7.遊びと趣味





問 : 先生が遊び回るとおっしゃるのは、どんなことですか。

答 : それまで何か知らなかった珍しい物を見に行って、いろんな場所を見て、そして写真を撮りました。仲の好い友達がいた上に、アーチャンプラクルー・チャヤーピワッットも、行ったことのない場所へ行くことに賛成で、時にはアーチャン自身が、あの寺この寺へ連れて行ったこともあり、朝から夕方までのこともありました。

 あの方は上京して長いので、何の寺か、何か、どの方向か、どの通りか、知っていれば連れて行きました。トンブリー側一帯です。チッタララダー宮殿まで行って、ベンチャマボビット寺、写真に収めるのに良いいろんなお寺へ遊びに行きました。

 それと、タイプライターで遊び、レコードやラジオを聞きました。タイプやレコードで遊ぶ人は何人もいませんでしたが、ラジオは全員が聴きました。私はカメラでも遊びました。クルンテープで遊ぶ時はそんなでした。何かを改革しようなどとういう考えはまだありません。

問 : クルンテープで遊ぶ時、何で移動しましたか。

答 : 歩きで、一日歩きました。見たいのであまり車には乗りませんでした。アーチャンが役に立つ場所へ行く正しい計画を立ててくれました。カンヤー寺、プラユーラウォン寺など、無駄に歩きません。私はマハー・ノーイのフアンで、マハー・ノーイのグループにいました。マハー・ノーイはパトゥム寺に招かれて説教に行きました。ノンタブリーへ行くには舟で行きました。

 屋根のあるモーターボートで、尾長舟ではなく、二三十人乗れました。電車にも乗ったことがあります。五サターンか十サターンでした。

 ほとんどのお坊さんは、中国人が引く人力車に乗りました。遠くの家にサンガへの寄付を貰いに行った時は、復路は人力車で帰りました。中には遠くへ托鉢に行って、帰り道は人力車に乗る人もいました。(笑) 托鉢はお金を使わなければならない話ではないのに、お金を持たなければなりません。

 たまに家の人が先にお金を払ってくれることもありました。電車に乗るには自分でお金を払わなければなりませんでした。家の主人が人に頼んで送らせることもありました。当時電車は、タダだったことはないように思います。

 電車は危険な時もありました。その日は雨が降ってびしょ濡れになって、階段横の手すりを掴んだら電気がショートして、点々に皮膚を貫通しました。誰も気付きません。血が出るほどではありませんでしたが、黒い点々になりました。電気が電車の取っ手に漏電しました。私はまだ片方で土を踏んでいて、掴んだのは木でしたが、濡れていました。

 死ななくて良かったです。電車の乗客は、私がこんな目にあっていることを誰も知らないので、私は普通に座席を探しました。掴んだ時は、火を掴んだようでした。

問 : 先生がラジオやカメラやレコードに興味がを持たれたのはどうしてですか。

答 : 私たちは何人もいない変わり者の僧でした。還俗したマニー シータットさんも、僧の時からこれで遊んでいて、友達になりました。楽しくて、役に立ちます。タイプラーターなどは役に立ちます。私は故障した物をナコンカセム宮殿(跡地の泥棒市場)で買って来て、修理して使いました。修理したら何とか使えたので、売ってまた買うと、前のより良いのになり、もっと後に新しいのが買えました。

 カメラも同じです。初めに使ったのはコダック・ウェスターですが、十二バーツでナコンカセム宮殿で買いました。それも良く撮れました。

 それから現像とプリントを独学で習い、インスタントの薬剤があるので、瓶で十倍に薄めて現像でき、印画紙はハガキ大で一枚一サターンでした。日本製は百枚七十五サターンで、山ほどプリントできました。写真を撮りに行く時は、今の人ように出しゃばらないで撮りました。

 あまり人は撮りませんでした。場所や、お寺が多かったです。レコードはリンガーフォンなど、語学の勉強をしました。歌のレコードは買いませんが、お土産に貰ったレコードは聞きました。いつも買ってきてくれる人がいました。

 面白い話があります。その時角にあるクティに住んでいて、虎のように怖い副住職のクティと離れていませんでした。それを忘れて大きな音でレコードを掛けると、その方がパタパタと歩いて来られ、ドアを開けて中を覗き、そして微笑んで戻って行きました。(笑) 

