7 社会的環境





問 : 当時先生がお住まいの集落の、社会全体の文化の様子を話していただけませんか。

答 : それには、たとえば人が危なくなったというような、深遠な心の面の文化の意味に注目しなければなりません。みな助け合って、安心させるようにする人ばかりで、今のようではありません。最近この辺で自動車が転覆しましたが、死に掛かっている人の服やズボンをすっかり剥ぎ取って、素っ裸にしました。

 当時はあり得ません。集まって来て手厚く世話をする人ばかりで、遠くの人なら、親戚でなくても食べさせて居させました。どこかへ行って危険に遭っても心配は要りませんでした。当時自家用車はありませんが、どこかでそんなことになっても、人間同朋の助けを期待できました。

 旅人が船着き場の東屋で病死した時は、世話をする人がたくさんいました。非常に徳になるという教えがあったからです。今では誰も徳を欲しがらず、(剥ぎ取って)急いで質屋へ持って行く人ばかりです。これは説明しにくいです。宗教のタンマの力は深いです。私が子供の頃はお寺がたくさんあり、僧がたくさんいました。プムリエンには四つか五つのお寺が並んでいて、どこにも二三十人の僧がいて、三四年出家して還俗しました。

 ほとんどの住民は、昔から漁業でしたが、今のようにはしないで、昔の人は、売って集落内と近くの集落で食べるだけでした。漁師が生活していけるだけのエビや貝やカニや魚がいました。今は遠くへ出荷するので足りません。漁が少なく、値段も昔の百倍、二百倍になりました。クモガニ二杯で、一サターンでしたが、今は一バーツ(一サターンの百倍)します。

 一般住民の暮らしは豊かでなく、その日その日を何とか食べていました。金持ちにするものは何もありませんでした。お金持ちでもそれほど持っていなくて、千バーツ持っていれば金持ちで、月収四五百バーツあれば金持ちと見なしました。昔の人は貸している田んぼがあり、一年すると地代を払いに来るので、たくさん小作地を持っている人は金持ちでした。昔の田んぼは占有登記をしておいて、人を雇って開拓しました。

 でなければ安く買い、売らなければならない人は安く売るので、お金があれば買っておけるので、人に貸す田んぼをたくさん持っていました。折半にするので非常に有利で、所有者は小作人と同じだけ、半分取れます。時には、この田んぼは三十袋というように決めておいて、半々まで行かないのもありました。収穫のない年には、小作料を取らない人もいました。知事や知事の一族には、小作人を苦しめる人がたくさんいました。

 プムリエンにはチャイヤー県庁があったので、役人たちが家を建て、クルンテープの文化が他の郡より早く伝わりました。ナムプリックプムリエンなどは、この辺の物と違います。他の集落で同じ味のナムプリック(野菜や魚につけて食べるタレ)を食べたら、作った人はプムリエンから来たと分かります。訊いてみると間違いなくそうでした。

 当時の知事に対する庶民の気持ちは畏怖でした。政府と同じくらい権威があったので、畏怖していて、役人たちは別階級で、助け合い、敵対と言うほどではありませんでした。しかし公正でない人、ひどい人もいました。内部の大物に調査をさせ、逮捕して罰してもらうようなのもいましたが、非常に少なかったです。住民が抵抗したようなことは一度もありません。彼らは恐れていたので、抵抗しませんでした。これもある意味で良いです。

 人々は間違いをしたくないので、問題を起こさないよう注意しました。裁判沙汰が好きな人は、あまりいませんでした。あまり楽しくありません。ヤクザな遊び人もいませんでした。知事を恐れたからでしょう。大物のヤクザは、尚更いません。クルンテープではないので、田舎の地方都市にはあり得ません。もし居れば、どこかの森に住まなければなりません。プムリエンのような町場には居られません。

 住民は役人たちを、階級で「チャオクン」と呼ぶ人もいたし、「クンプラ」と呼ぶ人もいました。チャイヤーの知事なら、チャオクンチャイヤーと呼び、部下たちを「ナーイ」と呼びました。あるいは低い家系の人は、自分より高い家系の人をナーイ(旦那)と呼び、子供たちはポーナーイ(旦那様)、メーナーイ(奥様)と呼びました。そして進んで身分の上下を認めて暮しましたが、困ったことにならず、革命を起こす(笑)原因ではなく、必要な時には助け合いました。

