11.クルンテープとの別れ





問 : 先生が「クルンテープ(バンコク)は嫌いだ」と書いていらっしゃるのは、クルンテープの環境ですか。

答 : それもあります。健康の敵であるものがたくさんあります。埃や運河の臭い、車の音、そして暑季の空気。当時も車の音があり、特に市電の音はガタゴト煩かったです。これは後の感覚で、私を我慢できなくさせ、クルンテープを追い出させたのは、悪臭で鼻痔になったことです。

問 : 何の臭いですか。

答 : 何の臭いか知りません。クルンテープの臭いです。そして騒音はあまり我慢できませんでした。それに歯から血が出ました。水道水に関係があると理解しています。家に戻ると自然に治りました。それは繰り返しました。すごく若い時には、こういうことはあまり感じませんでしたが、年をとって来ると、なり始めました。スアンモークに来てからクルンテープに行くと、いつも嫌になり、クルンテープを去る時は、これらを鬱陶しく感じ始めました。

 私がいたクティ(僧房)の(高床の)床下では、ブダの声が喧しかったです。たぶん私だけでなく、誰でもだと思います。でも彼らは慣れたか、あるいは我慢していました。でも私は我慢したくありませんでした。ゴミと汚水が至る所にあり、ほとんどすべての運河が臭い始めていました。パトゥムコンカー運河の水は、真っ黒で使えませんでした。所々埋め始めたので、満潮の時は最悪で、黒い水が生活に使う池に入って来て、水浴しても臭いました。

問 : スアンモークを作る前に一緒に考えた人は誰かいますか。

答 : いません。大人はいません。スアンモークを作るのはそれほどのことではありません。私はただ、改革するべきと見ただけです。そして「それほど変える必要はない。原点に、パーリ経典(ブッダの言葉。ブッダヴァチャナ)にある本来の生活に戻るだけでいい」と見ていました。

 タンマチャックで読んだパーリ経典だけで、どう実践すれば善い実践か、正しい実践か分かりました。国の問題にしようなどと大それた考えはなく、個人的な問題でした。何をしても個人的なことしか感じらかれないからです。それから溢れ出した他人が関心をもつほどの物は、ほんの少しで大したことではありません。

問 : 先生がタンマタートさんに書かれた手紙に、同じ考えの友達についてぎっしり書かれていました。どなたか教えてください。今はどうなさっていますか。

答 : 最後にはみんな駄目になりました。アーチャンに反対された人もいたし、両親に泣きつかれた人もいたし、来る前に肺病で死んでしまった人もいます。

問 : まだ姓名を憶えておられますか。

答 : 憶えていません。(笑) 今は健忘症が激しくなって、どんどん忘れます。以前はすぐにはっきり思い出せたことも、今は思い出せません。途中で話すのを止めなければならないほど、恐ろしいほど忘れ、間違って話せば害があるので、話すのを止め、説法を止めます。経典の名前、経の名前、何の名前もみんな忘れます。間もなく自然に止まると理解しています。

問 : これは先生が頭を使いすぎるからですか。

答 : 今まで使っただけで力を使い果たしました。もう話さなくてもよくなりたいです。話すのは考えたことだけにしたいです。引用する根拠の必要なことは話させないで貰いたいです。どれだけ考え、どれだけ探したか、考えて見てください。脳が圧迫され絞られます。

 しかし当時は楽しかったです。今は楽しくなくなり始めました。しかし頭が痛くなったことはない、と言うことができます。頭痛がする類の考えをしたことはありません。

問 : 先生は以前に、木の枕を使うと頭痛がしなくなったと書かれたことはありませんか。

答 : 書いたことがあるかもしれません。木の枕をどう使えば頭痛にならないか、あるいは頭に血が上らないかを紹介するために、言ったことがあるかもしれません。

問 : 初め一緒に考えた僧たちは、どうして一緒に来なかったのですか。

答 : 後から来て、約束でしたが、来ませんでした。そしてテープティダー寺のマハー・チュンが戻って来て、(1933年) 佛教新聞を発行してから、私と一年一緒にいました。この人はかなり風変りで、自分が特別な人のように振る舞いました。つまりナコンシータンマラートに行って、そこにスアンパンターラームという名前のスアンモークを作らせてくださいと言いました。その後マレーシアのクランタンへ行って、西洋人に追い出されてロッブリーに行きました。

