5.拡大と周辺の人々





問 : 先生。初めに菩薩堂の後ろに住んで、それからどう移動したのですか。

答 : 一年あまり菩薩堂の建物に住んでいて、その後本気で本を書き始めると、シロアリから逃れられる住まいが必要になったので、小さな池の西側のモートの木の下に、二棟目の建物を造りました。全部トタン造りで、グアン叔父がトタン代を出してくれたようです。家全体で、トタン代はたった二十五バーツでした。幅一メートル、長さ二メートル、高さ二メートルで、柱の上に載っていました。柱を打ちこんでその上に載せ、高さは胸くらいでした。

 ここへ引っ越した時に持って来て、人が床下を歩けるくらい高く設置しました。持って来て、今は曲石庭(石を馬蹄形に並べた庭)になっている広場に置いたような形でした。昇り口はプッタトーン山側で、今はみんな腐ってしまいました。

 古いスアンモークでは、この建物にすごく長く住んで、十年くらい本を書いていました。寝台は机にもなり、そこで書き物をしました。他の建物も同じような造りにしました。四方の壁は、寝台の高さの所で窓のように開ける閉めできました。モートの木は枯れてしまったようです。

 九官鳥はモートの実が好きで、丸ごと飲み込んで、しばらくすると屋根に種を排泄しました。九官鳥は食べながら消化しながら排泄します。トタン屋根にポタポタ糞をするので、何羽も来たら、非常に我慢しなければなりません。しっかり心しなければ書き物はできません。鳴き声が美しいので追い払いませんでした。九官鳥が群れで来ると、高い声と低い声が響き合って、鳴き声が非常に美しかったです。一度に二十羽来たことがあります。

 その後、向うに高いクティ(僧房)を一棟作り、それからヤーンソムデットの所にもう一つ作りました。パンヤーさんはこのヤーンソムデットに住み、ブンチュアンさん(プラ・ラーチャラッタナカウィー、現在のチュムポーン県僧長)は一番端に住み、床下は集会所に使いました。余分に、足りない時や来客のために、木造のを四棟作りました。古いスアンモークは、最高でも十棟は越えなかったと記憶しています。

 初めは清信士四人で作り、後には私と一緒にいた沙弥とで作りました。それが木造の四棟のクティです。木は自分で削り、屋根はヤシ葺きで、当時ニッパヤシが安くて、百本で二バーツでした。バーンドーンで買うのは三バーツで、木もバーンドーンで買いました。舟に頼んで買うことも、自分で買いに行って、トゥンメーという定期船に積んで来ることもありました。

 昔バーンドーン-プムリエン間で郵便船だったことがありますが、郵便船としての運航を止めた後も、まだトゥンメーと呼んでいました。ヤシの葉を葺く時、住民がするように樽木を使って、それから竹紐で束ねずに釘を打ったので、バラバラで綺麗ではありませんでした。

問 : 古いスアンモークには、他に何がありましたか。

答 : あと二つ、食堂と学校(笑)がありました。初めは揺れる食堂を作りました。ゴムの木に竹紐で固定したので、風が吹くとゴムの木が揺れて食堂も揺れました。その後、ヤシ葺きの食堂を、泉の口にある大きなマンゴーの木の近くに作りました。座る物は竹の輿で、台所などはなく、座って食べるだけの場所でした。食堂と小さな池の間にもう一棟、ヤシ葺きの学校があり、これも自分で作りました。

 パワーという木を海から切り倒して来ました。海に近い森の木で、丈夫です。チュイ岬へ行く方のポーティ岬側の海岸で切りました。人に舟を出してもらい、切って貰いました。私たち僧と沙弥で一艘ずつ運び、一日に一艘、二三回で終わりました。

 パワーの木だけを選びました。住民はワーと言いますが、「パ パワー パータ コー」パワーの実の方が美味しいので、パワーの実を見つけたら、パータコーを捨てる、という言葉があるので、私は文字ではパワーだと信じています。

 欲しい長さになるように切り、何も難しくありません。届いたら、大きな四角の堂を作って、周囲に細い板を打ち付けて仕切りにしました。黒板があって、その板でタンマを説明したので「学校」と呼びました。打ち付けた板は、お寺の近くの小さな森で切って来ました。

問 : その時、何を教えられましたか。

答 : 高いタンマと、中学校三年程度の一般の知識です。沙弥が五六人いたので、他のお寺と違う、特別な沙弥を育てようと考えました。ポーターラーム寺、フアクー寺から聞きに来る沙弥もいました。試験を受けるためではなく、知識にするために教え、希望者には多少パーリ語も教えました。

