6 勉強と少年時代の冒険





問 : 先生。学生時代の話を聞かせてください。

答 : 学校に入学した時は、お寺から家に戻って、ヌア寺の学校で勉強しました。ラーマ五世の時代に制定された新制の学校で、小学校五年までありました。私が勉強した頃、裏を僧房が囲んでいましたが、今は取り壊され、他の場所に建て直しました。校舎の建物は今もあります。私はそこで勉強しました。(今は保健所として使用)。

 しかし五年が終わらないうちにまた制度が変わり、小学校三年が終わると中学一年になり、チャイヤーの学校に転校して三年勉強しました。サーラピーウティトという名前の学校です。

 当時は、お寺での勉強から学校での勉強に移行する初期で、ソムデットプラマハー・クロムプラヤーワチラヤーナワローロサがラーマ五世から仕事を引き受け、国中のすべての僧に学校を作らせました。町で一人か二人の僧が、クルンテープのボーウォンニウェート寺で教師の勉強をし、それから寺に戻って先生になりました。プムリエンでは一人がクルンテープのボーウォンニウェート寺へ行き、何カ月か何日か知りませんが、戻って来て先生になりました。

 ワイ先生と言いましたが、今は亡くなりました。その後の先生はタップ スワンナ先生で、一クラスに二十人から三十人の生徒がいました。この先生は腕のいい人で、いろんな面の芸術家でした。僧でしたが歌も歌えました。伝統の絵も描けました。ラーマキエンのトッサカンやパーリーなどの描きにくい人物も、生徒に教えました。手本に描いた絵にチョークでいろんな色をつけたのが、今でも目に焼き付いています。

 後で、手本のように良く描かれていると人が言う絵を見ても、タップ スワンナ先生が描いた絵ほど良くありません。今でも先生の絵は最高に上手で、最高に正しく、最高に美しく、どこにも負けないと感じます。

 描ける生徒は何人もいませんでした。描けた生徒は、その後みな職人になりました。絵描きや彫刻、本堂の破風の職人です。ヘーンさんとチョムさんという名前を憶えています。二人は本堂の請け負い職人になりましたが、どこで習ったのでもなく、こういう勉強で憶えました。龍頭や、龍頭の下のウロコ状の飾りでも、何でもできます。今はみな亡くなりました。

 サーラピーウティッド学校は郡立で、プムリエンのより上で、当時、バンコクで小学校教員免許や中学校教員免許を取った先生が校長をしていました。ただの免許の人はたくさんいて、お坊さんも一人いました。当時の制服は白いシャツと、少年団ズボンと呼んだ黒いズボンで、前開きでポケットとベルト通しがなければなりません。シャツは普通のシャツです。

 私は「勉強が良くできる」と考えたことはありませんが、一度も落第したことはありません。でもあまり楽しくはありませんでした。行ったばかりの頃は、家のことばかり考えていて、昼休みにならないうちから家が恋しくて、寂しく、両親と遠く離れてしまったように家を恋しく感じました。勉強は楽しくありませんでした。テストや期末試験は何とかできました。

 サーラピーウティッド学校で勉強していた時は、チャイヤーの叔父の家にいました。父がチャイヤーの商店街にもう一軒、籾米を売る店を出したからです。母はプムリエンの店にいて、時々何かを仕入れてプムリエンに届けなければならないので、荷車が必要で、私は荷車を使ったり、牛を飼ったりしなければなりませんでした。牛を飼って荷車を扱う大人がいましたが、時々私も手を出し、これは楽しかったです。線路傍へ牛を連れて行くのは楽しかったです。

 牛に草を食べさせている間に線路の石を除けて、下にいるコオロギを探しました。線路の傾斜している所にコオロギが集まっていました。本当は禁止されていて違反ですが、草があるので知らん振りをします。牛はあの辺の草を食べるのが好きで、登って行って食べたら、叱られるので、追い立てて下に降ろします。ゆっくり下りてくれば叱られません。飼育役の大人は行かず、私が夕方まで見ていて、時間になると牛飼いの人が来て連れて行きました。

 当時の我が家の牛車は、たまたま二頭立てで、他の人は一頭立てのを使っていました。二頭立ては力が合わさるので良く走り、チャイヤーからプムリエンまで走りました。太ってがっしりした牛で、トーンプリヤオ牛とトーンフーン牛で、走るのが得意なプンヤーンではありません。細い棒で、尻を叩きました。本当は私の仕事ではありませんが、好きでした。珍しさも珍しく、楽しさも楽しかったからです。

