4.還俗せずに勉強を続ける




問 : 先生。還俗しなかったことを、もう一度分析していただけますか。

答 : 初めの決意は、母への恩返しのために伝統で三か月の出家することでした。すると今話したように楽しかったです。僧の生活の楽しさは、思い通りにさせてくれる人ばかりで、いつも気を使ってもらい、何でもでき、どんな遊びもできました。楽しかったので、還俗しようと考えませんでした。

 家のことも心配ありませんでした。三月頃(1927年)学校が休みになったのでタンマタートが帰郷し、そのまま学校に戻らなかったので、家や母のことは責任を持つ人がいたので、私が還俗しなくても問題はありませんでした。そして深い計画は、まだ何もありませんでした。

問 : 先生。私がタンマタートさんから話を聞いたところによると、学校に戻らなかったのは、医学が好きでなかったこと、医者になりたくなかったことの他に、先生が還俗しなくても良いように、代わりに家で働き続けてくれるよう、お母さんから頼まれたそうです。もう一人この考えを精いっぱい支援したプラチェーム主任が、先生は勉強ができて、説教が上手なので、仏教を継承させたいと考えたからです。

 しかしタンマタートさんは、これらは、先生が還俗したがらなかったもう一つの要因ほど重要ではないとおっしゃいました。つまり若いのに家の主力として働き、家督を守れると見て、先生を婿に欲しいと目をつける人がたくさんいたからです。女の人もそれなりに綺麗な人で、家柄も良かったそうです。だから先生が還俗なさらなかったのは、このせいではないかと、私は分析しています。つまり心理的な面がいっぱいで、この話に欠乏や取を感じなかったと。

答 : そういう気持ちがあったのは憶えていません。みんな忘れていました。女の人の話は忘れて、他のことで楽しかったです。タンマは、その話を忘れさせるほど楽しく夢中にさせました。気持ちの中に多少はありました。還俗したら所帯を持ってもおかしくはないと。しかし少しだけです。

問 : タンマタートさんが話していたプラ・スムチェームは、先生とどんな関係ですか。

答 : 私の戒師であるアーチャーンクルー・ソーポンの親しい弟子だったので、私とも親しいです。歯に衣を着せない人で、正しいことも間違うこともありました。パーリ語の知識はありましたが、訳したり書いたりできるほどではなく、自信過剰だったようです。私の先生ではなく、面白いことを言って笑い合う友達でした。私を長く出家させたがったのは、伝統的な考えでしょう。

問 : 還俗しないで、どうなさいましたか。

答 : 還俗をしないで、二度目の雨安居に入った時、ナックタム二級の勉強をしました。二年目の生活は、一年目とあまり変わりませんでした。二級の試験に合格すると雨安居が明け、そして間もなく(1928年の年頭)、勉強のためにクルンテープへ行きました。チュムポーンにいる叔父がやいやい言って行かせました。ナックタム二級に合格して、まだ勉強を続けるならクルンテープへ行く良い機会だというのは、ほとんど伝統でした。

 向こうにいるプラクルー・チャヤーピワン(マークラン)も賛成し、チュムポーンの叔父が一番強く勧めました。名誉のため、家名のためにもっともっと勉強させたいと考えましたが、還俗させない考えはなく、還俗するにしても、急いで還俗するより、たくさん勉強させたかったのです。

 クルンテープに行く前は、クルンテープの僧は私たちの町の僧と違うと考えていました。クルンテープの僧は善いと、パーリ語試験九段に合格した人だと、その上阿羅漢と考えていました。クルンテープは最高に善く、最高に正しく、手本にするべきと考えていて、クルンテープ中に阿羅漢がいっぱいいると思っていました。

 クルンテープへ行く前はそう考えていました。行って見ると、少しずつ変化しました。今でも頭の古い人二三人が、私に「あなたは阿羅漢です」というような手紙を、書いて来るのと同じです。

