第三章 開拓期

1.長い仕事の始まり



 私は生まれた時から今感じているこの瞬間まで
 世界の道を歩いて来た
 今より後は世界の道を歩くまい
 そして世界と別れて
 聖人の後を追って純潔なものを探求する
 (弟タンマタート氏への手紙より)


問 : 先生。ちょっと戻って質問させてください。スアンモークを造るより前に、ある人が「出家前に、公務員になる話で先生に連絡した人がいた」と書いているのを読んだことがあります。すみませんがこの時のことを詳しく説明していただけないでしょうか。

答 : いや、ちゃんとした形ではなく、連絡と呼べる物ではありません。その人が言っているのは多分、駐郡文部次官だと思います。その人は近所の人で、郡立小学校の先生を募集していると、宣伝するように言いました。私が先生になれば、初めは八バーツに決まっている月給を、すぐに十二バーツくれると言いました。直接話し合った訳ではありません。宣伝しただけです。

 当時先生になるには、教員学校を卒業する必要はなく、中学三年を出ていればなれました。私はそっちに行く考えはありませんでした。月十二バーツで先生をするより、家で働く方が利益になります。それに公務員になる気はありません。嫌いでした。

問 : はい。先生、スアンモークを造り始めた開拓時の話を詳しく聞かせてください。場所探しから、住んで、必要な物をいろいろ作り始めることまで。

答 : 私がクルンテープ(バンコク)から戻ると(1931年末。それまで四月一日が新年だったが、この年から一月一日が新年に改められた)、最初に住んでいたマイ寺(プムリエン)に滞在しました。弟のタンマタートには、どんな目的かを手紙で連絡し、戻ってマイ寺の本堂に滞在しました。

 何かと都合が良く、その上静かでした。そしてついて来た沙弥が一人いたので、一緒に一か月暮らして、父親が戻って来るよう命じましたが、手紙が届く前にスアンモークへ引っ越しました。

 帰郷してから、法施会の清信士四五人でふさわしい場所を探し、一月余りで、トラパンチック寺という荒れ寺を使うことに決まりました。私もそれまで知らないお寺で、ティエンさんやクアイさんはどうして知ったのか知りません。それから案内されて見に行きました。一度見ただけで使えると思い、そこに決めました。彼らが、仏像の後ろに簡単な住む場所を造ってくれました。

問 : 当時のトラパンチック寺の様子はどんなでしたか。

答 : あまり話はありません。長年荒れ寺になっていたので、密林に覆われていて、周辺の住民がツチグリ(キノコ)を採りに来ました。小さな鉄の道具で掻き出します。あの辺にたくさんありました。女の人はツチグリを採り、男の人はキクラゲを採りました。猪を食べるのが好きな人は、猪狩りに来ました。

 そして子供たちが幽霊を怖がる場所でした。子供のいない女性は、荒れ寺の本堂の仏像に子授け祈願をすると、霊験があると信じられていました。池にも、怖い幽霊がいると言いました。池の中心にプラコーンと呼ぶ木の柱が埋められていました。

 私が初めて行った時は、水から出ている部分が脚くらいありました。泥の中の部分は大きくて、椰子の木くらいありました。水中の部分を洗うと、切ったばかりの新しい木のようで腐ってなく、何ともありませんでした。一メートルも深くなると、腐食させる空気がないからです。

 目的は分かりません。何となく言われているのは、鬼や幽霊を封じ込めて暴れ回れないようにするため、人が池に落ちて死なないようにするために、このような池を掘った時の習慣で、呪術の面の儀式をしなければなりません。本堂の傍にあるような小さな池も同じです。

 大きな池には、当時は一年中水があり、乾季の終わり頃にも残っていました。一面にイグサが生えていて、雨季にはイグサが倒れるほど水が溢れましたが、隠れるほどではありません。櫂を刺して測ると底に届きました。

