8.パーリ語の学習とタンマの基礎





問 : 先生は、クルンテープ(バンコク)から帰郷する前に、タンマタートさんに手紙を書いていらっしゃいます。

 『僕の帰郷の時期については、まだ確実に言うことはできません。僕は確実に、今までの考えとすっかり変わってしまいました。幸運にも、僕を敢然と決意させる良い経典を発見したので、僕はクルンテープを出ます。これを最後の帰郷にし、勉強してきたタンマをもっと探して増やすために、どこか、外面にも内面にも妨害のない静かな場所を探すつもりです。その探究が終われば記憶が甦り、そして自分の探究は間違っていないと信じられる教えになります。

 そうしたら、今まで愛して、持ってきた教科書を残らず捨て、後は純潔と真実を探求するために、すっきりした自由な生活をします。まだどこに住むか分かりません。一人で探すと糸口も見つけらないので、考えたように、インドのヨギーの人たちなど、探求の理由になる人たちと付き合おうかと考えています。今、この考えで教科書四五冊に対処するため、数カ月間仮住まいできる、静かな場所が見つかるのを待っています。』

 『僕は幸運です。非常に価値があると感じるほど良いです。互いに説明し合わなくても、人生観が同じ友達ができました。僕たちは、将来に関して同じ方針があり、そして今、心身の状態はすべて同じで、そして更に幸運なら、一緒にやって行くことができます。』

 『僕たちは、クルンテープ(バンコク)は純潔に出合える所ではないと結論しました。私たちは足を踏み間違えて、階位が混じったタンマの勉強をしました。間違った道に踏み出したと気づいて良かった。気づかなければ、何歩も踏み間違うところだった。そして他の人のように、抜け出すのが難しくなりました。間違って踏み出したと知ったことで、どうすれば正しい一歩になるか、手掛かりが掴めました。』

 『僕たちはまた、親戚・兄弟・友達や教え子たちに関した心配は、純潔と幸福の探求の妨害になると気づきました。僕は、今僕が心配している親や兄弟のために決意し、努力しています。このようにするには、僕は先に死んでしまうかも知れません。

 ブッダがしたように、親兄弟が涙を流していたのに、ブッダは純潔を探求するために家を出たというブッダの言葉で、このように納得すれば(本当のパーリ経典には、逃げて出家する話はない)、僕はもう一重自由になります。そして僕の親兄弟は、再び会えない別れになっても、納得してくれるよう願っています。』

 『こちらは、今とても速く変化しています。恥知らずを嫌う教義、あるいはクルンテープを嫌う教義は、一人から二人三人と広がっていて、そしてまだ続きます。僕は非常に不思議に思います。信じてついてくる人がいるなどと、信じたことがなかったからです。彼らはきっぱりと考えを変え、犠牲にする気持ちがあります。

 たとえば初めにアーチャンの怒りを恐れないこと、二つ目は親の失望を恐れないこと。最後には死を恐れないこと。願うは、何としても純潔の道を行くことだけ。そして今の状態は、知っているのは、今までの道は、ブッダに出会う道ではないことだけです。』

 『僕は四方が闇です。自分の町以外のどこに住まわせてもらえば、僕の勉強にふさわしいか分かりません。自分の町であるプムリエン以外に、どこにもありません。だから何よりもまず、幾つかお願いしなければなりません。最高に勉強する機会を得るために協力が必要です。そして、僕は戻ってもプムリエンに止まらないと思ってください。食住は、すみませんが前と少し変更させてください。他の方法がなければ、鉢に入れたご飯に、ナムプリック(辛いタレ)を少し混ぜればそれでいいです。

 ブッダの弟子は他のことで迷惑を掛けません。僕は、ほとんどの阿羅漢は砕米(くず米)を炊いたご飯と酢、あるいは漬け物の汁少しだけで命を繋いでいたことを、友達に証明して見せます。僕は試しに、ただのご飯とナムプラー(イワシで作った醤油。しょっつる)で食べてみます。それでも酢よりはいいです。そして今試しに食べていますが、食べ続けても何も困ったことはないように思います。』

(チット ピバーンテーン『プッタタートの人生と仕事』)

