4.恐怖と希望





問 : 先生。先生は「クルンテープ(バンコク)から戻ってすぐに、荒れ寺で一人住まいを始めたので、初めの頃、気持ちを調整しなければならなかった」と書かれていたように思いますが、どのように心を調整なさったのか、当時の経験を話していただけませんか。

答 : それは変えなければならなりませんよ。臆病者が一人で住むには、臆病な所を改善しなければなりません。子供が幽霊を怖がるような恐怖ではありません。真っ暗闇で、静寂で、トラがいるかもしれません。その辺にトラがいたことがあるからです。私が行った頃は居なくなっていても、もしかしたらまだいるかもしれないと考えました。

 イスラム教徒の悪意にも注意しなければなりませんでした。お寺の西に家を建てた人たちは、それまでしていた草摘みや猟などに入るのを禁止したので、私を嫌って、悪さをするかもしれません。禁止しなければ、騒々しいからです。しかし本当には何も起こったことはありませんでした。

 恐怖は何日もしないで消えました。町の中の子供を森の中に一人で住まわせたら、非常に恐怖に感じるでしょうが、私も同じようなものでした。

 解決法はいろいろ小さな方法を考えました。たとえば「他の人にもできのだから自分にもできる」とか、「誰かに知られたら死ぬほど恥ずかしい」など、どれも常識的な考えで、日が経つとだんだん慣れました。一晩たって何もないと、気が大きくなって、だんだん慣れました。

 当時はブッダの方法を、まだ知りませんでした。ある経の中で、ブッダは恐怖について話されていますが、聞いて見ると、初めの頃はブッダも往生なさったようです。

 ブッダは『この森は心をすべて奪ってしまったようだ。心が残っていない』と言われています。ブッダも簡単な方法で解決しています。つまり何かの行動の時に恐怖が生じたら、そこで恐怖が消えるまで同じ行動をします。どこかで恐怖が生まれたら、そこにいて恐怖を呼び寄せ、人物と仮定して恐怖を呼び寄せると、最後には来なくなります。自然では、恐怖はありません。

 私はバカだったので、自分で怖くなるように考えました。恐怖には実体はなく、私に何か手出しする幽霊ではありません。原則としては、気持ちを変えて他のことを考え、恐怖に機会を与えなければ生じません。私たちを支配できません。

 私は前に話したか、書いたことがあるんじゃないかな。子供の頃便所に行く時、菩提樹の木の傍を通らなければならないので、幽霊が怖くて、それで飼っている魚のことを思い浮かべました。昼間見て、ウッガハニミッタになって目に焼き付いている光景を思い浮かべたので、その恐ろしい所を通って運河の岸に出ることができました。暗い影がある時も、拠り所である魚を思い浮かべました。聞くと可笑しいです(笑)。闘魚は色鮮やかで、簡単にニミッタになるので、簡単に気分を変えることができました。

 もう一度、幽霊が怖かったのは牛を飼っている時で、牛に草を食べさせていると、墓地に草がたくさんあるので入りたがりました。牛は見ても怖がらないので、牛に恥ずかしくなりました。それに犬が死体を掘って喰った話を知っていました。私たちはなぜ恐怖があるでしょう。私たちは幽霊と死体を混同しがちです。幽霊には実体はなく、死体ではありません。死体と幽霊は別ですが、いつでも死体や骨を幽霊と混同しています。

 私がポーターラーム寺の生徒だった頃、あるクティ(僧房)に住民の骨壷が入れてあり、猫が倒すなどして、骨が床にこぼれているのが見えました。勇敢に覗いて見られる子供は僅かで、他の子が勇敢だと勇敢になる子もいて、連れ立って見に行きましたが、何もありませんでした。

 ある人が、どこで知識を仕入れて来たのか知りませんが、幽霊を起こすことができると言いました。マナーオ(すだちやライムの類)の汁を骨壺に入れると、もがくように沸騰します。かなり新しい骨はそうなり、無知、あるいは無明が幽霊だと怖がらせます。科学の幽霊です。(笑) 

問 : 先生は「恐怖に勝つことができた時、別人になった」と書かれていたように思いますが、どういう意味ですかl

答 : ほら、怖がらなければ変わりますよ。今まで怖がっていた人がいなくなるので、他の事も、複合している原因と縁で必ず変わります。分析する興味はありませんが、要するに快適で順調になり、非常に自由で、ほとんど問題がなくなります。どこへ行っても、どこにいても、何をしてもほとんど問題がありません。時には「本当に幽霊が現れたら、話ができて良い」と変なことを考えました。幽霊と話ができれば、他の人よりも有能です。