 サーラピー学校にいた時は、昼食は家に戻らず、学校で何かを食べました。しかし当時の子供は、あまり昼ご飯を食べませんでした。興味がない時もあり、ほとんど忘れていて、ほとんどの人が食べませんでした。売っている物もたくさんはありませんでした。

 中学三年を終わると学校を止めました。父が亡くなったので、父の仕事を引き受け、タンマタートに勉強をさせなければならないからです。全部終わるまで勉強すれば、家で母の手伝いをする人がいません。父が亡くなったのでチャイヤーの店を畳んで、プムリエンの家で母と暮らしました。私の仕事は、すべての世話をする支配人と同じでした。母は既に高齢で、一年くらい前から膝が痛む病気もあったからです。しかしその後治りました。地元の薬酒を飲んで治りました。

問 : お父さんが亡くなられた時、先生はとても悲しまれましたか。

答 : 感じませんでした。葬式のことやら何やらで忙しくて、感じませんでした。

問 : あまり親しくなかったということですね。親しければ、非常に動揺するでしょうから。

答 : それは親しかったですよ。チャイヤーでは父子二人で暮していたのですから。母はプムリエンで弟たちと一緒にいて、私は父と住んでいました。しばらく頭痛がしていたので、人が卒中と呼ぶ脳の血管が切れて亡くなったと推測します。マッサージを呼びに行きましたが、間に合いませんでした。何分もしないうちに脳の大きな血管が切れたのでしょう。

 父は神経質な人でなく、のんびりしていましたが、いつも仕事を発展させることを考えていました。でも何も神経質にはなりませんでした。

問 : 先生のご家庭では、ご両親は誰を一番愛していましたか。

答 : おお。ありません。感じたことはありません。私が観察した限りはありません。ひがんだことはありません。子供は誰でも親を喜ばせたいと思っていて、一度褒められても非常に嬉しかったです。父は、気に入ったことをすると褒める人で、母は、気に入ることはなかったようです。

問 : 先生のお若い頃の話を聞かせてください。出家する前は悪ガキでしたか。遊び人や女好きだったことはありますか。少年時代から青年時代は、どんな暮らしをなさっていましたか。

答 : 何が悪ガキですか(恐い声)。どれくらい悪ガキがいいですか。泥棒する所もあまりないし、武器で闘う所もなく、どこでどうするか知りません。他人の家の垣根のバラを、夜明け前に盗んだことはあります。(笑) 明るくなる前です。塀の近くにバラが植えてあり、その家の人が見ても何も言いませんが、かといって喜んで与える訳ではないので、盗むと言わなければなりません。こういう悪はしました。

 ほとんど親の商売を手伝っていました。母の親戚がターチャーン郡にいて、たまに遊びに行きました。向こうから来ることもあり、訪ね合うのは年に二三回でした。プムリエンの河口から舟に乗って、湾を通ってターチャーンの河口まで行きました。南にある海に面した郡です。たまには叔父と叔母と祖母と曾祖母が顔を合わせることもあり、私たち子供を見るのは楽しく、非常に満足することでした。これは私が海に出る機会でした。

 たまにカニや魚を取りに行くこともあり、冒険のようでした。家族はそういうことをさせなかったので、別世界に抜け出したようで、見たことがない物、すべてを学びました。

 子供の頃は、先生が連れて行くこともあり、自分たちで行くこともありました。土地の人が休憩所と呼ぶ岬に行くだけでも、向こう岸へ渡らなくても、カニや魚やクモガニが獲れました。海タガメ虫は、潮が満ちて来ると陸に上がって草を食べます。子供がするのはこれだけで、持って帰りました。しかし親に禁止されていたので、意図して出掛けたことはありません。遊びに行ったことが分かると、帰ってから叱られました。

 大きくなってからは、わざとタクルップ村の誰かを訪ねる用事を探して行き、隠れてカニを獲りました。とても楽しかったです。潮が満ちて来るとカニが穴から出て来ます。水が穴に溢れると、カニは穴の入口に出て来ます。私は初めてでしたが、友達は経験があるので簡単に捕まえ、何も考えずにパタパタ掴んで甕に入れました。ゆっくりしていると噛まれるので、噛まれる前に急いで掴みます。こういうのは楽しく感じました。

