。

 そういうことが何度もありました。子供たちは怖がってクティ(僧房)へ行って寝るようになりましたが、時間が経つと、また出て来て外で寝ました。ヒョウで、明るい場所に寝ていれば、丸いヒョウの模様が見えます。これはとても人に慣れていて、時にはヒョウが家の中に座っていて、主人が森から帰って来て扉を開けるとヒョウが座っているのに(笑)出くわして、大笑いしました。

 本当のトラもいました。大虎で、外にいて、南の方から道路を歩いて来て、お寺の前を通りました。一月、旧暦の二月はネコ科の動物の繁殖期で、ネコでもトラでも相手を探し回って一晩中吠えていることもありました。「ウーウー」と、牛が角を突き合わせる時のような声で、ナーンエー山の上で吠えていました。

 朝、道にトラの足跡があり、お寺の前からカオナムプット集落まで続いていて、そこから森へ帰ります。私は托鉢の時に、トラの足跡にそって行きました。

問 : 先生、怖くありませんでしたか。

答 : 怖がってはいられません。トラがどんどん退いて行くのが聞こえ、お寺からちょっと出ると、小さな体の女の子が、頭に物を載せて売り歩いていました。子供も怖がっていないのに、私がトラを怖がる訳にはいきません。(笑) 死ぬほど恥ずかしいです。

 住民は怖がりませんでした。それにトラは何もしません。その頃お寺の角の所に隣接した家があり、チェムさんの家には子供が群れをなしていて、トラが吠えると、子供が全員で真似して吠え、トラの相の手になって吠えました。夕暮れ時にトラが吠えると、子供が向きになって吠えます。私がトラを怖いと考えたら、子供に恥ずかしいです。

 特別期と呼ぶ時期の沙弥が一人ここへついて来て、トラが吠えると体が震えたので(笑)、恐怖が消えるまで体を押さえてやらなければなりませんでした。トラのことを何も知らないので、恐怖で体が強張りました。ターチャナの人で、東の海岸に住んでいました。

 トラは、自然に反して人に噛みつく意志はなく、人は二本足で歩き、直立して背が高いので、脅威に感じる思います。動物は歩くと低く、四足の動物はみな背が低く、人は直立して背が高いので脅威です。人は噛みませんが、動物は人を恐れて避ける努力をします。

 畑仕事や山仕事をする人たちはトラに慣れていて、トラが豚やアヒルや鶏を盗みに来ると、彼らはみんなで叩いて追いました。ある時トラがこの辺へ来て豚を盗むと、全戸で協力して棒で叩いて追いかけました。するとトラはこの関を出る前に豚を置いて逃げて行きました。豚を連れて逃げられなかったからです。

 その後トラたちは全部アメリカへ行ってしまいました。私たちと一緒に住んでいた黒ヒョウは罠に懸かって八百バーツで売られ、クルンテープでは八千バーツで売れました。アメリカ人は何十万もで売り渡します。彼らはこういう、珍しい黒ヒョウを欲しがります。

 今映画館(彫塑や絵を展示してある建物)が建っている場所には、三十頭くらいのイノシシの群れがいました。映画館の建物の辺りは、イノシシの巣穴でした。キョン(シカの一種)は宵の口にプッパッと鳴いて、お寺の中へ歩いて来ました。それからだんだん減って、しまいには静かになり、今は一匹もいません。

 大トカゲはうじゃうじゃいましたが、犬がみな噛み殺してしまいました。カワセミがシカを追って歩くのは美しかったです。土の上を歩いてミミズをつついて食べました。美しかったです。今は一羽もいません。絶滅しました。

 来たばかりの頃、蚊はいませんでしたが、家ができ始めると増えて、今はたくさん集まります。初めの頃は住む人が少なかったので、一人二人では蚊を増やしませんが、人が増えると蚊が増えます。特に住民は、水がめや壺、竹筒や缶などがあるので、蚊が非常に増えます。一番早いのは、カピ(小エビの塩辛)を入れる壺です。カピが終わった後きれいな水を浸して、こうやって立てておくと、最高に蚊が増えます。大きな蚊ばかりです。

