9 当時の仏教の状況と批判





問 : 先生がクルンテープ(バンコク)へ行かれた当時は、タンマユットと大宗派の区別はありましたか。

答 : 言うなら、強くはありません。一部の人たち、ある場所、ある機関、つまりそれぞれの宗派の監督者は激しかったです。闘争をするほど激しいのは、クルンテープにはほとんどありませんでした。地方の方が激しかったです。ケンカや闘争をしたりしたのは、ナコンシータンマラートが一番多かったです。タンマユットと大宗派の公然としたケンカが個人的なものになり、利益でも失うように、殺したり徒党を組んだりしました。ソンクラーもそうでした。

 クルンテープでハッキリしているのは、大宗派でもタンマユットに従って改革したお寺があったことです。マハータート寺は、ソムデットプラマハーサマナチャオがいた時代からで、私がいたパトゥムコンカー寺はタンマユットの兆しもありませんでした。昔からの大宗派で、スタット寺次第です。

 スタット寺は服従しないお寺で、元からの大宗派を守っていました。当時サンガ王(ペー)が寺を管理していましたが、その時はまだサンガ王ではありませんでした。あそこは大宗派の固い砦で、タンマユットの衣をまとったら住めません。追い出されます。

問 : 当時の仏教批判の潮流は、何がありましたか。

答 : ナリン(クルン)氏が破戒僧を追放しようと告発して、破戒僧を全部追放しました。サンガ王以下全部です。彼は何冊も本を出し、暴露写真も掲載したので、僧社会も在家も、大騒ぎになりました。彼は三四年役割り演じ、スアンモークを造ってからも、まだ公表していました。

 私がクルンテープにいる間はすごかったです。テーラやマハーテーラは、バカな人とケンカするべきではないと見て、平然として(笑)、勝手にさせていました。そして最後には自滅しました。自分に負けたと言います。

 彼は、告発写真を載せた本を何冊も出しました。ナリン氏は、半分狂って半分酔っていました。彼は、タンマタートから聞いて私がパトゥムコンカー寺に滞在していることを知り、訪ねて来ました。彼が何を質問したか忘れてしまいました。

 しかし、だいだい「今彼らは、あなたのこういうこと、こういうことが正しくないと言っています。あなたは何と言いますか」と言いました。私は「知りません。私はこのように自分のことをします」と答えました。彼はタンマタートと手紙で連絡を取り、タンマタートの仲間にはナリン氏の考えが好きな人がたくさんいて、僧を厳格にさせたいので、鵜呑みに信じて、何でもナリン氏は正しいと見ました。

 ナリン氏は話になりませんよ。半分狂って半分酔っていたのですから。有名になりたくて、比丘尼部を創って娘を出家させました。有名になりたくて四衆のために仏教を復興させると言い出し、娘も善い娘で(笑) 父が自由に操縦できました。最後にはどっちに出口を探したら良いか分からなくなって、芝居を演じました。本当かどうか知りません。幕を下すために、ある人に比丘尼を誘拐させ、馬に乗せてさらって行きました。ナリン氏が仕掛けたと言う人がいました。

 しかし人は、彼が騙したと信じています。つまり薬酒でアーユワッタナという名前の薬を作り、そして「僧でも飲める薬」というラベルを貼り、僧たちが飲んで大酔いしました。彼は正直でなく、狡いという証拠です。サンガが「僧と沙弥はナリン(クルン)氏のノックカオクーという名前の薬を飲んではならない」と発表するほど、彼はお金を稼ぎました。

問 : 先生。当時の一般の人は、仏教はどうしょうもなくなったと感じていましたか。

答 : ナリン氏のように、そう見ていた人も一部にはいました。しかしほとんどは何とも感じませんでした。

問 : ナリン氏が僧を攻撃した重要点は何ですか。

答 : ほとんどはお金のこと、それと生活が快適過ぎること。どこからお金を見つけて来たのか知りませんが、写真がいっぱい載っている大きな本を印刷して、マハーテーラ全員を公然と侮辱し、庶民を扇動して僧を憎ませました。しかし法律は手を出さなかったので、何も結果はありませんでした。お金のこと、お金に触れることを、庶民は普通と見たからです。

