問 : 先生が出家なさった時、僧は何人いましたか。ワンプラ(菩薩日)にはたくさん在家が来ましたか。
答 : 十人ちょっとで、古い僧は四五人でした。昔は一つのお寺に二三十人いましたが、だんだん減って、プムリエン五か寺全部でせいぜい五十人くらいでした。マイ寺にはメーチー(剃髪して寺に住む女性)がいました。寺に住むメーチーは何人もいました。
住民が食べ物を布施する時、メーチーの住まいに持って行き、清潔で広いので、そこでお膳を整えて、それから食堂へ運びました。中心になっているメーチーが、食事に関する役割を引き受けていました。そのチーは有名なチーで、名前はパックと言って、私の母と同年代で、頭陀行をしたことがありました。彼女は托鉢に出かけるただ一人のチーで、住民は、他の僧よりもたくさん入れました。
住民から尊敬されていました。私が出家した時は既に高齢で、頭陀は止めていました。昔からアーチャンが頭陀に出掛ける時は、僧の後に白衣のメーチーがついていました。お寺にいる時は寺の手入れや世話をしていて、住民に愛されていたので、何が必要になっても、住民は求めに応じました。
問 : 先生が出家なさった時の生活はどうでしたか。家との交流の感想など。
答 : 私は、出家するとあまり時間がなくなりました。説法に没頭することもあり、勉強もあり、あまり家のことは考えませんでした。一か月も一年も、家へ行きませんでした。クルンテープに行っていた時などは、二年後に戻って来ると妹を憶えてなくて、娘らしくなって太ったので、誰か分かりませんでした。話をしたら「ああ」と分かりました。
家のことは全然関心がなく、世界にないのも同然でした。マイプムリエン寺にいる時はナックタム(僧試験)の勉強をヌア寺でして、お寺に戻ると、できる仕事を何でもしました。たいていは説法の本を見なければならず、夜のうちから準備をしなければなりませんでした。
ナックタムの勉強から戻ると、雨安居の間は毎日説法をしました。出家して幾日も経たずに説法をしました。住民が好んだので、住職であるアーチャンに背を押されて、毎日住職の代わりに説法をしました。聴衆は、前と違ってどんどん増えました。説法が今までと違うからです。半分は現代風で半分は昔風でした。住職の説法は経典を読み、何回か分からないほど読みました。(笑)
私が説法をする時も経典を読みましたが、毎日ナックタムの学校で勉強したことを抱き合わせて解説するので、珍しく、聞いて意味が分かります。導入程度に本を読んで、それから後の時間は、取り出して見せるように、彼らが分かるまで話し、全部の文章が聞いて分かったら、それに合う、あるいは良い本生経を選んで抱き合わせにしたので面白いです。タンマの話と合うので、図書館で印刷して当時配っていた本生経を使いました。ヌア寺でナックタムの勉強をして戻ると、そのまま説法する日もありました。
その後聴衆が、全部の寺から来るようになり、評判になったので拡大して、先ずサムニミッタ(ラーン)寺で説法をして、それからマイ寺で、終わったらポーターラーム(ヌア)寺で説法をしたので、本当に聞きたい人は三つのお寺で聞くことができました。私のお寺の聴衆は三、四十人いて、サーラー(寺の集会所)いっぱいになる日もありました。年寄りでない人も増えました。
当時、経典を使わない説法は、クルンテープのタンマユット(宗派の名)だけで、私は経典を使いました。毎日の説法の糸口として使いました。当時私は、経典にあるようなミリンダパンハーを説き、そしてナックタムの勉強から盗んできたタンマを入れました。毎日聞いていたメーチーが、「え、どうして去年と違うの」と言いました。私は前からあるミリンダパンハー経を終わりまで説きました。経典を使ったのは伝統を守るためです。
バーンドーンのタンマユットの僧も始めていて、私はプムリエンで始めました。小さな革命です。あまり大きくありません。パックというメーチーは、私を法師に押し上げた中心人物でした。いつでも、目の前でも影でも、「いい説教だ」と言いました。前の住職の時から、説法の常連でした。
