5.ナックタム教師の味




問 : 雨安居が明けても、なぜ還俗なさらなかったのですか。

答 : ナックタム一級に受かった時、ちょうど親戚の大物のグアムさん、姓はセッタパックディーですが親戚と見なすことができます。私は「叔母さん」と呼び、向こうは「お前」と呼んでいました。プラヤー・パティナンプーミラックの嫁で、バーンドーンの華僑の富豪で、旦那は金持ちでした。

 その叔母グアムが信仰心を起こして、プラタート寺のプラクルー・イアムを運営者にしてプラタートチャイヤー寺にナックタムの学校を建設する資金を寄付しました。掛かるだけ、という約束で、当時、四千バーツで建てられました。今でもその建物があります。屋根はタイ式で、今でも学校として使っています。

 落成すると、教師の手配まで手伝わなければならなくなり、そこでプラクルー・イアムは私がナックタム一級に合格したことを知っていたので、叔母のグアムをけしかけて、私に教えるように頼む、あるいは命じさせました。(笑) チュンポーンの叔父シエンは賛成せず、早くクルンテープへ勉強に行かせたがりました。

 私も気兼ねがあり、こちら(叔母の意見に同意する側)にもたくさんいるし、母もこっちに向いたので、私は一年間、ナックタムを教えることにしました。還俗しないで、もう一年暇つぶしでした。(1929年-四年目)

 ナックタムを教えるのも楽しかったです。一人で二クラス教え、全員合格させたと言うことができます。本当は一人不合格になった僧がいましたが、受験票を失くしたことが理由だったので、突然有名な先生になりました。(笑) 

 新しいことだったので楽しかったです。そして、自分は何でもできると、自負する気持ちが生まれ、楽しい教え方を探しました。今までの教え方と違って、考えさせるような、追跡させるような話し方をし、問題に答える競走をさせたので、学生は楽しく勉強して合格しました。

 このように生徒が合格すると、叔母グアムがナックタムの助教師としての褒美を受け取るべきだと言って、褒美をくれました。初め三蔵の一部を買ってくれるという話で、当時三蔵は五百五十バーツで売っていて、一部で百五十バーツでした。だから私は、すぐに三蔵を買わないでくださいと言い、何ならタイプライターを買いたいと言うと、叔母も納得し、その年のナックタムの試験が済んでパーリ語の勉強を続けるためにクルンテープに行く時、タイプライターを買うお金をくれました。

 買いに行った時、偶然、メークファーレーンというサアードビッタヤーコムの主人が店に入って来て、店員にいろいろ説明させ、お寺で使うのに便利なように外国の会社に特注した、自分の発案品だと自慢しました。つまり、それまでなかった下点と記号がありました。買ったのは、レミントンの最初のポータブルタイプで、百五十バーツでした。

 他の人は机上型のを使っていました。私はポータブルのが欲しいと思いました。論文や本を書くのにも直接タイプし、下書きはしませんでした。時には使い物にならず、打ち直したこともあります。打つのに経験は必要なく、二本の指で打ちました。買ったばかりの頃、タイピングは大事で、パーリ語で習ったものをたくさん写しました。

 私がマハータート寺へ教えに行く前、私の戒師であるアーチャンクルー・ソーポンは、郡僧長でありナックタムの学校の創設者ですが、私にポーターラーム(ヌア)寺で教えさせたいと考えていましたが、グアム叔母に頼まれていると言ったら、それっきり黙ってしまいました。(笑) 諦めたと言います。権力のある人に逆らいたくないからです。

 ボロマタート寺の方は、プラクルー・イアムは、ボロマタート寺にナックタムの学校を誘致したい考えがあり、住職は何も力がないので、住職を無視して、最後には、住職でもないのに郡僧長になってしまいました。そしてポーターラーム寺のアーチャンクルー・ソーポンチェッタシカーラームの跡を継いで、プラクルー・ソーポンチェッタシカーラームになりました。

問 : 先生が一緒に働いていたプラクルー・イアムはどんな経歴でしたか。

答 : プラクルー・ソーポーンチェッタシカーラーム(イアム)は頭のいい人で、現代的な考えの人でした。何年もクルンテープで勉強したことがあります。そして普請や工事を発展させるリーダーで、最初に現代的なクティの見本を造てると、どこでも真似をする人が現れて、ほとんどどこのお寺も、と言うことができます。