 ミズガモが卵を産みに来て、そこで子供を産みました。舟からそっと見ると、細い草で作ったミズガモの巣が見え、大きな輪の中で卵を抱いていました。水の中で卵を抱きます。触ってみると、その辺の水は卵が孵るくらい温かかでした。生まれた子供は白い毛がありません。私に気付いてびっくりすると、水に深く潜って、草をくわえてきました。それ以外は浮いています。体は全部脂肪なので浮きます。

 少しずつ姿を現し、群れて泳ぎ回ります。羽が生えるまでには大分かかり、飛べるようになるのは二三か月後でした。私が住んでいる間は、怒らせたり妨害したりしないよう、近所の住民にお願いしました。銃で撃つのは言うまでもなく、石や砂を撒いたり投げたりするのも止めるようお願いしました。

 たくさん、二三千羽いました。夜が明けるとすでに去って行った日もありました。残ったのはヒナか、あるいはどうしたのか知りません。全部は行きませんでした。日が落ちるとぞろぞろやってきて、夜中は喧しかったです。ミズガモの自然種は一種類だけのようです。

問 : 先生。このお寺の歴史的由来はどんなですか。

答 : このお寺は昔、郡僧長のお寺で、現在の県僧長に相当し、少なくても一人か二人の僧がいました。最後の人はカーケオさん、あるいはプラクルーサムピンです。

 ラーマ三世の時代のトラパンチック寺は、南部の県都を管理していたチャオプラヤーサムプラクランが、南の国境の県都を守るために兵を挙げた際の帰り道、クルンテープに戻る前に、当時のチャイヤー県庁があったプムリエンを通って、大きなサムハニミット寺を作りました。でき上るとプラクルーサムピンにお願い、あるいは命令して、新しいお寺トラバンチック寺に引っ越してもらいました。

 引越した時、プラクルーシーサンガラーチャーランカーケオになっていたかどうか、良く分かりません。しかしプラクルーサムピンだったことは確かです。郡僧長に任命された証書を見たからです。昔式の誓約書で、長さ二メートルくらい、幅は五十センチくらいの紙に、全面ぎっしり書かれていました。

 南方の僧長の状態で、サンガ王が任命したのでなく、任命してから国王に報告、あるいはサンガ王に報告しました。郡僧長に任命して、すべての僧に従わせました。それにチャオカナの大物、たとえばチャオカナクエーンなどが誓約書の最後にサインして、反対側二か所に押印してありました。獅子王の印と獅子象の印でした。

 もう一面はあまり書いてなく、押印と、「合議の結果郡僧長に任命する」と、二三語書いてあるだけでした。もう一面は、若くても能力のある人なので、年寄りの僧も誰でも聞き従うようになどと、長々と書かれていました。プラクルーサムピンという名前は、名前全部ではないかしれません。

 チャイヤーにいた時の階位名はプラクルーラッタナムニーシーサンカラーチャランカーケオ、あるいはプラクルーラッタナムニーシーソームワンランカーケオでしょう。初めにシーサンガラーチャになって、それからシーソームワンになりました。

 あの方がアムハニミット寺に移ると、残ったのは行かなくても良い、あるいは行きたくない僧だけで、だんだん減って、最後に一人になり、クルアシーという老僧が最後で、その人が亡くなると廃寺になりました。

 お寺の家財や良い物、特に金箔細工の棚は、全部サムハニミット寺に移りました。イスラム教の老人が「見た」と話してくれました。クルアシーと座って話したことがあると。(笑) 食堂の裏に、森に囲まれたクティ(僧房)があり、もう一か所の平らな所にクルアシーのクティがありました。私が住んだ時は跡形もありませんでした。木造で、八十年くらい荒れたままになっていたので、山の人がみんな持って行って使ってしまいました。

 まだ郡僧長のお寺だった時代は町のお寺で、チャオムアンと役人たちの家が、お寺の近くに、西側の、現在イスラム教の部落になっている辺りにたくさんありました。お寺ではタンマの勉強も行なわれました。