問 : 住民の生活はどうでしたか。お寺とどれくらい親しかったですか。

答 : それは言ったとおりです。この辺の人は、お寺やお坊さんを欲しがっていました。初めの頃は今のようでなく、お寺の裏にはチェムさんの家一軒しか家がありませんでした。お寺の角の所に家がどんどんできて(笑)、集落になりました。

 初めはカオナムプットの方に住んでいました。普通に歩くと三十分くらいです。托鉢で歩くともっと遅いです。私はその集落に托鉢に行き来しました。もう少し先のプルアックスーンという所まで行くと、往復ちょうど二時間でした。托鉢の歩き方で、鳥や木を眺めながら歩きました。

 ここの住民とはかなり親しく関わりました。住民のレベルを上げたかったからです。この辺、関口の人はチャイヤーで一番遅れていました。すべてが遅れていて、当時はどこの家でも博打をしていました。何でも簡単で、家中探しても、ほとんど良い点はありませんでした。プラクルー・ストンが良く調べて、わざわざ説明に行って、変えるよう懇願しました。ゲーン(カレー等の汁物)のナンプリック(潰したハーブ類)を細かく搗くよう教えることまで。

 役所から離れた集落なので、役所の人は何も知りません。非常に簡単な暮らしで、着る物も同じで、家の中の土も掃きませんでした。家の中は泥だらけに近かったです。彼らはしつけを受けてなく、魚は丸ごとゲーンに入れて、唐辛子を二三本搗いて入れれば食べられます。魚は丸ごとで、一口大に切ったことがなく、鱗を落としたこともありません。プラクルー・ストンが一生懸命教えて、他と同じになりました。

 私は訪問する時間があまりありませんでした。特に病気の時は、プラクルー・ストンだけでした。あの方はちょっとした医者、昔式の医者でした。あの方はあまりここに泊まらず、仕事がある時に来て、夜遅く歩いて帰って、チャヤーラーム寺に泊まりました。あの方はからかう方法でしました。「あらー、今日も尾頭付きの魚の汁ですか」。何も手を加えない魚という意味です。頭もシッポも鱗も。(笑)

 あるいは「ほらほら、埃を掃いて人形を作ってごらん」とからかいます。家の上の埃ですよ、床下ではなく。少女や娘には恥じらいが生まれて、変化します。大人や年寄りはあまり気にしません。しかし少女、娘の世代は、恥ずかしく感じるので変わり、ゲーン(汁)のナンプリック(ハーブ)を細かく搗くようになり、ゲーンの魚も下ごしらえします。

 これが本当の「発展」の仕事です。私たちは、最も遅れたものから始めましたが、自慢しません。現代は少し発展したので、非常に自慢します。

問 : 先生。それなら先生も宗教儀式の面で住民の期待に応えなければならないのではないですか。

答 : それもあります。読経を始め、家へ行って幽霊や死体や病人の読経をすると、彼らは非常に喜びました。私はあまり行きませんでしたが、一緒に住んでいたプラクルー・ストンが行きました。

 聖水は直接作ったことはありませんが、特別にしたのが聖水になりました。つまり雨安居入りの三夜読経の時、聖水の鉢を置いておくと、彼らはそれを持って行って聖水のように、田畑に関したことに使い、田んぼやモミに掛け、あるいは池に入れて池の水全部を聖水にしました。

 読経は三夜のことも、七夜のこともありますが、毎晩読経しました。終わると住民がビンを、一人一つずつ持って来て、鉢の中の水を分けて持って行き、聖水のように使いました。持って行ってしまっておくこともできます。梁の上に仕舞っておく人もいました。

問 : 先生。それでタンマの面で住民を教育したことはありますか。

答 : ワンプラの日に説教をし、タンマの会話をしました。ワンプラの日には仕事を休んで、静かな日にするようお願いしました。以前この辺の人は遅れていて、アパーヤムッガ(悪。悪趣への道)がいっぱいで、酔う水を飲み、博打をし、魚を釣り、ワンプラでも田んぼへ行き、何でもしていました。

 お寺ができるとワンプラにはお寺へ来て、ワンプラの日にそういう悪事をする必要がないので、善くなったと言います。しかし来る住民は多くはなく、五人か十人、二十人で、戒を授かると帰り、お寺で寝ませんでした。