 アーチャンサンヤーが訪ねてきた時は、この学校で生徒として座って、縁起の話を聞きました。黒板があって、口だけで話すより説明が分かりやすいので、学校で聞いてもらいました。

 七八年住んだと思いますが、その後蔵書が増えた時、小さな池の東側に、本を安全に仕舞っておくために、もう一軒、床が高いクティを作って、図書館のようにし、住まいとしても、仕事場としても使い、床下は座って会話もできました。

問 : 先生。プムリエンのスアンモークのいろんな工事は、地域の人も関わりましたか。

答 : 要りません、必要ありません。清信士四五人の他は、自分たちで作りました。資金もあまり使わず、これらの事業に使う母の財産があり、法施会が出しました。後に、特別な沙弥を育成するためにクティを作る時、チャオクンラップリーも援助してくれました。チャオクンラップリーは、五棟全部引き受けてくれました。一棟、たった四十五バーツでした。だからこの話には住民が関わる必要がありませんでした。

 ああそうだ。ある時、小さな池の底をさらう時、バーントゥンやラムヤイの人が、一度に二十か三十人来ました。三十人は越えませんでした。この人たちは手慣れていて、スコップを使って掬い上げ、何メートルも遠くに放り投げ、誰が遠くに投げられるか競争しました。池の中にいて、土を七八メートルも離れた池の縁に投げることができ、非常に熟達しています。スコップの柄を、ほとんど全部の柄を握ります。

 本当は、私は手伝いにきたバーントゥンの人やラムヤイの人と親しくありませんでしたが、ある清信士が話しました。彼は後で法施会に加わり、名前はダーオ チャイサアートと言います。私が前に話したことがある、私が出家する前に、家の前を通ってタンマのお喋りをして、しょっちゅう遅刻した公務員というのはこの人です。

 彼の事務所はラーンにあったので、私の家の前を歩いて通らなければなりませんでした。郵便局員で、定年になってから、よくお寺の手伝いをしました。プムリエンの人で、家はポーターラーム寺の裏にありました。多少リーダーで、私が「小さい池を浚いたい。池に水を入れたい」と話すと、彼も賛成して、それで他の人に話をしました。

問 : 先生。当時先生はプムリエンの人たちとどんな関係でしたか。どうしてある人に「気違い坊主」と呼ばれたのですか。先生は、プムリエンの人たちのタンマの面のレベルを上げる意図はありましたか。法施会の家で、ワンプラ毎に説法をなさったと佛教新聞で読んだことがあります。どれくらい成果がありましたか。他の僧が説法をすることはありましたか。

答 : 「スアンモークの坊さんは気違い坊主」というのは、ある清信士についてお話したとおりです。それで子供たちが真似をしました。面と向かっては言いません。托鉢に行くと、子供たちが後ろで「気違い坊主が来た、来た」と言っているのが聞こえ、それからみんなで、何か危害に遭うのを恐れて、走って横へ出ました。私は一人で托鉢したので、子供たちが変に思ったのでしょう。

 ある時ある時代ですが、入口に錠をしたので、来た人は門を開けるように叫ばなければなりませんでした。それと、前にふざけて「訪問お断り。どうぞお帰りください」と書いたことがあるような、何かそんなことです。あまり良く憶えていません。初めは外の門、あるいは住まいも錠はしませんでした。

 だんだん本が増えると、本があると鍵を掛けるようになり、本箱があるので鍵を掛けました。本箱だけ鍵を掛けました。菩薩堂の裏にクティがあった当時という意味です。その後は全部に錠をしました。

 住民との関係は、何も計画がなく、レベルや何かを上げるなんてことは、更に考えませんでした。「深遠なレベルのタンマを普及させる」「三蔵の探究をする」「阿羅漢の後に続く」の三項目だけで精いっぱいでした。住職は親しい在家の家を訪問しなければならない古いしきたりもしませんでした。ワンプラに寺でタンブン(僧に食事を振る舞う)するなどの行事もしませんでした。

 母の家を法施の部屋として開放したので、ワンプラ毎の夜七時頃から説法をしに行ったからです。聞きに来たのは二三十人で、定員はそれよりちょっと多いだけでした。何も結果はありませんでした。プムリエンの人で、本気でタンマを勉強する人は何人もいないので、たぶん珍しい話を聞いただけです。

 多少成果があった仕事は、新聞で他県の人に届きました。本当にタンマの勉強をする人は、当時は非常にわずかでした。地方の人は受け入れる立場になく、特に公務員は希望がなく、我慢して聞くことができませんでした。あったことがありません。古いタイプのお寺ではあったことがります。家でするのは更に珍しいです。