問 : 上記の手紙の要旨で、心にかなり激しい理想のある若者だった当時の先生のお気持ちが、濃厚になって行くのが分かります。そして何が善いか悪いかの決意も、かなりハッキリしてきます。先生の考え方、感じ方を、世俗的な物のためのパーリ語の学習から、仏教の理想で真実の探求を目指すよう後押ししたものは、社会的にも個人的にも、どんな原因と縁があったのか、説明をお聞きしたいと思います。

答 : 一つずつ質問してください。

問 : はい。先生のお話ではたくさん遊んで、遊ぶ物がたくさんあって、なぜパーリ語三段に合格できたのですか

答 : それは確実な計測器ではありません。遊びすぎませんでした。それにパーリ語三段は簡単で、四段と違います。ダンマパダの勉強で、タンマと物語があって、当時は勉強が楽しかったと記憶しています。

問 : 初めの年に、他の人と訳し方が違うと感じ始めましたか。

答 : まだテストをしていなので、良く分かりませんでした。しかし学校で教えていることに、あまり同感できないと時々感じ始め(笑)、先生に反論し始めました。

 しかし私も本当には知りませんでした。だから先生に反論しましたが、本気で反論したのではなく、考えを言いました。プラクルー・チャヤーピワットは聞いてくれました。学校へテストを受けに行った時、私は彼らに賛同できませんでした。私は最初から彼らと一緒に勉強していないので、自由な考えでした。

問 : 先生の考えが他の人と違った原因と縁は何ですか。

答 : 何と行ったら良いか分かりません。私が集めて勉強したのは、私の考えがあり、他の人と違う考えがあります。それに、私が全部正しいという意味ではありません。

問 : 私はこれは重要と見ます。先生の訳し方が、その後いろんなものを生む原因になったからです。

答 : それは後でそうなりました。試験が終わってプムリエンに戻ると、私の考えや知識は、新しい方向に際立って来ました。試験のためでなく、自分で自由に訳すと、自由に訳すことができ、誰も強制する人はいませんでした。

 初めの年はみんなと勉強しても何でもありませんでした。二年目は、一緒にやっていけないと感じ始めましたが、大分一緒に勉強してからそう思いました。初めはみんなと一緒にする努力をしました。そして同意できないことは言いましたが、駄目でした。自分の気に入ったようになりませんでした。発言しただけ、反論しただけでした。例は憶えていません。無理に話すと事実と間違ってしまいます。つまらないことです。

 半年後の四段の勉強になると、面白くなくなりました。嫌々勉強するように不注意で学ぶので、退屈でした。好みが変わり始めていましたが、今年は試験に合格しなければならないと思ったので、勉強しなければなりませんでした。でも楽しくありませんでした。自由人の躊躇いがあると言わなければなりません。小さな沙弥にはできません。アーチャンに叩かれます。いろんな原因で変化しました。一時これ、一時それ。情緒不安定と言います。

問 : 三蔵の勉強の初めの頃は、どう勉強なさいましたか。

答 : タンマチャック新聞の、彼らが訳した経を読みました。

問 : 先生がタンマチャックを読み始めたのはいつからですか。

答 : 古いタンマチャックは出家してすぐからで、プラマハーソムデットチャオの時代のものです。私がいたマイプムリエン寺の書棚にありました。その中には、当時の大物僧のいろんな翻訳があり、説法やタンマの講義の形の書き物もありました。当時の仏教界の思想家、文筆家の本は、寺の外に出ませんでした。

問 : 先生の翻訳の仕方は、タンマチャックの影響を受けていますか。

答 : 受けません。影響を受けたとすれば、自由に訳す点です。誰かの真似をして訳しません。そのように自由に訳せると思いました。それは良いです。たとえばブッダがカッサヴァと話す時、普通は「カッサヴァよ」と訳しますが、時には「カッサヴァさん」と訳しました。それほどで、それを印刷しました。彼らが読んで分かるように訳しました。それにタイ語です。時にはタイ語になりすぎました。

 つまりソムデットプラマハーチャオは、いろんなチャオクン、つまり大物の長老に、一人一つか二つの経を訳させ、昔のタンマチャックに掲載しました。そしてそれぞれの長老は自分の好きなように訳したので、考えを自由に解放したように、それぞれがみな違いました。昔のように訳せば、まったく同じで、学校で訳しているようにズサンです。

