9.成長の転換





問 : 先生。ここですみませんが、古いスアンモークから現在のスアンモークに引っ越してきた経緯、どんなきっかけで引っ越しを考えられたのかお話しください。

答 : 引っ越そうとは考えていませんでした。引っ越すという言葉を使うのは正しくありません。(笑) 法施会がプムリエンから線路傍に越して(1936年)、法施の部屋、法施図書館、説法室をそこに作ったので、私は定期的に説法に行かなければならず、チャヤーラーム寺に時々泊まりました。時にはクティに泊まる夜もありました。

 プラクルー・ソーポン(プラクルー・ソーポンチェッターシカーラーム‐カム‐現在のチャイヤー郡僧長)は、当時はプラ・プラットカムで、お寺が荒廃したので守りをしに来ていました。クティの建物が腐っていたので、私が何度も泊まりに行くと、チャヤーラーム寺に泊まる場所を作らなければならなくなりました。それが「小さな図書館」です。泊まる場所としても、本を仕舞っておく場所、本を書く場所としても、作る必要がありました。

 この図書館を作った時は(1939年)、ウィエン村の家を買い、トゥアさんを雇って古い家を壊しました。七十五バーツだったと思います。トゥアさんの手間賃だったか、家の代金か分かりません。セメントは私が自分で塗りました。シロアリを防ぎたいので、周囲を水で囲いましたが、自分でしなければなりませんでした。上の木の部分はトゥアさんを雇って作りました。

 時々泊まるようになると、住民に教える便利な場所があっても良いと考えました。プムリエンのスアンモークは、とても小さくて便利じゃなかったので、集会に使える場所を作るべきなので、法施会館と呼ぶ建物を作ろうと考えました。

 そしてこれを作ろうと考えたことで、現在のスアンモークを見つけました。森へ行って木を探し歩かなければならないので、象や馬を飼っている人の力を借りて、木などを引いて来なければなりませんでした。

問 : 森の木を探した時の話をしてください。先生は歩いて行かれたのですか。

答 : 奥まで歩いて行きました。ドゥアンラーまで、ポーティ山まで行きました。一回で何夜も寝ました。一回に九日十日というのが、何度もありました。何人かの住民が、僧には(律で)できないの仕事を手伝ってくれました。丸い木を四角にして、象を使って山から出し、大きな道路の傍に置き、それを人が楽しく(笑)チャヤーラーム寺まで引いて来ました。

 バカみたいに楽しかったです。一本の角材を四五十人の人が引き、競争もしました。角材は三四十本でした。

問 : 先生だけについて言うと、何をしに行かれましたか。

答 : 見に行ったんですよ。仕事の進行が安全なように、便宜を見ました。私が野宿すると、簡単にご飯がついて来ます。(笑) チャヤーラームの周辺の住民が非常に助けてくれ、彼らは食事の準備をして、それから朝早くから歩いて来て、着くとちょうど朝食の時間でした。

 だから私は鋸の練習や削る練習を多少しました。プムリエンのマイ寺にいた時も練習したことがあるので、勉強が増えました。

 縄で縛って象に引かせるには秘訣があります。非常に興味深い技術です。私はこういう技術に関心がありました。簡単で投資が少ないと言います。簡単ですが大きな成果があり、象がどんなに走っても解けません。小さな道具でネジあげます。

 切り倒して転がっている丸太を、どんな方法かで割って四角にします。トンさん(プラクルー・トンタムサーン 現在のチャヤーラーム寺の住職)も行って手伝い、一緒に野宿しました。寝る時はどの木の根元に寝るか選んで、木の葉を厚く平らに敷いて、木の根を枕代わりにして寝ました。マラリヤはありませんでした。あれは乾季でした。

 マラリヤは反対にお寺で出て、プラタート寺はひどかったです。昔、子供が全員マラリヤに罹ったことがありました。チャヤーラーム寺では、子供全員が昏睡状態になったことがあり、誰も弁当を持って来ないこともありました。そして助かったのは簡単な物によってでした。

