3.もう一種類の僧の生活





問 : 先生。一人で暮し始めた頃の日課は何ですか。

答 : 朝晩仏像を拝み、そして本を読んだり、近くの森を歩いたり、日課と呼べるほどのものはありません。夜明けの頃の勤めはプムリエンの町へ托鉢へ行きました。すれ違う時に避けて歩かなくてもよいように、他の人がみんな帰った後の時間に出発しました。そうすれば静かさを維持できます。お寺を出たらまっすぐ母の家に行き、そして帰って来ました。包んだおかずが鉢いっぱいなので、それ以上行けないからです。

 母の家とメーチエムの家は向かいにあって、いつもおかずを入れてくれました。バナナの葉で器を作って、それに入れてバナナの葉で包み、お菓子を包むように楊枝で留めます。他の家はほとんどご飯を入れました。何軒かおかずを入れてくれる家もありましたが、いつもではありませんでした。後になって僧が増えた時には、イアム叔母の家やレック伯母の家はいつも入れる量が増えました。時にはウェー伯母の家が入れることもありました。

 お寺に戻ると、クアイ爺さんが待ち構えていてご飯を移してくれ、食べ残った分は彼が持って帰って夕方に食べました。住民がタンブンをする特別な日、たとえば僧が行列をする季節には、トゥン村やラムヤイ村から来る人がお寺の前を通るので、寺の前に托鉢に出るだけで、紐で縛ったカオトム(粥)や、カオラーム(竹筒にもち米を入れて焚火の傍で炊いたもの)を鉢いっぱい入れるので、母の家まで行かず、その日はご飯とカオラーム、あるいはカオトムを食べました。(笑)

 一回食事をすれば、後は一日中暇で、本を読んだり、訪ねて来た人と話をしたりしました。クアイ爺さんが毎日来たので、いつも話をしました。クアイ爺さんは、前に話したように変わった人でした。田舎の人で、パークマーク辺りの森の人ですが、少数の人しかできない哲学者の話に興味があり、老いてから寺に来ました。カミサンが死んで一人で住んでいましたが、その後フアクー寺に行っていたようです。私も支援したことがあり、お互いに助け合いました。

 特に変わっていたのは、古いことを精いっぱい記憶するのが好きなことです。残念なことに当時は録音機がありませんでした。あの人はいろんな話をし、多すぎて記録できませんでした。カーケオ、カーラーム、誰がどこの寺にいたか、あの人は全部憶えていました。いろんな領主の話、クルンテープの特別な出来事、人の行き来など、役に立つ知識が非常にたくさありました。

 サマーディは、初め私は本気でやらず。勉強や探究から得られる知識に執着していました。当時は三蔵の探究を始め、「阿羅漢の後を追って」を書き始めました。でも初めの年は、佛教新聞はまだ出していなくて時間がたくさんあったので、時々近くの森へ遊びに行きました。ルアンミン爺さんと一緒に行きました。

 人生の中で、一番不思議な一時期で、考える時間がたくさんありました。何かを思いつくと(笑)、すぐメモしました。「ヴィパッサナーとは考える日々というのは間違いで、本当は、ヴィパッサナーとは自然を見る日々というべきだ」という言葉を使うほどでした。

問 : 先生は経行はなさいましたか。

答 : 散歩です。本を読んで疲れた時は散歩をしました。丘から下りて本堂へ行く入口は真っすぐな道で、昔は両側に堀がありました。今はありません。そこは経行にも使えました。その後クティ(僧房)を四、五棟建ててからは、クティの間も経行できるようにしました。それと森の後ろ側、寺の西側の土地は砂地で、特別な経行場に作りました。長さは見えるだけで、幅は二メートル。この道をみんな奥まで歩きました。