 でもいつも駄目でした。そういう考えの時は、いつも失敗しました。来ません。昔の方法で呪術を使ってすれば結果があります。たとえばこのように頭陀に出る時は、アーチャンは身を守る呪文を教えると同時に、お守りを渡します。あるいは頭陀に出るためのお守りの儀式をします。そうすれば幽霊にもトラにもお化けにも、問題になる物に遭遇しません。心が信じていれば利益があります。信じている時はそうなります。

問 : 先生。住んだばかりの頃、先生は何を期待なさいましたか。

答 : 住む前に戻らなければなりません。クルンテープを出る前は途方に暮れ、喜べること、満足できること、一所懸命頑張れることがなかったので、ちゃんと物になることを探そうと考えて、勉強したタンマヴィナイ(教えと律)を実践することを考え、「もっと進歩する」と期待しました。決死の覚悟でした。

 どうなるか分かりませんでしたが、「タンマヴィナイを実践することは善い。正しいに違いない。きっと新しいものが生じる」と確信していました。かなり浮ついた希望ですが、重みがあり、自然の理に適っていました。今の問題で失望した人は、先の何かを期待します。私は都に期待して失望したので、森に期待しました。

問 : 失望というのは、パーリ語試験四段に落ちてがっかりしたという意味ですか。試験に落ちたことは、その後の仕事を変える決意をしなければならないほど劣等感でしたか。

答 : 関係ありません。人生を進歩させ、社会を進歩させる利益がなかったことに失望しました。試験に落ちたことは何とも思いません。自分はどうしようもないと思いました。勉強が足りなかったこと、遊んでしまったこと、それとやっていけないと感じたことです。

 理解や考えが(学校側と)違ったので、自分で満足できるように、他の人が読んで理解できるように訳したいと思いました。教科では規定どおりすべての語句を訳すので、庶民が読んで意味が分かりません。私はそれが嫌いで、普通に訳すのが好きで、訳し方が別れました。私は私の訳し方なので、スアンモークの文体が生まれました。(笑) 意地は要りません。自分でこうするべきと考えるやり方でするだけです。

問 : 先生。開拓時代に挫けて失望し、止めてしまおうとお考えになったことはありましたか。

答 : 決意していたので、失望やくじけたことはありません。新しい道を見つけたから、新しく発見する物があったからです。教典の勉強や探究も、考えたり解釈したりするのも、いつも新しい物があり、一つに飽きると、また別のことを見つけたので、倦怠や挫折はありませんでした。しかし「新しい」、あるいは「珍しい」と感じたものすべてが使えた訳ではありません。使い物になるのも多少あり、そして常に食べて行けました。

 止めようと考えれば、止めた後どうして良いか分かりません。それにしていることにも、いろんな結果が出続けていました。ほとんどの人がまだ知らない物を公開しよう考えたので、話すことや翻訳、著作など、いつでも新しい物を探して、庶民に提示することができました。

 今でも新しい物を探す努力をしています。それが世界に、社会に、新しい物があるようにしました。中には前からあっても、他の人が観察しなかった物もありますが、集めると利益が生じました。

 これは気力になりました。凡夫も気力を求め、私の本や仕事から利益を受け取る人がいました。それが見えていたので、気力になりました。彼らは関心があり、楽しみにして読みました。チュムポーンのシエン叔父もその一人で、私が書いた物を読んで、満足を表しました。他にもいますが、名を挙げたくありません。(笑)

問 : 先生。最初、先生は実践を基本にするのを目指され、それから目的が学習の振興、実践の振興、そして布教になったように見えますがいかがですか。タンマタートさんも一緒になさる計画でしたか。

答 : それは後の話です。私がクルンテープを出る時は、決死の覚悟で、何に価値があるか観察すると、タンマと律による行動がほとんどないことが分かりました。特に南部は、念処をする施設がありませんでした。東北にはあると聞きました。帰郷する時、アーチャンマン、アーチャンサオなどの名前を聞きましたが、南部はまだいませんでした。

 しかし私は、彼ら以上に深く完璧なものを探そうと考えていました。それで「阿羅漢の足跡を追って」を書き始めました。見てください。あの中に完璧な実践があります。それというのも、自分でも使うために、後を追うために探求したからです。