 チャイヤーは勉強する人たちには有名で、先生のレベルの人が、いろんな土地からチャイヤーへ勉強に来ました。プムリエンもランスアンもです。ソンクラーからもチャイヤーへ勉強に来て、日が暮れてしまって泊まった人も、亡くなるまで泊まっていた人もいます。プラクルー・ウィナイトラブットとい人は、面白い人で、ポーターラーム寺とサムハニミット寺を、交互に何度もし引っ越していたと聞きました。

 その後プラクルームニーのレベルのチャオカナムアンチャイヤーがポーターラーム寺にいて、二人の僧と連絡していましたが、最後はサムハニミット寺に引っ越しました。サムハニミット寺は、中心的なお寺でしたが、その後非常に衰退しました。公的には省長のようで、ポーターラーム寺にいたプララーチャピワット(ヌー)にお願いして、サムハニミット寺に住んでもらいました。亡くなるまで、最後の郡僧長でした。

 チャオカナチャヤーピワットの時代にも、他県から勉強に来る沙弥がいて、パーリ語の勉強をしたり、本生経の説教の練習をしたりしました。昔の勉強です。

問 : 先生。プムリエンに、ソムデットの地位まで出世した沙弥がいたと聞いたことがあります。

答 : ああ、ここではなく、クルンテープ(バンコク)で亡くなりました。プラクルー・ソーポン(イアム)の親戚で、プラ・チャヤーピワットと一緒に住んだことがあります。しかし頭が固い人で、プライドが高く、小さなことも合意できず、最後には朝寝坊をして水を掛けられ、腹を立ててクルンテープへ行き、勉強してリアップ(ラーチャブラナ)寺でマハーパリエンになり、ソムデットプターチャーンにまでなりました。

 なったのはスタット寺に移った時のようです。クルンテープで一度会ったことがあります。あの方は、自分の故郷に法施会ができたことを喜んでいました。あの方が帰郷された時に、ポーターラーム寺でもう一度会ったようです。

問 : 先生。スアンモークの開拓の話に戻りますが、先生はどう始められたのですか。誰にでも目的を公表なさったのですか。

答 : タンマタートの法施会の人四五人以外には誰にも言いませんでした。トラパンチック寺に行くまでは個人的なことで、それから少しずつ知られて、話されました。

 マイ寺(プムリエン)にいた一か月余りは、何も本格的なことはしてなく、友達とお喋りをしていたようです。(ハハハ)。母にはまだ話してなく、カンマターン式のお寺を作る話は、まだその辺の人は知りませんでした。

 行って住むには、泊まる場所を建てなければならないので、クアイ爺さんとティエン叔父が一緒に建ててくれました。ティエン叔父は普通の大工なので建てられ、こういうのは簡単でした。初めのはトタン屋根で、仏像が濡れないように覆い、前に座って拝むことができました。

 私が泊まる所は、仏像の建物に差し出し屋根を出して梁をもたせ掛け、ニッパヤシで屋根を葺いて、ニッパヤシで囲って、竹の輿で寝ました。しかし板作りで、幅と長さはちょうど寝られるだけの柱があり、一人で住みました。

 床は土間で、屋根の下の壁に隙間を開けたので、明るさは十分でした。そして特別に本棚を作り、遠くから見ると棺のような形でした。(笑) 中は二段で、上も下も開けられました。古いスアンモークからここに移ってきた時も持って来ましたが、今はどこに行ったか知りません。この棺のような本棚は、仏像の建物に渡した柱の上に置き、寝台は北に置いて、この棚で仕切りました。

 みんなで作ると、二日で出来上りました。ニッパヤシは買って来て、大きな束で売っていました。作るのは簡単で、木を立てて束ねたヤシの葉で仕切れば終わりです。寝る方は窓のように隙間を明けておき、サボン(僧の内衣)を下げました。

