7.母と弟の助力





問 : 先生。お母さんはスアンモークの仕事と、タンマタートさんの仕事をどのように支援なさいましたか。遺言書を書いて六千バーツを越えるお金を贈与したと「佛教」で読んだことがあります。お母さんについてお話いただけませんか。

答 : 全般に、母は何も意見はなく、私を信じていました。私は間違ったことをしないと、被害を与えないと信頼していました。尊敬で確信していたので、あまり話す必要はありませんでした。母はこういう形の信仰がありました。私にタンマの勉強をする機会を与える信仰、知識を他人に分ける信仰です。

 「法施はどんな布施より素晴らしい布施」という知識と理解があったので、法施を振興する話をすると、まだ誰も知る人がいない世界へタンマを広める、誰もしたことがない深い善と見て、すべて認めました。母はいろんな事業にお金を使わせ、初めの頃の法施会の事務所や、説教やいろんな本を作る場として、家を使わせました。

 私は母に遺言書を作ってもらい(1932年)、一部を三人の子で分け、残りは利子を仏教の事業に使うためのパーニット家の基金にしました。私の分の遺産は受け取らないので、この部分に加えました。パーニット家基金の利子を、スアンモークの事業、法施図書館、佛教新聞に使いました。その結果賛成して協力する人が増え、これらの小さな資本の意味がなくなるほどでした。

 母が亡くなった時(1947年)、この資本を五千バーツ使って、母への追善供養のために墓地の東屋をウィエン寺に造りました。法施会の仕事を支援する人が増え始めたので、残りは法施会の所有として土地を購入し、そして残りは本を作る資金にしました。他の人も法施財団の資金を助けました。

問 : 先生。それでは、その人が「気違い坊主」とか何とか言った時に、お母さんは動揺されましたか。

答 : 全然。そんなことで動揺しません。私よりしっかりしていました。親の代、祖父母の代から十分タンマの教育を受けていたからです。

問 : 先生。スアンモークや他の仕事があって、お母さんと親しくする時間はありましたか。お母さんがお元気な頃。

答 : 母は家にいたので時々訪ねました。訪ねる時間はありました。プムリエンにいた時は、托鉢に行くと毎日顔を合わせました。

問 : 亡くなる時、先生は傍にいらっしゃいましたか。タンマや何かを差し上げましたか。そしてどんな葬式をしましたか。

答 : 母は中風で何カ月も寝ていたから、上げませんでした。でも傍にいました。チャヤーラーム寺に泊まって、近くにいました。その日の夜遅く、まだ子供だったクルー・シリがお寺へ来て、母が亡くなったと言いました。

 葬式はしきたりに従ってしました。私が喪主で、親戚友人が協力し、プラチャオや僧も大勢協力しました。母はいろんなお寺を支援していたので、読経をしてくれ、何が欲しいか、どうするのか、世話をしてくれました。普段と変わりませんでした。その頃はこのように助け合うのは普通でした。何人もの僧が最後まで座っていて、考えを出し、客を迎えてくれました。珍しかったのは、私が中国人を真似て幟の行列をしたことです。美しいと思いました。

 バーンドーンの親戚の老人が亡くなった時、バーンドーンの中国人たちを集めて、何十枚もの良質の絹布にきれいに書いて、墓地まで行列しました。私はそれを美しいと感じたので(笑)、やって見ました。三四十枚作って、遺体の行列の後を学生が持って続き、墓地に着くと、これらの布は糞掃衣として僧に献じられました。

 生地は洗えば字が消え、簡単に染められ、水浴の布にも使えます。中国の習慣では友達がくれ、亡くなった人の名前を書いて、名誉を称えます。そしてこの布を上げれば、お金を上げる必要はないという決まりがあります。

問 : 先生。お母さんが亡くなられた時、哀惜の気持ちはありましたか。

答 : 余りありません。惜しんだら母にからかわれます。母には、「タンマがない人のように悲しむ必要はない。泣かない。苦しまない」という母式のタンマの知識がありました。母の父、つまり私の祖父の看病に行った兄弟は、父親が亡くなる前に全員泣きましたが、母だけは泣かなかったと、このように自慢して話したことがあります。母は知らないうちに父親から、他の人よりも多くタンマを受け継いでいました。

 私は病気になった時から見ていて、それからどんどん重くなって、珍しいと思いませんでした。それにその時はいろんな仕事がありました。急いでウィエン寺に墓地の東屋を建てることで、これは、材木を買うのにパーニット家の資本五千バーツを使ったと話しました。