 偶々その時はインドシナ戦争が始まったばかりで、薬が手に入らなくて、当時の地方僧長だったラーチャーティワート寺のチャオクン・タンマワローコムが、お寺にアカニナ(キニーネ)の木を植えたことがありました。

 その木がこういう問題を良く解決するので、あの方はここチャイヤーにも何度も調べに来て、どこのお寺にも配り、植えてマラリヤに対処できるようにと忠告しましたが、関心のあるお寺はあまりなかったようです。チャヤーラーム寺とここ、タンマ堂の前だけだったようです。

 チャヤーラーム寺は今でも何本もあります。普通のお寺はあまり興味がありませんでした。花が咲いた時も見られます。桜に似た花で、小さな白い花が一面に木を覆います。葉と根と木と皮と花、五つ全部を煎じて二、三日飲めば起きられるようになると言います。

 それに土の中の柔らかい大きな根を使って、雨水と米のとぎ汁を子供に振りかけると、痙攣が見事に止まります。子供の熱の痙攣が治ります。この種のアカニナの木は良い苦さで、本当に苦いです。栴檀とはよく似ていますが違います。吐き気を催す苦さで、飲むと吐きますが、結果はどちらも良いです。アカニナはタイ栴檀と一緒に煎じても効き、風邪の治療にはウコンと砂糖キビを入れます。

問 : 先生。このように住民の手伝いを招集する時、どうなさったのですか。

答 : それです。彼らも、どうしてできたのか不思議がっています。その後はありません。一度もありません。できたのが不思議です。森から木を引いて来て、競争で線路を越えてチャヤーラーム寺まで引っ張って来たのは、見たことがありません。一日に十本、向うの森から引っ張ってきた日もありました。

 フタバガキはこの時終わったようです。今住民はフタバガキを見つけることはできません。四五十本切って来て、柱と梁を作り、棟木、根太、斜めの樽木も、全部フタバガキを使いました。床もフタバガキです。あの建物は丈夫です。壁には良質のゴムの木を使いました。

 通常より大きな出来事がある時には、昔は住民が手伝いに来るしきたりがありました。普通より大きな物を建てる時は、しきたりがありました。人を雇いません。雇っても請け負う人がいません。それに私のは、お寺を建てるのでもパリエンサーラーを建てるのでもなく、住民のための集会所、本を読む場所を作るので、住民にとっては新しいことでした。私が何人でもない親しい人に話し、彼らがまた友達に話し、合わせると十分たくさんでした。

 上に立つ人を四五人掴まえれば、後はその人が何十人何百人も集めました。チュード爺さんもその一人です。彼は珍しい物を建てるために田んぼを寄付し、自分自身も精いっぱい手伝いました。たくさんの人に連絡を取り、象を頼み、いろんな物を頼んでくれました。彼は支援者で、象の持ち主の家に私を連れて行ってくれたこともありました。チュードさんと弟のコンさんもそうです。

 この辺にはクレーオさん、チョンさん、チャヤーラーム寺の辺りではオップさん、下に行ってサモーソン寺、サムローン寺の辺りはプラクルー・ストンのグループで、ウィエンの方はプラクルー・ターウォンワッタウィモン、当時あの方はプラ・プラットケオでしたが、これらの方々がみんな手伝ってくれました。チュードさんは他の人より多く、毎日来て、どの寺にも行きました。チュード スアミンさんです。

 建てる前は偶然もう一人、クリンさんという、チャイヤーの交差点にいる親戚がいました。トンさんの二人が建築部長で、鋸で切るのを頼みに、あちこちの集落に頼みに行きました。非常に熱心でした。このクリンさんは弟子で、私といつも一緒にクルンテープに行きました。今は亡くなりました。

 トンさんは非常に疲れ、一番疲れました。そしてその後、チャヤーラーム寺で暮さなければなりませんでした。私が前のお寺からチャヤーラーム寺に移るようお願いしました。初めは住んでなくて、ただ手伝いに来て、いつも手伝っていました。ピラクルー・ソーポンが良い折を見て、住職の仕事を押しつけて住職にし、今でも住職です。