 それに、自分も使い、他人も使うことができると見たので、印刷し宣伝しました。詳しく書いたのはサマーディバーヴァナーの初めの部分で、サマーディバーヴァナーになると面倒になって、その部分だけ切り捨てました。後になって探し、詳細なサマーディバーヴァナーを見つけました。

 続きを書く時、「阿羅漢の足跡を追って」に繋がったのですが、薄い本に入らないくらい多いので、別にして「アーナーパーナサティ完全版」として印刷し(1969年)、最後にタンマコートに入れました。だから「阿羅漢の足跡を追って」は、そのように宙ぶらりんになっていました。あれは、昔の人はどうやっていたかを見るために、完璧に一つにまとめた探求です。

 私もタンマタートも、やり易いようにし、後で新聞を出す時、これからする事は何かと見ると、三つの部門に分けられると見ました。つまり学習の振興、実践の振興、そして布教なので、いつもこの理念で働き、今日まで増やして来ました。

問 : 先生。佛教新聞を出すまで、タンマタートさんは何をなさっていたのですか。

答 : 彼もタンマの本を読んでいて、人に貸すタンマの本箱がありました。外国の本を読んで、スリランカやビルマのニュースに耳を傾けていました。スリランカにはシキリヤ修道院があり、今は廃止されたと聞いていますが、実践の復興で、いつでも彼が教えてくれました。

 スアンモークを造った時に読んだようですが、スアンモークと原則は同じです。法施会の話は全部、非常にダルマパーラに触発されました。初めのうち、私は途方に暮れていて、ダルマパーラはインドで仏教を復興させていました。ダルマパーラは学習も実践も多少しましたが、布教の面が最も大きかったです。それも簡単ではありません。どの国も実践は衰退していて、スリランカでも地に落ちていたからです。インドは非常に大変でした。

 だから私は、仕事のことでは、彼から得たものはあまりありません。しかし彼は世界中に布教し、そして目に見えるようにしました。私は彼から気力を貰って試しましたが、世界中にとは考えず、タイの中だけです。

問 : 先生。初めの頃先生は、社会にどんな結果のある仕事をなさりたいと思われましたか。そして目的が変化したことはありますか。

答 : 新しいことを提示すれば、人が新しいことを知ることができ、新しい系統の学習に興味を持ち、戒や頭陀や念処などの実践に興味を持つようになります。しかし私はあまり多くは望みませんでした。望んだのは、国中の人が揃って関心をもつように、導火線に火を点けることだけでした。

 今は期待以上に、何百倍何千倍もの結果があったと言います。私は導火線だけを期待したのに、今は期待したより非常に多くの人がしています。

問 : 先生。サンガの運営に加わろうと考えたことはありますか。

答 : 一度もありません。別の道で、話が通じないと見ています。カラスの群れの中の一羽のフクロウのように、私一人では(笑)何もできません。サンガの大多数の考えと合わせるのは、今はもっと大変だと感じます。 

問 : 先生。スアンモークの目的を変更なさったことはありますか。

答 : 変更したことはありません。何かあればそれを主題に取り上げました。後になって、「誰もが自分の宗教の核心に到達する」「宗教間の理解を生じさせる」「世界を物質主義から引き出す」の三項の誓願が加わり、変化して進歩し、あるいは重くなりましたが、同じ系統です。

 学習が振興し、実践の振興が成功すれば、人は更に仏教の要旨を理解し、他の宗教への理解も良くなり、人間社会に対して宗教の影響力が強くなれば、人は自然に物質主義から脱します。

 しかし最初の目標の三項目では、布教が次第に重くなりました。簡単だからです。一緒にする人を見つけるのが学習より簡単なので、ふさわしく変化しました。新しい話し方や翻訳をし、あるいは人があまり教えたがらないこと、たとえばカーラーマスッタは社会に必要なので、私はこういう話を広めたいと思いました。その話は愚かさを払拭して、正しくするからです。

 無我の話、空の話、特にイダッパチャヤター(因果。縁生)は、以前は誰も話す人はなく、空の話も宗教ではない話と思われていました。私は仏教の核心として、庶民の関心の前に引っ張り出しました。それは布教を通り越して学習に繋がります。少しずつ実践に移って行くまで、あるいは本当の結果になるまでは、まだ実践ではありません。




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