 しかし本当に行って見ると、マハーパリエン(パーリ語の段)にはあまり意味がないと知ったので、嫌になり始め、還俗したくなりました。クルンテープで勉強しても何も意味がないと感じ、時々還俗したいと考えました。田舎と違って沙弥に規律がなく、今でもそうですが、お金と女の人の話でした。

問 : 先生はクルンテープの僧はお金のことに厳しくないとおっしゃいました。ということは、プムリエンの方が善いと言うことですね。

答 : それはもう、ずっと厳しいです。プムリエンだけでなく、南部一帯が、クルンテープよりずっと厳しいです。食べることに関しても、酔っ払いのようにガヤガヤ笑い声を上げて、食べる間中笑っていました。私たちは、そういう状態はどうしようもないと、ナックタムの学校で学んでいます。生卵を割って砂糖煮にすることや、物を直接手渡しするなどは戒に反しますが、彼らは普通にしています。何も尊敬する点がないと言います。

 田舎の寺と違って、普通の人のようにお金に手を触れ、お金を使わなければなりませんが、通常プムリエンの僧は、私が出家した頃は、お金には手を触れませんでした。預かってくれる人がいました。だんだん変化して、目の前だけ手を触れなくなりました。クルンテープの人は、クルンテープ中が悪性の伝染病に冒されていて、地方都市はまだ昔式の厳格さに威力がありました。

 田舎の僧はあまり律を知りませんが、だから「悪い」と言うのは正しくありません。知らずにしているのです。クンテープも同じです。ほとんど何も知らないで、煩悩でしています。私の戒師がしてくれた話があります。

 ターチャナで出家したばかりの頃、田んぼの中の林に排便に行くと、カワセミが喜んで地面を走って近寄ってきたので、木の棒を投げつけたら一撃で死んでしまいました。(笑) あの方は焦って、そういうのはどんな罪になるのかアーチャンに訊くと、アーチャンは「大逆罪だ」(笑)と言うので、それではどうすればいいですかと訊くと、アーチャンは「それは自然になったのだから何もしなくても良い」と言いました。これを、何も知らないと言います。

 クルンテープへ行って正しくないと感じるものを見て、そして自分も彼らと一緒に歩き始めていると感じた時、嫌気が差し、還俗したくなり、行って何カ月もしないで「帰郷して還俗させてください」と申し出ました。プムリエンに戻って来るとちょうど雨安居に入る矢先だったので、「それは良くない。今雨安居に入ろうとする時に何だって還俗するのだ」と反対する人がいたので、もう一度マイプムリエン寺で雨安居をしました。

 あと数日で雨安居に入ろうとする時に還俗すればみっともないので、安居が明けるまで待てば何でもありません。これは非常に危なかったと思います。還俗していたら、たぶん家の商売を大きくして、スアンモークが生まれることはありませんでした。危機一髪でスアンモークは生まれませんでした。還俗すればできたたのに、何か導くものがありました。そうでなければ決意どおり還俗していたでしょう。

問 : 還俗するつもりで戻って来られた時、お母さんはどう感じましたか。反対なさいましたか。

答 : 母は反対も賛成もしませんでした。約束の期間は過ぎていたので、十分できます。自分の責任は果たしたので、その時に還俗しても普通で、庶民は変に思いません。

 この話をすると、私は偶然二回死ぬかもしれなかった、と言うところまで考えが飛躍します。出家する前、私は自転車でプムリエンとチャイヤーの間を行き来しなければなりませんでした。当時の道路は所々切れていて、水が流れていました。そういう場所は、自転車を担いで多少平らな場所を迂回して、向こう岸へ渡らなければなりませんでした。自転車を担いで歩いたので、水が強く当たった時よろけ、足の踏み場がなく、そしてバカだったからです。

 すでに暗くなり始めていて、倒れたら死んでいたかもしれません。水に倒されて、自転車が私の上にかぶさり、人に発見されるのは翌朝に違いありません。しかしその時、意を決して足を進め渡ることができました。踏み違えば運河の中で死んでいました。思い出す度に、その時死ぬはずだったのに死ななかったと、不思議に思います。