問 : 先生。便所や水浴所はどうなさいましたか。

答 : 水浴所は作る必要はなく、便所は作りました。水は東の端の曲がった堀の所に小さな井戸を作りました。堀の角にヤシの木があったので、木の根元を掘り下ろしました。私が自分で掘ったのではありません。清信士の人たちがみんなで掘り、中を鋳型式にしました。彼らの家には鋳型があり、深さは鋳型三段分くらいです。水浴はそこでして、池で浴びることはあまりありませんでした。蛭がいたからです。

 便所は、丘から下りて右に曲がった、今は移動した井戸の近くに造りました。深い穴を掘って、座った時に隠れるようにニッパヤシで囲い、少し屋根がありました。それで缶に灰を貯めておきました。木の葉がたくさんあるのでクアイ爺さんが燃やして灰にして、缶に溜めておき、排便したら竹を割った物で杓って覆うまで撒きます。節約です。洗う水は要りません。

 そしてカワセミについて知識を得ました。あそこのカワセミは運河で食べて、巣を便所の壁の横に作りました。土の中に穴を掘って、穴の中で子を産みます。私は、木の枝の上に巣を作るか、土の上で子を産むと誤解をしていました。その方が、わざわざ土に穴を掘るより都合が良さそうですから。

 すると同じ種属の似た鳥は、みな同じようにすることが分かりました。彼らがクラチャーブチャーンと呼ぶこの辺の鳥は、ハトと同じくらいで少し長いです。よく土に掘った穴で子供を産みます。カワセミは魚を食べる鳥なので、魚がいる所に棲まなければなりません。下降して飛んで行ってパッと獲ります。非常に素速く、魚が浮かぶのに合わせて、しっかり咥えます。

 ここで飼っていた水槽の魚を咥えて行ったこともあります。その時沙弥のペーンがいて、殺す意図はありませんでしたが、革のパチンコで撃ったら、ビタッと(笑)奇跡のように命中しました。その沙弥のペーンは恥ずかしさと恐怖で顔が真っ青になりました。撃たれて死んだカワセミは、クラトーンの枝に止まっていました。私は追い払うよう言いませんでしたが、沙弥は、私が鳥に魚を獲られたくないのを知っていました。




2 名前の由来



問 : 先生。荒れ寺に住むと決めた時、誰かに何か言わなければなりませんでしたか。

答 : 私は誰かに妨害さられない居住権が欲しかったので、入る前から、法的な手続きをしなければならないと考えていました。法施会が国から荒れ寺を借りて、クリン シワーイプラームという、そこでは有名な弁護士に依頼して、その人がいろんな物を借りる契約書を作りました。その人の名義で借りた物もありました。

 佛教新聞の創刊号に詳しく書いてあったようです。記憶違いでなければ、住み始めてから、禁止する権利がある賃借の話をしたと思います。オトリを使って鶏を獲る人や、キノコや草を積みに来る人がいたので、彼らに妨害されるのを恐れたからです。

 面積は約七十ライ(約三万四千坪)でしたが、上の方だけで、下の椰子林は借りませんでした。それが終わってから鉄条網を巡らして、出入りする門は一か所、現在入り口になっている所だけです。鉄条網は形式的な仕切りで、二本だけだったようです。杭を打って、鉄条網を打ちつけました。前と東側です。

 その後、カリンの木を切って、垣根にしようと思って挿しましたが、いっぱい枯れ、残ったのは二三本でした。そして『訪問禁止』という看板を立てました。(笑) 私が草摘みや鳥や魚を獲ることを禁止しても、それでもインド人が入って来ていろいろしました。

 その日のことは今でも憶えています。食べるには困らない家の子供でしたが、イスラムの青年が訪ねて来て、本堂の所で午後まで座って話しました。午後になるとそこの木の上に、スアンモークの名前の由来にもなっている、プラーという木の実がちょうど熟していて、緑色のゴシキドリ科の鳥が枝いっぱいに止まっていました。

 プラーの実を食べに来た鳥が鈴なりで、そのイスラムの青年が、「あなた方の言葉ではあの鳥はいられますが、私たち言葉ではあの鳥はいません。この鳥は、全部捕って汁(カレー類)にしてしまうので、いないに違いありません」と言いました。イスラムの人たちは獲ってカレーにします。(フッフッフ)