以前はマイ寺には説法できる僧が、少なくても二三人いましたが、説法を命じられると、誰もが渋ってしたがりませんでした。私は断らないので、機会がありました。説法をしなければならない時は、住職が試しにやらせました。
出家して二三日するとナックタムの学校に入学しました。住職は物言いを観察して、あるいは「タンマを知っている。話せる」という噂を誰かから聞いたのでしょう。飽き飽きするほど住職が説教をしてから、他の人に話させると、その人も嫌々話しました。
私に話させると、私は嫌がらず、楽しい仕事になり、ずっと続けました。そして聞く人、常住しているメーチーや寺の外の人も喜んで聞くという報告がどんどん増えたので、住職も満足しました。それまでは決まった人だけ、聞く人が決まっていたので、住職はずっと説法を続けさせたがりました。私は今までしたことのない珍しい仕事をし、そして難しく見えませんでした。
雨安居でない時もワンプラの日には説教をし、そして特別なタンブン(法要あるいは積善のお振る舞い)の日には、特別な説教をしました。二度目の雨安居には、ナックタム(僧試験)を教える先生が説法師だったので、宵の口に生徒全員を学校へ呼んで、説教の練習をさせました。
ナックタムの学友で説教の練習に行った人は七八人いました。副住職とナックタムの先生の二人は、ナックタム二級の僧に説教の練習をさせるべきだという考えの人でした。その時は、まだ一級はありませんでした。
問 : 当時のナックタムはどのように勉強なさったのですか。
答 : 教える先生がいました。最初はラーチャーティワート寺から有能な先生を選んで、バーンポーゲンのタンマユットの人でしたが、ポーターラーム寺に住んでもらうようにお願いしたので、ラーチャーティワート寺で教えたように教えました。だからその範囲の知識はいっぱいになりました。
菩薩日にパーリスッティ(四遍浄戒)を教えるのは一人だけでした。宗派が違うので一緒に宗務をしないからです。生徒はナワコワーダを教科書に使い、先生が説明しました。どこのお寺の僧もここへ勉強に来ました。
プラ・チュン チュンタポーは、戒名の命名者のようなもので、私に、インタパンヨーという名前をつけてくれました。本当の戒師はパーリ語の知識がないので、伝統習慣で出家した時はみな俗人の時の名前でした。イッソーという戒師が、出家して何日もたってから名前をつけてもらいに行き、戒師が、知識者であるアーチャンチュンにお願いしたので、私はインタパンヨーという名前になりました。
カーンチャナディット(スラータニー県の郡)の人で、一年だけ教えに来て、その後マハータート寺から大宗派の先生が来ましたが、一年しか教えませんでした。その後バーンドーンのカオ寺のプラクルーソーンがナックタム一級を教えに来ましたが、私は学校へ行かないで独学させてもらいました。その先生はテストをしないので、友達が連れだって私にテストをしてもらいに来ました。二年間優秀だったからです。
ナックタムの課程は、読んで意味が分かる人だったら、自分で勉強できます。見本に二年勉強すれば、三年目は一人で勉強でき、タイ語の知識が十分あればパーリ語の勉強も非常にやり易いです。タイ語の勉強をした時も、私はパーリ語やサンスクリット語の見慣れない外来語が好きで、これらの言葉に慣れていたので、パーリ語の勉強は簡単でした。
出家した年の初めの雨安居は、この辺の人がクラサイと呼ぶ病気になるほど、座って働きました。今は腎臓病と言わなければなりません。目が黄色くなり、背骨が熱く、尿が赤くなりました。私がバカだからです。座って書いたり本を読んだりするのはそれほど多くはないのですが、座って書き写したり、課題を復習したり、朝晩は座って用事を一時間くらいして、それから学校へ行ってまた座りました。だから腎臓が正常に働けませんでした。
しかしそれは自然で解決しました。たとえばうつ伏せに寝て、腰の辺り、尾骨の辺りを子供に踏んでもらいました。これは効果がありました。かかとでしっかり踏みます。ゆるくても効きます。最後には薬を飲みますが、昔式ので、鉄刀木やオランダ豆、カワラケツメイなどを一鍋か二鍋煎じて飲むと、尿が黄色くなりました。その後の雨安居は、自然に順調になりました。自分で養生できました。