問 : 先生。初めの頃どんな玩具がありましたか。

答 : 玩具について言えばありません。いろんな科学的な玩具は、まだラジオも何もありません。しかし植物を育てて遊びました。小さな鉢に、綺麗な植物を植えました。それに野生の鶏やイェー(体長五十センチくらいのトカゲ)など、動物と仲良くしました。イェーは最高にバカと言うことができます。(笑) 先に柔らかい葉が一枚ある木の枝を土の上で回すと、手の所まで駈け寄ってきました。手まで来るので、触ることができました。こういうのはイェーのバカな所です。

問 : 好きな葉っぱは決まっているのですか。

答 : 何の葉でもいいです。枝の先の葉を一枚か二枚残して、後は全部もいでしまい、そして虫のように回転させ揺すります。もう一つアレが好きなのは、野生のジャスミンの実で、黒く熟したら、もいでイェーにやりました。自分で木に登ろうとしますが、届かないので、私がもいで投げてやると懐きました。その実が黒く熟すのを待って、あちこちに投げてやると、四方から現れて、傍で野生ジャスミンの実を食べました。

 足の上に投げると、足の上に乗って来て食べました。これは呪文を使わずに、野生のジャスミンの実でイェーを呼び寄せる方法です。その後、手を上げるしぐさだけで呼び寄せられるようになり、投げるしぐさをすると、寄って来ました。噛み付き合いを見せてくれることもあり、非常に楽しかったです。いろんな方向からやって来るオスがここで顔を合わせると、噛み合いになりました。

問 : 一度に何匹もですか。

答 : 何匹も。ボスのオスは何匹もいなくて、三四匹だけで、他は権力のないメスでした。オスは色が鮮やかで綺麗です。そして両前足を上げて飛び、帆を張ったように美しかったです。怒って噛みつき合う時は、顎の骨が張り出し、色が鮮やかで、イェーのメスは色がありません。子供の頃、私はイェーには二種類あると言ったことがあります。

 オスをイェークラダーンと言い、メスをイェーカオと呼びました。しかし本当は青白いメスはあまり噛まず、オスのイェーは、出会えばどちらかが負けるまで力を試します。噛み合うイェーはすごく美しいです。ビデオで撮れば見物です。

問 : 一つの群れは多いですか。何匹くらいでしたか。

答 : 群れにはなりません。近くにいて、私が呼ぶと集まって来て群れになりました。手を見ると四方から集まってきました。菩薩堂の前です。その時私は、イェーの天敵である犬も猫も飼っていなかったので、イェーは友達になる気持ちがありました。動物はね、こちらが友情を示せば友達になれます。

 当時の菩薩堂の柱に穴があり、大トカゲの子が穴の中に住んでいました。その柱は門の所にあり、私がそこを出入りし、近づくとチョロっと頭を出し、通り過ぎると引っ込み、また通ると出て来て、通ってしまうと引っ込みました。そのうち面倒になって、引っ込まなくなり、私が手で頭を触ると引っ込みました。

 何回にもなると、手で触っても引っ込まなくなり、目を閉じて眠ってしまいました。頭を触らせるということは、友達になる気があるということです。しかし人間は友情を見せないで、大トカゲを見つけると汁(カレー)にして食べてしまいます。

問 : あそこの鶏は全部野生ですか。

答 : ああ、元は野生の鶏です。その後、偶然レグホンが一羽紛れ込んで来たのを放置したら、野生のと交配して、いろんな種類の鶏になりました。初めは真っ白なのもいたし、元のままのもいましたが、孫の代になると、いろんな色、いろんな種類に分かれ、その後ますます変化しました。元の雄鶏は死にました。少しずつ変化して、その種の自然に戻りました。二代目三代目は非常に変わっていて、バープリーマットのようなのも、レグホンのように白いのもいました。

 もう一つ、遊びで魚を飼いました。私がそんな暮らしをしていても、住民は他のお寺のように雨安居の初めに、弾け米を持って来てくれ、二人で住んでいたので、食べきれませんでした。だからナマズを飼いました。その池のナマズも魚が好きでしたが、他のナマズほどではありませんでした。夕方、良く池の中で舟を漕ぎました。ミズガモを見ても、何も見ても、前にお話したようです。