 もう一人、イスラムの人が、草の芽を摘んで包んでいました。私が住み始めたばかりの頃は、誰にもズカズカ侵入されたくなかったので、ちょっと厳しくし、草を摘んで欲しくないと言いました。すると彼は、「私は摘んで平らにして、あなたが住みやすいようにしているんです」と言いました。(笑) 平らに摘んで、キレイにしてやっていると言い訳しました。(笑)

 お寺の賃貸の話は「佛教」に書いたことがあります。それでどうしてか知りませんが、マハー・トーンが知って、きっとそれを読んだのでしょう、それでソムデット・ワチラヤーナウォンに話しました。初めてあの方にお会いした時、「マハーグアム、あんたのやり方は何だね。僧を住まわせるために寺を借り、寺を借りて僧を住まわせて」と言われました。(笑)

 私はそれを考えて、その後の年から、借りるのを止め、賃借料を払わないで、借りるのを止めると言いました。何年も借りていなかったと思います。

問 : 先生。スアンモークという名前はどのように付けたのですか。

答 : (笑) 名前をつけるのは普通です。しかしスアンモークの名前にはね、タンマタートは関わっていません。関わる権利がありません。私一人で、教えで、あるいは使っている言葉で、そして私は性格が多少ユーモアリストなので面白く、と考え続けました。

 たまたまモークの木とパラーの木があり、古いスアンモークにはモークの木が本堂の前にたくさんあり、パラーの木はどこにもあり、モークとプラーを繋げると(笑)解脱の力という意味になります。アーラームという言葉は普通、清々しい木陰、心楽しいことを意味します。

 ふと思いつくと、本気になりました。タンマの本当の意味と一致します。目的がモーク、「モッカ(解脱)のための力である場所」はふさわしく、提案すると、彼らはみんな「耳慣れない」、あるいは「変だ」、あるいは「何か分からない」と言うので、「モーカとパラー」について、タンマはそうだと分かるように説明しなければなりませんでした。望ましい目的である解脱があるので、モーカパラーラームという、解脱を振興するお寺が生まれました。

問 : 一気に名前を決めたのですか。それとも幾つも候補があったのですか。

答 : 憶えている限りでは一つだけ、一度だけです。

問 : 住んだ後ですね。

答 : 住んでからです。クルンテープ(バンコク)にいた頃から考えていません。(笑) モークの木とパラーの木を見てからです。

問 : 清信士の協力者たちは、奇妙だと言っても反対ではなかったのですね。

答 : 彼らは反対のしようがありません。それに彼らは、パーリ語を勉強したことがないので、どういう意味か、聞いてあまり意味が分からないので、私次第でした。タンマタートも、意義を唱え批判する考えはなく(笑) 思いついたらそれに決めました。ヴィパッサナーを振興するために作られた森の施設という名です。ヴィパッサナーを振興させるために、こういう率直な言葉を使いました。

問 : 先生。もう一つの名前、プッタタートはどうですか。

答 : あ、それは流れて来た話で、タンマタートが先に、自分の名前をタンマタートとしました(笑)。 それで私は一つ空きがあると見て、『プッタタート』という名にするのが良いと思いました。それで当時のチャオクンワットサームプラヤー、今のソムデットワットサームプラヤーですが、あの方が気に入られて、しばらくの間サンガタートという名前を使われました。

 サンガに関した改革、革命、サンガの仕事を大々的にやったので、サンガタートという名前を使いました。それでブッダ・タンマ・サンガが揃いました。チャイヤーに二人、クルンテープに一人。

問 : 個人的に知り合いでしたか。

答 : いや。知りません。何も知りませんが、あの方が私の本を読まれました。

問 : プッタタートという名前はいつ命名なさったのですか。

答 : 命名というのか何か知りませんが、初めに文章を書いて、当時の大きな新聞「クルンテープデーリーメール」に載せた時、この名前を使い始めましたが、向こうで名前を載せませんでした。宗教についての評論でした。

