6.法友と挫折した努力





問 : 先生。ここで、古いスアンモークで先生と一緒に暮らした僧・沙弥について、初めの方からお話していただけませんか。どれくらいしてから僧が住むようになったのですか。

答 : 私一人で二年暮しました。二回目の雨安居が明けて間もなく、マハー・チュン プロムサローが一緒に住みました。後で汚れたと話したことのある僧です。彼はメーソードにいて、佛教新聞を読んでスアンモークを知り、手紙で連絡して来ました。パーリ語試験四段に合格していました。

 ちょうど私はクルンテープに行く用事があったので、約束して迎えに行くような形になりました。自分で作った二三か所のクティに住みました。そっちの方の頭がありました。

 一緒にいた頃は、汚れる気配はなかったので、プラ・ドゥラヤパークスワナンが始めたスアンモーク式の事業(1934年)、ナコンシータンマラートのスアンパンターラームへ行かせました。そして開山式をして、説法もしてやりましたが、その後、話したような損害を与えました。

 私と過ごしたのは、雨安居に入る前までだったと思います。でも何カ月もで、長いです。タンマの意見交換やお喋りをたくさんしました。カンボジアの血を引く人で、パーリ語文法を良く憶えていて、菜食でした。

 マハー・チュンが来て間もなくすると、マイさんが来ました。プラ・マイ サーサナッパチョートーは、事前に連絡せず、頭陀をして来ました。ナックタム一級も終わっていませんでしたが、特別なケースとして受け入れました。無口で静かな方で、微笑まず、笑いもしませんでした。彼の肺は笑うことで運動をする機会がありませんでした。

 体は丈夫でなく、病気がちで、一緒に二年暮したようです。ある人が出版した「スアンモークの手紙」は、この人との手紙の交流です。まじめで、本気で実践していました。その後病気になってチャイヤプームの家に帰りました。クルンテープ(バンコク)まで送って行きました。その時、ダルマパーラが教育した人の一人、アーナンダ カオサンラヤーイと約束して会いました。

 その人はペナンへ布教に来て、汽車の中で会う約束をしました。その人は南から来て、クルンテープまでずっと、長い車中でお喋りしました。その人はチンカーラナマリーの本にとても興味がありました。その本の冒頭で、著者がスリランカに関してたくさん書いているからです。その後まもなく、マイさんが亡くなったという知らせが届きました。

 初期のもう一人はマハー・サムルーンで、沙弥の時に、この人も頭陀をして来ました。長いこと一緒に住み、パーリ語をマイ寺(プムリエン)のプラクルー・チャヤーピワット(クラン)に習い、マハーパリエンになりました。出家して僧になり、「ブッダの言葉の財宝」を書いた時代には、パーリ語の翻訳を手伝いました。初めから、今のスアンモークに移転するまで長くいたと言うことができます。一時期仕事も手伝いました。

 その後はパンヤーさんとブンチュアンさんの時代です。この方はプラローガナートと旅をしたことがあります。佛教新聞でプラローガナートの話を知り、私がプラローガナートに同調しないと知って、ビルマでローガナートの一隊と別れた後、ここへ来て一年一緒に雨安居しました。(1936年) ビルマからラノンを経由して来たようです。

 一緒に住んだのでたくさん話し、たくさん評論しました。パンヤーさんは時間を割いてプラタート寺でナックタムを教えました。そしてワンプラの日には、チャイヤーの線路傍に越してきた法施の部屋で説法をしたこともあります。

問 : 先生。アーチャンパンヤーは、「先生が目標を定めて働く原動力は、外国人と同じくらい仏教を良く知る人がいないことを恥に感じるから」と話していたことがあります。これは本当ですか。

答 : それは冗談です。気持ちの中にはありません。「もう少しして、西洋人がタイ人より仏教を良く知ったら恐ろしい」と話しました。マハーポーティ教会などの海外の新聞を見て、西洋人も本気になり出したのを知ったので、私たちも寝てばかりはいられないと。

問 : どうしてこのお二人は先生と一緒に仕事をなさらないのですか。

答 : それは趣味の問題です。雨安居が明けると、パンヤーさんはパーリ語を勉強するためにサームプラヤー寺に住みました。ブンチュアンさんも一度チュムポーンの方にパーリ語の勉強に行ったことがあります。それでドーンサイーケオに、スアンモークに近いような新しいタイプのお寺を作ろうと考え、私も見に行きました。ルアンシースパンナディットが施主でしたが、失敗しました。適してなく、小さすぎ、川も港もありません。チャイヤプームは良くありません。

 その後サンガの仕事をし、チャオカナサンガーティカーンか何か、いろいろなって、今は、チュムポーン県僧長です。あの方は経営の才覚があり、話すことに誠意があり、一緒に働く人の心を引きつけます。パンヤーさんもたぶんペナンで何か新しいことをしようと考え、向うで、ペナンで事業を始めました。その後、私がチエンマイの仕事の手伝いを頼み、その後はチョンラプラターン寺にいます。