問 : 先生。舟はどうなさいましたか。

答 : 誰が持って来てくれたか忘れました。名前を忘れました。ポーターラーム寺の僧、プララーイだったと思います。ルアンミン爺さんと行き来していました。ルアンミン爺さんは私の遊びの面の支援をする人で、私を、その辺のどこへでも連れて行ってくれました。ラーイさんはルアンミン爺さんの弟子で、ルアンミン爺さんがラーイさんに言いました。

 二人座ればめいっぱいで水が入ってしまい、一人なら快適です。夕方池の周りで舟を漕ぎました。水のある季節は一周か二周しました。(フフフ) 舟を漕げるようになったのはこの頃です。思い出しました。ラーイさんがこの舟を作りました。海に出る大きな船が使う三板(子船)です。あの人は僧でありながら船大工で、チャオクンチャヤーピワットの舟も作りました。

問 : ルアンミン爺さんはどうして先生と友達になったのですか。

答 : あの人は何もしない人で、暇な人でした。最後はノーク(ウボン)寺にいましたが、その前はヌア寺にいて、私に何か手伝わせてくれと言って来ました。あの人は何でも鳴き声ができ、動物の声、鳥の声、猫の声、何の声でも、何の天分か知りませんが、本物のように鳴きました。

問 : 以前は猟師だったのですか。

答 : 猟師じゃありません、町の人です。ハトの鳴き声ができるので、兄さんが本当のハトと間違って、オトリを置きました。人のオトリを置きました。在家の頃、ラーマ五世の時の声帯模写大会に出場して、ルアンミン爺さんは西洋人に負けたと聞いています。西洋人は鳴き分けができましたが、あの人はできませんでした。

 他の動物はでき、猫がケンカする声ができました。それにあの人は破戒罪を脱した人で、私のために土を掘り、木を切り、何でもしました。

 朝の食事が終わると来て、時には昼食後に来て、宵の口までいることもあり、夜遅くまでいることもあり、私が望むこと何でも手伝ってくれました。でもあの人は教育を受けていないので、四角も直線も曲線も知りません。道の両側に木を真っすぐに植えるように言っても、曲がって植えて、どの木も真っ直ぐだと言います。(笑) 曲がって植えた木のどれも真っすぐだと言います。こういう人でした。わざとしているのではありません。

問 : 彼はどうして先生のことを好きになったのですか。

答 : それは私も知りません。

問 : 先生は彼と話す時間を作りましたか。

答 : 話しましたよ、楽しく話しました。向こうが喋る側で、私は聞いて、そして満足を表しました。

問 : 彼は、どこへ先生を遊びに連れて行きましたか。

答 : ヌアナムの辺りです。イスラム教インド人の畑へ行きました。彼らはパイナップルの畑やら何やら作っていて、陸稲の畑もありました。あの人は何でも知っていました。綺麗な娘が一人で番をしている畑もありました。私は、どうして乱暴する男の人がいないのか不思議でした。

 イスラムの社会でも非常に道徳がありました。その後何年もせずに、すっかり変わってしまいました。乱暴するようになったからです。初めは何もなく、その後すっかり変わってしまい、娘一人で番をさせる人は誰もいません。

問 : 先生。遊びに行く時は、ただ通り過ぎたのですか。

答 : 私はあの人と一緒に歩くだけでした。彼は知っているので、話しかけましたが、私はその必要はありません。タイ人の畑もあり、インド人の畑もあり、昼前に行って、ココナツを食べたことも、パイナップルを食べたこともあります。

問 : そういう遊びは、先生が一人で住んでいらっしゃった頃ですね。

答 : ほとんど一人でいた時です。何人も住むようになると、仕事が増えて忙しくなり始め、遊びに行く時間はなくなりました。佛教新聞を出すようになると、仕事が増えました。初めは何かを本気でしようと考えず、今日は何をしたらいいか、今日はどこへ遊びに行ったらいいか、今日は何をして休息したらいいか、気ままな思いつき任せでした。不思議な一時代で、最高に自由でした。