問 : スアンモークを作る前ですか。

答 : 前。スアンモークより前。でもタンマタートはタンマタートという名前を使っていました。その後タート(奴隷)という言葉が好きな人がいて、アリヤタートやら何タートなど、いろんなタートという名前をつけました。間もなく誰だったか、ティチョン新聞に「現代に奴隷はいないので、タートという言葉は止めるべきだ」と書きました。当てこすりのような書き方でしたが、私は反論したくありませんでした。

 別の奴隷で、廃止した奴隷と、私が止めることができないような奴隷は、意味が違います。そしてこれは自動的になり、止めることはできません。当時二三か月の新聞を読んで見ると、たぶん私に当てこする目的で、書かれているのはほとんど皮肉でした。

問 : 私はこの時期に「ザ ミドル ウエイ」を読んで、西洋人で同じプッタタートを使っている人を見ました。

答 : ああ一人います。アメリカにいる在家のスリランカ人で、プッタタートという名前を使っています。プッタタート ヒリヴィチャヤとか何とか言いました。

問 : その人は実名ですか。

答 : 実名です。匿名のペンネームではありません。時々私と混同する人がいました。その人は在家で、その社会では際立った仏教教団員と理解しています。

問 : 学者のようだったと思いますが。

答 : 彼は学術面で、時々書いています。

問 : 先生は実名を変える申請をなさったことがあって、認められなかったと聞いたことがあります。

答 : 変名申請をしましたが、ブッダという言葉があるので、変えられないと言われました。

問 : タンマタートさんと一緒ですか。

答 : タンマタートはずっと前に登録でき、私はスアンモークができた時に申請しましたが、駄目だと言われました。ブッダという言葉を使うのは、ブッダを侮辱すると。タイの職員の見識、知性を見てください。こういう見識なので、この種の人とケンカするのも億劫でした。

問 : 誰ですか先生。郡の文部次官ですか。

答 : 向こう、クルンテープ(バンコク)です。名前の変更はクルンテープへ行かなければなりません。向こうで審査して、それから何省だか知りませんが許可します。内務省か文化省か知りませんが、そこからそういう返事が来ました。

 もう一つブッタタッタという名前があります。有名なスリランカ人で、ブリタニカ百科事典にブッタタッタのことが載っていました。クルンテープでは、私だと考えた人がたくさんいて、噂になりました。ウィロード何とかという人もです。

問 : 私が学生時代に、学校から逃げてここへ来た時、ウィラットさんも私にそう話したことがあります。

答 : そうですか。(笑) タイの新聞で、書いた所がありました。何とかいうちっぽけな新聞が「名誉だ」と書きました。私はあり得ないと思いましたが、黙っていました。その後百科事典に載っている記事を見て、「ありゃ、これはブッダタッタだ。これだわ」。この人には、インドで会ったことがあります。マドラスに用事があった時そこへ行って、一緒に食事をしたことがあります。年齢も同じくらいでした。

問 : 元の名前を嫌だと思ったことはありますか。

答 : ありません。名前を変えることと関係ありません。私は意味が分からない所が好きでした。しかしその頃はあまり考えず、そのことに関心がありませんでした。でも後で、何でも勉強するようになってからは好きでした。タンマタートにグアムという名前は絶対に合いません。

 私は初めからグアムと署名して来ました。学校の名簿もグアムです。ほとんどの住民は訛って「ヌアム」と呼びました。ヌアムと呼ぶ人が一番多く、グアムと呼ぶ人はいませんでした。私の本当の名前を、住民はグワムと呼びますが、意味はグアムと同じです。だからソムデットワットテープシリンも私のことをグワムと呼びました。グアムの意味が分らないので、きっとグワムだと考えたのでしょう。