 ナンタルン(影絵芝居)は、クルンテープの言葉を庶民に教えました。土地の人はクルンテープへ行ったことがないので、クルンテープの言葉は聞き難かったです。ナンタルンの中の神と女はクルンテープの言葉を話しました。元々はインドから来た物で、パッタルンに上陸し、それから南下してジャワへ行き、もう一つは北上しました。

 だからナンタルン(タルンの芝居)と言います。つまりパッタルンから来た芝居です。インドではチャーヤーナーディカーと言い、影絵で演じる芝居という意味です。インドが先でした。その土地のもので、至る所にありました。そしてインドでも、どんな出し物でも、この種の芝居は、教育がある男性の登場人物は、サンスクリット語を話さなければならず、庶民や使用人や女たちは、必ずプラークリット語、つまり地元の言葉を話します。

 この規則はタイのナンタルンも同じで、神様や出家、主人公、領主などは、必ず最高に高い言葉、つまりクルンテープの言葉を話しますが、古いインドの影絵芝居を見ると、女性はプラークリット語を話しています。

 身分の考えが非常に厳格であることが分かります。ナンタルンはクルンテープの言葉と地元の言葉の両方を使ったので、ナンタルンを見てクルンテープの言葉を勉強をしました。彼らは、その場しのぎに言うことを「役人のように話す」と言い、ハッキリ言わないことを「腐った役人」と言いました。

 服装は、ほとんどの男性は中国ズボンを穿いていて、チョンクラベーン(一枚の布を巻いてズボンのように着付ける)の人も多少いました。当時の女性はチョンクラベーンを穿いていて、パーヌン(腰巻式スカート。サロン)の人がいれば、変わって見えました。家にいる時、女の人はスアコウクラチャオ(襟なし袖なしで、襟のカーブにギャザーを寄せたブラウス)で、外出時、あるいは気位を持たせるには、クルンテープから来たチャオナーイ(旦那)を真似て長袖を着ました。

 しかし普通の人はそういう服は着ません。無駄遣いです。男性はシャツを着る必要はありませんでした。県庁へ行くにも、チャオナーイに会うにも、シャツを着る必要が無いので、パーカオマーを腹に巻いたり、肩掛けを斜めに巻いたりしました。お寺へ行くにもシャツを着る必要はありませんでした。パーカオマーを肩に掛けて行って、お坊さんを見たら腹に巻きました。

 美しい行ないタムブン(布施)はかなり厳格にしていました。食べるものがあれば毎日、托鉢僧の鉢に入れました。この町でポー誰々、メー誰々と呼ばれる人は、托鉢に布施しなければならず、しなければ恥でした。家の前に托鉢馬(ベンチ)が据え付けてありました。

 二つの柱の上に板を渡して釘で打ち付けてあり、初めは移動できるベンチだったのが、毎日出したり入れたりするので、柱を固定し、座って休むこともできました。食べるに困らない家には必ずありましたが、だんだん無くなり、プムリエンには、ほんの僅かしか残っていません。托鉢にご飯を入れない家、時々しかしない家もたくさんあります。「小さなしゃもじ」です。

 托鉢馬がある家は「大きなしゃもじ」で、小作地を持っている人が多かったです。海の方の通りの終わりにあるシーヤーパイの家は、今は記念碑があります。あの家は午前中ずっと鉢に入れていました。それに市場では売っていない、どこよりも大きなしゃもじでした。普通の人なら一掬いで十分食べられました。子や孫にも入れるよう命じ、私が出家した頃も、まだその命令があり、私はいつも鉢に入れてもらいました。

 その後、私がクルンテープに行っている時に、子や孫の代は引っ越し、彼らは後に住む人たちにも、托鉢に(ご飯を)入れるよう頼んで行きました。今はありません。引き受ける人がいないからです。

 シーヤーパイの家系は、元の血統はこの土地の人です。初めに公務員になって、後で知事に任命された人もいます。要するに当時の人々は、それなりに穏やかに幸福に暮らしていたということです。自然資源も豊かで、食べ物も、日用品も足りて困窮せず、精神的な拠り所である宗教・お寺がありました。




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