 古いスアンモークの後半は、もう一組、マハー・ポーンとマハー・チャウィエンとマハー・チャムラットがいます。三人は友達で、クルンテープ(バンコク)のマハータート寺でパーリ語六段を修了しました。初めマハー・チャムラットは来ないで、他の二人が先に来て、その後マハー・ポーンが帰って、マハー・チャウィエンはまだいました。

 新しいスアンモークに私が住む前に、雨安居をした初めての僧です。私が来てもまだ、チャヤーラーム寺の法施クラブにいました。マハー・チャウィエンが帰った時マハー・チャムラットが来て、一時期私と一緒に過ごしました。この三人は三人組でした。

 当時はまだ、マハー・ポーンは魂の話に興味を持つ徴候はありませんでした。食べきれないほどパパイヤを育てました。私は一時期結集式説法(説法の後多数の僧が読経をして、何人もの僧が、説法と読経を繰り返す形式)をしたことがあります。あの時代はまだ結集式説法を好んで、招聘する人がいたので、多くの住民に気に入られたことが分かります。

 マハー・ポーンは志が高い人で、今のようにすっ飛ぶほど高いです。マハー・チャウィエンは薬草に興味がありました。アロエを煮て上質のヤーダム(黒薬)を作り、ツヅラフジを煮て何か特別な薬を作り、塗ると皮膚病が治りました。

 マハー・チャムラットは、パーリ語の新しい勉強法についての本を二三冊書き、その後病気になってフアランポーン寺で亡くなりました。マハー・ポーンは還俗して魂の研究をする先生になりました。ここへ訪ねて来て、まだ仕上がっていない「ブッダの言葉による四聖諦」を完成させてくださいと言ったことがあります。私は「自分でする」と言いました。マハー・ポーンがしたら、どんな形になるか分かりません。まだお互いに尊敬し合っていて、私は彼の考えを侵害しませんでした。

 マハー・チャウィエンは還俗して、何も本物になりませんでした。還俗する前に、チエンマイのチャオチューンの仕事を手伝うように言ったことがありますが、ウモン寺には住まないで、他のお寺に住んで、それでいろんな仕事を手伝いました。だから最初のうちの暇な時にパンヤーさんが登場します。私と住んでいた時は、それぞれ自由に、自分のしたいことを探しました。

 マハー・チャウィエンは古いスアンモークで金魚の飼育をしました。タンマのことは、あまり興味がなかったように見え、興味があったのはごく普通の、ナックタム一級レベルだけでした。

問 : 先生。その他に、初期に一緒に住んだ人はいますか。一緒に住む人がいる時、生活規則や勉強はどのようになさっていましたか。

答 : 他の人もいますが、一時的で意味がありません。ナラズ者のように妨害したのはマハー・シーで、隠れてタバコを吸い、こっそり住民から寄付を集めました。知識は悪くないのに、ああいう人になりました。私は何もしないで、ただ歓迎していないと分かるように表し、相手にしないだけでしたが、彼は恥ずかしくなって去って行きました。

 来る僧を受け入れるのに形式めいたものはなく、連絡をして、そして来ます。歓迎の式も何もありません。ナックタム一級なら受け入れ、一級が終わっていなければ、住まわせて様子を見ました。

 来たら自由に暮らします。誰でも、律に反しないことは何でもできます。本当は、それは何も重要ではありません。律に反しないために、朝晩の勤めを一緒にしました。当時はまだ翻訳の仕事はしませんでした。その後私は勤めを欠かすようになりましたが、マハー・サムルーンは参加していました。彼は好きで、厳格で安定していました。

 タンマの学習は、ほとんどは会話で、ある時代は夜遅くまで会話しました。池の傍の高いクティ(僧房)の床下にテーブルがあり、椅子が囲んでいて、夜中の十二時まで話しました。タンマを伝えるのはこのようなお喋りで、疑問点について考えました。ほとんど私が話し、他の人が聞いて、そして繰り返し質問しました。

 いつでも心を刺激する、気持ちを刺激する変わった質問があったので楽しかったです。当時一緒にいた僧・沙弥は、勇敢に質問しました。僧・沙弥は沢山はいませんでした。本当に参加したのは四五人です。管理者のいない、住職のいない、監督者のいないような暮し方と言います。

問 : 先生。当時先生が書かれた物に、「雨安居が明けたら、僧は頭陀に出るべきだ」とあるのを見ました。先生は出られましたか。一緒にいた僧は頭陀を守っていましたか。あるいは全員が、傘や履物を履かない先生式の実践をしていましたか。

答 : そのように、ブッダの時代のようにするべきだと書きましたが、私は仕事や用事に縛られていて、出られないので出ませんでした。そしてそれには多少利益があったので、頭陀よりも多い利益を取りました。彼ら全員は私のようにはしません。する人もいました。自分次第です。私の所の訓練は、試しにやって見ることです。中には良いか悪いかまだ分からないこともありました。

 履物を履かないこと、傘を使わないことは丈夫にする訓練です。僧は出費を少なくするために、体を丈夫にするべきです。病気が少ないことは、ある形の頭陀と言えます。それで丈夫で、良い結果があると分かりました。何年もまったく風邪を引きませんでした。