問 : 先生。作り始めた時、どのように作りましたか。先生も手を出されたのですか。

答 : 私も一緒にしました。手伝いに来た人と一緒に。木の板を削るなど、雇える部分は雇って、その他は協力を頼んで、あちこちから交替で来ました。しかし一番多く来て、最高に働いたのは、クリン叔父でした。彼は上手で、何も考えず、体が擦り切れるほど遅くまで働きました。彼は自分のことのように感じていました。

 この辺の地方には、ウックという伝統があります。ウックとは盗むという意味で、どこかのお寺に木がたくさんあったら、他の寺がウックして来て鋸で切ってやります。意味としては、申し合わせておいてこっそり鋸を引いてあげます。

 しかし何の前触れもないという訳ではなく、食事を用意して振る舞うために前触れはありました。三四か寺から集まって、合計二三十人の僧がそのお寺の木を切るので、相応の振る舞いをしなければなりません。その時私も気に入りました。(笑) でも残念な点もあり、したことがない人がして、曲げてしまいました。

 雇わなくてもいいのは良いですが、時には物を駄目にしてしまう欠点があります。やり直さなければならないので、時間が掛かって、出費が増えることもあり、出来栄えは、人を雇ってしたほど良くありません。雇った人は注文通りに真っすぐにします。

 ウックしてもらったのは、私が最後のようです。その後はどこでも聞いたことがありません。消滅しました。このウックは、大きな仕事、名誉な仕事でなければなりません。小さいことを頼むのはウックとは言いません。ウックは食事の振る舞いを強います。良い点もあれば欠点もあります。(笑)

問 : 先生。壁は良質のゴムの木を使ったと言われたのは、どこのどんな物ですか。

答 : ああ、良質のゴムの木というのは老木で、西洋の製材所のようにします。つまり太い丸太を水に二年も三年も漬けておいて、それから引き上げて切ります。こういう木は非常に長持ちします。その時の木は、バーンドーンのイーストアジアンティック製材所から買いました。今言ったような大きな西洋式の製材所です。

問 : 先生。その時森で切って来た木は、違法ではないのですか。何らかのお金を払わなければならなかったのですか。

答 : 森林保護法による税は払いませんでした。取りに来るように言って、来なければそのままです。戒の面では、私が切ったのではなく、チュード爺さんとルン叔父が切った人と見なします。町の人はお寺の物と見ていますが、彼らは初めから除外しています。

 しかしこのお寺を作る時は払いました。法施会館を作る時は木が多かったので、担当者に申し出て処理してもらいました。木が多かったので県の森林の話になり、管理者である県警察が信仰心と慈悲を起こして、友達に声を掛けて税金を寄付してくれました。

問 : 先生。こういう仕事をしていて、いつ本を書いたのですか。

答 : 当時は時間がある時、できる時、徳とカンマに従って(笑)しました。でも本は休まず出していました。する時間が違うだけです。何冊かまとめて一冊にしたりしたのでしょう。(笑)

問 : 先生。図書館と会館はどう使われましたか。

答 : 図書館は泊まる所、本を仕舞っておく所、私が本を書く所です。私はここで三四年間、古いスアンモークとここの間を行ったり来たりして、本を書きました。そして今のスアンモークができた時、三か所を行ったり来たりした時期もあります。

 会館は住民の研修に使うのに間に合わず、建てて一年以上しても、まだ完全には終わらず、仕掛けたままで、つい最近ウィラットさん(プラウィラット ウィラッタノー)がプッタブット学校を作った時に、続きを作りました。しかし私がここ(現在のスアンモーク)に越して来た時も、二階は使えました。ほとんどは来客が泊まる場所で、お寺の客だったり、スアンモークの客だったり。