 あの方はすごく進歩的な考えでした。芸術局と手を組んで、ボロマタート寺に国立博物館の分館を作りました。あの方は父の世代ではありませんが、兄の世代でもありません。ずっと気心の知れた仲でした。

問 : プラボロマタート寺とプムリエンの状況は違いますか。

答 : あまり違いません。プムリエンと同じです。違うのは、料理の味はプムリエンには敵いません。プムリエンの方が上です。プムリエンに来た役人の奥さんたち、クルンテープの人から受け継いでいるので、プムリエンの人の腕前は最高と言えるくらいです。





6 再びクルンテープへ



問 : ナックタムを教えた後、何をなさいましたか。

答 : ナックタムを教えて試験が済んだら、チュムポーンの叔父シエンが、何としても自分と同じようにクルンテープへ行って勉強を続けるように急かせました。他の人も賛成するばかりで、向こうにいるプラクルー・チャヤー(クラン)も賛成しました。私の叔父が出家していた時も、あの方は叔父と一緒に住んでいたので、叔父が還俗すると私を後釜に据えるために一緒に住もうと言いました。結局私は、もう一度クルンテープへ行きました。(1930年) 

 しかしこの時は、気持ちが変わっていて、還俗したい気持ちはすっかり消えていました。正誤は後で言うことにして、クルンテープの僧がどうあろうと気にしないで、パーリ語の知識を得る決意をしました。いずれにしてもパーリ語を学ばなければならないので、他のことは後で言うことにしました。

 還俗しないのなら、そして何をするか分からないのなら、他のことより興味があるのはパーリ語の勉強しかありません。還俗しなかったのは忙しくて忘れたからで、ナックタムの先生になって、気分が非常に変わりました。

問 : その時代は、何でクルンテープへ行ったのですか。

答 : 舟で行けば、バーンドーンから蒸気汽船で六バーツ、汽車ならチャイヤーから、普通の汽車で乗り替えなしで十六バーツでした。汽船は海上で一泊しなければなりません。行く時は大抵汽車で、帰りは船のことが多かったです。

 クルンテープへ行くと、前と同じクラスで勉強したので、私は何日も学校へ行かないで嫌になり、プラクルー・チャヤーピワットに、夜クティで教えてくださいとお願いしました。他の人と勉強するのは楽しくなく、教え方が遅いので気持ちに合いません。同じクラスのバカな子を待たなければならないからです。

 テストの時は、プラクルー・チャヤーピワットが権力を行使したので、私は学校で勉強していないのにテストを受けることができました。先生たちは全員、あの方の弟子だったことがあるので、先生方と同じくらい権力があったからです。(笑) あの方は毎晩、他の四五人の僧と一緒に、私に教ました。

問 : 先生はチャイヤーのプムリエンにいらして、非常に認められていたので、クルンテープに行っても萎縮なさらなかったですか。

答 : そうです。クルンテープへ行くと、小さくなって固まり、(ハハハ) 田舎では大きくなります。認めるので気詰まりしません。自分が小さいのを認めるので、誰とも衝突しません。

問 : 先生は他の僧と気が合いましたか。

答 : 何とか。でも仲間とで、他の人と合わせる必要はありません。お寺の中の仲間同士の争いはありませんでした。私は住職と同じグループの中にいました。私はシエン叔父の甥なので、住職から歓迎され、いろんな特権を与えてくれました。(笑) たとえばレコードを掛けて良いとか。可愛がって、立ててくれました。

問 : この時のパーリ語の勉強は何のためですか。

答 : 分かりません。(笑) 出世したいのと、マハーパリエン(パーリ語の有段者である僧)になりたいのが混ざっていました。

問 : 当時、クルンテープの住む場所はいかがでしたか。

答 : 他のお寺は知りませんが、私がいたお寺は、私がいる間は個室だったので、かなり快適でした。クティは昔式で、何百年も前の建物です。真ん中に読経堂があり、部屋やクティが周りにありました。適度に広く、両側に階段がありました。簡素で現代のように豪華ではありません。クティの下には豚がいっぱいいました。たくさん見る時もあり、豚が走り回って噛み合う時は喧しかったです。

