第二章 出家と理想の芽生え






1.出家



問 : ここで先生にお話していただきたいのは、出家できる年齢になるまでお母さんの手伝いをなさって、お母さんが先生を出家させる時、何とおっしゃったのですか。そして当時の一般庶民は、満二十歳になるとほとんど出家したのですか。

答 : 母の仕事を援けたと言うのは正しくありません。母は私に、何でもする人支配人の立場を譲り、母は残った仕事以外は、する必要がありませんでした。出家する歳になるまで、支配人の仕事は私がしていました。

 憶えている限りでは、母はしょっちゅう大人たちに相談をしていました。叔父が家に来ると「出家させたい」と相談し、叔父伯母、親戚に、出家させたいと相談していました。しかし母から「出家しなさい」という言葉はなかったと記憶しています。私は(笑)母に従い、母次第でした。伝統を守る気持ちが、出家しなければ満足ではない、完璧ではないというような話になったので、喜んで出家する気持ちになりました。

 出家しなさいという命令や指示のようなものはありませんでしたが、しょっちゅう話を聞いていたのと、しょっちゅう心情を聞いていたのが合わさり、不思議に、(笑) 本当は誰が命じたとか、誰が提案したとかいうのはありませんでした。思い出せません。

 「出家するべきだ。出家しなければならない」というのは一致した意見でしたが、確実に分かっていたことは、特に母の望みということでした。しかし命じられたことも、頼まれたこともありません。自分の考えは、出家してもいいし、しなくてもいいと考えていました。約束では一雨安居、三か月でした。当時は、出家できる年齢に達した若者のほとんどがそうでした。

問 : 先生、当時の僧に対してどん気持ちがおありでしたか。誰か特に尊敬する方、帰依する方はいましたか。批判のお気持ちはありましたか。

答 : 私は特に誰にも帰依したことはありません。ほとんどのお坊さんは社会から尊敬されることを望んでいて、本気で滅苦を目指していませんでした。私が出家する前は、ナックタム(僧試験)の勉強もしてなくて、いろんな行事で読経するために、読経の勉強をするだけでした。特に尊敬と愛着を感じたのは、私が寺の子(寺に住んでしつけや教育を受ける子供)だった時のアーチャンであるアーチャンヌンですが、私が出家する前に還俗してしまいました。叔父くらいの年代の人です。

 当時は批判はまだありませんでした。伝統に従って出家し、みんなと同じに決めた期間だけ出家するけで、僧たちについての批判はありません。タンマが正しい、正しくないというのは多少ありました。当時の僧たちの全般的な見方は、思い出せません。多分なかったのでしょう。伝統で続けて来た手本として正しいと信じていました。彼らがそのように伝承して来たことを、誤りと捉えませんでした。

問 : タンマの正誤とはどんなことですか。

答 : 一般の人に興味のあるタンマの解釈など、同感できない時は反論し、質問しました。たとえば三宝のことや、布施、戒のことなど。激しかったのは、彼らが信じている地獄天国の話で、批判しました。

問 : 先生の解釈が他の人と違う原因は何ですか。

答 : もっとはっきりさせ、現生の話にしたかったのです。

問 : 出家前に、先生はそのような見方をなさっていたのですか。

答 : 疑いです。疑い始めたと言わなければなりません。たくさんの人が疑問を持たせました。

問 : そのような考えの流れはどこから来たのですか。彼らはずっと、昔のように信じていました。

答 : どう信じるか知らないくらい強く信じていました。それには現生で見られる害の部分と、利益の部分があるべきです。本当のことをを言えば、私は地獄に落ちなければならないことをしていないと信じるので、地獄天国の話を脅威に感じませんでした。だから誤ったことをして、現在罪になることに、死後の地獄天国の話より関心がありました。

問 : それは先生が勉強なさった、ソムデットプラマハーサマナの「ナックタムのためのタンマ」の本によってですか。

答 : それもあります。ナックタム三級、二級、一級のための本は、出家前に全部読んでいました。

問 : それらの本を読まれて、阿羅漢になることはあり得るというような、ローグッタラの話を本気で信じられましたか。

答 : いいえ。ただ興味深い話だと、そして利益があるかもしれないと思いました。まだ実践して試す時間はありませんでした。あるいは徹底的に考える時間もありませんでした。推測して、「善いに違いない。きっと善い」と信じただけです。