問 : 先生。こういう生き方は、先生の決意に反しませんでしたか。帰郷する前の先生は、「三蔵を探究する、タンマの実践をする」と、強い決意をなさったのに。

答 : おお。型に嵌めて強制しません。ある日、ある時、ある時代は、執着しないで、束縛しないで、何日か自由になることはできます。強制する人は誰もいませんでした。そして何も強制するものはありませんでした。温泉の辺りも遊びに行ったことがあります。

問 : 遠くへ遊びに行かれましたね。そういうのは泊まりがけですね。

答 : 泊まりません。夜に帰って来られました。南へ迂回して、それから回ってお寺へ帰ってきました。

問 : そういう外出は何が楽しいですか。

答 : したことがないことは楽しく、珍しい味があります。ルアンミン爺さんはどこへでも連れて行き、どこでも近道を知り、抜け道を知っていました。二人でチャイヤーの町で托鉢して、線路傍で食事をしたこともありました。チャイヤーの人がご飯とおかずを入れてくれたので、十分になると歩いて来て、線路に沿って歩き、一目散にターチャーンに向かいました。(笑) これは水なしで食事をした一つの経験です。下りて行って持ってくる水がありませんでした。

 田んぼや線路の傍にも見えず、水を用意する術がないので、素麺のザルに敷くランカイ草を手で撫でて、シダの一種で一番露が付いている草を、一つ一つの葉に露がついているので、手で撫でて少し啜って飲みました。何度もすればかなりになります。手で集めて濡れたらご飯を食べ、そして葉の露を飲みました。

 朝暗いうちにプムリエンを出て、チャイヤーの町で托鉢をして、それから線路沿いに歩きました。ターチャーンへ行くように見えますが、ナムプット山の所で迂回して戻りました。草の露を(笑)飲んだのを、まだ憶えています。

 他の草にはあまりなく、ランカイ草にしかありません。行って見てください。朝どこでも、キレイな緑色に茂っているランカイ草の葉先には、全部露がついています。その葉も水を含んでいます。ミズワラビ科ですが、ミズワラビではありません。葉も固いです。

問 : こういう遊びにはルアンミン爺さんは一緒に行きましたか。

答 : ルアンミン爺さんと一緒ですよ。一人ではいけません。ルアンミン爺さんは三四年の間、何でも私を助けてくれました。それから一緒にすることがあまりなくなった時、少しずつ疎遠になりました。その後何年もしてから、捕まって還俗させられました。酔う水を飲んだからです。

 寺の傍で酔う砂糖水を作ったという話でした。彼の在家の時の仲間が、酔う砂糖水(ヤシ酒)を彼に飲ませました。初めは何も言わずにヤカンか何かに入れて、きっと善意と愛情でしたのでしょう。彼は以前から酔う甘い水が好きだったからです。

 酔う砂糖水を飲むと、昔の癖で自分が管理できなくなり、隠れて盗み飲みしていました。そして酷くなって、見つかるほど量が増えました。来客用の急須ですよ。(笑) 彼は注いでは飲んでいました。知らない人はお茶を飲んでいると思いますが、酔う砂糖水のことがありました。人に知られて押さえられたので、白状しなければなりませんでした。それくらい証拠があれば、還俗を受け入れなければならないからです。

 私と付き合っていた頃は、そういう兆しは見えず、いろいろ私を援けてくれて、いろんな種類の動物や植物の名前を教えてくれました。遊びに連れて行くだけでなく、乾季に通行人が寺の区域内や周辺に火の屑を捨てると、カヤの火事になるので気をつけるよう注意してくれました。

 還俗した後は、ワットノップ村の家に住みました。私がここのスアンモークに引っ越した時、彼が訪ねて来ましたが、その後困窮しました。私は薬をやったり、マッチをやったり、やれる物は支援しました。亡くなって何年にもなります。火葬には行きませんでした。