 すぐに甕いっぱいになりました。片手で甕を持って、もう片方で掴み、噛まれることもありますが大丈夫でした。私にとっては勉強に行ったのと同じで、見たことがないすべてを学びました。カニをどう漬けるのか、どう洗うのか、見たことがないので、学校へ行って職業の勉強をするようなものでした。

 彼は大きな竹かごを使って、何甕ものカニを篭に入れて、運河の中で揺すりました。私たちは簗へ行って休みました。連れて行ってくれた友達は、簗の所有者と友たちでした。何人も、たくさんのグループが見に行って、幾つもの甕いっぱい獲り、篭に半分もありました。カニを生きたまま揺すって、それからまた甕に入れ、塩水を入れて木で口を塞ぐと、カニの塩漬けになります。

 私はあまり自分の分を取りませんでした。連れて行ってくれた人、遠い親戚ですが、彼にやりました。彼が舟を用意して、私は連れて行ってもらい、小さな運河を見て満足しました。プムリエンからタクルップ集落へ行き、キユ集落へ行きました。小さな運河ですが舟は入れました。

 好きだったのはチョウショウバトの森です。あの辺で丘へ登ると、大便や小便をしに行くと、チョウショウバトの鳴き声が騒々しかったです。訊いて見ましたが、今は一羽もいないそうです。あの時代はいっぱいいました。キノボリウオは軍隊のようで、運河の中のキノボリウオは、水が引いて少なくなったら、目の細かい箕で掬うと、一回で食べきれませんでした。

 竹串で頭を落として干してから油でカリカリに揚げて、ナムプリックマカームピヤックとサダオ(キニーネ)の芽と食べると、それだけでお腹いっぱい食べられました。疲れていて空腹で、寒くて、そして楽しいかったからです。たまにはこういうこともありました。

 時には簗の周辺で網を引くために、簗で引き網を貸してもらうこともあり、一回引き上げると食べきれませんでした。クモガニもいたし、イカもいたし、他の魚も何でもいました。土地の人が歯磨き粉を作る、セビレの固いイカもいました。背びれが固いのは、生きたまま茹でると信じられないほど歯ごたえが良く、サーリ魚の卵くらいコリコリして、何もタレをつけなくても美味しいです。

 コーヒーとも合い、コーヒーを淹れて、茹でたイカと一緒に飲むのは、生臭くて食べられないと考えて信じない人もいます。信じられないほど歯ごたえが良く、それに甘いです。食べたことがない人は信じません。

 そのまま死なせてしまえば、全然違い、正反対で、粘って生臭くなります。誰でも不思議に癖になります。今では昔のように、生きたまま茹でたのを食べる機会はありません。出家する前に好きだったもう一つは、蜂の巣の中の幼虫で、出家した後も食べたいと思いますが、機会がありません。生の蜂をもって来てと口に出す術がありません。いろんな戒に触れることは誰でも知っています。彼らは炒って塩を少し振ります。

 もう一人、プラクルー・ソーポンがプラボロマタート寺にいた頃、同じように好きでしたが、食べる機会がありませんでした。それで気持ちを知っている弟子の一人が、わざわざ作って来てくれました。蜂の巣を見つけてバナナの葉で包んで中華鍋に入れ、ちょっと蒸して、火が通ったか通らないかくらいで、でも全部死んでいますが、好きでした。

 僧になっても、まだ生の物を食べる習慣が抜けません。蜂は小さければ小さいほど良いです。私も出家前はゲテものを食べました。まだ生きている物、穴の中の虫、こういう生きている生物は、加熱した物と味がまるで違いました。

 もう一つ、私は闘魚を飼うのが好きでした。小さな頃からの習性で飼育が好きでした。遊ぶのは好きでしたが、闘わせないで、飼って殖やすだけです。魚を捕まえて来て瓶に入れて見るのが好きで、見ると珍しく感じ、感動し、心に残りました。便所に行く時に運河の畔の菩提樹の下を通らなければなりませんでしたが、幽霊が怖くて、私は目をつむって闘魚を思い浮かべたので、行きも帰りも幽霊を怖がらずに済みました。

 陶器の大きな鉢があり、周囲に空芯菜を入れ、生のエビなどの餌に紐をつけて入れると、闘魚がすり抜けて泳ぎ、滅多に見られない非常に美しい光景でした。闘わせる方法はありませんでした。親に禁止されていたので、闘う場所へ行けませんでしたが、楽しむために飼うなら飼えました。