 夕方来て読経をした時代もありましたが、その後少し大きい女の子に、翻訳経の読経を教え始めました。読経して勤めをするのも発展計画の一環でした。読経する翻訳の手本は、マハー・サムルーンと作りました。今言ったことの他に発展させたのは、細々としたことです。

 読経は、過熱する話になりました。集落ごと、グループごとの競技会を開催したからです。ウィサーカの行事の時に、プラタート寺で大会が開かれ、バーントゥン、モーターイ、ワットターンナムライ寺チーム等々が参加して、どのチームがよく読経できるか、美しいかを競いました。

 どのチームも練習をしました。モーターイには、リーダーであるパッティ先生がいて、ピットさんはバーントゥンのリーダーで、この辺にはホーさんがいましたが、もう亡くなりました。サウィアットの方にも一つ会場があり、チャヤーラーム寺の方はバーンコークモーの人たちです。

 モーターイはパッティ先生が、小学校を終わって家で働いている少年少女を自分の家に誘い、読経の練習をして食べ物の投資をし(笑)、八つ頭や芋などを摘まんで、そして読経もしました。プラタート寺での大会に出なければならいと聞くと、毎晩、一生懸命練習しました。

 面白い話を聞かせる人がいました。サウィエンでは、大急ぎで畑へ行き、田んぼへ行って翻訳経の読経をし、ある人は度を越して、ご飯をよそる時も、豚を飼う時も読経をしながらしたと言います。その時町は静かでした。町を捨ててお寺へ行きましたが心配はありませんでした。夜お寺で練習しても、鍵が保証してくれました。今は鍵には意味がありません。

 その結果とても良く経を読むことができました。プラタート寺での大会はウィサーカの日で、大々的に賞品も出しました。男の子にはタンマの講義の練習をさせ、声の良い女の子には、人の気を引く賞品で読経の練習をさせました。競技会は何年もあり、それから少しずつ廃れました。非常に疲れ、私も飽きやすいからです。

 翻訳した読経の本は、大人が読む手本にも使いました。つまり文字を知らない大人が子供の後をついて読経し、それから文字を見ます。たとえば「ナモータッサ パカワトー」なら、その人は「ナ」「モー」「タッ」「サ」と区別できるようになり、幾らもしないで、何カ月もしないで字が読めるようになりました。スアンモークの最初の料理人セーサンパーラ小母さんは、翻訳読経の本で字を読む練習をしました。それまでは字が読めませんでした。




2 もう一つの開拓期



問 : 先生。最初は、このお寺をターンナムライ寺と名付けたのですか。

答 : 名付けたんじゃなく、住民がそう呼びました。彼らはお寺の中の山の名前で、カオプッタトーン寺と呼びました。簡略にカオトーンと呼ぶ人もいました。カオプッタトーンはモタモタして言いにくいです。私たちはスアンモークと呼びました。

 お寺として登録するにはターンナムライという名前が一番ふさわしく、ターンナムライ(水の流れ)があるので、聞いて自然と一致するからです。この辺の一般庶民はターンナムライ寺と呼び、公にはスアンモークと知られています。

 初めはお寺と別にしようと決め、スアンモークを自由な施設にしたいと思いました。何かあった時にも便利で、お寺の規則に従う必要がないので、何をするにもすぐできます。管理下にいる必要のない、独立した個人的な物にするために、前をお寺にし、後ろはスアンモークで、初めは法的に分けていました。そして後になって、全部ターンナムライ寺にしました。何も問題がなかったからです。

問 : ここでの建設は、初めからどのように進みましたか。

答 : 最初はマハー・チャウィエンのクティ(僧房)が、電気小屋の方の角にありました。写真も撮りましたがどこに行った分かりません。壁は板張りで、屋根はヤシ葺きの切妻、高床式の一階建てです。クリン叔父が建ててくれました。

 私が来てから(1944年)食堂の隣に、シンさんが住む建物を作りました。二階建てで、屋根はニッパヤシ葺きでした。今は二番目の建物です。木材の下準備はチャヤーラーム寺でしました。床板を作り、柱を作り、梁を作り、棟木を作り、全部終わってから、この辺の住民三十人くらいの手を借りて担いできました。