問 : 先生がクルンテープ(バンコク)へ勉強に行っていた頃、著名な僧はどなたでしたか。

答 : 当時の一般の感覚では、ソムデット(猊下)である方全員です。(笑) ソムデットプラ・ワンラット(フーン)が知識人・学生のリーダーで、ソムデットプラサンガ王、クロムルアンチナウォンシリワットは、大人しすぎると見られていました。ソムデットペーは霊験や神聖な方で、ソムデットワットテープシリンが一番進んでいたように見えます。西洋人に関した話があれば、必ずそっちへ行きました。当時ソムデットプラ・サーソンソーポーンはまだソムデットになっていませんでした。

問 : 当時際立った若い僧はいましたか。

答 : あまりいません。スチーブさん、あるいはスチーウォー比丘が最初の人で、私より若い世代です。彼は若い時から仕事の結果があり、当時彼は若い仏教徒のリーダーで、何をやってもしっかりしている発案者でした。

 ボーウォン寺サンガ大学の基礎を作り、タイで初めて英語で説教をした人です。特別開催して、聞きに来た西洋人は沢山いました。後に私も聞きに行ったことがあります。チャオクンラップリー(プラヤーラップリータンマプラカン)が連れて行ってくれました。チャムナーンさんは彼のクティを訪ねたことがあります。

問 : 先生。当時の仏教界で、僧は時代に追いつけない、時代遅れになりつつあると注意し始めたのですね。

答 : 注意したのは若い僧だけで、年寄りはまだ、時代に遅れていると認めませんでした。だから変化させないで、年配僧を真似なければなりませんでした。年寄りのテーラ(長老)は「こういうのが正しい。新しく変えてはいけない」と自負、あるいは固執し、現在もそうしています。何も変化はありません。

 ソムデット以上のマハーテーラ(大長老)は何も改革革命する頭がなく、こうでなければならないと信じているので、このようです。びくとも動かないので、自分ではできません。進歩することをしたことがありません。できないので進歩を管理できません。

 ソムデットマハーマナチャオの時代は、一段階開拓した時代と見なします。少なからず変化しましたが、後に続く人がいません。そのように賢い人、そうできる人がいませんでした。固定した原則として掴み、ソムデットマハーマナチャオが規定したものを、一語も変えようとしません。問題はこのようにあります。仏教界にこのようにあります。

 考えて見てください。変えようとしない頭の古い人たちは、まだたくさんいます。新しい考えの人で、頭の古い人の心情に勝つほどハッキリ表明し、本当に何かできる人はいません。率直に言えば、あの方たちは快適なので、快適な暮らしがあるので、面倒なことをしなくても良いのです。今でも、あの方たちは快適さに満足しています。何もしなくても、何十万、何百万もの儲け、供物が絶えません。

 すべての僧は、社交やお金持ちになることに興味があります。儲け物や供物の結果がある場合を除いては、タンマのこと、教育、進歩には興味はありません。貰い物や供物に陶酔する時代に陥っていると言います。多少名のある僧は、長者の家のような応接セットのある応接室がなければならず、その先には目的である供物があり、教育の話や何の話に関心があっても、功徳である供物があります。

 それに、宗教を永遠に正しくするために心を純潔にするのは、非常に難しく、供物や称賛は簡単でハッキリ見え、最高に魅力的です。パーリ(ブッダの言葉である経)に「ラーパ サッカーラ シローコー」という言葉があり、働く気持ちにさせます。私も同じで、関わりがあり、一部分では促されますが、供物のために始めません。それは何かした後にあります。

 サンユッタニカーヤ(相応部)に、供物に溺れて大きな害のあった見本の僧の話が何十もあります。どの言葉も「ヨーガッケーマタムにとって危険である」と強調しています。供物と称賛は、タンマの成就にとって危険であり、梵行の敵ですが、誰も聞く人はいません。それは印象的です。ラーパ サッカーラ シローコーを目指す人は、半分でもいいです。純潔な心が半分でも、凡夫としてはいいです。