問 : 先生。先生はまだ他にカラスを飼っておられたと聞いたことがあります。

答 : 一時は楽しかったですが、最後には我慢できなくなりました。

問 : 懐かないのですか。

答 : 人が「ハエもハエなりに懐く」と言うように、カラスなりに懐きます。ハエは懐いても捕まえられません。雀も懐き、ハエも懐き、カラスも懐きます。

問 : 先生、一緒にいられるには、どのように飼うのですか。

答 : ほら、残ったご飯をやり、いろいろ食べ物を投げてやり、最後には、私が食べている時、鉢の中の物を食べに来るようになりました。その後は、興味のある物は、みんな咥えて行ってしまい、ロウソクは袋ごと咥えて行って、それを裂いて噛んで、先を噛み、辺り一面に散らばらせました。最後に我慢できなかったのは、水の桶に糞を掛けることでした。水桶の縁に止まって、それで糞をしました。

問 : 何の水ですか。

答 : 水槽の水桶、鋳物の水槽です。本堂の屋根の水を受ける水桶です。広い筒状で、蓋を探しても良いのがないので、蓋をしませんでした。カラスが糞を掛けると水が飲めません。本もそうです。咥えて行ってゴムの木の天辺で裂いて遊びました。それで最後に、絶対に餌をやらないで放っておいたら、何日もしてから居なくなりました。

問 : 当時のこの辺は、カラスがたくさんいたでしょうね。

答 : 数えたことがあって、餌を食べに来るカラスが四十九羽いました。一日に四十九羽です。座って食べる時投げてやることから始め、良く馴れると鉢から奪い、その他にも糞をして、よくやられました。門の所で待っていて、門を入ると住まいまで飛んで上から支配しています。時には糞を掛ける時があり、ベタベタになりました。このように敵いません。本当に相手になりません。だから住民は相手にしません。

問 : わざと困らせるのでしょうか。

答 : わざとではありません。たくさんいるので、飛んで迎えに来て、食べるためについて来てました。飛んで行って屋根に三四十羽集まり、カラスの糞が私に掛かることもありました。全部が重なって我慢できなくなったので、止めました。今はいません。どこへ行ったか知りません。

問 : はい、全然いないです。私が子供の頃、クルンテープにはたくさんいました。私はトンブリー(チャオプラヤー川の西)側に住んでいたのですが、今は見ません。今プムリエンでも、たまに一声か二声聞くだけです。

答 : ここへ来た時はまだ四五羽いました。子供が罠をしかけ、紐を砂の下に隠して、罠の周りにご飯を撒いて、隠れて見張っていて、カラスが中に入ったので紐を引いて獲りました。古い食堂で。ナンだったと思います。ナンという名前の子供が尾羽を抜き、翼の長い羽を全部抜くと、ウズラのようになって、カラスと分かる人はいませんでした。

 繋いでおいて人に見せました。子供たちが見ても何の鳥か分かりませんでした。そして羽が生えて放してやる前に、夜中に何かに噛まれました。ジャコウネコか、あるいは他の何かは知りません。カラスは飼って遊ぶことはできますが、本当にすると大変です。私は苦労しました。

問 : 先生。夜中にイノシシの群れが現れると書いてらっしゃいましたが、お寺の中に棲んでいたのですか。

答 : あの辺の森に棲んでいました。あの辺はヌアナムまで、ラムヤイまで、小さな森や岩場が続いていて、住民がいつも猟をしていましたが、絶滅しませんでした。その夜は、私が作っていたスイカを食べに来ました。食べた種を住民が蒔き、何とか成ってきた時、実が成ってもうじき熟すという時に、イノシシが来て食べました。

 月明かりで、私は窓から見ていました。小さな池と菩薩堂の間の、キレイにした狭い場所に植えてありました。何株でもありません。後で、みな撃たれました。イノシシ狩りをする人が何人もいたので、少しずつ撃たれていなくなりました。




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