問 : 先生が帰郷してスアンモークを作られた時、プムリエンのテーラ(長老)はどう感じましたか。

答 : 私を信じていたので反対はありませんでした。年長のアーチャン全員は、私の考えを信じていました。アーチャンクルーサックも、私は間違ったことをしないと信じていました。(笑) それで誰がいますか? テーラは二三人でした。

 母も、正しいことをするに違いないと信頼していました。ある清信士、ポーターラーム寺の清信士でしたが、その人はリーダー的な存在として目立ちたがりでしたが、私がこのような働きをし始めたので、埋もれるのを恐れました。

 たぶん最初に「スアンモークの気違い坊主」と呼び始めた人のように思います。「スアンモークの坊さんは気違い坊主」と言ったので、子供たちが真似しました。彼はポーターラーム寺の清信士頭で、プムリエンでもそんな感じで、プムリエンの人も彼に一目置いていました。この人がスアンモークの僧は気違いという、口火に火をつけました。こういう考えが生まれるのは、すごく当然のこと、自然なことと理解します。

問 : 先生がスアンモークを作られた時、プラクルー・チャヤーピワットは、まだ先生と親しくなさっていましたか。

答 : それは何も問題はありません。私がスアンモークを造った二年後に戻って来て、マイ寺でパーリ語を教えました。私とは何も問題はありませんよ。ナリン氏の弟子のヌーン ウォンサーニットさんは、ナリン氏式に、「あの方は厳格でない」と攻撃したことがあります。ナリン氏が攻撃する項目をあの方に押しつけると、その時あの方は怒りました。以前はクルンテープで友達だったことがありました。叔父が出家している時は、叔父と一緒に住んでいました。

問 : 先生が帰郷してスアンモークを作られた時、先生はプラクルー・チャヤーピワットに何とおっしゃったのですか。

答 : あの方はあまり関心がなく、賛成でなかったので何も話しませんでした。別れを告げた時は、普通に還俗するような別れ方でした。あの方はヴィパッサナーに関心がありませんでした。多くの人と同じように、そういう時代ではないと考えていたからです。

問 : では先生は、なぜ他の人のように、時代が終わったと見なかったのですか。三蔵を読まれたからですか。

答 : 知りませんよ。(笑) それは本来の状態に戻るよう促進させると見ていました。世界は変わったので、復興できないと見る人が多かったです。だからこういう生き方は可能だと分かるように。「阿羅漢の後を追って」の本を書きました。

問 : クルンテープ(バンコク)にいる時、先生は帰郷したら本を書こうと考えていましたか。

答 : (フフフ) 何かを書こうというのは、まだなく、森の中に住むことだけを考えていました。新聞を出すことは考えていません。実践でなく学習について言えば、ソムデットクロムプラヤーワチラヤーンの作品で十分と見ていました。まだ完璧を極めていないので、その先をするべきだというのは後で考えたことで、その時代はそう考えていました。

問 : 先生。普通の青年に、どうして宗教のために身を捧げたいという理想が生まれたのか、ご自身で分析して見ていただけませんか。

答 : それです。それはありません。復興させて、仏教を本来の姿に戻そうと。偶然、たまたまちょっとだけです。それほど多くはしませんでした。他の人が重要なものにしてくれ、大きなことにしてくれました。本当はすごい決意はしませんでした。ただ仏教を復興させ、初期の状態に戻すだけ、できるだけ、可能なだけ、と考えました。

