8.新聞の発行と著作家生活





問 : 先生。沙弥の育成の仕事と、本を書く仕事とどちらが楽しかったですか。

答 : 当時私は同時にして、本を作るのを止めませんでした。本を作るのは、ずっと、ここに来るまで続けていたと言うことができます。晩年になって止めました。他の人が言うような意味の楽しさではなく、別の、難しいことをする楽しさです。難しいことができたと感じると楽しかったです。ワアワア、キャアキャア言う楽しさではありません。沙弥の教育は、成果がないと感じた時止めました。

問 : 古いスアンモークにいらした時、生活の時間をどのように割り当てられましたか。

答 : 何も決まりはありません。都合に合わせて、その時ある仕事をしました。都合の良い時間次第です。本の探究は夜がいいです。夜はゆっくり本が読め、誰も邪魔する人はいません。昼は人が行き来して、あれこれすることがあって楽しく、夜は三蔵の探求をしました。

 たいてプラタート寺から借りて来て、自分のも多少はありました。翻訳する切掛けを掴むと、良い経、珍しい経、広める価値のある経を選び出して翻訳しました。眠くなったら止めてサマーディをして寝ました。

問 : 先生。先生はタンマの実践よリ布教する決意の方がお強かったようですね。

答 : そう。布教の仕事は、決意が強くなりました。もっともっとしなければならないので、布教が楽しくなりました。実践は「自分を護るだけ」と言います。身を守ることを南部の言葉で「ルンを護れるだけ」と言います。ルンとは牛や水牛の寝床です。牛たちは寝床を大事にし、ルンを維持して誰にも侵害させません。だから必要なだけ実践すると言います。

 そして私は、勉強や探究の中に実践があるようにするので、一つの話になります。布教の基礎として、一番に本を作ること、本を書くことを目指しました。説法はアマチュアになり、呼ばれれば行きました。しかし昔のような説法ではないので、聞いた人は珍しく感じました。現代的な講義で、現代と比較する話し方をしました。出家したばかりの頃のような本生経の話ではありません。

問 : 先生。佛教新聞を作ろうとお考えになった時、どうお考えになったのですか。

答 : 宣伝するためです。私たちは法施会とスアンモークを作ろうと考えたので、宣伝、あるいは連絡する手段である小さな新聞が必要だったので、自分を宣伝する媒体のような物を作りました。もう一つは善や徳であるタンマを広めることで、二つを合わせたら佛教新聞になりました。

 憶えている限りでは、クルンテープを出る前は、タイには仏教新聞がありませんでした。それ以前のソムデットマハーサマナチャオ(クロムプラヤーワチラヤーンワローロット)の時代には、タンマチャックがありました。ああ、あったようですが、サンガの伝達だけで、仏教の本ですが(笑) 学問的な本ではありませんでした。

 佛教新聞が出ると、田舎にもあるのだからクルンテープ(バンコク)にもあるべきだと彼らも気付いて、その後タンマチャックを復刊させました。そして、プッタチャックが続きました。

問 : 何方が考えたのですか。先生ですか、それともタンマタートさんですか。

答 : 宣伝媒体が必要だという意見で一致しました。誰が先に言い出したかは憶えていません。思い出せません。タンマタートかもしれません。彼は外国の新聞を読んでいたので、こういう話は、彼の方が進歩的な考えでした。

 少なくても四五部はあり、イギリス、ハワイ、スリランカにもあり、インドにもあり、日本にもありました。ビルマには当時はなかったようです、イギリスで最初のグループは、Buddhist Review その後 Buddhism in England そして British Buddhists もありました。その後今日の The Middle Way になります。

 作ろうと考えた時、タンマタートが編集長・発行者になり、私が何を載せるか企画して、三つの部分に分けました。一般の部と三蔵の部とタンマの実践の部です。三つの部の表紙は、私がデザインして(笑)、職人にブロックを作らせ、クルンテープで作りました。私が下書きして職人が作りました。私はあれほどには書けません。 