問 : 先生。大宗派の若くて際立ったテーラ(長老)、たとえば当時のチャオクンピモンタムなどはどうでしたか。

答 : 私が勉強していた頃、あの方は三羽カラスの役割を表し始めました。チャオクン・シースタム、つまりプラ・ピモンタム、もう亡くなったチャオクン・シースタット、そしてチャオクン・シーソムポート、つまりマハーカセームブンシーは、同じタイプで、現代的な新しいことを始めていました。ソムデット・フーンは人を使って腕を振るい始めていました。

 チャオクン・ピモンタムはチャオカナチャンワットアユタヤーを維持するために派遣されました。非常に若い組で、狭い範囲の運営をして、少しずつ広げ、その後、改革して管理した後は、全員サンガモントリー(僧大臣)になりました。マハーキー(タニット ユーポー)は還俗して在家になるために勉強し、ドイツ語を勉強して最後には技術局の局長になりました。

問 : では一般の新聞が、現代的な僧に何か要求した記事はありましたか。

答 : ありません。二三紙がナリン氏を支持しただけで、その他は、ナリン氏は売名狂、出世狂、宗教狂と見ていました。





10 タンマタート・法施・外国の仏教




問 : 先生。それではタンマタートさんはどのような考えで法施会を創って、先生を支援なさったのですか。

答 : タンマタートはチュラーロンコン医学校(現在のチュラーロンコン大学医学部)に行っている頃(1926年)から、仏教を振興・繁栄させたい性格でした。彼はダルマパーラのマハーポーティ教会の仏教布教に関した論文と、「日本のヤンイスト」という本を読んで、仏教の価値が見えるようになり、そしていつでも図書館の仏教の本を読んでいました。

 帰郷してからは(1927年)店に本棚を置いて、他の人に読ませ、その後(1929年)当時集められる本を、タイカセーム ウィサーカの「獅子の説法・ブッダは何を悟ったのか」などまで集めました。それでその辺の人何人でもありませんが、周辺に関心の波が立って、グループになって「仏教を純潔に正しくするにはどうするか」という会話をしました。その後、この人たちがスアンモークと法施会を作る力になりました。

 ティエン チャンタウェートさん、ダーオ チャイサアートさん、チュア ワンナクラットさん、ヌーン ウォンワーニットさん、クアイ キユマイデーンさんがいました。旗振り役のタンマタートはバーンターポーにいるシリセーナーというスリランカ人と知り合いだったので、スリランカとインドで仏教を復興させる努力をしていたアナーガリカ ダルマパーラと、マハーポーティ教会の仕事について知ることができました。

 タンマタートは手紙で連絡をとって、それからハマーポーティの本を取り寄せ、その後マハーポーティ教会の「ブリティッシュ ブッディスト」「ブッディスト イン ロンドン」そして「ブッディスト エーヌアン オフシロン」を取り寄せたので、外国の仏教の様子を知ることができました。

 そして私にも読ませようと、一所懸命送ってきましたが、私は読んであまり意味が分かりませんでした。辞書ばかり引かなければならないので、我慢して読めませんでした。読んだのはほとんどニュースだけでした。(笑)

 タンマタートはこれらの本の話をタイ語に翻訳して、シークルン、デーリーメール、タイカセームなどに載せていました。そしてタンマタートというペンネームを使い始めました。それまでの名はジークーイです。私がクルンテープにいた頃、彼が購読していた英語の本のうち、特に私に読ませたい本を送ってくれました。それが、ダルマパーラ式に復興させることについて勉強させ、会話させたので、スアンモークができた時手を繋ぎました。

 私は心が頑固で、簡単に「この人は善い」と信じません。善い面もあり、無鉄砲な面もあるので、様子を見てからを原則にしています。

問 : ダルマパーラの運動はどのような経過ですか。

答 : ダルマパーラ(1865年-1933年)はスリランカ人で、キリスト教徒でした。その後、銃で鳥を撃つ神父を見て信仰心を失い、仏教に転向し、それからスリランカとインドに仏教を復興させ、西洋に布教するためにマハーポーティ教会を設立しました。