 サンガにはいろいろあるのでまだできないと、威力を見、それで私はどうできるかを見ました。本気で努力したのは、パーリ語のプラタム(教え)を最高に正しく理解することです。私には何の権力もないので、ある知性で探究と著述の仕事をするだけでした。

問 : 先生は「一人で探究したのでは糸口さえ見つからないので、たとえばインドのヨギーなど、もしかしたら研究理由になるかもしれない人たちと付き合おうと考える」と書かれています。

答 : (フフフ) 一瞬あったかもしれません。(フフフ) みんな忘れました。今は何もありません。最高にバカな話と見ます。インドにプラタムを求めて行くのはバカな話で、自分の内部を、自分の心の中を探さなければなりません。インドへ行けば行くほど見つかりません。

問 : 先生。最後に、当時の普通の勉強をする考えから、ブッダの道を歩く強い理想の青年に変えた原因と縁は何か、分析していただきたいのですが。

答 : (フフフ) 何も本気ではなく、幾つもの偶然だと信じます。何も決意するつもりはありませんでした。クルンテープにいられなくなったので、他に道がありませんでした。何かするには田舎へ行かなければなりませんでした。誰かに強制された訳ではありませんが、クルンテープに住むのは限界で、何もできないので、帰郷して森に行きました。

 本当のことを言って、何も大それたことはなく、決死の覚悟で、前線で闘う覚悟でした。しかしこうでなければならないという方針はありました。消滅した仏教の実践を復興させることです。

 だから佛教新聞は初めから今まで、表紙に、「学習の振興」「実践の振興」そして「宗教の普及」の三つの部分があると分かるように印刷してあります。あるだけの少ない知性での復興、改革です。実践は試してみたいことでした。誰かの意図ではなく、偶然の出来事が重なったも同然です。

 私も本当には何も知らず(ハハハ)、手探りでした。若者がその期間に知ることができたものは、多くはありません。「仏教は善いものに違いないから、絶対に投資するべきだと」大まかに考えました。

問 : その時代のほとんどの人が阿羅漢になるのは不可能だと信じていたのに、先生はどうして可能だと信じたのですか。

答 : ほら、私は自由に考え、自然が自由に考えるように作ってくれたからです。

問 : 先生。いろんなタンマの先生の解釈は、ソムデットプラマハーサマナチャオとティエンワンから受け継いだのですか。

答 : いや違います。何でも珍しく目立って、それまであるものより良くするのが好きなので、私が出家する前も、ティエンワンでも、ソムデットプラマハーサマナチャオでも、誰かが良いことを言ったというニュースがあれば、誰よりも良くしなければならいない形で考える性質でした。(ハハハ) 

 自慢ではありませんが、それ自体が自慢です。他の人と同じ、あるいは劣りたくありません。何をしても自慢し、「自分にできないことは何もない」と狂っていました。それは「俺、俺のもの」そのものです。物的資本なしでしましたが、智慧による行動、その考えはできるかもしれないと見ていました。

問 : だから先生は苦を理解できたのですか。

答 : 直接ではありません。しかし関係はあります。つまり停滞は認めず、他の人がしたよりもっと良いものを目指しました。できるという結果は明らかには見えませんでしたが、試してみるべきで、以前よりも善く、新しく、珍しいことをする考え以上に善いものはありませんでした。

問 : 先生。このように自分に強いると、苦を生じさせませんか。

答 : 苦は生じさせません。陶酔を生じさせました。自分できることを選び、そして勤勉に自分を訓練し、考えを話したり説明したりするには、資本は要りません。

 まとめれば、賢明さや賢明な計画は何もなく、手探り同然でした。しかしどの方向にしても、(曲がり角を)曲がったのでやり抜きたかったです。

 私は商家に生まれて、この面にはあまり関わりませんでした。しかしいずれにしても話が始まって、どんな家でも家を出てしまったら、残っているのは、意図的ではない自慢という、何をしても人より良くしたい性質だけなので、勤勉に自分を訓練しました。型破りな商人の話です。


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