問 : 先生が出家前にナックタムの三級二級一級を読まれていて、僧たちは律に従っていないと感じませんでしたか。

答 : 感じません。全然感じませんでした。ただ知識を増やすために読んたのであって、お坊さんをやっつけようと思いませんでした。広く、たくさん勉強しておきたかったです。きっと出家しなければならないだろうと考えていたので、前もって準備しておいた方が良いだろうと。出家して二三日すると板について、何も大変なことはありませんでした。

問 : 出家式はいかがでしたか。

答 : 一般と同じですが、派手な象の行列はありませんでした。私は大げさにしてもらいたくありませんでした。面目のある人はみな、象や馬の行列をしました。ほとんどは遠くから、トゥン村やパーウェー村から来ました。当時の人は、県の中心だったプムリエンで出家するのが流行りでした。出家させることができる戒師がいることと、文化と政治の中心だったからです。






2 初期の年長僧



問 : 先生はどこのお寺で出家なさったのですか。どなたが戒師ですか。

答 : 私はノーク(ウボン)寺の菩薩堂で出家し、それからマイ寺(プムリエン)に住みました。プラクルー・ソーポンチェッタシカーラム(コン ウィムロー)が導師で、ノーク寺の住職プラ・プラットトゥム インタチョートーと、フアクー寺の住職プラクルー・サック タンマロッキトーが読経をしました。

問 : 先生は、なぜ出家したお寺と違うお寺に住まわれたのですか。導師を他のお寺から招聘し、読経の僧も別のお寺からです。

答 : おお、アーチャンプラットトゥムは父の家にいる時から可愛がってくれて、懇意にしていました。父が出家した時読経してくれたアーチャンです。そしてマイ寺は子供の頃にいたお寺で、出家したら必ずマイ寺に住まなければいけないと納得していました。しかしその人は昵懇にする権利があると見なしていました。

 『好し来た。マイ寺に住んでも構わん。じゃが、わしの寺で出家せにゃならんぞ』。(笑) しかし隣り合っているお寺です。ウボン寺にはパーティモッガ経を唱えられる人がいたので、マイ寺のお坊さんはウボン寺の菩薩堂へ行かなければなりませんでした。マイ寺には誰も唱えられる人がいなかったので、アーチャンプラットが命じました。

 私は郡僧長、ラーン寺の住職チャオクンチャヤーピワット スパッタサンガカーモートによって出家していません。副郡僧長であるプラクルー・ソーポンチェッターシカーラームに出家させてもらいました。直接にも間接にも、大人たちがこの人を褒めて好いていたので、従いました。気兼ねがあって、郡僧長を招請できませんでした。それに運よく、その時郡僧長は他に出家式があって出掛けて行ったので、耳触り目障りなことはなかったと記憶しています。

 私はマイ寺に住まなければなりませんでした。父方の祖母の弟が亡くなるまで住職をしていたので、子供も孫もひ孫も、そのお寺に住まなければなりません。プラクルー・サックはあまり馴染みがありませんでした。その人は医者で、私の親や住民は尊敬していました。

問 : 先生、郡僧長はどんな方でしたか。そしてその後の先生との交流はどんなでしたか。

答 : クルンテープで勉強して来たので、それなりにパーリ語の知識がありましたが、良く知っているとは言えませんでした。ポー寺(ワットポー)で勉強しました。当時は帆船で行って、ポー寺に住み、ポー寺の辺りで托鉢しました。時には食べ物が足りない日もあり、ご飯とバナナ一本の日もあったそうです。

 そんな苦労をして三年勉強しました。しかしパーリ語試験に合格しないで帰ってきました。試験官が嫌がらせをしたので腹を立てて、問題を、つまり試験に使うタラバヤシ(に書かれた経典)を返しました。それは公共の物なので返しました。試験を受けないことを、「お返しする」と言いました。僧郡長は試験に受かる知識はありましたが、試験官が反論しました。

 パーリ語で「ソーサンコーピカー」というのを、郡僧長は「墓場の番をする女」と訳しましたが、試験官は「だめ、もう一度」と言い、「墓守りの女」と言っても、試験官は「もう一度」、「墓場を護衛する女」と言っても、試験官は「もう一度」。昔の試験は口頭で、このように三回されて、やめて本を返してしまいました。だから試験を受けなかったと話してくれました。