 その後年をとって体が弱くなったので、靴を履き傘を使わなければなりません。あるいは他の人と行く時、他の人がみな履いていれば、一人だけ履かない訳にもいきません。集会の時、他の人は傘を差し、履物を履いています。初め、私は頭陀袋もあまり使いませんでした。乾季に旅行して山やターチャナや温泉山に泊まっても、鉢を頭陀袋の代わりにしました。

 プムリエンにいる時は、タンマタートが払ってくれるので、あまりお金を使う必要がありませんでした。それは山寺のしきたりで、スリランカでもこうします。山寺はお金を掴むことに厳格です。しかしクルンテープに行くと、車代や交通費にお金を使わなければなりません。

 寺の子を連れて行けば問題が多くて不便なので、時々はお金を使わなければなりません。その後ここまで大きくなって管理できないので、放任しています。しかし自分自身は、お金を個人の物として貰わないことにしています。施主が個人に献金しても受け取らず、全体の物にしてみんなで有益に使います。

問 : 先生。仏教のために働く僧・沙弥を育て上げる考えはどうでしたか。

答 : 失敗しました。あの頃ダルマパーラが僧・沙弥をイギリスに派遣して教育をしたというニュースを聞いて、知識がないのに思いつきで真似しましたが、結局は失敗しました。私のは失敗しました。沙弥がいたくなかったからです。

 彼らは世界の勉強をしたがり、中学校三年の認定試験を受けたがりました。しばらく騙し騙しやる努力をし、英語を教えたり、簡単な物を教えたりしましたが、追いつきません。当時私は非常に力を注ぎ、三蔵と同じくらい沙弥を知っていると感じたほどです。

 沙弥を大切に思う文章を書いた時、チャオクンラップリーが絶賛して、ウィッタヤーコムで新聞を書く練習もしました。ここまで残った沙弥は二三人です。コーソンとタノーム。死ぬほど励まして教えて、やっと書けるようになり、後でみんな還俗しました。クルンテープで還俗した人もいます。

 一番長くいたのがマハー・サムルーンで、今もいます。これらの沙弥は、ほとんどがこの辺の人で、ターチャナの人もいました。当時私は速成のパーリ語を教えようと考え、二日勉強してすぐに訳しました。この辺のお寺から沙弥が勉強に来たので、それで沙弥の特訓企画として期間を延ばしました。

 パーリ語は幾らもしないで止めました。楽しくありません。楽しくて珍しいことを勉強させ、訓練に来ている沙弥に、新たにタンマの勉強をさせ、バーヴァナーの実践、読経、いろんな頭陀の練習を一年ほどしました。それでもあまり勉強したがらず、来なくなりました。

 遅いと怒る人も、罵る人もいましたが、面前でではありません。一時的な試みで、結局何も意味はありませんでした。沙弥を育成する計画は挫折したと言わなければなりません。

問 : 先生。チャオクンラップリーとはどのように知り合って、どう仕事の支援をしましたか。

答 : 最初ラップリー殿下は、私たちが大きな事業をしていると勘違いをしたようです。帰国したばかりの頃は高等裁判所にいて、佛教新聞でスアンモークを知り、何か手伝いをさせてくださいと手紙で連絡をしてきました。きっと、大きな利益のある本格的な仕事をしていると考えたのでしょう。初めての手紙に、「一緒に住んで協力しても良い。公務を止めて協力することも喜んでする」とありました。

 私は「あり得ません。それほどまでする善いことは何もありません。小さな仕事で、まだ道路も通じていない山の中で、二三人で田舎式にしています」と言いました。あの方はまだ来て見たことがなく、「未だかつてタイ国内で見たことがない」という構想を佛教新聞で見ただけでした。

 あの方は外国へ留学しましたが、タンマに興味があり、自由な心で、タンマと呼べる宗教や哲学の本は全部読みました。西洋の哲学、あるいはクリシュナムルティの著作など、タンマと呼ぶ物は全部です。精神面の話に興味があり、本当に学び、本当に知りたがり、夢中なくらいタンマが好きでした。

 基礎知識のある人で、誰も系統を外れるよう唆すことはできません。呪術の道に引き込むことはできません。ラップリー殿下からパロットラーチャスピット殿下に繋がり、サンヤー タンマサックさんに繋がり、それからチャムナーン ループラスードさんに繋がり、それから他の人に繋がって行きました。

 ラップリー殿下一行は、他県からスアンモークを訪れた最初の在家で(1938年)、その時プラヤーパロットラーチャスピットとサンヤーさんが一緒に来ました。新聞を出してから四五年たっていたと思います。その時はある物、貰った物で泊まりました。何とか寝られるクティで寝て、母の家が弁当を届けました。ラップリー殿下は私より一つか二つ年上だったと思います。

 特別な沙弥の育成をしていると知ると、彼は諸経費すべての支援をしました。クティの建設費でも何でも、お話したように何でも。

 当時のスアンモークは、こういう客は多くはなく、本当に関心がなければ来ませんでした。キー ナーナーヨンさんは、まだ私が商売をしている時代に来て、その時代からタンマの会話をしました。彼は本気で実践し、その後出家し、そして女性が安定して自立できるカオスアンルアンを創設しました。




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