 彼は初期の開拓者であり、最も重要な草分けの世代と見なさなければなりません。でなければ何もありません。しかし今になって結論すれば、結果はほんの少しで、期待した十分な結果はありませんでした。インドの仏教は、ダルマパーラが理解したように堅固ではありませんでした。

問 : 彼はどこを間違ったと見ますか。

答 : 失敗ではなく、不可能に関係しています。知識も最高でなく、本の発行も最高でなく、信仰して好むものも、タンマの知識の最高に至っていないので、因果や空についても言及してなく、風俗習慣の仏教です。それに心の面も完璧でなく、彼は、靴を履いて寺院に入った西洋人の頭をぶっ叩きました。ほとんど大問題になる所でした。

 まだ我武者羅で、何かに執着しすぎていました。それに誓願の言葉は非常に奇妙で、『仏教を普及させるために、あと二十五回生まれさせてください』です。それは外面の仏教で、内面の仏教ではありません。普通の人の信仰で、一人の人が死んでまだ生まれると信じています。仏教ではありません。それは宗教というより社会の話です。

 彼は僧の訓練を決意しますが、一人ではできず、スリランカやインドやイギリスで勉強させました。それで今は、全部瓦解したと言います。成果があった最後の二人は、ラーフラ サンパリタヤーヤナとアーナンダ パオサラヤーヤナです。今もいるのは、アンベッカーたちと手を繋ぎ、私に協力を求める手紙を書いてきたことがあります。

 アンベッカーが亡くなった後は、非常に変わり果ててしまい、四五百万いた仏教徒は、再びヒンドゥー教に戻っています。仏教から何も利益がないからです。もっと食べ物があるよう支援しませんでした。かつて十五人いたと書いてあった僧も、みんな去ってしまい、イギリスへ行った人の中には、還俗して妻をもった人もいます。

問 : 先生。今言われたことの他に、当時仏教を改革する動きはありましたか。

答 : 思い出せません。ああ、マハーポーティ新聞で、タイ人が一時、プラ・ローガナートのことで大騒ぎしました。タンマタートがその話を読んで、当時新聞に書きました。

 彼はイタリア人で、ビルマで出家して(1925年)比丘になり、ヨーロッパに布教しようと努力しました。ヨーロッパで立教するために、徒歩でブッダガヤからエルサレムへ行き、エルサレムからローマまで一緒に旅をしようと、スリランカ、ビルマ、タイの比丘に呼び掛けました。一九三一年に幾つもの英字新聞で公募し、一九三二年の年頭にビルマの僧を率いてチャヴェダコーンパコダを出発し、インドへ行きました。

 スアンモークができた時、タイに来ました。私のところの「佛教新聞」は、参加者を募る記事を載せました。パンヤーナンタさんもこの一行と一緒に行ったことがあり、行って、ビルマで諦めました。佛教新聞は、最後までずっと継続して彼(プラ・ローガナート)に関した記事を報じていました。

 私がクルンテープ(バンコク)にいた時、サートーン通りのプラ・アパイウォンの家に連絡をするよう、マハーポーティから連絡があり、タンマタートが私に、連絡する住所を送って来たので行きました。でも違う家で、その辺の人に聞いたら、誰も住んでいないということでした。

問 : 先生はローガナートとダルマパーラの運動をどう思われましたか。

答 : 私は何とも思いません。彼のニュースはマハーポーティから来ました。彼がクルンテープ(バンコク)に来た時、しばらく有名でした。サンヤー タンマサックさんは非常に賛同し、プラ・ラーチャタンマニテートは駆けつけて非常に称賛し、何でも手配してやるほど溺れていました。

 私はローガナートに、ボーウォン寺で一度会ったことがあります。彼はボーウォン寺に泊まっていました。サンヤーさんが私を会いに連れて行き、たぶん私も一緒に行けばとても良い、と話したのでしょう。会うとすぐ、彼は私を説得する努力をしました。私は「まだタイに仕事があります。タイで布教したい」と短く答えました。




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