 もう一度は、初めてクルンテープへ行った時か、あるいは二度目かは憶えていませんが、出家してクルンテープで勉強して帰郷する時、蒸気汽船ナリサで家に帰って来る時、バードーンまで行ってチャイヤーへ戻る必要がないので、キユ(プムリエンの北にある海岸沿いの町)で降りるよう勧める人がいました。

 船がキユに着いたのは真夜中で、船を降りた所からその人の家へ歩いて行くには、運河を渡らなければなりません。船はありませんでした。二人だけで河口を歩いて渡りました。水は胸までしかありませんでした。彼の家に着くと、家の人が驚いて、その河口には、昼でも鰐が泳いでいると言いました。鰐に噛まれればたぶん死んでいたので、きっとスアンモークはありません。(笑) でも死にませんでした。

問 : 先生。その時、還俗して何をなさろうと考えたのですか。

答 : その頃は、「還俗して在家になれば、楽しくて自由だ」という、一般の僧のような考えもたくさんありました。子供っぽい哀れな考えです。子供っぽいいろんな考えをしたこともあります。普通の人のように無秩序で混乱した考えだったように思います。

 まだ出家していない頃、一人の警察官がいて、その人は銃撃が得意で、マンゴーの柄を狙って撃つと、マンゴーが房ごと落ちました。私は「価値がある。不思議な意味がある」と好ましく感じました。その人の弟が、「裁判所が岳父」と言う土地の占有登記をしたので、私は学生の時に訪ねて行き、みんなでパイナップルを食べたことがあります。だから還俗したら拳銃の名手になろうと考えたこともありました。

問 : 先生。全員が阿羅漢であることの他に、クルンテープの社会について、先生はどんなイメージを描いていましたか。そして現実を見てどうでしたか。

答 : 田舎の人の常として、クルンテープは良い、発展していて、進歩していて、何もかも良いと考えていました。行ってそれなりに長い時間を過ごし、いろんな物を見て知ると、そうではないと分かりました。私が考えていたのと正反対だと感じ、失望しました。(笑)

問 : プムリエンに戻って三度目の雨安居に入って、どうしてナックタムの学校へ行かず、独学しようとなさったのですか。

答 : (笑) すごく簡単です。二年勉強したので、自分で勉強できると分かりました。分かるように書かれた教科書があるからです。学校にも飽きていたし、教える人に本当の知識があると信じられませんでした。自分で勉強した方が楽しく、希望があります。二年勉強したことがあるので、同じだろうと推測できたので、自分で自分に教えることができました。先生に退屈し、毎日学校へ通うのに飽きていた、個人的な気持ちもありました。

問 : 先生。三年目の雨安居は、前の二年と違う点はありましたか。それとも同じでしたか。

答 : 本をたくさん読むようになりました。ウボン寺でナックタム三級の勉強をしている僧、ラ・チョムと会話をしました。当時はまだバーンターポーにいて、楽しく勉強したので、テストに受かりました。そして雨安居が明けてから、ナックタムを教える話が来たので、還俗の話は消えてしまいました。

問 : たくさん読むようになったのは何の本ですか。どこから手に入れましたか。

答 : 手に入る物なら何でも。教科の本も、手に入るいろんな本も。クルンテープに行くと、本を買って来ました。特別なタンマの本はまだなく、月刊のタイカセームをよく読みました。クルーテープ(チャオプラヤータンマサックモントリー)の詩の類の本、ルアンウィチットラーワータカーンの本、ピッタヤーロンコーン親王の本です。

 それにタンマタートが、英語の仏教の本を四五冊取り寄せるように言いましたが、私は語学が十分でないので、あまり読めませんでした。たまにタンマタートが持って来てくれました。その時取り寄せて読んだのは、ハワイの「マハーポーティ ブリティッシュ ブッディスト」と、スリランカの毎年発行される本があり、読んでもあまり意味が分からなくて、たいていニュースを読んでいました。




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