 「佛教」という名前はタンマタートがつけました。そして最後に季刊とあります。ソースア(Sに相当する文字が三つあり、その一つ)を使ったのは、初め私は「フフフ、どうだ。国粋主義者のように、サンスクリット語の言葉を全部パーリ語にする革命だ」と考えました。

 パーリ語はブッダの言語で、サンスクリット語はブッダの言語ではありません。(訳註:「仏教」という語は、通常タイでは、サンスクリット語の綴りが定着しているが、新聞名はパーリ語の綴りを使っている。日本語訳では旧字で表現した)。

 しばらく使ったら逃れられなくなりました。それにふさわしくありません。タイ語では固定しているから、根付いているからです。しかし今はそんな考えはありません。当時私たちの言葉は、パーリ語サンスクリット語以外は、人と同じに使っていました。私たちはラーマ六世の時代の表記が好きでした。だから他の人の使い方に賛成できない時は使いません。つまりいつでも辞書を尊重した訳ではありません。

問 : 最初はどのように印刷しましたか。

答 : 何も特別なことなく、原稿を書き終わって正しい原稿になったら、クルンテープのシーロム印刷サヤームパーニットカーン印刷を雇って、終わるまで私が監督しました。二度折るとA4判になる紙に印刷して、それから折って、そこで手で綴じて、表紙を貼って、それから周りを切断機で切り落とします。

 ハハハ。大きな写真を撮りました。ハハハ。同情します、初めは努力しなければなりませんでした。それぞれの部を切ります。一冊に三部ありますが、それぞれの部はあまり厚くありませんでした。

 私は最後までこのように監督しなければなりませんでした。一回に一週間か二週間かかりました。パトゥムコンカー寺に泊まって、でき上ったら船で送りました。印刷所は早くしてくれました。彼らは善や徳と見て、何もかも便宜を図ってくれました。

 ある時印刷所の支配人とケンカになりました。その人はイスラム人でした。つまり印刷所の主人はタイ人ですが、イスラム人を雇って、支配人にしました。名前はM イスマイルと言い、衝突が生じ、遅れと滞りがあった後、私が文句を言いました。支配人がわざと意地悪をしたからです。

 フフフ。彼は怒って手紙を寄越し、罵倒する手紙が追って来ました。真剣に書いて、すべての紙に署名してあり、七八枚ありました。私はケンカはしませんでした。彼は物すごく怒って、罵倒しました。最高に珍しい手紙でした。もう亡くなったでしょう。激怒しました。

 彼も一つ新聞を出していました。新聞の名前は忘れました。その印刷所からです。働いている人たちは、反抗に近かったです。私のを先にして、わざと彼のを遅くしていました。(笑) だから益々嫌いになります。活字を並べる子供も変わっていて、支配人が嫌いでした。でも本当の主人はタイ人で、名前は何と言ったか、みんな忘れました。前はすぐ口に出たのですが。

問 : でき上って、どのように配ったのですか。それまで知っている人はいません。

答 : 週刊「タイカセーム」の協力を得て、月刊ではありませんよ。週刊もありました。彼が賛同して、気の毒がって協力してくれ、その中にクーポンを印刷して、欲しい人は切手を同封して申し込めば、タダで(笑)本を送りました。何百人も送ってきたので、広く知れ渡り、受け取ったという連絡まであり、その後購読者が千人を越えました。

 その頃は不思議なことで、庶民にとっては非常に珍しいことです。田舎のバカみたいな(笑)佛教新聞は、あり得ない物がありましたが、試してみたい話でした。

問 : タイカセームとはどう連絡をしたのですか。

答 : 私は知り合いでなく、タンマタートが連絡しました。私はクンジン・カチャセーニを訪ねて行ったことはありません。あちらは昼食近くに招くからです。昔はこの辺の普通の人でしたが、旦那がプラヤーでした。タイカセームの主人はこの辺の家の人です。

 「佛教」は本屋には置きませんでした。マハーマクット一か所だけです。購読者の多くはクルンテープでした。でも私は一度も名簿を見たことがありません。知識者・学生はクルンテープにたくさんいました。現在でも私の本を読む人はクルンテープの人が多いです。