 他の僧が説法したことは一二度あります。プラ・サムチェームは一度あったと思います。もう一人、住民が好きだった沙弥のプラマイは、何度も説法をしました。住民は私の説法より好きでした。ズバズバと話し、明瞭で良かったです。同じ内容でも面白く話しました。

 大人の沙弥で、マハーホームと一緒に頭陀をして来ました。スアンモークを佛教新聞で知って、頭陀をしながら来ました。初めはプラチュアップに墓地のような山寺を作ろうと考えましたが上手く行かず、それでここへ来ました。マハーホームは二カ月くらい居て帰り、沙弥のプラマイは帰りたがらず、好きだったので、居続けました。

 彼らは竹で舟の屋根のように作ったクティに住んでいて、咳をすると吐血しました。二人共です。彼らは、私が呪文の知識で二人を殺すと考えました。彼らはそこまで(笑)考えました。後で埃や竹の虫の糞などの被害と分かって詫びに来ました。私は訳が分かりませんでした。彼は以前にそのように、私が呪術で彼らに吐血させたと、過激な考えをしたことがあると言いました。

 マハー・ホームはサマーディ(瞑想)をし、幽霊に興味があって、彼の家に幽霊がいっぱいいた話をしました。庶民は何種類かわからないほどの幽霊を信仰して、幽霊に関しては非常に複雑です。私に幽霊を退治しに来るよう誘いました。その後サラパトゥム寺に戻って、何かのチャオクンになりました。沙弥のプラマイは仏教の勤めに関した本を書いたことがありました。その後家へ帰った後、結核か何かで亡くなりました。

 古いスアンモークにいた時は、葬式のある家にバンスクン(葬式等の行事に伴う寄進)の読経には行きませんでした。住民は私が外出したくないことを知っていました。他のお寺の、理解している僧は、言い伝えてくれる人もいたし、親しくて好意のある僧は、住民に妨害しないよう伝えてくれました。お寺での説教は、一二回ありました。

 普段住民はあまりお寺に来ませんでした。たくさん来るのは祖父母の日などの特別のタンブンの日、私が他のお寺と一緒にしない時ですが、それほど多くはなく、親しい人だけでした。一度に一番多く来たのは、ソムデット(プッタコーサーチャーン-チャルーン ワットテープシリン)がスアンモークを訪れて一泊なさった時で、(1937年)、お寺が人でいっぱいになりました。どこのお寺の僧も、料理を献じる住民を伴って拝謁に来ました。

 前県僧長やプラタンマプリチャーウドムまで来て、お寺の中のいろんな仕事をしました。郡僧長は住民に料理を献じるように宣伝する広報係でした。地面の上、私がヤーンソムデットと呼んでいる所にゴザを敷いて、非常に森の中風のもてなしでした。私が汽車の駅で出迎えました。あの方は足が悪かったのに、五、六キロも歩かれました。

問 : 先生。それで他のお寺との付き合いはありましたか。

答 : 同期の僧たちとは付き合いがありました。フアクー寺のプラ・プラソップとは友達だったので、一緒に食べたり遊んだり昼食を摂ったりしました。ノーク(ウボン)寺のアーチャントゥムがまだいて、彼は何も分からず、私がしていることは理解できないし、外国の話も知りませんが、十分好意的でした。

 でも偶にしか訪ねませんでした。彼はむりやり運勢を見ました。板を使って、そして生年月日を訊きました。占う人が多いから憶えてないので、毎回、「還俗しては駄目、女房が必ず間男を作る」という話をしました。妻の運勢は必ず浮気をすると、毎回言いました。

 それ以外に、たまに親しい僧を招いて、古いスアンモークで珍しい物を食べました。ヤムドークパヨーム(パヨムの花の和え物)などで、パヨームはたくさんあり、特別ではありません。住民はヤムにしています。

 私にはもう一種類特別なゲーン(汁)がありました。ゲーンラントムです。ラントムの木は道の両側にずっとあります。花をホウロウの鍋に入れてココナツミルクで煮て、タマリンドの汁を使い、玉ねぎを入れ、肉は使わないで魚を入れます。私は何でも食べられました。珍しい物なので招いて食べましたが、食べられない人もいました。吐く人もいました。(フフフ)

問 : 先生。先生を理解しない僧はいましたか。

答 : ポーターラーム寺の後の住職、プラクルー・ポーターピラックは理解できませんでした。だから私を危険な僧と誤解し、危険な僧なので、誰にも注意させました。

問 : どんな理由ですか。

答 : 彼が知っていること、話すこと、していることと違ったからです。もっと誤解していたのは、他人を無視して、自分が大物になりたがっていると考えていたことです。私はそんな考えをしたことはありません。こうなったのはたまたまです。彼も、私がチャオクンや何かになると考えたことがないので、不可解でした。




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