 私には、誰にも負けないように強くする方法がありました。太っている丈夫そうな魚を選んで丸い池に入れ、そしてメスをガラス瓶に入れて紐で結んで水の中に垂らします。オスがそれを見ると、周囲を走るように泳ぎ、運動以上です。三、四日そうすると、体が太くなり、目が緑で、掴めば指を噛みます。こういうのを闘わせれば、必ず勝ちます。

 闘魚の遊び人に盗まれたこともあります。その魚がいなくなって、違うのが代わりに入っていました。誰がここに来たか訊いたら、母が、闘魚を仕事にしている遊び人の名前を言いました。彼は、私の魚を盗んで取り替えて行って、本当に勝ちました。しかしそれは一匹で十分でした。

 騙して池の周りを泳がせるのが楽しくて好きでした。繁殖もしました。結局は持って行く人がいたり、人に上げたりしました。父もこういう飼育が好きで、楽しみで飼っていて、闘わせたことはありません。商品棚に置いてあり、幾つかの瓶は闘魚でした。子供の頃は、蚊を叩いて闘魚にやるのが仕事でした。闘魚は蚊が一番好きで狂喜し、前で見せるだけで噛みつきます。

 もう一つ私がすごく好きで、練習する機会が無かったのが音楽です。自然に好きでした。タンマタートは全然好きじゃなく、嫌いだと思います。私は音楽や歌を、思いっきりというくらい好きでしたが、母が禁じて楽器を家に持ち込ませませなかったので、あまり練習をしたことはありません。

 練習している人の家があったので、見に行って練習しました。私は素朴な笛が好きでした。指で揺らすオーゲーンが好きで、あれは簡単です。あれは、指が憶えます。歌が歌えれば、ああいう音を出せますが、練習できませんでした。親が認めないので、持ち主に返さなければなりませんでした。

 私は歌の練習をしたことがあります。そしてたくさん歌を集めました。テープがあった頃(出家後)、一重、二重、三重の歌はどのようか、それがどのように内部で伸ばすのか、同じだけか、二倍、三倍か、勉強しました。出家前は家ではしてはいけなかったので、歌の練習をしている家に行って練習しなければなりませんでした。

 昔ポーさんという(男の)人は歌狂いで、練習して歌えるようになり、一番の歌手になり、どの楽団も、歌は必ずポーさんを呼びに来ました。どの楽団もでした。最後は男から性病をうつされて淋病で死にました。プムリエンには、歌や音楽の才能能ある人がたくさんいました。もう一人ヌットという人は、クルンテープから来た人のように、最高に優秀な歌い手で、笛も上手でした。

 私の親は、音楽は善くないもの、堕落させるもの、闘魚や闘鶏と同じように、その類の堕落させるものと見ていました。タイ将棋も家に持ち込ませませんでした。タイ将棋については、私は子供を教育的に遊ばせるカリキュラムに入れるべきだと考えます。考えさせ、鋭敏に考えるようになります。タイの将棋ですよ、西洋の将棋は知りません。

 将棋をすると賢くなり、理性の訓練にもなり、注意深く周到になり、策戦の考えになります。原則は角まで追い詰めることです。そこで動けなくすれば詰みます。出家した時、パトゥムコンカー寺でしたことがあります。ほとんどの僧房でしていました。(笑)

 私の若い頃のプムリエンには、何も娯楽はありませんでした。ずっと前に一度映画が、日本の映画ありました。それからはありません。あれば影絵芝居、たまにマノーラー(演目の題名)、お寺に来て演じるリケー(歌舞劇)、その辺のリケーで、クルンテープのような古典のリケーではありません。

 色事に関しては何も知りません。女の人を口説く時間はありませんでした。ひっきりなしに仕事があったので、女の人を口説いたことも、夜遊びをしたこともありません。どこの人とも、示し合わせて会ったことはありません。好ましく思うことはありましたが、機会がないので思うだけで、誰とも約束する機会はありませんでした。あるいは誰とも遊びに行く機会はありませんでした。

 他のことで楽しかったです。出家前は、母の商売を手伝う仕事と、お喋り、タンマヤクザであることが楽しかったです。私は販売だけでなく、労働もし、荷を担いで客の家に商品を届けました。公務員の家が灯油を一缶買うと、担いで届けなければならず、使用人も車もないので(笑)忙しく、重労働でした。家で使う薪も割らなければなりません。