問 : 先生。それでその後、どのように印刷所を作られたのですか。

答 : 行ったり来たりが不便で、送り賃も高いので、小さな印刷所を持とうと考えました。一年間四号クルンテープで印刷して(1933年)、二年目の一号はここで印刷しました。チャムパーさんというバムルンムアン辺りの小さな印刷所の主人が、ピップトップ社の印刷機を買うのを手助けしてくれました。何百バーツもしませんでした。

 人力で一度に二ページ印刷でき、写真も印刷でき、二十年くらい使いました。チャムナーン(ループラスート)さんが、新しい機械を買う施主を探すことができ、二万バーツ以上もする裁断機も一緒で、寄付した人はデーン テースチさんです。タートゥトーン寺に会いに来てほしいと言うので行くと、執事であるチャムナーンさんがいて、デーンさんはお寺に住んでいる清信女のようでした。

問 : 初めの頃、どうやって活字を並べましたか。

答 : プラシットという子供が、私と同じ時期にパトゥムコンカー寺で沙弥をしていましたが、還俗して家に戻っていたので、私はその子をチャムパーさんの印刷所に連れて行って、預けて練習をさせました。チャムパーさんは活字を作って売り、小さな印刷所もやっていました。プラシットさんを三か月預けて、戻って来ると印刷所が開けました。活字を並べるのは一人で足り、後になって二人のこともありました。あまりたくさん印刷しません。佛教新聞を印刷するだけでした。

 その後、タラバヤシの説法を印刷しようと考えて、そのタイプの印刷機をS.タンマパックディーの印刷所で買いましたが、気が変わって印刷しないで、現在まで機械を錆らせてあります。以前にチャムニエン ラッタナミシーさんにタダで使わせたことがありましたが、欲しがりません。

 当時クラーイ チッタピタック郡長がここの郡長だった頃、私のをクルンテープ(バンコク)でニッパヤシに印刷させてくださいと言って来たことがあります。だから私の書いた物は、一つニッパヤシに印刷する機会があり、いまでも図書室に保存されています。

 その時印刷しなかったのは、ぐずぐずしたからで、私も印刷する物を選ぶのにモタモタし、向うもあまり気乗りしなそうに見えたので、ぐずぐずして印刷しないうちに(笑)、機械が錆ました。しかしデーンさんの機械は、印刷機も裁断機も、今日まで使っています。今でも良く使えます。

問 : 先生。佛教新聞を作る時、タンマタートさんとどのように役割分担をなさいましたか。

答 : たいしたことはありません。役割も何もないくらいです。私は二部、つまり三蔵の翻訳とタンマの実践の原稿を探すか、書き、私が全部します。タンマタートは全般の責任者です。本当に一般のことで、何でも利益のあることにしました。私が一般の部の記事を書くこともありました。このようにしてきました。今は体の具合が悪かったり、他のことをしていたりで、私はしていません。

 タンマタートはまだ諦めず、今も私がラジオで話した原稿から見つけ、それとチャチュンサオの「リユタイ」新聞が毎回送ってくれるので、タンマタートには都合が良いです。三か月に三篇で、一冊の新聞にちょうど良いです。時には「ローイパトゥム」から、あるいはアルンワティーさんのテープの原稿を印刷します。それに彼自身の、学校について、財団についての声明もあります。

 私は二十年くらい本気でしていましたが、その後は説法したものを編集して載せ、もっと後は移すだけでした。

問 : 新聞を出して、どんな反響がありましたか。

答 : 批評の手紙、アドバイスの手紙、非難する手紙も増えました。だいたい十年目から二十年目くらいの間が、一番多かったです。批評されるにふさわしい濃さでした。でも私は何とも感じませんでした。

 しかし寄せられる声は、称賛の方が多く、非難は少なかったです。本当は、やましいことをしている人たち以外には、ケチをつけられるべき物ではありません。

 非難の手紙を書いてきた人の中には、僧もいました。インタパンと書いて罵りました。非難は、インタパンという名前で書かれていました。プッタタートという名前は非難されたことはありません。「スコンヤック」(笑)は大きな役割があり、「佛教」に書くと、非難の手紙が来ました。