 それで正解はどうだったのか後で訊くと、試験官は「墓場を護衛する女」を、現代語にさせたかったそうです。あの方は、戻って来てパーリ語を教えました。昔式にです。幾つもの県から勉強に来ましたが、合計何人でもありません。勉強は成功しないで、狂ってしまった人もいました。勉強しても何も分からなくて苦しいからです。パーリ語文法を五年十年勉強しても、何も分からないこともあるくらい、大変な勉強と言います。

 あの方のお寺と私のお寺は隣り合っていたので、訪ねて行って勤めをすることもありました。そしてあの方も私と交流したがりました。私のことを側近のように役に立つと見たのでしょう。私の叔父が出家した時も、側近を勤めましたから。

 その後、最後には怒ってしまいました。あの方は一緒に舟に乗って、バーンドーン川の向こうの方へ結界を結ぶ式の読経に行かせようとしましたが、私は行きませんでした。何度頼まれても行きませんでした。(笑) 「尊敬していない。顔を立てない」と感じたのでしょう。それで怒りました。

問 : 先生、プラクルー・ソーポンはどんなパティパダー(道)がありましたか。そしてその後、先生との交流はどうでしたか。親しかったですか。

答 : 欲が少なく足ることを知り、憤慨しない人で、家とはあまり親しくありませんでした。戒師が二人いて、一人がいない時はこの人にしなければならないので、その後親しくなりました。

問 : 戒師として、特に先生に気を使ってくれましたか。

答 : 昔式では、互いに別のお寺にいたので、特に気を配ることはできません。しかし態度に表れた限りでは、私を精いっぱい立ててくれました。どんな立場でかと言うのは難しいです。集会などの時に、よく私を褒めてくれました。私がクルンテープでパーリ語を勉強している時に亡くなりました。

問 : それではプラクルー・サックとはどうでしたか。あの方のパティパダー(道)はどんなでしたか。

答 : あの方は非常に尽くす方でした。特に住民が病気の時は、夜中でも、どんな真夜中でも(呼びに来た人に)ついて行き、イスラム教の人が呼びに来ても行きました。

問 : 先生。プラクルー・トゥムはどんな方でしたか。あの方の法要をする時、住民が非常に尊敬しているのを見ました。プムリエン中の人が行きました。どの行事よりも多いと言えるほどでした。

答 : 高齢のアーチャンで、アーチャンメンと二人、ヴィパッサナーの権威でした。占い師でもあり、住民は当然、心を慰めるものとして占ってもらいたがりました。私も同じです。あの方を訪ねると、必ず見てくれました。私には、七つの数字を見てくれ、そして見る度にいつも、それが結婚相手の所にあると繰り返しました。

 「還俗してはいけません。この星の人は女房が浮気をします」。あの方は七数のテキストで、いつもそう繰り返しました。本当の占星学は使わず、この土地にある遊びで、数字が結婚相手の所に落ちたら、妻を持つべきではないそうです。妻が浮気をするからです。(笑) だから私は、これの真実を知りません。私は初めから占いを信じませんでした。

 この方は私の家と一番昵懇で、定期的に父を訪ねて来て話をしていました。私が子供の頃、お寺に行くと可愛がって、いろんな物を見せ、食べさせてくれました。父を好きなら、その子も当然好きです。これがお寺の住職の一般的な状態で、由緒ある家柄の子供の世間話をしなければなりません。一般の誰とでもではありません。私は時々供物を持って行かなければなりませんでした。

 出家してからは隣のお寺にいたので、行き来しました。ワンプラの日には、私がいるマイ寺へ、サンガへの布施を受け取りに来られました。いつも心に掛けていると言います。後でハンセン病の人が来て住み、あの方の子孫でしたが、いつも薬を煎じてやっていました。病気がうつるのが怖くはないかと訊いた人がいましたが、あの方は「怖くない。もし黴菌がいても、煎じる時に全部死んでしまう」と答えました。

 私の父と叔父は占星学を信じない人でしたが、叔父はアーチャンプラットトゥムに占星学を学び、住民の求めに応じて占ってやっていました。でも後になって止め、前に話したように反論を書いたり、風刺を書いたりしました。