 母が舟一艘分買ったコーンカーンの木を短く切って、それから割って階下に仕舞います。薪を割るのは楽しかったです。固いので、薪割りが触れるだけで割れました。薪割りを置いて、木を投げつけても割れました。楽しかったです。

 タンマのお喋りは、私がアーチャンになって、朝になるとタンマの話をする人が来ました。私は反論をし、戦わなければなりません。ある公務員がいて、こっち側に住んでいたので、私が仕事を始めた店の前を通らなければなりません。この辺には他にも人がいて、みんな親戚ですが、この公務員が来ているのを見ると来て、タンマの話でひやかし、彼が抜け出すには一時間は掛かりました。それから私の家にも来ました。

 私はナックタム(僧試験)三級、二級、一級、アビダンマなどの本を買って読まなければなりませんでした。私は彼よりも年下で、友達の多くは年上でしたが、私は本を読んでいるので、私の方が大抵正しく話せました。彼らは推測で話していました。人に話して聞かせるのは楽しかったです。

 タンマの勉強に関して言えば、出家する前から勉強していたので、出家した時、ナックタム三級くらいは、ほとんど勉強する必要はありませんでした。読んで討論したことがあったからです。

 「その時目覚めた」と言います。彼がナックタムの本を読み始めた時は、その家で初めての時は、誰もが話すのが好きでした。この公務員は、ナックタムを教えているアーチャンと付き合っていたので、それで他の人をやっつけに来ました。私は、楽しく話して反論する外には何もありませんでした。わざと彼に反論し、わざとからかいました。

 彼ほど知性がある人でも、何も知らず、彼は支持者になりました。中には怒りっぽい人もいて、老人で私の肩を持つ人もいました。(笑) 当時のプムリエンはこのように楽しかったです。

 ほとんどの若者は、自分の家の暮らし方で生活していました。商売で、このように店がある人は何軒もありませんでしたが、ほとんど遊び友達で、自転車で遊びました。商売屋の若者はみな、当時の田舎の楽しさがありました。誰も何も勉強しませんでした。北部のように女遊びや女の人を口説く習慣はありません。心情に反すので、この辺にはあり得ません。南部一帯にないかもしれません。心情に反します。

 私の若い頃は、ほとんど親や年長者が配偶者を選んでくれました。そして彼らは親に従い、親も子供の希望を聞きました。私の年長者も見つけておいてくれました。「目星の人」と言えるかもしれませんが、婚約者ではありません。当時は、まだ顔を見たことがなく、初めは名前も知りませんでした。県内の人で、プムリエンの人ではありません。

問 : ナックタム(僧試験)の本以外に、出家前に他の本を読まれましたか。

答 : 店では、当時式に本も売っていたので読みました。一番良く売れた本は、宇宙の話です。それと一番買う人が多かった一冊一サルンの、知るべき細々した種類です。西洋の翻訳の、現代式の本も出始めて、クルンテープのタイ印刷が現代的な本を印刷していました。たぶんあまり売れなかったのか、地方の商店に行商に来ていました。

 私の店は押しつけられたようなものでした。一冊一サターンで、値段は安く、紙の値段くらいの物もありました。買って読む人もあまりいませんでした。クルンテープで買うこともありました。当時の翻訳物で届いたのは、ソーライダーのような物と千夜一夜で、売れなかったと理解しています。ただ珍しいだけで、読んでも何も心に残りませんでした。

 クラーブやティエンワンナの作品は、当時読みました。父が毎年取り寄せていたようです。叔父がクルンテープで出家していたので、何か珍しい物があると送ってくれました。叔父はティエンワンナやクラーブと話をしたことがあり、クラーブは太い鎖を首にかけていて、歯は磨かないと叔父が話していました。(笑)

 叔父は興味があり、あれも知りたい、これも知りたい読者の一人だったので、利益になることを田舎の兄弟に話しました。クラーブは当時の反体制側だったように聞いています。しかし自慢に見えました。国王に対して自慢をすれば、すぐに有名になれるので、根拠のないことも根拠があると言いました。

 パトゥムコンカー寺で出家していた叔父は、還俗した後、プムリエンの僧やチャイヤーの僧に招かれて、一緒に勉強していました。叔父は能力のある人で、絶えず研究していました。そして一度もクルンテープへ行ったことがない私の父より、多くの機会がありました。叔父はタラバヤシの葉に書かれた経典を、読むことも書くこともできました。




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