 キー(ナーナーヨン)さんと彼の妹のウィライさんは、何の目的か分かりませんが小冊子に印刷して、いろんな僧に、いろんなチャオカナに配りました。たぶん僧の礼儀に触れたのだと思います。ハガキで非難して来ました。男の人が女の人を罵るように、最高に下品に罵りました。フフフ。それでキーさんがハガキを送ってきて私に見せました。(笑)

 「スコンヤック」はアッタカターに原作があり、そのまま訳して、あまり説明は書かないで詩にしました。本当のタンマについては、非難されたものはありません。非難されたのはタンマ以外の思いつきです。

問 : 先生はどんなペンネームを使われましたか。

答 : プッタタートは直接タンマの話を書く時、そしてインタパンとタンマヨートは怒らせる物を書く時、シリワヤートは詩、サンガセーナーは社会についてタンマの闘士のように書いた物、たまにはトゥローガーロムナチットを使いました。いつでも非難されるのはタンマヨートとインタパンです。強烈に揺さぶるから、強い衝撃だからです。カーパチャオは面白い話を書く時に使いました。

問 : 先生。定期的に寄稿・投稿する人はいましたか。

答 : いないと言った方が良いでしょう。定期的にはいません。時々はいました。ほとんどはいろんな名前を使って、私一人で書いていました。タンマタートの名前も使いました。(笑)

 サモーンメーソードも時々投稿しました。チャオクン何とかで、当時のメーソードの郡僧長で、「佛教」を読んで投稿してきました。汽車の中で偶然会ったことがあります。その日、私はチエンマイで汽車に乗って、聞いてばかりいたので、メーソードと知り合いました(笑)。

問 : 先生。それでアグンオーン、あるいはナーイヘッドポンの話はどんな経緯がありますか。

答 : (笑) あれはわざと書きました。本当の気持ちや知識ではありません。読者にいろんな観点から読んでもらうために、わざと仏教に反論する書き方をしました。反論するならどう反論し、それにどう答えるか、他の人が判断し、仏教の知識が増えるようにするためです。

 タンマタートのアグンオーン(未熟な葡萄)は、アグンプリアオ(酸っぱい葡萄)をもじりました。当時王孫セーニー プラーモートが帰国して、仏教に反論する形の文を書いたばかりだったので、タンマタートはアグンオーン(笑)という名前で書き、ナーイヘッドポンは私が書きました。

 それに反応して書いて来る人もいました。ハハハ。楽しかったです。ソッド クーラマローヒットさんも書きました。ブンチュアンさんも反応してきました。(笑)

 後で知って大笑いしました。ブンチュアンさんは先に知りました。たぶんタンマタートが言ったのでしょう。ソッドさんは今も知りません。実に長いです。(笑) 

 その時のソッドさんはラビン ブンナークさんと一緒に来ました。ソッドさんは資源に関心があり、私は、タンマがなければ、資源は残らないと話しました。好意的な人、賛同者のほとんどは、佛教新聞を通じて知りあった人ばかりです。一人からもう一人、二人、三人、四人と。

 当時は楽しく感じましたが、それ以上しようと思いませんでした。(笑) 止めなければなりませんでした。やってられません。そのころ「佛教」は私たちの楽しい勉強になりました。社会生活面、宗教の問題面、学ぶべきもの何でも勉強しました。目で見えない、社会に関わる自然を知ることであり、何がどうなっているか、そしてどうあるべきか、経緯と、目に見えない裏のことについての教育、学習でした。

問 : どうして止めなければならないほど飽きられたのですか。

答 : それほどではありません。私もタンマタートも、何としても支えなければならないと知っていましたが、飽き始めていました。少しずつ飽き始め、安定して(笑)飽きました。今ではこれ以上続けなければならないとは思いません。今「佛教」は法施財団の連絡手段にすぎません。昔は法施としてタンマを配ろうと考えました。