 その頃はまだ交通が便利でなかったので、一旦あそこへ泊まって、それからここまで歩いて来ました。地方僧長が来られた時もあそこに泊まりました。役人もいました。私がハッキリ憶えているのは、私が手伝いに行ったことです。その人は視聴覚教育を広めに来て、初めて長距離のスライドの機械を見ました。形は大きな銃のようでした。

 その人もあそこに泊まりました。会館の上から映して、幕は遠い西の方でした。ここへ越して来ると、図書館と会館の役割りはだんだんなくなり、トンさんが住職をしているチャヤーラーム寺の一部になりました。今でもプッタブット学校の建物に使っています。

問 : 先生。現在のスアンモークは、どう探されたのですか。

答 : 木を探して歩いている時、この辺りを何度も歩いて、ある日、これは誰の物か訊きました。道が長く伸びて、ヤシの木がポツポツとありました。誰の物かと訊くと、ルアンプロムパンヤーの物で、安く売りに出して、三十五バーツで売ると言ったが、誰も買い手がなかったと答える人がいました。

 全部でですよ。(笑) だから私は、「広い」(笑)と興味を持って、スアンモークのようにするために買えるかもしれないと思って、歩いて見ると、とてもいい所です。真ん中に山があり、川があり、その時は水がいっぱいありました。

 それで所有者に会うように連絡して、市場で会いました。所有者はバーンドーンに住んでいました。その人は向こう見ずで(笑)、「あなたが買うなら、あなたは私に徳を教えることができます。三千バーツでいいです」と言いました。 三十五バーツで売りに出した物を三千バーツにするのは、最高にバカです。

 私は知らんふりして、高すぎると言いました。後でお金に困ることができたのでしょう。必要に迫られてどんどん値下げして、最後に連絡してきた時、四百五十バーツで合意しました。計測すると九十ライ(一ライは四百坪)なので、一ライ当たり五バーツでした。

 その時私は見られる物にしようと考えていたので、隣接している土地を、少なくとも、あと二百ライは買いたいと思い、そうこうしているうちに、三百三十ライになりました。古いスアンモークは借地で七十ライです。上だけで。下にも土地はありましたがニッパヤシの林で、蚊が集まって敵いません。それに交通が便利ではありません。今のような道路はありませんでした。

 こことは比べ物になりません。ここはどんなに大きくする希望もあります。煩悩に報いることができます。(笑)

 その時マハー・チャウィエンがチャヤーラーム寺にいたので、ここへ来てもらいました。マハー・チャウィエンが初めての人として住みました。(笑) それから、チャヤーラーム寺の学校の用務員のお父さんのオンさんが一緒に住みました。

 どのようにもできます。この辺の住民はお寺が欲しかったので、お寺にするつもりだと言うと、托鉢に食べ物を入れ、何でも支援しました。マハー・チャウィエンは彼のやり方で、コツコツ何かをしていました。オンさんはヤシ糖を作り、ヤシの木を切って、何本も駄目にしました。

 マハー・チャウィエンが二年ほどいてから、私も住むようになったので、三か所を行ったり来たり(笑)しました。引っ越しではなく、増やしたのです。ここにいたり、チャヤーラーム寺にいたり、たまにはプムリエンに行きました。

 その時はマハー・サムルーンがプムリエンにいましたが、その後ここへ手伝いに来ました。その結果プムリエンには誰も住む人がいなくなり、維持することができなかったので、一時期廃寺にしました。(1946年-1971年)

 運べる物はここへ運んできて、クティ(僧房)はマイプムリエン寺に上げました。私が一番長く本を書くのに使った小さなクティは、ここに持って来ました。小さな二棟を担いで来ました。その時代にまだ出家していたチットさんが、担いで来る段取りをして、他の物は舟で運び、二回で終わりました。

 プムリエンの運河の所で荷物を舟に乗せ、古いスアンモークの裏を通過した所で海へ出て、それからチャイヤーの運河へ入り、関の口まで入りました。ヌイさんのクティの前にあったベンチも、この時運びました。




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