 初めは誰かが放したのが逃げ出して来て、繁殖が早いです。その時、「泥が豚のシッポを固める」という言葉を理解しました。どんぶりくらいの大きさで、丸くシッポに固まっていました。小さくても握りこぶしくらいあり、揺れるととても痛そうでした。

 土と埃が混ざって、揺れて体にぶつかるので、ロクロで成形したように丸くなります。それでも割れも抜け落ちもしないで、転げればますますくっ付き、まともに歩けないのもいました。それまでは信じられませんでしたが、見た時はびっくりしました。(笑) 

問 : クルンテープの僧の生活の、その他の面はどうでしたか。

答 : 生粋のクルンテープの人はあまりいなく、ほとんどは全国から来た他県の人でした。五百人の僧のうち、クルンテープの人は四五人だけで、パーリ語の勉強やナックタムの勉強をしていました。ほとんどのお寺は世間の真似をしていて、マハータート寺は多少厳しかったですが、他では自由にさせていました。

 托鉢は地区ごとで、食べ物が足りない地区も、余っている地区もありました。私がいた辺りは食べきれませんでした。一人が托鉢して来ても食べきれず、四五人で一緒に行くと、余りました。パトゥムコンカー寺に住んで世俗的な勉強をしている子供が何人もいました。パトゥムコンカー寺の周辺は人が密集していて、熱心に仏教を信仰するタイ人も多く、古い由緒ある家系が多かったです。

 春節には沙弥が一日に四五鉢担いで来て、いっぱいになると寺に戻って、また行って担いできました。托鉢の時間が終わるまでに四五回も行きました。朝の四時、五時から托鉢しているので、その日僧は托鉢に出る必要がありませんでした。

 奪い合うような托鉢の光景は、見たことがありません。あの辺は(鉢に)入れる人が多いので、奪い合う必要がなく、沙弥も今言ったように待つ気持ちがありました。両側の在家は、誰が先に来て誰が後から来たか見ています。たまに良く憶えていなくて忘れてしまう時は、向こうが頷いて先を譲りました。先を奪い合いませんでした。

 ある家、クンナーイ・ウンさんの家は、例年行事の日には、路地いっぱいに僧が並んで待っていました。その日は家の主人が、五バーツ鉢に入れてくれるのを知っているからです。何回も行く人もいました。チャオプラヤー川の向こう側から来る人もいました。

 私は諦めました。待てません。一時間も待てません。もう一つその横に市場があり、ご飯と惣菜を売っていたので、在家が来ると買って鉢に入れました。私は並びませんでした。必要がないからです。どちらにしても食べる物はあり、それに非常に煩わしいです。

問 : 当時の説教はどんな形でしたか。

答 : そのお寺は経典の話で、私も説法をしたことがあります。スリランカ王朝年代記、宗教の歴史に関した話で、謝礼に二十四バーツ貰いました。聞きに来た住民は何人でもなく、彼は伝統を守るために、そしてクンナーイ・ウン ポサヤチンダーの望みで開催していました。その人の両親が七日間説教を(布施)していて、彼は伝統を消滅させたくないので、住職に頼んで同じようにしました。本が読めるお坊さんなら誰でも、説法台に座らせられました。

問 : 先生。と言うことは、宗教の人気が衰退し始めていたということですか。

答 : 衰退と言わなければならないでしょう。以前は何人お寺に来ていたか知りませんが、それでもまだ「いた」と言えます。ワンプラの日にはサーラー(集会所)がいっぱいになりました。普通の日に僧が説法台に上ると、サーラーの番をする人が絶えずいました。

 私が「イターニ パンチャシッカーパターニ サマーティヤーミ」と戒を与えると、サーラーの番人がチャオクンに、私がタサシッカーと言ったと言いつけました。チャオクンはたぶん信じなかったと思いますが、私を呼んで、「どうしてそんなことを言ったのだ」とからかいました。私は「タサ(十)を与えることはありません。戒を与えました」と言いました。




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