問 : パーリ語三段四段の内容は何ですか。まだ三蔵の「経」は勉強しないですね。

答 : 四段もタンマパダで、物語もあります。そしてカターダンマパダの話の最後はブッダの言葉です。そしてタンマの説明があり、そのカターダンマパダをもう一度直します。三百話以上の話は、どの話も三部になっていて、すべてブッダゴーサーチャーンのものばかりです。

 パーリ語四段はモンコンスッタです。生徒に能力があって読める三蔵があれば、それぞれの項目は三蔵を開かせました。私も開いて読みました。しかしほとんど読む必要はありませんでした。教科であるマンガラッタティーパニーにあるだけは、先生が教えてくれたからです。

 このクラスで教える勉強には、ダンマパダのような物語はありません。それぞれの項目のタンマの説明ですが、その説明には本生経や物語からの引用があります。しかし本当のモンコン経は三十五項目ある短い経で、それが厚い本に著されました。

問 : 先生。パーリ語三段、四段の勉強をする間、教科の勉強とタンマチャック以外に読まれたタンマの本はありましたか。

答 : あります。(笑) 手に入るだけいろいろたくさん。チャオクンウバリークンパマーチャーンの説教集、あるいはワン何と言ったか憶えていませんが、その人の説教、いろんなチャオクンの説教集、特に好んで読んだのは、説法師を目指す僧の本でした。

問 : ソムデットプラマハーサマナチャオのものはたくさん読まれましたか。

答 : いっぱい、手に入るだけ読みました。当時はまだあの方の論文集はなく、あちこちに入っているので、自分で探して読まなければなりませんでした。憶えているのは、ソムデットプラマハーサマナチャオのもの、ソムデットプラ・ブッダコーサーチャーンが訳した文章が好きでした。それも当時は多少ありました。しかしあの方はまだ小さなチャオクンで、(笑)タンマチャックに掲載する翻訳家集団の中にいました。

問 : 先生。それでは本の方で秀でた方は、大宗派には何方がいました。

答 : いません。当時はいません。まだ遅れていて、比較になりません。向こう(タンマユット)はチャオで、そして国王が支持していました。大宗派は何もできませんでした。

問 : 先生がソムデットプラマハーサマナチャオの物をお好きなのは、どこがお好きですか。

答 : あの方の文章は簡潔で、厳粛なのがいいです。遊び半分の文章でなく、哲学者の教えのある、真面目な大人の文章で、タンマの現代的な解釈の開拓者と見なすことができます。奇跡に関した文章の解釈を分かり易くしました。

 同時代にもう一人、ティエンワンがいます。もしかしたらソムデットプラマハーサマナチャオよりも前かもしれません。ティエンンワンの知性で僧の間に広まったのでしょう。僧を当て擦るような話し方をしたからです。僧は遅れていて、追いつけませんでした。彼の方が現代的でした。当時の現代的ですよ。彼の方が説明が上手く、僧よりも優れていました。ティエンワン氏もタンマの勉強をしました。

問 : 先生の批評の考えは、どのように生まれたのですか。人が見るより深く見ます。

答 : それはナックタムで勉強したことを話題にして書き、あるいは誰かに説明して聞かせるので、他の人より深く、良く見なければならないからです。

問 : ソムデットプラマハーサマナチャオの新聞の影響はありましたか。あの方が「ヴィナイムッガ」に書いているように、その後他の人が批評します。

答 : そうならば、いろんな人の本を読んだ結果と言わなければなりません。ピッタヤーロンコーン親王やクルーテープや、その他たくさんの人の本で、私が「これは珍しい」「これは気が利いている」と感じたものです。そして私はもっと珍しいものにしたいと思いました。ティエンワンの本は、探すのが難しくなりました。私はピッタヤーロンコーン親王の批評文の文体が好きです。

 クルーテープと、よく月刊タイカセームに掲載されていた他の何人かの文体は、彼が深く見た、あるいは珍しくし、珍しくて良い、あるいは心に良い結果があった点です。あの時代はセッティーヤラ コーセードとナーガプラティープも定期的に書いていました。カンチャナークパンも、カームニットもタイカセームに連載していて、当時の人は称賛していました。タンマタートも称賛して、注文して他の人に読ませていました。

 他にも、当時手に入るものは全部読みました。ドゥアンプラティープのように現代的な人になりたかったからです。ルアンウィチットのも読みました。彼のは変わっていて、読んでみると、いろんな考えに現代的な理論がありました。一般の歴史の本は、ルアンウィチットの人気を高めました。