 面白い話があります。アーチャンプラットトゥムに占ってもらう人が多いので、供物を持ってくる人が多く、たくさんお茶をもらいました。あの方は、貰った物を仕舞っておいて、古い物から消費する主義だったので、生涯カビ臭いお茶を飲んでいました。鼻が悪いので臭いが分からなくて、誰が行っても淹れて出しました。私も飲みました。噂どおり、本当に臭いお茶でした。

 あの方は厳格な頭陀僧で、質素な生活でした。私に念処やサマーディなどを教えたことはありません。他の人にも教えたことはないようです。

 あの方は私の父の遺骨を、タオチャナ郡バーンノーンワーイのプラソン山に置くアイディアをくれた人で、ソン山という名前がいいと言われました。意味を「良くなる望み」「発展する望み」と解釈され、そして遠くから見えるのもいいと。舟で行っても、汽車で行っても、ずっと見えていて、スアンモークの一角からも見えます。昔、時々行って座って見ました。一番高い山で、汽車に乗ってターチャナ駅を通過する時、崖や山峡が見えます。北東はなだらかです。

 あっちの方に知り合いが多いので、あの方がわざわざ連れて行ってくれました。私は子供で余所者でしたが、みんな親切にしてくれました。プラヤイ洞窟に案内してくれ、骨を白い布で包んで壺に入れ、洞窟の中の隙間に置いて、それから竹の棒で奥へ押し込み、竹を立てました。誰もどこかへ持ち去る人はいないと信じられる場所でした。

 その後母が亡くなった時、母の骨も同じ場所に持って行きました。その時は自分で行って、自分でしました。そしてつい最近、甥姪が彼らの母、つまり私の叔母の骨を置きました。まだ考えています。(笑) あそこに集めるのは、塔を建てるより、墓や何やら面倒な物を建てるよりいいです。山全体を塔と見なしてしまいます。塔を建てるお金を一銭も使いません。

問 : アーチャンプラットトゥムは、先生がスアンモークを造られるまでいましたか。

答 : 私がクルンテープへパーリ語を勉強に行っている時に亡くなりました。プラクルー・サックは、私がスアンモークを造るまでいました。

問 : 当時、念処系のお坊さんはまだいましたか。

答 : まだ二人残っていました。私が出家した時読経をしたアーチャンプラットトゥムと、私の父が出家した時読経したアーチャンメンです。母はいつも汁物(カレーの類)を届けていて、行くと、あの方が池のイカダを引き寄せて、パクチー(香菜)を一掴み、大きな一掴み採ってくれました。つまりあの方はイカダを作ってパクチーを栽培していました。

 この方はいつでも鋭い発言をする人で、タンマユットに宗旨変えをするよう勧める人がいた時、「タンマユットになれば、男根が立たないか。固くならないか」とあの方は答えました。南部の住民の言葉でですよ。

 あの方は、ボンと呼ぶ段階で学ぶ古式の念処をしました。ボンは賭博場という言葉からきていて、修行の段階を彼らは一ボンになった、二ボンになった、三ボンになったと言い、終われば、アーチャンが揃ったと言えば、修了です。

 ウボン寺の菩薩堂の辺りを、彼らはドーンワートと呼びました。つまり「徹夜をする丘」で、念処をしました。夜通し念処をするのは彼らの伝統で、破戒の罰には当たりません。誰でも出安居の頃はしました。

 当時の念処の仕方は、迷信と言うこともできます。しかしそうしてもサマーディになります。

 聞いて見た限りでは、ニミッタを意識する方法でした。ピーティを招いて、緑の玉、赤い玉を意識し、もう一つは鉢の口に立てたロウソクを注視して心が安定したら、目を閉じても火が見えるまで、電球を見つめるように、ロウソクの玉を見つめます。あるいはカシンの一つである水晶玉を見ます。それと、ロウソクに間隔をおいて弾丸を結んで置くと、火がそこまで燃えると弾丸が鉢の中に落ちます。そうすればその回は十分ということです。

問 : 先生。アーチャンメンは、庶民から特に尊敬されましたか。

答 : 多い。特に多いです。神聖なお坊さんで、他に何も言う必要はありません。誰もが恐れ、アーチャンに呪われたくありませんでした。あの方に逆らうことはしたくありません。もし呪われたら、完全に落ちぶれると信じていました。

