5 少年時代







問 : 寺の子(寺に住んでしつけや教育を受ける子供)の生活はいかがでしたか

答 : 寺の子は誰でも薬の知識があった、と言うことができます。たとえばヤークラトゥン(促進剤)と言えば誰でも知っていました。いつも採りに行かされたからです。私が子供の頃いたお寺で、アーチャンが採って来るように命じたのは何だったか憶えています。マークの根、椰子の根、赤種の木の根、ワンヨーの根、時にはサダオの根など、他の物が入る時もあります。私に文字を教えてくれた先生は、このように作りました。

 誰かお坊さんが貰いに来ると、作ってある物をやることも、新しく作ることも、メモしてやることもありました。熱が出たらヤークラトゥンを飲まなければなりません。最初に解熱剤であるヤークラトゥンを飲むと、熱を早く、最高に出させます。私たち寺の子は、みんなで潰して、摺って作りました。もう一つは「ヤーキヤオ」「全緑薬」「世界を支配する緑薬」と言って、誰か子供が作り間違えば滑稽です。

 緑の葉っぱを採りに行かされたことがあります。痒くなる葉、毒のある葉以外は、緑色の葉なら何でも採って来て、それを軒先にいっぱい干して、カリカリになったら瓶に詰めておき、熱を出した人が飲みます。これも原理に合っています。緑の葉は、緑色の物質の冷やす働きがあるので、熱を抑えます。

 今私は信じます。緑の葉を食べてごらんなさい。熱が抑えられ、胃の中のガスの発生を抑えられます。良くするには水で溶いて体に吹き付けるか、体が緑色になるくらい塗ります。このヤーキヤオは少し苦いです。葉にはいろんな種類があり、苦味のある種類もあるからです。子供でも飲め、水に溶かして飲むか、あるいは水に溶いて吹き付けてもいいです。

 難しい薬、いろんな技術があって、分量を量らなければならない難しい薬もありました。住民が貰いに来ればすぐにやれる薬が、少なくとも四五種類ありました。住民が病気になった時、住職に薬を貰いに行けるお寺が、プムリエンには三四か寺ありました。彼らはこれらの知識がなければなりません。どんな夜更けでも、誰彼がどうこうしたと聞けば、アーチャンは出掛けて行かなければなりません。当時のアーチャンはそうでした。

 夜遅くても出掛けて行って、峠を越すまで手当てをしなければなりませんでした。快方に向かい始めればお寺に戻れました。時には夜が明けてしまうこともあります。他人のことを考える習性で忍耐できるので、嫌がって、眠ることだけ考えません。だから人は愛着を感じ、尊敬して、お寺の用事があれば、精いっぱい手伝いました。

 ヤークラトゥンのようなのは、アーチャンに煎じてもらって、寺の子がそれを檀家の家に届けました。病気の子供は、一回煎じた薬を飲むだけで治りました。一日この薬を飲んでも治らなければ、アーチャンが行って診て、もう一煎、あるいは違う薬を煎じます。そうすると次第に治ります。治らない時は死にました。昔式はこうでした。特別なことはありません。失敗すれば、薬の力を越えれば死にますが、ほとんどは治りました。

 お坊さんの外には旅の医者、中国医者、ベトナム医者、インド医者などの医者も多少いました。ほとんどは長患いの治療で、治ることもあれば、死ぬこともありました。私の兄も死にました。親が、男の子が小さな時に死んだと話していました。

 末の弟も死にました。私はこの子を見ました。月足らずで生まれたのか知りませんが、生まれて何時間もたたずに死にました。彼らが伝統でしている最高に良い医学で、十分衛生的でないことと、その他の間違いで死んだのでしょう。だからたくさんいて、受胎調節する必要はありませんでした。

 薬草や伝統医学の知識は、家で得たのも、寺の子(寺に住んでしつけや教育を受ける子供)なら誰でも知っているような、お寺で得たのもあります。木の葉にいる黄色い毛の長い毛虫に刺されたら、鼻クソをほって擦ると治ります。現代人が使っているどの膏薬より良く効きます。これは、「神様は、あるいは自然は、毒と薬のどちらも与えた」と考えさせます。しかし私たちは知りません。自然はすべてを与えますが、私たちは一割も知りません。