 仕掛かっていた郡の平和東屋が出来上った後、住民の力を借りて三日以内で完成させました。この建物はウィエン寺の古い墓地に今でもあります。父が亡くなった時にプムリエン墓地に一棟立てましたが、今でもまだあるようです。

 平和東屋は、初めチャード郡長の考えで集会所を作る予定だったので、私は「それなら住民の力を借りて作れるでしょう」と言いました。私とプラクルー・ストンタムサーラが手伝って、そして森林保護のお金を払わない人から押収した材木を使って建てました(1946年)。一年前に柱を建て、途中で考えが変わって工事を続けませんでした。その時戦争が始まっていたので、平和東屋と名付けました。

問 : お母さんが先生に還俗してほしいと言われたことがあるとアーチャンパンヤーから聞いたことがありますが、本当ですか。

答 : 聞いたことはありません。後になって耳に入りました。もしかしたらスアンモークができたばかりの頃かもしれません。間で話をした人が、「何と言いましょうか」と訊いて来た時、私が還俗しないと答えたので、変更しなければならなかったと聞きました。

問 : 女の人は長いこと待ったのですか。顔を見たことはありましたか。

答 : 待ちました。女の人が待ったのではありません。女の人の親が困りました。顔を見たことはありません。名前を明かして記録したくありません。彼女も後で家庭を持っています。

問 : 先生。スアンモークを造られた頃、シエン叔父さんとはまだ時々会われましたか。

答 : 年に一度か二度会いました。それから呪術を揶揄する詩を送って来て、佛教新聞にずっと載せていました。いつも楽しみにして、読んで満足していました。喜んでいると、度々耳に入りました。気力にするために、楽しみで佛教を熱心に読んでいました。

問 : 先生。タンマタートさんの他に、先生の仕事を支援した親戚や兄弟はいますか。

答 : いやー、彼らは理解できません。それに仕事で手いっぱいで、「法施はすべての布施より素晴らしい」という考えはありません。それに、協力しようにも彼らの仕事は、零細すぎます。

 法施会がすることは儲けのため、と考えていた一般庶民は少なくありません。そして、私も親戚に儲けさせることに関わっていると、私の名のある本を書いて印刷させて、売れるようにしていると見られていました。地域の人も県外の人もです。しかし仕事に何らかの意味が生じるほどではありませんでした。こういう人たちは、「儲けがなければ何だって苦労するんだ」(笑)と、彼ら式の考え方をするからです。今の人はほとんどこう考えます。

問 : 先生。それで兄弟親戚は妨害しましたか。あるいは仕事や名声から利益を得ましたか。

答 : 現れません。彼らは、私がしてくれないと知っていたでしょう。病気の時、病院に入院させたことはあります。(笑) でもすごく少ないです。する必要がないからです。彼らは自立していました。

問 : 先生。スアンモークと法施会の協力関係を初めから話していただけませんか。

答 : 協力という言葉を使うことはできません。一体だからです。私は何をするにも法施会に頼み、別々のことをする二つの部分ではありません。何か考えつくと頼んで、タンマタートはお金を預かっておいて、指示どおりに支払う義務がありました。

 小さな予算で、仕事は多くはないので、それほど面倒ではありません。ずっとしてきて、現在でもお金の世話と維持をして、スアンモークを維持しています。それと新聞を発行する任務もあり、新聞の発行に関するすべてをします。佛教新聞の埋め草にする、彼の記事を探す義務もあります。

問 : 先生。法施会自体の仕事はありますか。

答 : 前に話したように、初めはタンマの本の本箱で、タンマの本を貸し、スアンモークができた時(1932年)、家の一角を公的(図書館)にしました。それから母の家を、ワンプラ毎に説教をする集会所に使いました。

 その後公的なのは、仕事がしやすいように、タラートの線路に近い郡役所に移り(1935年)、法施会もタラートの線路傍、ボロマタート寺へ行く道に引っ越しました。だから私は雨や陽に曝されて歩いてそこへ説法に行きました。パンヤーさんも説法をしに行ったことがあります。