問 : 当時どなたが住職でしたか。そしてどのように寺を管理していましたか。
答 : ナーク タンマナントーという住職です。出家してあまり長くなかったので、友達同士のようでした。あの方のお寺の管理は、伝統的に、普通にして、朝晩の勤め、護呪経の第七節、第十二節、パーナヤック(鬼に関する節)など全部唱えました。
その他に、手工芸をする僧もいて、包丁の柄、斧の柄、舟の櫂も作りました。包丁の曲がった柄は、木目の綺麗な良い木を探さなければなりません。あるいは小物を作ってお婆さんに上げました。シャコガイの付け根の横を丸く卵のように彫り出しますが、非常に難しいです。読経して食べて寝るだけのお坊さんもいました。たまに、友達がタイ将棋をしているのを見ると我慢できない人もいました。
ずっとではありません。時には手伝わなければならないお寺の仕事がありました。私が出家した年は普請をしていたので、モーターイやパークマークの方の森へ行って木を探さなければならず、私も行ったことがあります。住職のお伴で、向こうにいる住職を訪ねて行きました。
その方はお爺さんなので孫や子が多く、住民の手も借りて木を切り倒すことができました。それからプラボロマタート寺を通る運河に下ろして海に出て、プムリエンの運河に入って、お寺に届きました。その年は鋸の練習をしました。
問 : ナックタムと説教の勉強の他に、先生の遊びはありましたか。
答 : (しばらく考えてから笑って)一つありました。私は闇の新聞を出していました。フールスキャップ版(タブロイド判くらい)二枚で、面白い話ばかりでした。(笑) 夕方の読経の前に書いて、読経が終わったらみんなに読ませ、彼らは読んで笑って批評しました。私はみんなを笑わせるのが自慢で、友達をほっとさせられると感じました。徳や善の考えだけで、初めは内容など考えませんでした。
ウアンという人からこのアイディアを貰いました。郡役所の事務主任で、クルンテープの人のようでしたが、ここに住んでいるうちに町の人になり、酒呑みで、風刺新聞を書いていました。フールスキャップ版八ページか四ページに、小さな文字で書き、郡役所の中で読んだ後、商店街に来て回し読みしたので、商店街の住民も読みました。
面白い話ばかりでした。非常に文章が上手いと言わなければなりません。学生に読めるレベルで書いていて、風刺画までありました。私の家に持って来る人がいたので、私も読みました。それで出家した時に作りました。
彼の話は、洪水など、村中が崩壊するような書き方をするので、本当に困難に遭遇しているように感じましたが、最後に、畔のアリの巣の洪水の話と分かり、笑いました。
これは楽しくて良いと思いました。味があります。私も作りたいと思いました。お寺で作る以外に機会がありませんでした。雨安居の時で十人から二十人のお坊さんがいたので、全員が読んで笑うことができる、笑いを誘う新聞です。
四ページある紙面を埋めるために、ドキュメンタリーなどを入れました。意図的に書いた物だけでは四ページは埋まりませんでした。読経が終わると渡して、みんなが読み、私は部屋で寝ながら、彼らが笑って批評し合う声を聞いていました。私の寝室と読経する部屋が近かったので、彼らがどう笑うか、ちゃんと分かったかどうか、聞いていて楽しかったです。
その後書くことが無くなったので、最も効果的な洗濯の仕方など、新聞の記事を書き写しました。金箔細工や漆細工の方法などまであったと記憶しています。適当に、二三年の間ほとんど毎日発行していたと思います。コラムやマンガや風刺画などがありました。二年していたように思いますが、三年目に仕事が忙しくなって止めました。
できたのは、住職が支援、あるいは気兼ねして、あまり勤めをする必要がなかったからです。住職は私を立てました。それを考えると恥かしいです。住職が気兼ねしてくれたので、私はいろいろ図に乗っていました。たとえば(笑)、田んぼへ行って闘魚を獲って来て、油を入れるガラス壺に入れ、僧がお勤めをする祭壇の前に置きました。住職は私以外にする人はいないと知っても、黙っていました。私はだんだん遠慮を知り、態度を改めました。