 ルアンウィチットが知識の説明をする時は、八つで説明しました。私は彼が新しい学校で勉強したのか、知りたいと思いました。みんなが勉強していることと何も違いませんが、彼は外国からの知識を組み合わせて、興味深くしました。

 ルアンウィチットの作品は、沙弥の社会や住民に少なからず影響を与えました。プラスの面かマイナスの面かは人によりけりです。私自身は、彼の作品を追跡して読んだというほどではありません。

 当時一番良かったのは四人で、ピッタヤーロンコーン親王、プラウォンワン、そしてクルーテープ、ピッタヤーロンコーン親王は学問的に、ルアンウィチットは宣言のようでした。プラウォンワンはルアンウィチットとコンビで、人が注目して見ていて、この二人の間に論争があれば、騒ぎになりました。

 私とタンマタートは、この四人の中でクルーテープの文体が一番好きで、好物のように好きでした。私はこれらの人全部の本を、持っているだけ読みました。好きな本は、伝染病のように影響を受けましたが、誰からどんな影響を受けたかは憶えていません。当時は上手くなろうとか、誰を手本にしようとか考えませんでした。

問 : チット ピバーンテーンは、先生がスアンモークを造られた時、次のように書いています。

 『要するに、三つ工程の仕事を始めなければならない。つまり三蔵からタンマの知識を学ぶため、本当のブッダの言葉で正しい知識を得るために静かな場所を探すこと。確かな知識が得られたら、関心のある人たちに布教すること。同時に自分自身でも実践して検証することである』。

 先生にお聞きしたいのですが、本当に三蔵の探求をする決意をなさったのですか。

答 : 三つの工程ではなく、三つ同時にしました。スアンモークを造るのと、この三つを同時にしました。三蔵の探究は考えたことがあります。クルンテープ(バンコク)にいた時から掴み始めていたからです。

 遊びに行って薄いのを買い、一冊五バーツで買えた時もあります。セットになっていないので、ナコンカセム宮殿(跡市場)のあちこちの店を見て回り、まだ持っていない物があると五バーツ、十バーツで買ってきました。買って来たのは全巻の半分くらいです。当時タイ語版はまだありませんでした。ありましたがタイ印刷の、長部と中部だけでした。それぞれ三冊セットでした。

 翻訳経は、タンマチャックの「タンマの財産」シリーズに連載されたたくさんの経があり、二三十は読めました。しかし連続して読んだのは長部と中部でした。ナーガプラティープが翻訳者で、タイ印刷が販売していましたが、売れなくて止めました。

 それともう一冊、ウダーナは、全部で一冊でした。サンガ王猊下(チュアン)が訳者で、同じタイ印刷の発行でした。大々的な印刷計画がありましたが失敗しました。ヘー カラヤウィチエンが経営者で、マハーキム ホンラダーロムが清浄道論など幾つも翻訳していました。

問 : 先生は清浄道論と格闘し始めていらっしゃったのですか。

答 : タイ語に翻訳されたのを六冊セット十バーツあまりで買って来て読みました。学校で訳すような翻訳だったので、読んで意味が分かったり、分からなかったりでした。独断訳と言います。つまり、文法の知識で、文法の規定で、文字どおりに訳します。普通の人は読んでもあまり意味が分かりません。言葉を守りすぎ、言葉の言い回しを守りすぎる翻訳で、自由に並べられません。スアンモークで集めて並べてある本はこういう本で、何も面白くありません。

問 : 先生。三段だけの知識で、当時自分で三蔵の探究をするのに十分だとお考えになりましたか。

答 : 疑問に感じたことはありません。パーリ語の知識だけに依存しないで、考察、道理を使い、理由の使い方、あるいはまだ誰も感えていない理由に依存するからです。今でも三蔵を文字通りに捉えることはできません。今はもっと、更に駄目だと見ます。逐語訳では駄目で、要旨を掴まなければなりません。

 捨てなければならない物もありますが、言いません。言うと面倒なことになります。三蔵の三割ほどは切り捨てるべきです。残るのは解説していない物だけで、それは本当に深く、矛盾がありません。

問 : 先生が書かれた手紙の中に『確信が得られるまで探求したら、それまで愛して持って来た教科書を残らず捨てる』とあります。しかしその後、先生は沢山の教科書、前より多くの教科書をお持ちです。どうしてですか。