問 : 最初に引っ越した時、八物(比丘が私有を許されている物)はありましたか。それとも何を持って行かれましたか。

答 : 何も財産はありません。本が二三冊と、鉢と、仏像の前で灯すガラスコップに芯を立てたヤシ油のランプがありました。初めの頃は本を書く考えはなく、本気で本を書く時には、クティ(僧房)とホヤのあるランプがありました。小さなランプで、長いホヤがありました。何年も使いましたが、他の人が割るまで、割れたことがありません。

 他の八物は僧衣がありました。当時私は、自分で染めたかなり黒い衣を着ていました。カヌン(ジャックフルーツ)の芯材に長時間浸して染めました。カヌンの樹液を日光に晒すと布が黒くなります。プムリエンにも黒っぽい衣を着た人がいました。アーチャンメンも黒い衣で、アーチャントゥムもかなり黒い衣で、プラ・バイディカーチェムは真っ黒でした。チャオクンチャヤーピワットもかなり黒かったです。

 色は鷹の羽のような色でしたが、その後面倒になって、自然に少しずつ変化しました。でも私は、真黄色の衣は使ったことがありません。新しい衣は、丈夫にするために、いつでもパラミツの液で一度染めます。樹液が糸にくっつくので、丈夫で長く使え、それにずっと洗濯でき、頻繁に染める必要がありません。普通の色に染めれば、色が全部抜けてしまうので、洗う度に染めなければなりません。

 古いスアンモークにいた頃は、衣を献じる人は極たまにしかなく、布が破れた時は、自分で縫ってツギを当てました。だからある時代には、昔の聖人のようにツギを当てた布を使いました。それは良いと思いました。何も投資せずに、広い考えを得られました。その上使う布に不足しませんでした。

 その後、染めるのを完全に止めました。黒くするのは、他の人と違うようにするのは、他の人より良くなりたいからです。それは演じることで、人に自慢するためにわざと黒く染めるので、止めました。もうしません。自然に任せます。

問 : 毛布や蚊帳や枕はどう使っていますか。

答 : ほとんどは僧衣を掛けます。それで十分で、時には大衣(一番厚い衣)を広げることもあります。枕は木を二つ置いて、そしてベンチのように小さな板を打ち付けます。しかし枕くらい低く、大衣の布を畳んでその上に敷きます。こういう枕は普通の物で、一般庶民が使っています。

 蚊帳は使いません。病気の時は使いますが、普段は使いません。蚊がいたら火を焚いたり、衣にくるまったりします。宵の口にクアイ爺さんが火を焚くと、蚊はあまりいませんでした。

問 : 先生。頭陀は何をなさいましたか。

答 : すぐにできることをしました。たとえば食事は一日一回。托鉢を勤めとし、三枚の布を使うなど。

問 : 三枚の布を守ったら、水浴の時どうなさいましたか。石鹸は使いましたか。

答 : 水浴の布を使いました。三枚の布は、水浴の布も使ってです。しかし時には下衣を洗う時には、中衣を代わりにしなければならない時があります。中衣を縦に畳めば下衣二枚と同じなので、下衣が乾くまで代わりに身につけます。三枚を守れば、このようにしなければなりません。

 石鹸は使わず、布でこすりました。無駄でなく、面倒もありません。初めは履物も穿かず、傘も差しませんでした。その後チャイヤーの線路傍に越して来た法施会に説法に行って、歩いて行って雨に降られて濡れましたが、説法をし終わったら乾いたことがありました。

 身体は却って丈夫になりました。靴を履かず、傘を差さないと、日差しや雨に耐えるので、却って風邪を引きません。木の葉を掃き、ゴミを掃く以外には運動はしません。面倒です。ほとんど歩きました。歩いて行ったり来たりし、経行のようですが、早歩きで運動しました。

 歩きながら考えることもあります。座っていると疲れるからです。歩いて考えると、たいてい良い考えが浮かびました。チャイヤーへ説法に行くために歩くには、田んぼの中や何かの中を通り、何か考えると掌にメモしておき、着いたら紙にメモしました。このように良い考えが浮かんだら、二度と戻って来ないかもしれないからです。



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