 あの方はヤシ殻の器で食事をし、私たちが綺麗な器に入れて行くと、あの方が彫った、幾つもあるヤシガラに注ぎました。お好きだったのはウナギカレーと水牛カレーでした。いつも行き来していたので、私の家とは昵懇でした。

 私の父が出家した時読経もしました。母が嫁いでからも親しくし、上がって来たくなると、『おーい、ゲーンクワーイ(水牛カレー)』と母に言いました。何も罪ではありません。市場で売っているからです。あの方は元から階位を狂喜しませんでした。

 ある時住職が亡くなって、臨時に、他の人が来るまで寺の世話をしなければならないことがあり、一二年していましたが、非常にきちんとしていました。住民は誰もお節介をせず、子供も邪魔をしませんでした。棍棒を持っていて、逃げると本当に叩きました。私は憶えていませんが、あの方の言葉は、非常に鋭かったです。

 郡僧長もアーチャンメンを尊敬していました。昔は念処をするアーチャンはたくさんいましたが、だんだんいなくなって、この二人だけになりました。

問 : 他にアーチャンメンが話された鋭い断片を憶えていらっしゃいますか。

答 : ありましたが、あまり憶えていません。アーチャンメンはマイ寺のアーチャンである叔父が尊敬する人でした。アーチャンヌンがパークマークモーターイへ遊びに行って、どんな種類か知りませんがソムロード(柑橘類の名)を見つけ、普通ソムロードは酸っぱいですが、あの方はアーチャンメンに、甘いソムロードを見つけたと話しました。本当かどうかは知りませんが、あの方はアーチャンメンにそう言いました。

 私のアーチャンはヒヒヒと笑って、「あんたが嘘を言っているとは言わんが、私は信じない」と言いました。これがアーチャンメン語録です。こういうのは日常的にありました。あの方は神通力があると自負していたので、何かあると、こん棒を持って来なさいと言って、叩いて追い払いました。こん棒を持って来なさい、という言葉は、よく聞きました。このタイプのアーチャンは、神通力があると信じていたので、誰も恐れませんでした。

問 : で、人を呪うのはどうですか。

答 : この人だけではありません。このような老人を怒らせてはいけないと、住民は信じていました。住民の誰もが、「怒らせることはできない。怒らせたら、一言呪われて死んでしまう」と信じていて、アーチャンメンやアーチャントゥムに呪われたくありませんでした。それは町中の人の気持ちでした。

 古式ヴィパッサナーは、私が生まれるずっと前に消滅しました。スアンモークを造るのを助けてくれた伯父のティエンは、ヴィパッサナーを何段階もしたことがあり、話してくれました。私はよく質問して、話を聞きました。

問 : これらのアーチャンのうち、一番先生が影響を受けたのはどなたで、どんな面ですか。つまりどんな方式で自分を分析なさりたいですか。

答 : (しばらく考えて)思い浮かばない。(間)つまり、直接受け入れられません。私は子供だったので実践できませんでした。これらの方は私が尊敬する人で、手本としては受け継ぎませんでした。できないと思ったからです。どの方も真似できません。アーチャンクルーサックのように、夜中の一時二時に行くのは、私にはできません。

問 : 先生。それではこういうのは良くないから、私は真似ないというのはありましたか。

答 : ありません。私はそういう観点で見なかったからです。これらの方は、律の疵になることはなく、集めることで疵になることもありません。

 ある時、余所から有名な影絵芝居が来たことがありました。どこのヤクザか知りませんが、人を騙して興行し、アーチャンメンとアーチャントゥムが一緒にお葬式に行って、お布施のお金のことで殴り合いの喧嘩になる話を上演しました。子供たちは非常に喜びました。この影絵芝居はバカです。作り話だと思います。

 こういうのを演じたので、町中が大変騒ぎになりました。終いにはアーチャンの耳に入り、アーチャンメンは「ほっときなさい」。(笑) しかしアーチャンプラットトゥムは怒って認めず、人をやって、罰としてあの方が座長の頬に手を当てるか、一回軽く叩かさせるよう伝えました。

 軽く頬に手を当てるだけで、その後は演じることができないで、バカみたいな人になると信じていたからです。座長は怖がって受け入れなかったので、郡の仲裁で治まりました。




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