 誰もが大事になると考えました。そのレコードは音が大きいのです。うさぎ印で、歌手の名前はモーン セニーで、拡声器を使ったくらい大きな音でした。ほとんどレコードで英語を勉強しました。あまり成果はありませんでしたが、他にどう使ったら良いか知りませんでした。

 多少幸運だったのは、異性に興味を持たなかったことです。異性に関心があったら、とっくに終わってしまい、スアンモークはなかったでしょう。他の僧たちは興味がありました。私にも機会はありましたが、なぜか分かりませんが、興味がありませんでした。

 友達の中には、出家しても彼女の家に遊びに行って昼食を摂り、狭い場所に何時間もいる人がいました。そのように観察できる人は沢山いました。娘を持つ人も喜んで僧と接触させました。彼らは、お坊さんならきっと悪くないと見ていました。こういうのが多かったです。つまり嫌わないで、好きなようにお喋りさせる結果、見苦しいほどになりますが、みんながすれば見苦しく感じません。本当は見苦しいです。

 私は主役でなく、ただついて行っただけなのに、その人は興味をもちました。その家です。たまたま私の衣が少し破れていたので、母親が娘に僧衣を繕わせました。私は「駄目! 駄目!(笑) しなくてもいいです」。何もハッキリ言いません。どちらも何も知りません。罪です。するべきか、するべきでないか知りません。だから簡単に僧が還俗する成り行きになります。

 僧のほとんどは学位をとるために勉強し、結婚するお金を貯めるのを目的にしていました。タンマの段階のチャオクンでも、女の人とあれこれして分かってしまいました。見つかって追放されるほどでなくて良かったです。自分から還俗して、まだ何とかでき、面目のある役人になりました。伝統習慣が非常に多くの機会を与えます。庶民は、真実を知る人は誰もいないと見なし、誰も非難しないので、夜でも女の人の家に行く機会がありました。

問 : 先生も、他の人のように学位をとるために勉強して、卒業したら仕事を探す方向へ傾いたことはありますか。

答 : ほとんどありません。そういう考えはありません。私は家に仕事があり、自分の家の仕事ができるからです。公務員になるのは合わないと感じていました。

問 : 先生。カメラで遊ぶのはどう楽しいですか。

答 : おー、それは楽しいですよ。良く撮れれば楽しいし、良く撮れなかった時は撮り直したくなり、自分の好きに選ぶことができます。私は雲ばかり千枚くらい撮ったことがあります。綺麗な雲や、何かの形の雲を撮っておいて、自分で焼くのでとても安く、五十分の一くらいでした。ほとんど牛を撮り、人は撮りません。しかし最後には飽き、今は楽しくありません。楽しく感じません。

 誰かが素晴らしいカメラをくれても、要りません。何したら良いか分かりません。ここへ来てからもまだ遊んでいました。完全に止めたのはまだ十五年くらいです。暗室は要りません。夜中に現像すればいいんです。空気も涼しくて気持ち良いので、夜だけしました。暗室に入ると蒸し暑いです。後にはプラ・ブンチューが代わりにやってくれました。

問 : 先生。もしお寺にいろんな部署があって、お寺の中の何でもできたら楽しいですか。

答 : 楽しいです。でも協力者を見つけにくいです。配置図を書いたことがありました。今はどこへ行ってしまったか分かりません。住職が一人で、委員が十人から十二人、全部住職の下にあり、たとえばナックタム(僧試験)やパーリ語の勉強の委員、病気、お金、普請、接待、飾り付など十二の委員を一つにまとめます。

 何でも管理できる住職のお寺は、たぶん素晴らしいお寺です。ずっと前に書きましたが、一緒に住んで、一緒に仕事ができる人を探す方法が見えません。計画だけで、希望はないように見えました。私はたくさんの部下を持つ達人ではありません。

 何人にも話しましたが、誰もが、もしできれば素晴らしいと支持しました。できない理由はただ一つ。お寺は雇うお金がないこと、強制させるお金がないことです。公務員のようにお金で管理できれば、人を集めることができます。それは誰にとっても軽い仕事です。

 接客などをする人が一人。寺の中の食べることをするのが一人。印刷所や何かもあります。しかし住職に十分力がなければなりません。そうすればすべてを統一するよう管理できます。接客係は探しにくいです。




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