 女の人が壁板を買い足して、チャヤーラーム寺から担いで来て届くと、パパッと作って、一日ですぐに住めるようになりました。今ヌイさんが住んでいる三番目のクティを建てるまで、ずっとそのクティにいました。初め屋根はヤシ葺きでしたが、後でトタン葺きになりました。

 初め私が二棟目に住んで、三棟目は来客用で、チャオクンラップリーが来るとあの棟に泊まりました。来客用にも使いました。

 簡単な作りで便利に使え、誰でも作れるようになり、作ることを知ります。これをタイ伝統式と言います(笑)。四棟目は北の端の台所側にあり、同じタイプですが、屋根は板葺きです。板で葺きましたが、何年も住めました。

 板で拭いて見てごらんなさい。(笑) しかし釘の所に問題があります。釘を打った所が腐り始めて水が沁みます。釘で打てるのは一枚で、一度に二枚は打てません。木は伸縮しないので、割れて、時間がたつと厄介な問題になります。だからトタン葺きに変えました。

 タンマ堂が五棟目で、六棟目は私の休憩所と仕事場に使ったことがあります。一番長く使いました。タンマ堂は誰かお客が来た時のために作りました。そして僧を持て成す時、読経、お勤め、初めの頃は説法にも使いました。

問 : タンマ堂はどのように作りましたか。

答 : 柱はフタバガキで、壁は別の同種の木で、後は買わずにみんなで切って来ました。この辺の住民が探して来ました。住民には大恩があります。そして何で恩に報いたら良いか分かりません。彼らは知識や学問は欲しがらないし、上げるお金もありません。

 タンマ堂を作るために山まで削り、何カ月も削りました。夜は暑くないので力があります。昼は彼ら自身の仕事をしなければならず、夜はお寺へ来て仕事を手伝いました。お寺にはご馳走する物は何もありませんでした。これも昔はあって、そして今は無くなって仕舞った物の一つです。

 柱や骨組みなど、全部この辺の森の木なので、法施会館を作った時と同じ方法です。他に方法はありませんでした。しかし近くの森で、象で曳くだけで届いたので、最初の時のように人が曳く必要はありませんでした。一回森に入るだけで十分な木が見つかりました。

 トンさんの仕事だったと思います。行って世話をして、常に元気づけてしていました。私は本の仕事もあったので、毎日通いました。しかしこの時は木が多かったので、担当者に申告して県の森林局の話にしなければなりませんでした。県警の管理者が信仰心を起こして慈悲深くなり、前に話したように友達に呼び掛けて税金分を寄付してくれました。

問 : 先生、キアムの木とタキエンの木はどちらがいいですか。

答 : 風通しの良い所だったらキアムの木の方が良く、風通しの悪い所だったらタキエンの方がいいです。どちらもアリやシロアリに喰われません。いつも雨に触れる縁ならタキエンの方がいいです。キアムとは比較になりません。

 でも古い食堂のような床なら、キアムの方が良く、雨に濡れなければ、石のように丈夫です。三棟目のクティはキエムでもタキエンでもなく、上等な雑木です。こういう葺き方の屋根なら、カバーク(フタバガキ科の木の一種)の木でも大丈夫です。今までもっています。

問 : 先生。タンマ堂はどなたの資本で作ったのですか。

答 : チャオチューンの八千バーツの他に、少しずつ出し合いました。いろんな物は、買わないで集めることができました。買わなければならなかったのは、瓦、壁板で、バーンドーンでゴムの木を買い、雇い人の手間賃もありました。

 僧や沙弥を招集して協力して作った部分も多いです。だいたい一年くらい作ると、行事の時には使えるようになり、それからずっと使っていますが、完全に出来上ったのはつい最近です。最後に(1985年)は、一階を仕切って泊まる部屋にしました。

 木の材料費で、だいだい八万五千バーツがタンマ堂に消えました。丸太をサムイ島で買って、ここで材木にしましたが、こういうやり方は失敗だという知識を得ました。製材所で買うより高かったです。人を雇って製材させると、彼らはチェーンソーを使うので、すごく肉が減りました。小指の半分も。初めての時は手で切りましたが、それほど肉は減りませんでした。今回は試しで、予想が外れました。