問 : 先生はゲラ刷りに全部目を通されたのですか。

答 : 見る必要はありません。編集長を信頼しているので、私はいつでも見る必要はありません。「阿羅漢の足跡を追って」でも、ゲラ刷りを見ていません。編集長が良く働いて、良い仕事なのを見ています。

 その後タンマコートを作る時は見たことがあります。でも少しだけです。もし大きな間違いがあったら、正誤の訂正を入れるために、印刷が終わって閉じる前に見せてもらいました。つまり印刷が終わった物を見ました。彼らは次々に印刷して渡して来ます。私は見たり見なかったり。(笑) 大きな間違いがあった時に訂正票を入れます。アルンワティーさんが印刷に出せるまで校正しました。後の方は、私はほとんど見ません。

問 : 先生。本気で新聞を出している間、原稿を送る時、困りましたか。

答 : 季刊にしたのはちょうど良かったです。トリーマサーピラックキッタカーンポットを書くのは、成り行き任せで自由に書きました。一度本にまとめる気持ちは少しあります。たぶんタンマコート一冊分になるでしょう。佛教新聞のすべての号から集めなければなりません。自分で満足している物もあります。深遠なローグッタラのレベルの話もあり、浅い世俗的なのもあります。

 「優越感」「無我」のような長編はかなり疲れました。その他はあっという間に書きました。それは得意です。たくさん探究したことはありません。性質が良くないので、ちょっと探して何を引用するか目をつけ、当時は雑な仕事をしていたと言わなければなりません。話したのを本にしている今の方が、何でもたくさん考えます。土曜法話を話すだけでも、少なくとも一枚カードを作ります。(笑)

 話の題目を書いたカードを作るのは、土曜法話だけです。判事研修の講義は、前もって良く考えなければなりませんでした。役に立ついろんな項目を集めて、それを手帳に書きとめて、一度に話すのは一枚か二枚でした。メモしておくのは項目だけです。学生が使う小さなノートで、ちょうど十回の講義に使えました。

問 : 先生。しかし先生の本を読む時、書下ろし時代の本の方が、しっくりしているように感じ、考えさせるように感じます。先生は下書きをなさいますか。

答 : 同時です。心の中で構成して、それから骨組みを書いて、複雑な話はブリタニカ百科事典を調べなければなりません。ほとんどは道徳の話です。執筆に関しては、初めの頃は注意して、そして上手く推敲できました。でも口で話すのは推敲できません。多くなると、得意なことを話すこともありました。

 書いていた時代には、直接タイプし、鉛筆で下書きはしません。たまに破り捨てて書き直すこともありましたが、ほとんどはそのまま使えました。直してもちょっと修正しただけです。初めタイプライターはグアム叔母から貰った物です。あれは特別で、文字が半分立ち上がって来て、現代の方式のように寝ていません。だから打つ間隔が短くて早く打てました。しかし先に記号を打って、それから文字を打つ方式です。大抵昼間使いました。夜は不便なので、夜は(三蔵を)読んで探究しました。

問 : 先生。タンマタートさんに検閲されたことはありますか。

答 : 思い出せません。ああ、思い出した。西洋の詩「帽子をかぶった魚」を、私が勝手にアレンジしました。元は「帽子をかぶった魚は陸に上がれない」とあったのを、私が「タンマの帽子をかぶらせれば陸へ上がれる」と変えて、他はほとんどそのままでした。タンマタートは「載せられないよ」と言いました。「もし載せれば、後で人が『載せてくれ』と言って来るから、載せられない。ちゃんと書いてよ。こういうのはもう駄目」。それで引き下がりました。(笑)

 他にはありません。私も彼の文を検閲したことはありません。義務がありません。彼は私に見せる必要はありません。彼が書いたタンマの話で確信がない時、間違わないように見せられた場合に、ちょっとだけ修正するもの以外は。

 戦争の時、彼らは新聞を検閲しました。私たちのは便利で、何も問題はありません。タンマタートはピエン ローチャナローットさんと同級生で、彼がバーンドーンで国の検閲官をしていたので、私たちは彼に送って検閲してもらいました。