問 : 先生。法施会のモットーの「タンマを布施として与えることは、すべてを与えることに勝る」というのは、どこから取りましたか。

答 : タンマタートが選びました。マハーポーティ協会の本の表紙にあったスローガンのようです。私がパーリの中から、引用の根拠を探してやりました。

問 : 先生。法施会の人にどのようにタンマを伝えましたか。

答 : 協力者も私がしょっちゅう行って話す説法を聞き、説法の度に聞きました。タンマタートはほとんど何も教える必要はありません。自分で読んで、自分で勉強しました。ほとんどは英語からです。意見交換や教えについて論争したことは一度もありません。あるのは、彼が間違うかも知れない点を、印刷する前にチェックするだけです。

 佛教新聞に載せる法施会の声明文は、タンマタートが全部書きます。編集長次第です。私は学術部門で、会員を受け入れたりする話には関わりません。

問 : 先生。法施会では、人からお金を借りてするような仕事はありましたか。

答 : ありません。する必要がないからです。それに、そこまでする気はありません。資金があるだけ、あるいは集められるだけでし、私は絶対に認めません。タンマタートもたぶん拒否するでしょう。

問 : 先生。法施会がプッタニコム学校を設立したのは誰の考えですか。

答 : タンマタートの考えです。私はまったく関わりませんでした。多少関わったのは、先生と話をして、他の人と同じように生徒を訓練しただけです。もしかしたら英語の教え方を先生にアドバイスしたかもしれません。

問 : プッタニコム学校の特別な点は何ですか。

答 : 仏教を教え、仏教の知識を教えました。他の学校より仕事が少なかったです。読経や、仏教に関した知識の競技会もありました。

問 : 先生。それで善い仏教徒を育成する考えは成功しましたか。

答 : 成功しませんでした。成功しなかったと言わなければなりません。力が足りなかったからです。思いつきでしました。ちょっと頭の切れた先生は、辞めて国の先生になりました。転職先の方が安定していて良いです。残った二三人は、中学校が火事になるまで(1984年)苦労を共にしました。何人も残りませんでした。

 本当は、それまで郡の中学校がなかったので、その辺の子供は、中学校へ行きたければ誰でもプッタニコム学校で勉強しました。その町で生まれた三十歳以上の公務員は全員、プッタニコム学校で勉強しました。でも普通の勉強です。難しすぎました。子供はタンマの子になりたくありませんでした。彼らは町の子、仕事をする子、社会でお金を稼ぐ子です。

問 : 先生。私は古い書類を見たことがあります。大学を作る計画がありました。

答 : 遊び半分で考えたことがあります。タンマタートとの冗談です。普通に考えて、仏教の教育が大学まであればいいと。タンマを勉強して熟知し、タンマに精通してほしいと。でもできません。タンマタートは絶対にできないと確信していました。私自身、なぜ大学のレベルまで考えないのかと言ったことがあります。これだけの人、これだけの資本、これだけの力ではきっとできません。

 外国に二三か所あるような新式の学校は作りたくありません。タンマが少なすぎます。それに教える人がなく、自分も教えられる自信がありません。私は時々冗談に、「今私たちは、ナックタム一級の後に、深くて難しいこと勉強する特別クラスがあってもいい」と言いました。ナックタムの学校に関係のある人に会う度に話しました。しかし大抵「どこから先生を連れて来る」(笑)と反論されて沈黙しました。

問 : 先生。特別クラスだけでなく、三級、二級、一級も改革しなければなりません。ほとんど百年変化していません。学ぶ人が、人生の問題を解決するにふさわしいことを教えなければなりません。

答 : それには教師を見つけられない問題があります。変えなくても、ある物を完璧に使うべきです。今はずるく勉強して、ずるく試験をして、何でもずるいので、教育課程で規定されている一割の知識もありません。

問 : 先生。法施会の仕事、スアンモークの仕事はいろんな役割をしていますが、地方の僧たちに不満を生じさせる衝撃や、サンガ内に何らかの変化がありましたか。

答 : あったかもしれません。しかし幾らも威力はなく、誰にも影響はありません。心がまともでない精神異常者二人が悪意で見て、いつも悪口を言いましたが、何もできませんでした。

問 : 先生。将来法施財団は、ほとんどスアンモークと関わる必要がなくなりますね。

答 : できる範囲の執事としての仕事、出版の一部の任務があります。スアンウソム財団も代わりに受け入れて、法施財団の負担を分担しています。私は何もしません。年を取ったので、死ぬ準備をします。私はできるだけで、これだけで満足です。多いか少ないかは知りません。一部の庶民の心に根付き、私が作った本は、今後それなりに身を守る道具になり、手引き書になります。




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