問 : 先生。何方が先生と一緒に住んだのですか。三番目の人として。

答 : 憶えていません。たぶんマハー・サムルーンでしょう。住民の子供も出家し始めました。その後私が戒師になったので(1947年)、ここで出家し、それまではチャヤーラーム寺で出家していました。

 タンマ堂を建てた頃は、住民もお寺の近くに越して来ました。お寺がない時は怖くて住めませんでしたが、お寺ができると、バーンウィエンやバーンニエンスーンや、向こうの方からも来ました。

 学校を作った(1955年)後は更に便利になりました。公費が半分、クレーオさんが半分出した学校で、私はお金も力も出しませんが、私を立てて、学校の名前にナンタという言葉を使いました。当時アリヤナンタムニーだったので、学校の名前をクレーオプラチャーナンタと名付けました。

 まだ学校がない頃、この辺の子供はお寺へ来て勉強し、プラ・チットとプラ・チャルームが教えました。子供は十人以上いました。

問 : 先生が住まれたことのある建物はどう建てたのですか。簡素に暮らすという原則と矛盾しませんでしたか。

答 : ブンソン レーグクン医師の丈母、スパーブさんのお母さんのポーフアイさんが建ててくれました。当時六千バーツで請け負わせ、いろんな物の費用を合わせると一万八千バーツでした。私も建てるのを認めました。本を長く安全に仕舞っておける場所が欲しかったからです。本が多くなり始めたので、私は窓際の木の所に寝ていました。手を伸ばすと木や草に手が届いて、自然と離れませんでした。(笑)

問 : 先生。それで小さなクティ(僧房)はいつ作り始めたのですか。

答 : 常に作っていました。タンマ堂が出来上ると、屋根が山形の小さなクティを作りました。サーラータンマコートの所です。初めの棟は七百五十バーツで一棟でき、その後は元の値段ではできず、千五百バーツでやっとでき、その二三年後は三千二百バーツ掛かりました。

 小さなクティは材料の大部分を買い、人も雇いました。自分たちで作ったのは二三棟だけで、他は請け負わせ、リアオさんが専属大工で、毎日お寺に来て七十棟全部作りました。初めは二十五棟作るつもりでしたが、足りなくて七十棟にしなければなりませんでした。場所いっぱいです。

 それに、食べることや住むこと、いろんな病気などに関しても、それが精いっぱいなので、それで止めました。全部終わるまでには何年も掛かりました。一年で終わった訳ではありません。

 小さなクティが全部建て終わらないうちに、映画館(彫塑や絵画のある建物)や舟(の形の建物)や、いろんな物を同時に作り始め、清信女の家が最後だったと思います。まだ私が自分で仕事を見に行き、面倒を見ていた頃、ボーイスカウトの事務所と接している角に、家族連れで来た人が泊まるための特別の家を建てましたが、役に立ちませんでした。このような森に来たら、男女は別に泊まる方がいいです。

問 : 先生。お寺の敷地は、初めは九十ライで、どのように三百十ライに拡張したのですか。

答 : 初めは九十ライで、それから頼んだり、寄付されたり、寄付された離れた土地と隣接地と交換したり、開拓したりしました。チャード ウラッサヤナン郡長が交渉を手伝って、法的な便宜を図ってくれ、最後には一つの土地で三百十ライ余りになりました。プッタトーン山は、ただでもらったも同然です。周囲を囲んでいるので、買う必要はありません。(笑)

問 : 先生。新しいスアンモークを造られた時、古いスアンモークからどんな教訓を得ましたか。

答 : 何も計画はしませんでした。古いスアンモークと違って山なので、どっちに傾いているかを見ながら、場所に合わせました。土地はどこもかしこも斜めなので、平らに切らなければなりません。道をどう付けるか、どこをどう使うか、考えなければなりません。

 考えながら作り、作り足しました。こうしなければならない原則は、避けようがありませんでした。これ以上に良くしようと考える智恵がなく、お寺全体をどうするか、前もって計画する知識はありませんでした。




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