 信じられません。聞くと可笑しいです。鼻クソをほって、耳クソでもたぶん大丈夫だと思います。ほったら毛虫に刺されたところを擦ります。可笑しいです。西洋人式に考えれば怖くなって薬を探すか、あるいは病院へ行くかもしれません。昔の仙人やムニーはこういう知識がたくさんあって、伝承しました。森の中では自分で治さなければなりません。今の人たちはこれらの知識に興味を失くしてしまったので、何をやってもうまくできません。自然を知らないからです。

 子供が知らなければならないのは、年寄りが好きなクワズイモによく似たコンニャク芋の類です。食べたことがない子は、ひどく口が荒れます。そうしたらどうすれば良いか、私はまだ憶えています。パームシュガーを舐めると、切り捨てたように治ります。私はコンニャク芋の類を食べたことがありますが、食べたら痒くなり、パームシュガーを使ったらすぐに治りました。

 スズメバチに刺されたのはミツバチに刺されたのと似ていますが、非常に凄いです。こん棒で仰向けに倒れるくらい殴られたようです。パパイヤのヤの樹液を塗ると、切り捨てたように治ります。理由があります。パパイヤの樹液には毒を中和する特別の蛋白質があるからです。

 最高に原始的なのは、古いクモの巣とカマドの上のススを、傷口に当てて包帯を巻いておくと治ります。それはアンチセープティックで細菌を防ぐことができます。今もっと良いのは、マラーンの先穂と葉を搾って樹液を取り出し、傷につけると赤チンより良いです。あるいは火傷にはヤワーの黄色い樹液を搾り出して傷に塗ると、火の火傷、お湯の火傷が治ります。

 喘息の子供はムカデをカリカリに焼いて、潰して焼酎と一緒に飲ませるとほとんどは治ります。痩せて腹が膨れて、彼らがソコヒと呼ぶ目が魚のウロコのような子供には、大トカゲの肉にウコンを塗って、香ばしく塩焼きしたのを食べさせ、一匹食べれば治ります。私も食べたことがあります。

 タンマタート(弟)は食べられなくて、その度に吐きました。私はいつでも食べられました。面白いです。彼はどうしてなのか知りませんが、大トカゲが嫌いで食べられません。鶏肉のように作りますが、臭いと、骨が魚の骨のようなので分かってしまって、食べられませんでした。

 私が「美味しいよ」と言っても食べられません。本当は美味しいと言うほどではありませんが、私は食べられました。珍しくて、節約です。家は、現在のような薬はありませんでしたが、私ができて、何とか私を産みました。これは家やお寺での生活から得た知識です。お寺は庶民の大学のようでした。

 私は八歳から十歳までお寺で生活して、イロハを「タイ語事始め」まで勉強し、十一才で学校に行ける年齢になったので家へ戻りました。当時の風俗習慣では、男の子は誰でもお寺で暮し、どこのお寺にも子供が集団でいました。

 お寺で暮すには、花と線香とロウソクを持って行って、僧の弟子にしてもらい、お寺側は一人か二人の僧に食事の世話をさせ、子供たちが行儀よく食事をするよう世話をし、そして勉強をさせ、ブッダを拝ませました。手伝いは当番で交替して、欠かすことができない水汲みなどのしつけと、池の周りの菜園に、溝を作って野菜を作りました。

 食事は托鉢でご飯をもらい、汁は家で、自分の家の緑色の鍋で持ってきました。だから汁鍋がたくさんあり、ご飯も汁も足りていました。プムリエンでは、ご飯もおかずも豊富でした。

 当時の僧はナックタム(僧試験)の勉強もしないで、ほとんどは好んで読経の勉強をしていました。サマーディは読経から得るだけで、他の時には見たことはありません。それ以外は大工仕事をしていて、クティ(僧房)や小屋や小さな家を作り、本堂のないお寺があれば、みんなで手伝って建設しました。

 寺の子は特別なことが一つありました。ボクシングの練習で、私は好きでないのに、捕まえられて練習させられました。伝統のようなもので、友達はみんな詰め込まれて練習しました。アーチャン自身が練習をさせたいこともあって、子供に技法を教える時、自分で教えました。プムリエンは昔からボクシングで有名で、お寺のボクシングは、規定では良いレベルで、血を流すほど攻撃しませんでした。

 雨安居明けの行列の季節になると、ボクシングがありました。ボクシングをしたい人は申し出て、委員が組んだ相手と納得すれば試合をし、何組も試合をしました。船の行列が寺に戻って来ると、彼らは休んで、九室サーラーで昼食をしました。古いスアンモークからバーンラムヤイへ行く道にノーンヤーオがあり、午後二時になると、ボクシングを始めました。以前は町長の主催で、九室サーラーは、チャイヤーの町長が寄進者で、私が出家した時、サーラーはまだありました。