住職が私に気兼ねする理由はいろいろありました。同じ寺の「寺の子」だったこと。あちらの方が年長で、年齢も五六才しか違わず、私より先に出家したので、何年も住職の仕事をしていました。もう一つ、私たちは同じアーチャンの弟子で、そのアーチャンは私の親戚でした。
何があっても私を立てるので、私はとても楽しくできました。時には鍋を持って行って、田んぼで昼食を食べました。草や野菜を採って食べ、二三人で楽しみました。時にはナンプリック(野菜や魚等につけて食べるタレ)を持って、サーイブア沼のほとりに行って座り、子供たちが蓮の茎を抜いて来たこともあります。
家は言いなりにさせてくれました。私の家も、プラヤーアッタクロムの家、チヤムという名の独身のプラヤーアッタクロムの妹の家も、何でもねだることができ、汁(カレーの類)を貰うことも、ナンプリックをもらうことも、何でもできました。
海に遊びに行きたいと思えば、させてくれたこともあります。山へ遊びにも、緑色の提げる鍋に入れて、行かせてくれました。だから僧の生活は還俗するのを忘れるほど楽しかったです。チヤムさんは年が三四歳しか違わなくて、私はチヤムさんと呼んで、初めての時から親しくしなりました。
もう一つ、私がマイ寺にいた頃、いつからかは知りませんが、ゲーンラーイと言う、ずっと寺に伝わっている伝統の汁がありました。私がいた当時は、私が、消滅しないように維持する役で、寒季と呼ぶ雨安居が明けの頃、二三年作りました。
大きなカボチャを使い、調味料は干しトウガラシを大きなどんぶり一杯、一キロくらいと、生の唐辛子とレモングラスを一二リットルはある大きなどんぶり一杯、そしてガジュツと他のゲーンの材料を、ビックリするほど入れ、(笑) ココナツは何個だったか憶えていません。私の時代は鶏を一羽入れました。それまではかぼちゃだけでしたが、私は子供を買いにやりました。
それに砂糖を一鍋か二鍋。ゲーン(汁)が出来上れば食事の時間です。口に入れると甘くて美味しいと感じ、食べるとどんどん辛くなり、最後はとてつもなく辛くて(笑)、ハアハア言って涙や鼻水を流し、子供はスプーンの先に少ししか食べられませんが、ご飯は何皿か分からないほど食べます。
中華鍋でよく煮詰めるので色は真っ黒で、色と形状は水牛の糞のようです。香辛料を使うので、お寺中に匂いました。誰でも、せいぜい一さじか二さじしか食べられませんでした。一人特別な人がいて、老僧でしたが、一どんぶり食べられました。全員が涙を流し、子供も沙弥も、あるいは先ほどの老僧も、ハアハア言いましたが、美味しかったです。今でも美味しいと思います。
もしかしたらこのゲーンかもしれません。在家の人が寺の傍を通り掛かって寺の中の匂いを嗅ぎ、味見をさせてくださいと言って来たのは。口に入れた時は甘く、そして辛くなり、その後狂ったように熱くなり、涙が流れ、涙でご飯を食べているようになります。消えてしまわないように、めいっぱい作りました。昔も少なくはありませんでしたが、私が指揮した年はトウガラシでも何でも、思い切り使いました。私はバカなので思い切り入れました。
それは結果も、つまり排便する時も火のように熱かったです。楽しい話でもあります。彼らは長寿薬だと言いました。一理あると思います。全身に浴びるほど汗が流れるからです。私がいなくなってから、誰も作った人はいないようです。
問 : 先生。初めての年は人生にどんな変化がありましたか。人生の理想はまだでしたか。そしてサマーディバーヴァナーに興味はありましたか。
答 : 気持ちは何も変わりませんでした。僧という感覚、あるいは正反対の在家という種類の感覚はありませんでした。僧になる理想、あるいは宗教に奉仕する気持ちはまだありません。それは後で、もっとたくさん勉強して、もっとたくさん考えるようになってから生じました。
サマーディも何も、まだありません。誰も話す人はいませんでした。ナックタム(僧試験)などから学んだのは普通のこと、普通に知っておくだけで、仏教を復興させようと考えるほど、深くも何でもありません。学生として楽しかっただけです。
自伝目次へ | ホームページへ | 次へ |