答 : (フッフッフッ) 「今まであった物、あるいは使っていた物は気に入らない。それに他人もたぶん同じだと信じるので、本当の教えするわけにはいかない。新たに三蔵の文章の翻訳にとり組まなければならない」という事実を知ったので、だから「阿羅漢の後を追って」という本を書かなければならないという考えが生まれました。

 そして(佛教新聞に)三蔵をタイ語に訳す部門を作り、現在もあります。簡単に言えば、今ある物は実践原則として不十分だということです。これがその後現在まで、本に貼り付いていなければならなくさせました。

問 : どうして「貼り付く」という言葉を使われるのですか。

答 : 非常に粘っこく貼り付いているからです。始めると忙しくて束縛されます。「ブッダの言葉による何何」という類の本を二三冊出すのは、貼り付く話です。本を捨てるという、かつての決意に反して、以前より本に縛られてしまいました。

問 : 先生の場合は害ですか、益ですか。

答 : 本のことで忙しくなければ、森の暮しという点で、きっともっといいです。(笑) しかし地域社会にとっては利益になりません。このように噛み合いません。以前は個人的な面だけを考えていて、その後始めてみると、十分でないと見えました。教えられていることでは、一般人にとって十分ではないので、パリヤティ(三蔵の学習)の復興も決意しました。

問 : それで英語の勉強ですが、先生がこっそり英語の勉強をしに行ったと言う人がいると見えますが、どうして英語を勉強したいと思われたのですか。

答 : ほら、他の人も勉強していたからです。一緒にいる僧たちも勉強しました。僧たちが「真似したい。外国語を勉強しなければ」と思ったのは、ルアンチットの影響と理解しています。僧の社会も少しずつ目覚めました。普通の感覚です。外国語を知れば行く機会もあり、出世する道もあり、金持ちや何やらそんなことです。

 私がプムリエンにいた時から、タンマタートが英語の仏教雑誌を送ってくれましたが、読んであまり意味が分かりませんでした。それも、いつでも知りたいと思わせた部分ではあります。

 しかし私は、彼が言うように、こっそり勉強したことはありません。マハーキー(タニット ユーポー)も一緒に勉強し、常に行き来していました。彼はドイツのリングアポーンを勉強し、私はお寺で独学しました。在家と一緒に勉強したことはありません。

 しかし本気で勉強したことはありません。怠けて得するような勉強の仕方で、辞書を引かないで、内容を知っている物を読み、タイの新聞を読んでから、外国語の新聞を読みました。だから分かったり分からなかったりでした。本気で勉強していれば、もっと分かったでしょう。

 スアンモークに来てから現在まで、本気で勉強してないので、読んで意味が分かることもあり、分からないこともあります。翻訳できたのは(笑)儲け物で、他の人が知らないことを知りました。

 今は書けません。読んで意味を掴むには、辞書を引かなければなりません。辞書を引かないで勉強したのはブッダの伝記です。ブッダの伝記は知っているので、推測が当たりました。当時は英語版があり、私が出家する前もありました。スリランカの僧が書きました。

 ミルクの缶詰、魚の缶詰などでも勉強しました。知っているので推測が当たります。辞書を引く必要はありません。薬の効能書きも推測できます。

 クワイキユ マイデーン爺さん(スアンモーク設立の協力者の一人)は、私よりも読めるように見えました。いろんな缶の説明書で勉強したことがあると、私が前に話したことがあるのはこの人です。マックファーレンの五バーツの辞書を肌身離さず持っていて、常に調べていたので、読んで意味が分かるようになりました。

 でも発音は一語もできませんでした。彼の性質は、きっと哲学者であることが好きだったのでしょう。普通の住民でしたが、ちょっとたくさん勉強し、字もちょっときれいでした。知事の執事という職に任命されたことがあります。来た人は誰でも、まずこの人に連絡しなければなりません。副知事のようなもので、これらのお偉方と話ができました。

 外国のことにも興味があるので、外国の話が好きで、外国人が好きで、外務省が好きでした。仕事を辞めた後、お寺に来てからも、ずっと読み続けていました。リーヌープの伝記の本がボロボロになるまで読んでいました。読んで意味は分かりますが、音読はできませんでした。

 要するに私の英語は、同じように勉強したということです。でも本気ではありません。騙しだまし盗んで勉強しました。勉強したとは言えず、何も深くありません。




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