 当時の僧の説教は、基本的に本生経で、功徳、何を建てるとどういう徳になる、本堂を建て、鐘を作り、塔のある御堂を建て、どういうサーラーを建てると、徳はこれだけ、これだけと説き、今のようにタンマを教える説教はありませんでした。何度説教しても本生経で、非常に好きでした。お金にもなり、楽しいからです。

 庶民の戒やタンマは、何とか使うだけありました。守らない人がいる現代より良いです。私の家については、ほとんどは守っていました。心に恥じるからです。しかし守らない人もいました。特に、カニや魚などの食用動物は、母は生きているカニや魚を決して殺さなかったので、私の役目になりました。

 煮立った鍋にカニを入れるのは子供の義務です。結局、罪を恐れる気持ちだったのでしょう。現代は罪を犯す人、盗む人が多いです。薬酒を飲む人はあまりいませでした。父方の祖父は、チャイヤーの町で造られる酒の独占徴税請負人の酒を作る職人でした。祖父はサイフー(親方)と呼ぶ、蒸留の監督でした。

 もう一つ、どこのお寺にも、寺の子が賢くなるようにしつける伝統がありました。この方面の言葉で言えば、薬師の考えにする訓練と言うこともできます。寺の子と沙弥は一緒に遊び、誰も指図する人はいませんが、自分たちでしました。(笑) 

 面白かったです。固まって丸く座ると、親分格の子が、たとえば「今日僕はご飯の炊き方について話します」などと話題を決め、初めに話すのは、ほとんど他の人より多少賢さが少ない子で、どういう炊き方をするか話して聞かせ、他の子は聞いています。

 話し始める人が少しバカで、「俺は米を鍋に入れて火の上に載せる」と話し始めると、他の子供が一斉に「お前はまだ台所に入っていないで、どうするんだ」などとはやし、あるいは「お前はまだ火をおこしていない」とヤジリ、反論する隙が多ければ、話すのを他の子に譲らなければなりません。反論される度に大騒ぎになりました。

 ドアを開けていないのにどうやって台所に入るのだ、まだ柄杓を持っていないのにどうやって水を汲むのだ、と言うレベルまで細かくなるので、終いには、細かく描写する小説家のように一つも欠かさず、すべての過程を話さなければならなくなります。反論者がたくさんいるので、たくさん反論できます。それは緻密さの訓練、論理を使う訓練です。誰も反論できないように詳しく話すことができる賢い人は、たいてい後から話しました。

 話題はいろいろあり、文化の話、伝統の話、面白い話、嘘の話。上手く話す人は有能と見なされました。直接勉強ではありませんが、非常に賢くしました。田んぼの中に住んでいる子供が話すのは、必ず田を耕す話や水牛の扱い方でした。自分の話でなく、憶えて来た話でもいいですが、反論できないように、自分で責任をもたなければなりません。

 だから子供たちはみな話す人でした。お寺では機会がありましたが家ではありません。寝る前の一時がその機会で、時にはアーチャンが進行を助けることもありましたが、時々で、しょっちゅうではありませんでした。私のいたお寺のアーチャンは仕事が忙しくて、時間がありませんでした。

 お祖父さんお祖母さんの話は何十もあり、汚い話もあり、面白い話もありました。それは知らないうちに賢くする学校でした。女の人の話はほとんどありませんでした。欲情面で騙す煩悩の話は余りなく、善い話、優れた話、評判の話ばかりでした。

 今はお寺で暮す子供がいないので、ありません。途切れてしまいました。当時はそれが公立学校のようなものでした。子供はズルをすることはできまえん。責任をもって義務を行なわなければなりません。お寺にあって家にないのは、朝寝坊ができないことでした。鶏が止まり木から降りたら、鶏が土の上にいる間は寝ていてはいけないという規則があったからです。「朝寝坊には水を掛けても良い」と言います。

 ふざけてわざと鶏を二、三羽追い立てて、それから友達に水を掛けました。これは賢さと仕事と楽しさの、いろんな面での訓練でした。

 昔は学校があり、親に、子供を仕事に使う気がなければ、沙弥になるまでお寺にいて、それから沙弥として出家し、比丘として出家して、三四年したら還俗して所帯を持ちました。他にもまだ、子供をお寺に預ける親を、特に満足させることがありました。籐や竹の編み物など、いろんな事ができるようになることです。アーチャンが怖いので、いじめはほとんどありませんでした。




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