問 : 私は古い「佛教」を見たことがあり、何号分もが一冊にまとまっているのを見たことがあります。二年分が一冊の年もありました。

答 : それは何らかの理由で作るのが間に合わなかったからです。あるいはズルでしょう(笑) 他に忙しい仕事がある時は、仕事を少なくしました。購読者に対するズルです。一年四冊分が一冊の年もありました。戦争中は紙が見つけにくいという問題もあり、全部アート紙を使った年もありました。でも薄いです。二年で一冊のこともありました。戦争中、紙を探すのはタンマタートの義務でした。

問 : 先生。二年目に、先生がナコンシータンマラートで話された講義のコピーが載っていました。どのようにしてできたのですか。当時はまだ録音機はありません。

答 : 憶えていません。たぶん話してから、概略をメモして、もう一度並べたのでしょう。構成があり、話の概要があるので、一度話したのより良く、内容がちゃんとして来ます。それは練習の期間で、まだ満足できるものではありません。

問 : 先生。最初に書いた物と、最後に書いた物は何ですか。

答 : 初めに書いたのは、プラタートチャイヤー寺のナックタム(僧試験)の学校の落成祝いに書きました。私が教え始めて一年した時です。プラクルー・ソーポン(イアム)が、そこの教育資金を集めるために祝賀会を開き、そして本を印刷して配りました。印刷費は学校のオーナーであるグアム叔母から出ました。

 フフフ。プッタマーマカ(仏教徒を自認する人)印刷で刷ったようなものです。その時、私はクルンテープ(バンコク)にいて、仏教について書きました。その時代のお寺の人にとっては、こういうことは聞いたことがない、かなり珍しい物でした。

 その後、「布施の利益」について書き、アーチャンプラクルー・チャヤーピワットがパーリ語から翻訳した「クンパチャードック」という本に納められ、他の人の文と一緒に、印刷して戒師であるプラクルー・ソーポンチェッタシカーラームの火葬の時配りました。(1930年5月30日) 

 その時はまだクルンテープで勉強していたので、その本は私の手に入りませんでした。当時は今までの印刷所、タオ シーチャラーライ(パリエン)の印刷所、つまりプッタマーマカ印刷所です。サームヨード門の辺りにある、一部屋だけの小さな印刷所でした。

 タオさんはワットテープ殿下の弟子で、その後公務員になって外務省に勤め、プリーダーと改名して、いろんな考古学の検証研究をしていました。後で私は、最初に短く書いた布施の話を、書き直して完全にして、出家式で読経したアーチャンである、プラクルー・カナーヌクーンの任命の祝賀回で配りました。

 この時はクルンテープの印刷所、シープラヤーのデーリーメールで印刷しました。そこへ仕事をしに行ったマハーパリエンラープロットたちは、「こういうのを書いた人を見たことがない。できそうにもないことだ。パーリ語のアッタカターディカーの引用も完璧だ(笑)」と言いました。

 スアンモークに来る前に、四聖諦について構成を書いたように思いますが、完成しませんでした。構想書きはまだあります。(笑) あのように子供っぽい考えを書かなくて良かったです。書いていたら恥ずかしくてたまりません。

 古いスアンモークに住んで間もなく、「阿羅漢の足跡を追って」を部分に分けて書き始めました。自分自身の勉強のためでもあり、佛教新聞に連載するためでもありました。何年も書いて、結局、話したように未完なっています。

 本気で書いた最後の文は、「私の感覚の中の猊下」だと思います。(1973年3月3日) ある高い階級のテーラ(長老)が、今回の葬儀の本に敵う本はどこにもないと言いました。もし自分が死んだら、誰かにこのような本を書いてもらいたいと言っているようでした。

 私は、プラクルー・ドゥラヤパークに頼まれて、あの方のことを考えて書きました。プラ・ドゥラヤは猊下を考えられないほど愛していた弟子で、あの方はアーチャンでもあり、戒師でもあります。書くことにめいっぱい飽きていた時代の作品です。



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